第3話

 10 店長の話


 客数の多い昼の時間が過ぎ、一息付ける二時。今日は珍しくお客さんがいない。いつもなら一組か二組のお客さんがいて、飲み物の注文だけで話していたり、遅めの昼食をとっていたりするのに。テーブルの片づけや洗い物を済ませると、することがなくなる。何もしないのもどうかと思い、普段できないところの掃除を始めていると事務室にこもっていた店長が戻ってきた。

「お客さん来ないね。今日って何かあったっけ?」

「いや特に何もないと思いますよ。あ、夕方から天気が悪くなるって予報でいってましたけど、それだったりしますかね」

「どうだろうねぇ。でも確かに雨が降るとお客さんが減るからいやだなー。いつでも晴れだったらいいのにね。ユキちゃん、このままお客さんが来ないようだったら早めに帰る? 雨が降るより先に帰った方がいいよね?」

「いいんですか?」

「うん、やろうと思ってた作業はさっきできたし、お客さんもそんなには来ないでしょ」

「ありがとうございます」

 そう言って僕は店長に聞こうと思っていたことを思い出した。店長と雑談することは多いけれど、店の作業や接客でどうしても長く話す時間はとれない。でも今日ならゆっくり話しても構わないだろう。

「店長、聞きたいことがあるんですけど」

 入り口を見ていた店長が僕の方を振り返る。僕が話すのを待っているその表情を見てわずかに躊躇する。聞いていいのか? おかしく思われないか?

 いや、ユキが言ってもおかしく思われないように。

「店で働き始めたころの私ってどんな感じでしたか?」

「どうしたの、急に。え、転職でもするの? 店辞めたりしない?」

「しませんよ。いや、北島さんと話していてちょっと気になって。こういうことは自分ではよく覚えてなかったりするので」

「なるほどね。そうだなぁ……」

 思い出そうとしている店長を見て、そっと胸をなでおろす。

「前にも話したと思うけど、初めのころはすごく緊張してたね。真面目なところがそうさせてたんだろうけど、マニュアルにかじりついてさ。初めてのアルバイトだって言ってたし、人見知りなところもあったから。でも、慣れてからはだいたい今と同じ感じかな」

「あ、そういえば一時期すごく張り切っていた時があったかも。ここだけじゃなくて勉強とか生活の方も気合が入っているっていうか。そんな風に見えた時があったねー。資格の勉強だったかな? ちょっと忘れちゃったけど。あの時はやる気に溢れてたなぁ」

「体調崩して来られない時期もあったけど、大学お休みしてからは落ち着いてきたかな。通して見ても仕事に関してはちゃんとやってもらってるし、ユキちゃんはできる子だと思うよ」

 マニュアルを読んでいた北島さんを見てユキを想像したことを思い出す。きっとユキはすごく頑張っていたんだろうな。

 張り切っていた時期って、いつのことだろう。そうした時があったなんて、僕の知っているユキからはあまり想像がつかない。

 休学までのあの時期は店長にも迷惑をかけたと今なら思う。仕事に関しての評価が変わらないことに少しほっとする。

「あと最近はなんだか楽しそうだね。北島さんのおかげかな?」

 北島さんの笑顔が浮かぶ。駅で別れた時と同じ温もりがじんわりと胸に広がる。

「なんだか初めのころ以外も話しちゃったな。いつも助かってるし、まあ、これからもよろしくってことで」

 店長はいつも通り笑っているが、若干照れ隠しのようにも見えた。

「いきなり聞いてしまってすみません。私こそ、これからもよろしくお願いしますね」

「ほらほら、早くしないと雨、降るんじゃないの」

 僕も笑って答えると店長は急かすように言う。予報は夕方からで雨が降るにはまだ早いと軽く抗議したあと、僕は改めて店長に礼を言って休憩室へと向かった。



 11 マサキの話


 ぴぴぴ、ぴぴぴ、ぴぴぴ。

 目覚まし時計の音で目を覚ます。ぼんやりする頭で音を聞き、少ししてから腕を伸ばしスイッチを押す。布団の中で身体を動かす。なんだか夢を見たような気がする。上体を起こしてぐっと伸ばした後、洗面台に向かった。ぬるい水で顔を洗いながら夢を思い出そうとする。あの部屋の前にいて、ユキに話しかけていたと思う。何を話していたんだろう。最近だと、マサキが夜に迎えに来たことや北島さんと出かけたこと、あとは店長との話、かな? 出来事自体は全部話していそうだけど。タオルで顔を拭いてすっきりする。夢の内容はもやがかかったようにほとんど思い出せない。

 そういえば、ユキに話かけることも久しぶりな気がする。いつも覚えているわけじゃないから、気のせいかもしれないけれど。

 着替えて朝食を作る。炊飯器のスイッチを入れて、残り物の野菜を切る。油を引いたフライパンにざっと加えた。

 今日、マサキに聞いてもいいだろうか。

 一昨日ユキについて店長に話を聞いた。僕はユキの過去についてほとんど知らない。僕が知っているのは涙を流して横になっているユキの姿。もちろん元気な時期もあっただろうと思ってはいたけれど、店長の話す張り切っていた時期というのは僕の知る姿や想像と違っていた。そのあとの体調を崩した時期は、知っている。

 店長の話ではその二つの時期がどれほど離れていたかは分からない。でも張り切っていた時期のあとに何かがあったんだと思う。だからユキはいなくなった。

 マサキはよく僕のことを気にかけてくれる。心配してくれる。どうしてだろうとずっと思っていたけれど、ユキが苦しんでいた時期をマサキが知っているなら、彼の心配症なところも納得できる。マサキはその原因そのものも知っているんだろうか。

 包丁とまな板をさっと洗い、座って米が炊けるのを待つ。ピーっと炊飯器が鳴ってしばらくするとマサキが起きてきた。

「おはようございます」

「うん、おはよう」

 まだぼんやりしているマサキが答える。僕は洗面台へと歩いていくマサキの背を見つめた。

 でもどう聞けばいいだろう。この生活を提案してきた理由を聞けば、ユキのことも聞けるだろうか。

 戻ってきたマサキが自分の茶碗を持って米をよそう。僕も立ち上がり後ろに続いた。僕が座ったことを確認して、手を合わせマサキが食べ始めた。いつからか、この静かな食事の時間に何も思わなくなった。それが当たり前のこととして思えている。

 マサキに尋ねればきっと、この穏やかな沈黙はなくなる。僕は以前のように作業として食事をとるかもしれない。

 でも僕はユキの過去が知りたい。ときどき見るようになった姿を思えば、きっと知る必要がある。それに、マサキなら話してくれるんじゃないかと今は思っている。


 朝食が終わって仕事に行く準備をしていたマサキが寝室から出てきた。家を出るいつもの時間になったのだろう。僕の方を見て「行ってきます」と言う。僕はぱっと顔を戻したマサキに向かって言った。

「マサキさん、帰ってきたら聞きたいことがあります」

 マサキは振り向いて僕をじっと見る。そのまっすぐな視線にたじろぐ。

「わかった。遅くならないよう気を付けるね」

 マサキはそういって玄関に向かった。数秒間動けずにマサキの姿を見送るが、はっとして声をかける。ガチャリと玄関の扉が半分開けられた。

「いってらっしゃい」

 外の光で見えなかったけれど、マサキはいつものように笑っている気がした。


 11-2


 夕食後、マサキに言われて先に洗い物を済ませる。少しでも時間をかけようと思うが、この後のことを考えれば考えるほど、手早く洗い終わってしまう。マサキがお茶を準備して待っている。僕は緊張する胸を抑えながらイスに座った。

 しばらく何も言わない僕の様子を見て、マサキがそっと問いかける。

「今朝言っていた聞きたいことって、何かな?」

 話を促しながらも待とうとする姿勢にまたマサキの優しさを感じた。身体が強張り、動悸がして苦しい。僕は何度か深呼吸をして覚悟を決める。

「マサキさんは、どうしてこの生活を提案してくれたんですか」

 言ってしまってからやっとマサキの目を見る。彼は驚いた表情で少しの間固まっていた。

 僕はすっとテーブルに視線を落とした。マサキが驚くのも当然だ、ユキなら覚えているはずなんだから。いくら忘れることがあるといっても、大事なことまでは忘れたりしない。

 まだ動悸は収まらないが息苦しさがなくなる。拡大していた頭の熱はすうっと冷えて、ただマサキの答えを待つ。やがてマサキも何かを決めたように口を開いた。

「何を覚えているのかわからないから、どこから話せばいいんだろうな。どうしてと言われると、そうだね、ユキさんの力になりたいと思ったから、かな」

 少し長くなるけれどと前置きをして、マサキが話し出す。


 その日は少し久しぶりに店に行った日で、僕は珍しくひとりで飲んでいたんだ。ずっと考え事をしていて、ユキさんに声をかけられてから、閉店時間が過ぎたことに気づいた。その時のユキさんが元気のないように見えたから少し話をしてね。何かあったみたいだったけど、それを言うことはできないと言っていた。悩み事を全く言わないのは、あまり良くないから、少し無理を言って話を聞かせてもらった。それから数回、話すことがあったけど、平気そうな時と考え込んでいるような時があってね、その不安定さが心配で、何か力になれないだろうかと思っていた。

 たぶん、そのころからかな、一緒に暮らすことができればと考えたのは。一緒にいれば不安な時に寄り添うことができて、ぬくもりを分けることができるのにと思ったんだ。自分で自分を否定しても、すぐそばに肯定する、認めて受け入れるような相手がいれば。アイツのようにはならないと思った。もちろん、非現実的な妄想として、そう考えていただけだった。

 それから、僕が仕事で忙しくなって店に行くことがまた少なくなってね。店に行った日もシフトの関係か、ユキさんと会うことはなかった。やっと話すことができたのは年が明けてからだった。仕事中だからかもしれないけどユキさんは元気そうで、ほっとしたのを覚えている。でも話してみると何か違和感を感じた。かなり親しくなっていたつもりだったのに、少しよそよそしさを感じてね。なんとなく過去の会話を持ちかけると、返答が違ったから何かあったんだろうと思った。その「何か」が、以前からあったものなのか、また別のものなのかはわからなかったけど。

 僕は虐待や自殺の防止に関する支援活動に参加したことがあるんだ。今も時々行っていて、話したことはなかったかな? そこで見聞きしたことだけれど、あまりにつらい経験があると、自分を守るために記憶を無くしたり、その経験を自分のものではないと思いこんだりすることがあると知っていた。だから不自然なユキさんの態度と返答をみて、そうかもしれないと思ったんだ。

 話を聞くと、大学を休学することやお金に困っていることが分かった。それで言ってしまったんだ、僕と暮らさないかって。言うべきじゃないって思っていたのに、口にしてしまえばそれが良いように思えた。でも、もちろん断られるだろうと思っていたよ。親しくなったといっても、たぶん友達って程でもなかったから。

 でも、断られなかった。あの夜と同じようにユキさんは応えてくれた。

 一緒に暮らし始めてからこうした話をしなかったのは、そうすることで記憶が戻ることが怖かったから。喪失させるほどの出来事を無理に思い出させる必要はないと思った。


 話し終えたマサキがお茶を飲む。グラスをおいて僕に聞いた。

「分かりづらかったらごめんね。本当にユキさんのためというより、自分がそうしたかったって気持ちの方が強いかもしれない。何か聞きたいことはある?」

「あの夜っていつのことですか?」

「今話した中で、初めにユキさんの話を聞いた夜のことだね。話を聞かせてほしいと言って、閉店後に家まで送らせてもらったんだ。あの時も迷惑なことを言ったと思ったし、断られると思っていた。でもユキさんは驚いて困った表情だったけど、受け入れてくれた」

「じゃあ部屋を知っていたんですね」

「うん、行ったのはその時だけだったけどね」

 あの部屋に換気をしに行った日の夜を思い出した。マサキは記憶が戻ることを恐れて、また家を知っていたから換気に行くのを代わろうかと言ったのかな。

「それから、アイツって、誰のことですか」

「僕の親友だった人だよ」

 普段聞かない代名詞が気になって聞くと、マサキはそれだけ言った。再び僕の質問を待つ。親友だった? それに、アイツのようにはならないと思った、とはどういう意味だったのだろう。でも、今は聞いてはいけないような気がした。

 他にはないかと確認され僕が答えると、「考える時間も必要だろうから」と言ってマサキはいつものように寝室へと向かった。

 マサキが座っていたイスの背を見つめて、聞いたことを整理する。

 マサキが話したことは、ユキに何かがあったあとのことのようだ。マサキは原因となる出来事を知っているわけではないらしい。ただマサキから見たユキの様子を考えると、その出来事からすぐと思ってもいいかもしれない。

 ユキはとても不安定で今にも崩れそうな様子だったのだろう。すぐそばで支えるためにとマサキが考えるほど。そうして事実、僕がいるのだから。

 マサキがユキと会えなかった時期は、たぶん僕になる少し前。大学にも店にも行けなかった時があったはずだ。そこから年明け後の話は知っている。僕が話したことだから。マサキは違和感を感じたと言っていた。その時は変わったとか言われなかったのに。マサキがそう思うほどユキとのズレがあったってことなのか。当時はユキとして振舞い始めたころだから仕方がなかったのかもしれないけれど。

 あの提案は言ってしまったようなことだったのか。あの時のマサキを思い出す。確かに慌てた様子でもあった。僕と暮らさないかと言ってから付け足すように言っていた。

(えっと、生活費は僕が出すから家事をしてほしいんだ。ここで働いた分はほとんどユキさん自身のために使える。それと、お金は少しかかるけど今の部屋はそのままで、何かあればいつでも戻ってもらって構わないから……)

 僕が了承したのは、マサキより僕の方がメリットが大きかったからだ。そのときは生活が危なかったから、彼がどういう人でユキとどういう関係なのかよりも、ただ利用できると考えた。

 マサキがどういう理由でこの生活を提案してきたのかは分かった。でもユキの過去はまだ分からないままだ。

 僕は長く息を吐きだす。

 マサキは僕が話を聞いても答えてくれた。それは彼の思い違いがあったから受け入れられたことではあるけど、それが少しうれしかった。



 12 夢‐あの夜


 薄暗い視界の中、耳元で荒い息と喘ぎ声が聞こえる。部屋全体に声と共に肉と肉が当たる音が響く。肌に汗が落ちる。高い声を上げ、刺激を求める。この瞬間の悦びに満たされる。一層声が大きくなり、何も考えられなくなる。ただ快楽に支配されて涙が出るほど安心した。

 その歓喜する心からずるりと剥がれ落ち、周りを見る。狭く薄暗い部屋は見覚えがあった。さっきまでの身体を振り返り、僕は言葉を失った。

 ユキが切なそうに顔をゆがめている。開いた口からは絶え間なく喘ぎ声が聞こえ、何も身に着けていない肌には汗の跡が光る。

 ユキの顔に影が落ちた。覆いかぶさった背中は思っていたよりもしっかりとしていて、くせのある髪は寝起きほどではないが少し乱れていた。ユキは笑って彼に手を伸ばす。ちらりと見えたマサキの横顔は余裕がなく、少し苦しそうに見えた。二人は互いに求めてそこにいた。

(昨日、マサキはこの部屋には「あの夜」しか行っていないと言っていた)

(送ったとだけで、部屋に上がったとも上がらなかったとも言わなかった)

(これは夢だ。でもこのことも夢なんだろうか)

 ユキが感じていたものは彼女が望んでいたものの裏返しだと思えた。そうしたことも、この出来事も僕は知っているような気がした。

(これがマサキの話がきっかけで思い出されたものだとしたら?)

(仮に事実だとしてマサキはこれを隠すつもりだったのだろうか、少なくとも言うつもりではなかったように思える)

 見たくない。聞きたくない。しかし目を逸らすことも耳を塞ぐこともできなかった。



 13 朝


 目が覚めて夢を見ていたことを理解する。残された不快感に顔をしかめる。あれは夢だ。そう呟いて身体を起こした。

 いつも通り台所に立っているとマサキが起きてきた。

「おはよう」

「おはよう、ございます」

 胸がざわつく。マサキの姿を見られない。彼はすぐに洗面台へと消え、僕は少しほっとした。

 朝食の沈黙が流れ、自分の動きが不自然でないかと考える。

 やがて食べ終わり食器を流しに置きに行く。普段ならその後すぐ支度を始めるマサキが隣に立ったまま話し出した。

「昨日は聞いてくれてありがとう」

 僕はスポンジに伸ばしていた手を下す。

「僕に話を聞くかどうか、ユキさんは迷っているように見えた。僕は記憶が戻ることが怖いといったけど、ユキさんがそうして踏み出してくれたことが嬉しいんだ。いつも言っているかもしれないけど、何かあったら言ってね。きっと力になるから」

 マサキはそう言って笑う。僕は今までとは少し違って見えるマサキの笑顔を見て、複雑な思いになった。マサキが思うような気持ちで話を聞いたわけじゃない。

 僕はあいまいに笑う。どう答えればいいか分からなかった。

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