第4話

 14 サークルの人


 店の裏口の扉を閉める。帰ってすることもあるけど、なんだか帰る気になれない。いや、自分が帰ることではなく、夜になりマサキが帰ってくることが少し嫌に感じている。店長と店でいる時のようにマサキと話をすることが多いわけではないけれど、話さなくとも同じ部屋にいて、見られるだけで気疲れしてしまう。

 ため息をつく。マサキが受け入れてくれたからこの生活は続けられる。僕はそのことに安堵した、はずなのに。

 裏口で立ち尽くすわけにもいかず、とりあえず家の方向へと足を進める。ふと思い立ってスーパーに寄ることにした。

 夕食の買い物客が多い時間だったが、たまたまタイミングが良かったのか、いつもより客は少なかった。レジが混む前に買い物を終わらせたい。なんとなくで来てしまったから、冷蔵庫の中に何が残っているかを思い出す。たしか少なくなっていたはずと、肉や卵などをカゴに入れた。混んでいる惣菜コーナーを避けてレジへと向かっていると、前から歩いてきた人に声をかけられた。

「ユキ? 久しぶり!」

 驚いた様子で僕に駆け寄ってくる。大学の知り合いだろうか。

「え、本当に久しぶり! ユキが休学してから会うの初めてじゃない? 元気だった?」

「そうかも、久しぶりだね。元気にしてるよ。そっちはどう」

「元気元気! 近くなのに案外会わないもんだね。今は何してるの?」

「今はバイトかな」

「そっか。大変かもしれないけど、無理はしないでね。また体調崩したらイヤだからね」

 僕の体調を気遣う態度や休学した理由を知っていることから、この人はユキとそれなりに親しかったようだ。変わったと思われないようにしないと。

「そうだ、急に宣伝みたいで気が引けるけど。今度、サークルでコンサートするんだよ。毎年七夕にやってるあれね」

 そう言って、ユキの知り合いはリュックサックからファイルを取り出した。ファイルに挟まれてたチラシを一枚、僕に渡す。

「一般向けでもあるから、ユキも来やすいかなと思うんだけど」

 僕が持つチラシをのぞき込むようにして、彼女は説明をする。

「八日の十五時からで、あっ私この時間ね。場所は○号館前。立ち見だし、そんなに長くもないから、見に来てもらえると嬉しいな」

「わかった、バイトが大丈夫そうだったら行くね」

 僕が頷くと、彼女はにっこりと笑った。あっと声を上げ、彼女は思い出したことを付け足した。

「そうそう、去年の先輩たちにも連絡しててさ。ソラさんとミクさん、トオルさんが来てくれるって。他の人は行けるか分からないらしいんだけど。正直、当日歌うことよりも待ち遠しいんだよね」

 言葉通り待ちきれないような様子に微笑みながら、僕はユキたちの先輩だという知らない名前について考える。なにか引っかかるような感じがして気になる。

「買い物途中にごめんね。話せてよかったよ。またね」

 しばらく話した後、彼女はそう手を振る。僕はそれに応えたあと、話しているうちにできていたレジの列に並んだ。

 ユキがアカペラサークルに所属していたことは知っている。僕は一度も行ったことがないけれど、連絡事項の書かれたプリントや楽譜をいくつか部屋で見た。それらを見た時は僕が関わることはきっとないだろうと思って特に考えることがなかった。サークルの人に会っても僕は分からないから。

 コンサートもたぶん行かない。さっきの人には申し訳ないと思うけど、一対一じゃないと話を合わせにくくて、きっとユキとして振舞えない。それに今はユキを知っている人たちにあまり会いたくない。

 会計を済ませてスーパーを出る。袋の重みにつられてゆっくりと歩いた。

 先輩という三人。ユキも親しかったのだろうか。話していた彼女の様子からはユキと特別親しいという風には思えなかったけれど。ただサークル全体として良い先輩だったということなのかな。

 ソラ、ミク、トオル……。

 帰りつくまでその三人の名前が頭に残った。



 15 告白


 マサキを見送った後、朝することを終わらせて自分も家を出る。店への道を外れ部屋に向かう。途中で銀行に立ち寄り、部屋の維持費とアルバイト代の確認をした。部屋の鍵を開け、中に入る。今回はそれほど空気がよどんだ感じはしない。窓を開け換気をしながら簡単に掃除をした。小さなゴミ袋を玄関に置いて目当てのものを探し始める。

 いつか見たサークルのプリントはどのあたりだっただろう。教科書や資料がまとめられた一角を見ていく。並べられたファイルの中もざっと確認する。

 しきりのついたファイルに文字ではない印刷物を見つけて、中のプリントを抜き取った。楽譜と連絡用のプリントがそれぞれ何枚か入っていた。連絡用のプリントを一枚一枚見る。

 五月の練習日のお知らせ。発声方法の基本。イベントの準備担当。

 おそらく去年のものだ。いくつか名前も書かれている。あの三人の名前を探す。

 ソラ、ミク、トオル。

 ソラ、ミク、トオル。

 読めない名前は飛ばして載っているものをすべて見ていく。やがてイベントの日程メモのなかに並んでいる三人の名前を見つけた。

 他のプリントと照らし合わせて、三人の名前とおそらくは当時の主要人物でよくグループを組んでいたこと、ユキとは二年離れていることがわかった。ソラとミクとは音域別の練習やイベントの担当で時々一緒になっている。仲も良かったんだろうか。

 広げていたプリントをファイルに入れ、元に戻す。その先輩たちについて少しは分かったけれど、あの時感じた引っかかりが解決した感じはしない。

「……なにしてるんだろう」

 自分のしていることをふっと思ってそう呟く。わざわざ部屋に来てサークルのプリントを探して、先輩という三人とユキが関わったかどうか調べている。夏のコンサートには行かないし、この先輩たちにも会うつもりはない。それなのに、こうして知ろうとしている。

 僕はもうユキでいたくないのに。

 あの光景を夢とは思えなくなった。あのユキの気持ちは本当だったから。夢の継ぎ接ぎだとしても、彼女があれを望んでいたことは変わらない。もしかしたら過去を知ればユキのそんな思いを納得できるかもしれない。そう思うしかなかったと。

 でも、あの行為も、それを経験したこの身体も気持ち悪い。ユキだと思われることに僕は耐えられない。特にマサキに、そうしたユキと僕が同じだと見られていることが……。

 マサキがこの部屋に上がったとすれば、きっとユキから言い出したのだろう。当然その後のことも。マサキなら断りそうなのに、そうしなかった。それに僕に話したときに本当のことを言わなかった。

 ハッと息を吐いて、胸に湧き上がる熱の塊を抑える。この思いを解消するには僕は言わなければならない。

 机に向き直り、カバンの中から通帳を取り出す。

 マサキのおかげで、基本料金とほとんど変わらないこの部屋の維持費を除いて、アルバイト代はほぼ全額貯められている。復学すれば奨学金も入り、一人でも生活ができるだろう。まだ後期授業が始まるまで数か月あるけれど、それを乗り越えれば一学期は通学できるはずだ。復学しないとしても貯金を崩しながらであれば来年までなんとか持つだろう。

 店長にお願いして、夜の時間を増やしてもらおうか。

(何かあればいつでも戻ってもらって構わないから……)

 一緒に暮らさないかと言ったあと、マサキはそう言った。

 その気になればいつでも元の生活に戻れた。初めは余裕がなく、また、マサキに話を聞いた時以外は問題なく暮らせていたから、ここまで考えることがなかった。

 静かな食事の時間や互いにその日の報告をしている時間を思い出した。それからマサキが迎えに来た夜のこと。いつになく静かな声で暗闇に消えてしまいそうなマサキの様子。彼にも恐れるものがあると知って、初めて見たマサキの姿に僕は寄り添いたいと思った。

 マサキと暮らすことはお金のこと以外でも安定していて、心地いいものだったと思う。でも今抱いている嫌悪感も嘘じゃない。

 これからどうするか決められないけれど、マサキに「僕のこと」を話そう。

 通帳をカバンに戻し、窓を閉める。置いてあったゴミ袋をもって玄関を出た。帰って食事と掃除をして、マサキにどう話すかを考えよう。

 夜になるにはだいぶ時間がある。久しぶりにマサキの帰りを待った。


 15-2


 お茶を飲んだ後、マサキが尋ねてくる。

「今日は何してたの? お休みだったよね」

「ちょっと気になることがあって部屋に行っていました。それ以外はいつもと変わらないですね」

「気になることって?」

「前に話した知り合いの話を聞いて、サークルのことで少し」

「そうなんだ、気になることは解決した?」

「あんまり。でも大したことではないので」

 僕がそう言って笑うと、マサキも残念そうにする。今日はちゃんと話ができている。

 それからマサキの話も聞いて、そろそろというところで話を切り出した。

「あの、マサキさんに話したいことがあります」

 改まった僕の様子に、マサキは一瞬だけ驚いて向き直る。

「これから話すことに驚くと思います。それに信じられないかもしれない。このことは誰にも言うつもりがなかったから」

 マサキは黙って僕の話を聞いている。マサキに話を聞いた時のような緊張を今は感じない。ひとつ息を吸ってゆっくり話し始める。

「僕はユキじゃありません。この身体はユキのものだけど、ユキとは違う人間です。マサキさんが違和感を感じて記憶を無くしていると思ったのは、僕になっていたからです。僕にはユキの記憶がほとんどないから」

「言うつもりはなかったとはいえ、マサキさんを騙していたことになるかもしれない。それにこれまでの態度とは違って、今はマサキさんに好意的に接することができるか分からない。それでも、僕でも構わないなら約束はちゃんと守るし、この生活を続けてほしいと思っています。でも、もし僕の言うことが信じられなくてユキとして見るなら、僕は今の生活を続けることができない」

 僕が話し終わってもマサキはじっと動かない。突然のことに驚いていたのは少しの間だけで、ずっと考え込んでいるように見える。マサキからすれば突拍子もない話だ。話を受け入れるには時間がかかるだろう。

 時計の音を聞きながらマサキの反応を待つ。しばらくしてマサキが口を開いた。

「少し質問してもいいかな」

「どうぞ」

「どうしてユキさんでいたの?」

 僕の話を信じたうえでの質問に驚く。

「それは、そうするべきだと思っていたから。いつかユキが戻ってきても大丈夫なように」

 答えながら今の本心ではないと苦々しく思う。

「なんで僕に話してくれたの?」

「マサキさんにユキと思われたくなかったから。それに僕はもうユキでいられない」

 僕はユキとの違いを無視することができなくなった。僕であることを抑え込んでまでユキを生きることの意味を見失って、ユキのためにと思うことができない。

 僕の答えになっていないような返答でも、マサキはそれ以上は聞かなかった。また少しの間マサキは黙り込んだ。やがて整理がついたのか、僕のことを見つめる。

「まだちゃんと分かってないけど、僕は、えっと、君の話を信じたい。でも態度はすぐには変えられないと思う。君が本当に構わないなら、もう少し僕と一緒に暮らしてくれると嬉しい。ええっと、君のことはどう呼べばいいかな」

 困ったように笑うマサキは本当にいい人なのに、僕の中には再び熱の塊が生まれた。さっきまでの心の静けさが嘘のように、それはどんどん湧き上がった。

「マサキさんは本当に優しい人だ。僕のことも考えてくれる。それなのに、どうしてあの夜、ユキの言葉を受け入れたんだ!」

 急に声を荒らげる僕にマサキはひどく驚いている。その訳が分からないという様子に僕の中の塊はさらに熱くなる。

「あの夜、ユキを家へと送った日、部屋にも上がったんじゃないのか?」

 ああ、もっと淡々と話を終わらせるつもりだったのに。

「ユキの寂しいだとか不安だとか、そういった思いで口にしたことを、分かっていながら受け入れたんじゃないのか?」

 マサキの答えがどうだろうと、彼との繋がりを断とうと思っていたのに。

「あの夜! ユキの部屋で、彼女と……身体を重ねたんじゃないのか?」

 絞り出すように言う。あの光景を思い出して唇を噛んだ。熱の勢いが失せ、僕は黙り込む。マサキがひとつ訂正した。

「あの夜、ユキさんとは建物の前で別れたよ。家を知っていると言ったけれど、部屋の場所までは知らないんだ」

 興奮の余熱がひどく、うまく考えられない。

「ごめんね、曖昧な言い方をしてしまって」

 マサキがそう謝って、部屋が静かになる。長い数秒が過ぎた。

「君の思うことと関係あるか分からないけれど、あの夜、別れる前にユキさんに聞かれたことがあるんだ。寂しさは他人といれば楽になるかって。僕がなると思うよと答えたら、最後には、それが肌のぬくもりでもかと聞かれた。僕にできるのは話を聞くことだけだって言うと、彼女は笑って忘れてくれと言った。だから僕も話さないつもりだった。僕が言えるのは、あの夜ユキさんの部屋には入っていないし、彼女とそうしたこともしていない」

 マサキが僕の目を見る。彼の言うことは嘘のようには聞こえなかった。

 もう僕には何が事実なのか分からない。ユキの思いやあの既視感を考えれば夢ではないとしか思えないけど、マサキの話も嘘じゃないと思う。

「急に大声を出してごめんなさい。僕には、僕が言ったこととマサキさんが言ったことのどちらが事実だったか分からない。でも、あの夜ユキの部屋に上がっていないことは本当だと思うことにします」

「ありがとう、僕の言うことを信じようとしてくれて。どうして君がそういう風に思ったのか聞いてもいいかな」

「夢で、見たから。夢だったけど現実にあったことを見ているようで」

 そうだ、夢だったはずなんだ。

「僕はユキさんに何があったか知らないから、それについては何も言えないけど、そういった夢を見る時は体調が悪いことがあるらしいから、もしかしたら、そういう理由なのかもしれないね」

 その言葉に頷くことも何か返すこともない僕を見て、マサキは静かに席を立った。しばらくして僕も立ち上がり流しに向かう。今は頭がぼうっとして考え事ができない。少し体を動かして、また後で考えよう。


 15-3


 後はもう寝るだけなのに、目が冴えてしまって眠れない。僕より寝る時間が遅いマサキも少し前に布団に入っていた。僕は布団の上で転がることをやめて、そっと体を起こした。幸いなことに明日も休みだ。眠気が訪れるのをリビングで待とう。

 眠れない理由は分かっている。マサキに話したことでの興奮がまだ抜けきっていないからだ。僕は寝室の扉を閉めて、リビングの電気をつけた。お湯を沸かしてイスに座る。マグカップに入れた白湯がぬるくなるのを待った。

 マサキはあの夢を体調不良から見たものかもしれないと言ったけど、そうしたものではないと僕は思う。たしかに相手がマサキで、ユキを送った夜だと思ったのは、夢を見る前にマサキの話を聞いていたからかもしれない。ただ、あの夜ではない日のマサキではない誰かとの出来事だとしたら。

 僕の知り合いは少ない。それこそ、マサキと店長と北島さんくらい。あ、でも北島さんはユキを知らなかったっけ。マサキは否定した。店長もおそらく違うだろう。

 ユキの知り合い……。スーパーで会ったあの人、名前は分からないけど、ユキと同じサークルの人。

 昼間に部屋で見たプリントを思い浮かべる。そこに載っていた何人もの名前から先輩だという三人の名前を探していた。そこまで考えて、ふと思い出した。

 そうだ、僕は見たことがあるじゃないか。親しげに手をつないで歩く二人の姿を。どうして忘れていたんだろう。彼のことはそのあとも何度か見たのに。

 一瞬だけ見る彼のこちらへと向ける表情はやわらかかった。もし二人が恋人であったなら、あの行為も分からなくない。

 夢の中でユキは相手に求められることを喜び、満たされる安心感を抱いていた。それに、あれを楽しんでいたようにすら思う。でも、ユキの中のずっと奥の方には、傷つけられた悲しみがあった。それを塗りつぶすようにしてあの喜びがあるような気がした。

 ユキのあの思いは何なんだろう。悲しみを忘れるでもなく、なかったことにしているような。僕が彼を知らないことを考えれば、二人の関係が終わっていると想像がつく。別れたことに対して思ったことなんだろうか。

 少しぬるくなった白湯を飲む。体が温まってじんわりと汗をかいた。

 ユキでいたくないと思いながら、ずっとユキのことを考えている。これからは「僕」を生きていきたい。マサキのほかに話すことはないかもしれないけど、それでもユキとして振舞うことをやめようと思っている。だからユキのことを知る必要はないはずなのに。

 でも、もし、今日みたいなことがまたあったら。僕はユキの過去に振り回されてしまう。幻覚も夢も現実のように思えてしまう。僕には関係のない過去のことだったとしても、僕はずっと考え込んでしまうだろう。

 僕はユキに起こったことを知って、彼女の傷を癒さなくちゃいけない。

 そうしたら、きっと僕は僕らしく生きていける。


 白湯を飲み終わり、まだ熱の残るマグカップをさっと洗う。手を拭きながらマサキのことを思った。あのとき感情的になってしまったけれど、マサキは僕の話を聞いて、冗談や嘘だと言わず受け入れてくれた。それだけでも十分なのに、彼は僕のことをユキとは呼ばなかった。

 マサキの言葉を信じたいと思うことで彼への嫌悪感は薄れていった。ユキでいた時の「いつも通り」にはもう戻れないけど、マサキとなら僕でも一緒にいられるかもしれないと思える。



 16 夢‐選択


 いつも僕が先に選んでいるからと、弟は俺に選択権を渡した。何も知らない弟からすればカップの色の違いなんて何でもないはずなのに。無邪気な弟は珍しそうにティーカップを眺めたあと、何度か息を吹きかけそうっとカップに口をつけた。いい匂いだけど変な味だねと、弟は初めて口にするものへの感想を俺に報告する。この鬱陶しさもこれが最後。兄ちゃんも早く飲みなよと勧められて、手の震えを隠しながらカップに触れた。部屋に入る前の男の話がよみがえる。これを飲み干せば俺は永遠に眠る。弟は連れていかれ、飢えを知らない生活を送る。まだ幼いこいつは俺のことを忘れるだろう。俺はこいつのために色んなことをしてきたのに。弟はそれを知らず、記憶に残らないかもしれない。弟が煩わしいと思うことがなかったわけじゃない。俺一人だともっとマシな暮らしができたと思うことも、周りの言葉を心の中では否定しないこともあった。それでも自分以外の人間があいつを捨てるように言うのは許せなかった。俺があいつを見捨てられるその時まで。手の震えは抑えきれず、カップが受け皿とあたってカチャカチャと俺を嗤う。本当にそれでいいのか? いいわけないだろ。弟に飲ませればいいじゃないか? あいつを生かすためにいろんなことをしてきたのにか。ずっと煩わしかったんだろ? こんな形で解放されたいんじゃない。弟に選ばせればよかったじゃないか? もしあいつがこれを選んだら? 俺は見捨ててしまうかもしれない。捨てることが怖いのか? 怖いんじゃない、俺にはできないんだ。ならあの男の話を断って逃げればよかったじゃないか? 逃げても二人とも行き倒れるだけだ。どちらかが助かるほうがまだマシだろ……? 心の中の俺が言う。だったら弟のために眠るしかないよな? ようやく唇へとカップを添える。ぎゅっと目を閉じ、味も匂いも感じない液体を流し込む。その熱に口内と喉が焼けた。



 17 結び目


 目を覚ますと体がだるく息が苦しい。何か見ていたような気がして息を落ち着かせながら考えていると、隣の方から着替える音が聞こえた。マサキが起きていることにハッとして思考が鮮明になる。がばっと身体を起こし、時計を見た。八時半を過ぎている。

 僕が起きたことに気づいたのか、マサキが衝立越しに言った。

「おはよう、ちゃんと寝られた?」

「おはようございます。あんまり。あのごめんなさい、朝の用意ができなくて」

 約束を守るから生活を続けてほしいと昨日言ったばかりなのに。

「大丈夫だよ。昨日は遅くまで眠れなかったみたいだし、気にしないで」

 考えることが多く、自分が休みだからと気を抜いていた。僕はもう一度マサキに謝ってから洗面台に向かった。

 顔を拭いていると、着替え終わったマサキが「いってきます」と言って横を通り過ぎる。僕は玄関の方に出てマサキに伝えた。

「昨日はいきなりあんな話をしてすみません。僕はひどい思い違いをしていたと思う。ただ、これだけは言っておきたくて、僕もこの生活を続けたいです」

 マサキは僕の目を見つめ返し、ふっと泣きそうな表情になってそれから笑った。

「僕は話してくれてよかったと思っている。でも、ありがとう」

 僕はなんだか恥ずかしいような気持ちになって、ぎこちなく言う。

「あの、それじゃあ、いってらっしゃい」

「うん、いってきます」

 マサキはいつもの表情に戻ってそう言うと、玄関の扉を開けた。



 18 ユウキ


 自分が出した洗い物を済ませ、掃除機を準備する。掃除機の吸い上げる音が部屋中に響いた。台所周辺やリビングに掃除機をかけながら、僕はここ数日のことを考えた。

 僕のことを話してから、時々ぎこちないことがあるくらいでマサキの接し方はそれほど変わっていないように見えた。変わったことと言えば、僕のことを「ユキさん」と呼ばなくなったことと、寝室で過ごす時間が増えたような気がすることだけだ。呼び名についてマサキはユキと言いかけそうになるとすぐに謝ってくれた。何か違和感があったけれど僕はマサキが話を真剣に聞いてくれた証拠だと思った。

 それでもやはりマサキも困惑しているのだろうか。本屋に行っていたと言って三日ほど帰りが遅くなることがあった。仕事の都合で帰りが遅いことは今までもあったけれど、マサキが寝室で過ごす時間が増えているようなことを考えると、僕が話したことが関係しているんじゃないかと思えてくる。もちろん仕事のことかもしれないけれど。

 掃除機をかけながら寝室へと入る。掃除をさっと終わらせ、電源を切ってマサキの机を見た。机の上には小説や専門書が数冊積まれ、仕事の書類らしきものが簡単にまとめられていた。掃除の際にちらりと見ることはあっても、本のタイトルなどを覚えていたわけではない。本屋で探していただろう新しい本や夜に書いているものがどれなのか、僕には分からなかった。

 しばらく眺めてから掃除機のゴミを捨てに戻る。マサキなら話したいことがあれば彼から言ってくれるだろう。

 溜まっていたゴミ袋も出し終わり一息つく。そろそろ夕食を作り始める時間だが、今日はマサキがいない。定期的に行われている会社の親睦会があるそうで、帰りも遅くなるらしい。前回欠席したから今日は行かないといけないと昨日の夜、マサキは珍しくぼやいていた。

 夕食、どうしようかな。

 残り物は昼食に食べてしまった。自分一人のために食事を作るというのはそれなりに面倒だ。帰りに惣菜でも買ってくればよかった。一度面倒だと思ってしまうと、作る気がうせてしまう。何か買いに行くか、外食にするかとぼんやり考える。少ししてから身支度をして僕は外に出た。


 18‐2


 カランカラン。数時間前に閉めた扉を開ける。開店して間もない店内に他のお客さんはいなかった。いらっしゃいませと言った北島さんが僕に気が付く。

「ユキさん! なんだか久しぶりですね」

 カウンター席に座りながら北島さんと話をしていると、店長が店の奥からやって来るのが見えた。話し声が聞こえ、注文が入ったと思ったのだろう。

「あれ、ユキちゃんだったの。珍しいね、お店に来るなんて。忘れものでもした?」

「店長、お疲れ様です。いえ、今日はそんな気分だったので」

 しばらくの間、三人で話しているとドアベルが鳴って二人組が入ってきた。僕と店長は北島さんが案内に行ったのを見送った。

「北島さんを見ていると自分まで元気になります」

「そうだね。明るくていい子だもんね。あ、そうだ、ユキちゃん。お昼に聞き忘れてたんだけど、北島さんから聞いた? 次の土曜日の夜、北島さんに用事ができたみたいで。急で悪いんだけど、ユキちゃんが大丈夫なら入ってもらえないかな?」

「いや、聞いてないです。でも、構いませんよ。えっと土曜日って何日ですかね?」

「八日かな。その日、一日中になっちゃうけど大丈夫? 早上がりできるようにはするけど」

「大丈夫です。八日ですね、わかりました」

「ありがとう。注文はどうする? 何食べるか決めた?」

 店長に聞かれて、僕はさっとメニューを見た。自分が食べるものとして考えたことがなく、どれもとても美味しそうに見え、写真を見比べる。あの二人組は決めるのが早かったらしく、北島さんが注文を受けて戻ってきた。僕も料理を決め、注文を聞いた店長が厨房へと向かった。

 作業をしている北島さんとカウンター越しに話をする。大学やここでのアルバイトはそれなりに楽しくしていて、最近は友達と夏休みの話をすることもあるらしい。

「ちょっと気が早いんですけどね。まだ一か月くらいあるのに」

「そういうものだよ、きっと。楽しみだね」

「はい。でも、その前に期末のテストやレポートがあるんですよね。高校までみたいに中間がないし、一学期が長く感じて」

 そう言って北島さんは苦笑いする。

「先輩から聞く分にはそんなに大変じゃないみたいなんですけど」

「初めてだもんね。でも、今が大変に感じていないなら大丈夫じゃないかな」

 そうですかねと北島さんが首を傾ける。僕も本当は分からない。

 先輩って、何かサークルでの繋がりだろうか。それ以外で知り合うことってあるのかな。ユキはそうした繋がりがなかったと思うけど。

「北島さんって何かサークルとか入ってたっけ」

 ユキのことは今はいい。

「私は入ってないんですけど友達が入ってて。その子といる時によく先輩と話すので私も仲良くなったんですよ」

「そうなんだ」

「それで思い出したんですけど、今週の土曜の夜って空いてますか? 急で申し訳ないんですけど、シフト代わってもらえたりしませんか?」

 北島さんがこちらを窺うように言った。僕が店長から聞き話を受けたことを伝えると、北島さんが手を合わせて礼を言った。

「何か用事ができたって聞いたけど」

「はい、さっきの話の友達から誘われて。店長からはいいよって言われたんですけど、土曜日だから気になってて。すみません」

「大丈夫だよ。友達とはご飯でも行くの?」

「ご飯っていうか打ち上げですね。その日に友達の入っているサークルがコンサートをするんですけど、私はその手伝いをする予定で。終わった後の打ち上げにも誘われたんです。七夕のコンサートで、チラシも貰ってお店に貼ってもらおうかと思ってたんですけど、持ってくるのいつも忘れちゃって」

 北島さんが頬をかいて笑う。苦々しさが胸に広がる。僕は同じチラシを持っている。

「それって、なんのサークルなの?」

「ああ、アカペラサークルですね。コンサートはお昼過ぎからなんですけど、ユキさんも見に来ませんか? ってもしかしてお昼も入ってますか」

 はっと気が付いて焦る北島さんを落ち着かせながら、僕は行けない理由が増えたことにほっとした。やがて夕食の時間帯になり数組のお客さんが来店した。僕と話している間も北島さんは他のお客さんに呼ばれることがあったが、お客さんが増えたことで今は話す間もなく忙しくしている。僕はそんな北島さんの様子を見守っていた。

 北島さんがアカペラサークルの手伝いをする。北島さんは元々ユキを知らないし、彼女自身がアカペラサークルに入っているわけじゃない。サークルの人たちだってユキの話をわざわざしないだろう。

 それでも恐れに似たものが胸の奥に漂う。どうしてそう思うのか自分でも分からないけれど、北島さんにはユキを知らないままでいてほしかった。

 北島さんと話している間に渡されていた料理を食べ始める。すっかり冷めてしまっているけれど、とても美味しい。あとで店長に美味しかったと伝えよう。ユキはここの料理を食べたことがあるんだろうか。一人暮らしだったら食べてそうだけどな。

 自然にそう思って、食べようとした手を下す。

 どうしてもユキのことを考えてしまう。そういえば、さっきの会話も大学のことは分からないのに適当なことを言ってしまった。今更そんなことを言っても辻褄が合わなくなるだけだけれど、僕はまだユキとしておかしくないように行動しているのかな。せめて大学のことが分からないって言えたらな。

 悶々と考えながら料理を口に運んでいると、気が付いた時にはほとんど食べてしまい、僕は味わいながら食べなかったことをもったいなく思った。少しして僕が食べ終わったころ、北島さんがカウンターに戻ってきた。ひとまず次の料理ができるまで息をつくことができるようで、僕は北島さんに「お疲れさま」と声をかけた。

「この時間はいつもなんですけど、一気に来られると疲れますね。あっそれ、どうでした? 美味しかったですか?」

 北島さんは僕の前に重ねられている皿を見て言った。ついでにもらいますねと言う彼女に皿や椀を渡しながら答える。

「美味しかったよ。あんまりお店の料理は食べないんだけど、また来ようかなって思えるくらい」

 僕が少し大げさに言うと「店長にも言っておきますね」と北島さんが笑った。

 洗い場に行ったり、接客をしたりする北島さんと話していると、店に来てから数時間が経った。二十一時を過ぎた時計を見る。あまり遅くなってもな。もう少し話していたい気もしたけれど、僕は北島さんに会計を頼んだ。

「それじゃあ気を付けて。土曜日のこと、ありがとうございます」

「いえいえ。じゃあ、お疲れ様」

 僕は北島さんに手を振って店を出た。夜でもむわっとした暑さが肌を撫でる。日暮れが待ち遠しく思う程度にはこの頃も暑くなってきた。それでもまだ夏本番ではないことを思うと気が滅入る。夏は嫌だなと僕は思った。


 18‐3


 僕は大通りを通って家へと帰った。簡単に明日の朝食の準備をして風呂に入る。髪を乾かしてからぼんやりとテレビを見ていると、傍らに置いていたスマートフォンが鳴った。着信画面にはマサキと表示されている。何かあったのだろうかと思いながら電話をとった。

「もしもし」

『あっもしもし、マサキさんの同僚の橋本と申します。ええっと、ユキさんでしょうか? 夜遅くにすみません。今日会社での飲み会があったんですが、マサキさんが珍しく酔ってしまって。こちらで電車には乗せるので、駅周辺まで迎えに来てもらえませんか? 本当は送ってやりたいんですが、同じ方向に帰る人がいなくて。一人で電車に乗せる前に誰か連絡できる人はいないかマサキさんに聞いたところ、ユキさんには伝えているから大丈夫といったことを話していたので、ご連絡させてもらいました。ご迷惑をおかけしますが、お願いできますでしょうか』

 思ってもみなかった連絡に僕は相槌を打ち、迎えに行くことを告げると電話の声は申し訳なさそうに言う。

『マサキさんが酔うなんて本当になくて、こちらとしても心配なので、すみませんがよろしくお願いします』

 驚いて通話の切れた画面を見つめる。あのマサキが心配されるほど酒に酔ったなんて想像ができない。酒を飲む姿は見たことがないし、飲む量を自分で調節していそうなのに。

 僕は薄い上着を羽織り、玄関を出た。


 スマートフォンを灯り代わりに駅に向かう。あまり人気のない駅内のベンチに見知った背中が見えた。

「マサキさん、大丈夫ですか」

 声をかけると、マサキがゆっくりと僕を見た。顔だけじゃなく、露出している肌も赤い。

「ああ、ユキさん、じゃあないね。ごめんね。迷惑をかけちゃって」

「大丈夫です。電話の人も心配していましたよ」

「うん、また今度お礼しないとね、君にも」

 マサキはそう言って立ち上がる。歩けないほどではないが、酔っているためかその動きがゆっくりとしていた。短い階段でも転ばないかドキドキする。マサキのように普段はそういったことがない人だと余計に心配になる。それでも思っていたよりはしっかりしていてよかった。

「わざわざ来てもらって、ごめんね。寝ようとしてたんじゃないかな」

「酔っぱらいは放っておけませんから」

「それもそうか」

 マサキがはははと笑う。歩きながら僕が聞かなくてもマサキが話をする。酔うと話をしたがるのは誰でも同じようだ。マサキの一線を引いた距離がいつもより少しだけ近い気がした。

「今日はよく話しますね」

 普段もある程度の会話はするけれど、自分から多く話すことは互いにしなかった。ひとりでに話すマサキを見て僕は思わず口にした。

「酔ってるからかな。本当はユキさん、じゃない、君とも話がしたいと思ってたんだけど、どう話しかければいいのか困っていたから。だからお酒の力を借りているんだと思う。ああ、でも自分の話ばかりしているね」

 掃除をしているときにマサキの机を見たことを思い出した。マサキも困惑しているのだろうかと思っていたけれど、やっぱりそうみたいだ。

「それでずっと考えていたんだけど、僕は君をどう呼んだらいいのかな。話を聞いてすぐの時は教えてもらえなかったから」

 マサキの言葉を聞いて僕は思わず立ち止まりそうになる。

 名前とか考えたことがなかった。僕は僕と言えばよかったし、誰も僕を呼ばないから必要なかった。ユキと呼ばれることにも慣れてしまっていた。

 僕は答えられなかった。マサキが続ける。

「名前以外も教えてほしいんだ。君は男の子なのかな、何歳なんだろう。ああ、いや、それよりも何が好きとかそういうことを聞きたいな」

「僕、は……」

 さっきまで普通に話せていたのに喉が引きつったように言葉が続かない。名前はない。僕は男で、たぶんユキと同じ年齢で……。何が好き、僕は何が好きなんだ? 頭に思い浮かぶものは全てユキとしての答えで、僕の答えじゃない。そのことを伝えようにも僕は話し方が分からなくなっていた。

 マサキは僕が答えるのを少し待ってから、また続けた。

「ユキさんでいた時、本当は何を思っていたんだろうって、考えたりもしたんだ。誰だってそういったことはあるけど、今まで話したことにも君の言わなかったことがたくさんあったのかなって思うと、少し寂しい気がした」

 僕はユキのことを考えていた。僕が何を思うかよりも、ユキがどう答えるかの方が大事だった。

「僕はね、いつか話してくれるのを待てばいいと思っていたんだ。ユキさんのことも、何かあったことは分かっていたのに、はっきりとは聞かなかった。寄り添うふりをして、僕は自分からは踏み込まなかったんだ。自分がどうしたいかを考えろ、言わなきゃわからないってアイツが教えてくれたのに、僕はまた言わなかった」

 しばらくの間、何も言わずに歩く。少ししてから、やっぱり自分の話ばかりだねと笑ってマサキが話し始めた。彼の家族と、一度だけ聞いた〈アイツ〉の話だった。

 両親が兄を気に入っていて子供のころから疎外感を感じていたこと、そうしたときに一緒にいてくれた幼馴染がいたこと、幼馴染の言葉に感銘を受けたこと。大人になってからも幼馴染との付き合いは続いていたこと。そして、その親友とも呼べる幼馴染が自殺してしまったこと。

 スマートフォンが照らす道を見ながら、僕はそれを黙って聞いていた。

「僕は気づけなかったんだ。アイツがずっと悩んでいたことに。アイツなら大丈夫だと思って、平気だと笑うその笑顔の裏を気にすることもなかった。僕だけじゃなくアイツも何も言わなかったけど。きっとお互いに、自分と同じくらい大事な人、だったのにね」

 治りきっていない傷跡をそっと撫でるように、マサキが静かに言った。それから声を上げて僕に話しかける。

「君にどうしてこの生活を提案したんだって聞かれたとき、僕はユキさんの力になりたいからとも話したけど、やっぱり違うかもしれない。自分がそうしたいと思ったから。僕は僕がされたかったことを、アイツにしてやりたかったことを、君にしようとしているのかもしれない。だから、君のことを教えてほしい」

 マサキが僕を見ていた。暗がりに光る瞳はしっかりと僕を見据えていた。たぶん酔いも醒めてきているんだろう。僕はその瞳を数秒だけ見つめ返してから目をそらした。

「わ、わからない」

「わからない?」

 マサキが聞き返す。僕は消えそうになる身体を押さえて頷いた。

「僕はずっと、ユキであろうとしていたから、僕が何が好きとか、あまり考えたことがない。名前も、必要なかったから、言われるまで気づかなかった」

「そう、なんだね。じゃあ、いつか、何か好きって思ったら僕にも教えてほしい」

 そう言った後、マサキは何かほっとしたような様子でつぶやいた。

「名前、なかったのか、そうかあ」

 自分では気づかなかったのに、僕は名前がないことをおかしなことだと思った。そうして驚かれると身構えていたから僕はマサキの反応を不思議に思った。

「名前、僕はあった方が助かるけど、君はどう思う? 一緒に考えてもいいかな」

 マサキが僕の反応をうかがう。僕が戸惑いながら頷くと、マサキは時々唸りながら僕の名前を考えていた。しばらくして僕に聞く。

「ユキって名前は嫌い?」

「たぶん、嫌いじゃないと思う」

「……ユウキとか、さすがに安直すぎかな」

 ユウキ。

「どうして、それが良いって思ったんですか」

「ユキって書いてユウキとも読めるから。それに君は嫌かもしれないけど、きっと君にとってユキさんは大切な人だと思うから、嫌いになってほしくないと思って」

 マサキの意図は分からなかったけど、ユウキという名前にいやな気はしなかった。ユウキ、ユウキ……。

「どうかな、違うものがいいかな」

 頭の中で繰り返された三音がゆっくりと胸にしみ込んだ。僕が答えると、マサキは微笑んで言った。

「よかった。じゃあこれからは君を……そうだな、ユウキさん、いや、ユウキくんの方がいいのかな」

 マサキが何度かつぶやいて僕に確認をとる。僕はまだ話し方が分からないまま答えた。

「くん、の方がうれしい。別に、だからってわけじゃないけど、僕は、男だから」

「わかった。それじゃあ、ユウキくんって呼ぶね」

 マサキが頷いて言った。

 駅から時間はかかったが、やがて家に着いた。マサキが心配ない程度に動けていたから、僕は先に布団に入ることにした。目を閉じる前に思い出す。マサキにユウキと呼ばれたことで、僕は頼りない自分が少しだけ確かなものになった気がした。

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