第2話

 4 夢‐ユキへの語り掛け


 ユキ、と小さく呼びかける。

「北島さんのことを話しに来たよ。まだあまり分かっていないけど」

「慣れない様子を見てそう思うのかもしれないけど、なんだかかわいらしい人だった。長い髪が素敵でね、しっかりしていそうで少し抜けているような雰囲気の人かな。作業中は真面目でも店長と話すときなんかはよく笑っていたよ」

「北島さんは緊張していたけど、店長は初日よりは良くなっているって話していた。そういえばアルバイトは初めてだって。大学まではできなかったみたい。それから前に一度、店で食事をしたことがあるって話していた」

「僕は店でいる時はあまり話さなかったけど、帰りに途中まで一緒に歩いたんだ。北島さんは地元の人らしくてね、家もあまり遠くないからと自転車だった。大学は友達もいて楽しく通っているみたい。一年生って一番楽しい時期って言われる頃なのかな」

「ユキは大学に入った時、北島さん以上に分からないことばかりだったのかな。それでもきっと、楽しいって思うことはあったよね」

 話しながらゆっくりその日のことを振り返る。

「そうだ、その夜帰ったらマサキさんが起きていたよ。いつもなら横になっている時間だと思うんだけど。リビングにいて、おかえりと言われたんだ。彼は少し眠そうで、そのあとすぐに寝室に向かったよ。おかえりって言われ慣れないけど、うれしいような気持ちになるね。待っててくれたってことだと思うから」

 その時のことを思い出して温かいものが胸に広がる。その感覚を懐かしんでいると何故かその後の風呂場でのことが思い出された。冷水を浴びたようにさっと温もりが消える。

 扉を見つめたまま固まる。何か言おうとして、けれど唇をかんだ。

(今までも必要のないことは話さなかったじゃないか)

 あの違和感はユキにはないものだから。

 ほかに話すことを探したが特に思いつかず、僕の意識は溶けはじめる。

「ねぇユキ。僕もおかえりって言うから」

「また来た時に話をするね。楽しいものだったらいいな」



 5 休日の買い物


 カーテンの隙間から光が漏れていることをぼんやりと感じる。身じろぎをして、まだはっきりとしない頭で今日のことを考える。今日は休み、店も定休日だ。しばらくしてからゆっくりと身体を起こし、手を伸ばし時計を見る。九時。いつもより二時間近く寝てしまったらしい。顔を向けて少し先の衝立を見る。薄明りに人の影はないが、気配はある。まだ寝ているようだ。休みでも普段通りに目覚ましをかけてもよかったが、昨日は遅い時間に帰ってきていたし、今日は午後かららしいから寝させたほうがいいだろうと思い、やめた。きっていた目覚まし時計を明日のためにセットする。そっと立ち上がり、洗面台に向かった。

 寝間着から着替えて、食事の準備をする。今朝はいつもより軽いものでもいいだろう。

 トースターのタイマー音を聞きながら目玉焼きを作る。マサキもそれほど遅く起きてこないだろうから、目玉は二つ。チンッと小気味よい音が鳴り、食パンが程よく焼けたことを知らせた。トーストと形の崩れた方の目玉焼きをそれぞれ皿にのせ、テーブルに移動する。音を小さくしたテレビでニュース番組を見ながらトーストにかじりついた。

 食べ終わった皿をさっと洗ったあと、台所周辺のものを見ていく。調味料や洗剤、キッチンペーパーにゴミ袋など。まだあるかどうかを確認する。台所から収納スペースまでうろうろと見て回っていると、後ろから少しかすれたマサキの声がした。

「おはよう。洗面台ちょっといいかな」

「あっおはようございます。ごめんなさい、どうぞ」

 脇によけ、丸まった背中を見つめる。彼の背はかがんでやっと僕と同じくらいになる。やわらかい髪は寝ぐせがひどく、今日はあらぬ方向へとはねている。

 顔を拭いているマサキに朝食はとるかを聞き、再び台所へと向かう。先ほどと同じものをテーブルに置いて、マサキが食べている間に昼食を作る。作り終わるころにはマサキも食べ終わっており、のんびりとしていた。僕がイスに座るとマサキは思い出したように寝室へと向かい、封筒をもって戻ってきた。

「いつもありがとう。これ、今月分です」

「ありがとうございます」

 受け取った封筒の裏には六月分と金額が書かれている。

「いま何か不便なことはない? 何か必要なものがあれば、そのお金で買ってかまわないからね。もし足りなかったら言ってくれればなんとかするよ」

「いえ、大丈夫です。本当にありがとうございます」

 僕がそういうとマサキは心なしか切なげな顔になったが、すぐにいつもの表情に戻った。

「今日はお休みなんだよね? さっき色々見ていたみたいだけど」

「ああ、はい、今日は少し遠くのショッピングモールに行こうと思って。マサキさん何か必要なものはありますか? 買ってきますよ」

 それを聞いたマサキが笑う。僕は彼がどうして笑ったのかすぐには分からなかったが、自分が彼と同じことを言ったためだと気が付いた。すみません、と謝る。

「ううん、気にしないで。家のことは任せているからユキさんが判断してくれたらいいよ」

 マサキは笑ったままそう答えた。


 準備を済ませて玄関に向かう。リビングにいるマサキはまだ時間があるのか、ラフな恰好のままだ。手元をみている後ろ姿へ声をかけることに気が引け、通り過ぎようとするとマサキがぱっとこちらを向いた。

「いってらっしゃい。お昼ご飯ありがとうね」

 僕と目を合わせて言う。その様子を見て自分の行動を少し悔やんだ。僕も微笑んで言う。

「いってきます」


 5-2


 買うことを決めている日用品は後回しにして、ずらりと並ぶテナントを適当に見て歩く。テナントのほとんどは洋服やアクセサリーなどで特に惹かれるものはない。しかし今日の目的は新しい夏の服。数日前、暑くなってきたからと洋服を整理してみると、新たに買わなければならないと思うものばかりだった。できれば早くに買ってしまいたい。

 身に着けている服と似た系統のものを見つけると、ひとまずそちらへと歩く。重くなる足を動かして全体を見て回った後、通路近くに戻った。置いてあるマネキンをまじまじと見つめる。

 さっき入ったところも同じタイプのスカートだった。今の流行りなんだろうか。

 エアコンか人の流れか、かすかに揺れている裾を持って広げてみる。夏の薄い生地はするりと指から逃げていった。その揺れが伝染してさらに震える。これが風になびく様子はきっと綺麗だろうと考えるものの、そのイメージはひどく客観的なものだ。

 振り返り、人の歩みの先にあるマネキンを透かし見る。白のインナーに紺のシャツ。モノトーンな色合いでシンプルな型。時折すっと入っていく人の姿を見つけて、目で追いかける。影が服の合間に消えると、視線を落とし、やがて体を戻した。

 先ほどのマネキンの隣を見る。一見同じスカートだが、分類としてはパンツになるのだろうか。まだ着られそうな……。

 息が詰まる中、スカートやトップスをいくつか手に取ってみるが、何をどう合わせればいいのかが分からない。手持ちのものをあまり使いたくないとはいえ、全身分を新しく買うとしても少しお金がかかる。そもそも似たものを見ているつもりだが、これでいいのかどうかも分からず不安だ。ユキはどうやって選んでいたのだろう。

 後ろから歩いてきた人の気配にびくりと肩を震わせる。女性は僕の脇を通り過ぎると、鏡の前に立って選んだ服を合わせている。

 気にしすぎだ、大丈夫、何もおかしなことはない。

 持っていたブラウスを元に戻し、息を吐く。今日は様子見だからと言い訳をして、その場を後にした。昼食にしようと食事エリアへと向かう。歩いている途中、空腹と共に体から力が抜けるのを感じた。


 カフェレストランの隅の席に座り、注文したものが運ばれてくるのを待つ。薄暗い店内はまだ人が少ないようで、話し声よりも落ち着いた音楽と店の作業音のほうがよく聞こえてくる。僕はイスに背を預けてぼうっとしながら、氷の入ったグラスを手にした。

 あの日の北島さんのことが頭に浮かぶ。黒いTシャツと隙間から見える肌、花の香りの制汗剤。彼女に女性だと思われたこと。思い出すべきでなかった違和感が苛立ちを誘うが、今は冷たい水と共に飲み込む。

 僕は何なんだろう。ユキとして、女性として生きている。けれど、この身体へのぬぐえない違和感がある。いや、僕のものではないから当然なのだけれど。僕自身は女性ではないと感じているのかもしれない。それが男性だということかどうかはわからない。もし、女性ではないとしても何をもってそう思うのだろう。違和感はユキのものだからと言ってしまえば当然で、それが嫌悪に近い感覚であっても、それだけでは〈女性ではない〉ということにはならないはず。

「……苦しい」

 こぼれ出た言葉に驚く。本来、感じるはずのないものに煩わされている。なぜ今になってこんなことを思うのだろう。

 思考が行き詰まり、考えることをやめる。少し前から感じていた動悸を抑えようと深呼吸をする。何度か繰り返していると、料理が運ばれてきた。

 昼食を済ませた後は日用品を買ってそのまま帰った。



 6 アプローチ


 カランカラン。この時間、不意には鳴らないベルの音に振り返る。

「すみません、今日は……」

 説明をしようと入口に近づくけれど、来店した彼女の姿を見て言葉が途切れた。

「こんにちは!」

「こんにちは。……お好きな席へどうぞ」

 僕が言うまでもなく北島さんはカウンター席に座った。今日はシフトには入っていなかったと思うけれど大学の帰りだろうか。ふと前回のことを思い出し、北島さんがこの時間に一人で来たことを身構える。

「大学の帰り?」

「はい、今日は少し早く終わったので」

「そうなんだ。これ、今日のおすすめね」

「ありがとうございます」

「それとアルバイトだから構わないけど、一応、来店時間は過ぎてるから」

 多少は控えてほしい旨を伝える。店長は構わないと笑うけれど、ほかのお客さんが来られると困る。北島さんはすみませんと謝るものの、少し唇を尖らせていた。

「ありがとうございましたー」

 会計を済ませたお客さんが帰っていく。残っているのは北島さんだけで、三時にはまだ早いけれど今日はもう店を閉められそうだ。先に外に出て看板をしまう。食器をもって厨房に向かう途中で、僕は北島さんに声をかけた。

「北島さん、店は閉めるけどゆっくりしてていいから。片づけしているけど、会計とか何かあったら気にせず呼んでね」

「わかりました。あの、良かったらこのあと一緒に帰りませんか? 終わるまで待ってますので」

「いいよ。じゃあ会計が終わったら裏で待っててもらえるかな」

 僕はなんとなく彼女がそう言う気がしていたため了承する。二度目となるとあまり驚くこともない。僕の返事を聞いた北島さんは嬉しそうに頷いた。


「お疲れさまです」

 休憩室の戸を開けると北島さんに迎えられる。少し変な感じだ。

 ロッカーを閉めて裏口へと向かう。途中で事務室に入り、店長と話しながらノートに今の時間を書く。北島さんの姿をみて店長は仲がいいねと言って笑った。

「今日も暇だったの?」

 店の表に置いていた自転車を取って戻ってきた北島さんに聞く。今日と同じように店に来て、帰りに話した日はその理由を暇だったからと言っていた。

「え? ええと、時間はありましたけど、ユキさんともっとお話ししたいなと思って」

 北島さんが少し照れくさそうに言う。北島さんは前回の話の流れから僕をユキさんと呼ぶようになった。好意が向けられていることは、嬉しいけれど困惑する。

「そうなんだ、嬉しいけど、ちょっと恥ずかしいね」

 少しの間、僕と北島さんは黙って歩いた。やがて北島さんが口を開いた。

「ユキさんってお休みの日は何してるんですか?」

「テレビを見たり、本を読んだりかな。家からはあまり出ないね。北島さんは?」

「私は友達と出かけたり、一人で服を買いに行くことが多いです。いつも出費が多くて、最近は控えようとしているんですけど、なかなか……」

 北島さんが苦笑いする。僕もつられるように微笑んだ。

「服はどんなのを買うの?」

 時々見る北島さんの私服はアルバイト用だからかはわからないが、Tシャツにパンツスタイルが多いように思う。今日もジーンズに大きめのシャツと、あまりこれまでのイメージと変わらない。

「ええっと、今日みたいな動きやすいものも好きですし、」

 よく行くのだと北島さんは身近なブランド名を挙げた。多少耳にしたことはあるが、実際に行ったことがない店もある。その中の一つはこの間見てきたところだろうか。

「xxxxってところ、先週、夏の服を買おうと思って見に行ったんだけど、結局決められなくて。北島さんは服を買うときって組み合わせとかどうしてる?」

 思わす出た質問に自分でも戸惑う。北島さんも心なしか驚いているように見えた。

「そうですね、私は好きな系統のお店に行っていいなと思ったものをつい買っちゃうんですけど、持っている服との組み合わせは雑誌を読んだり、ネットで調べて決めることが多いと思います」

「なるほど……」

 あの日、ため息をついて店を後にしたことを思い出した。

「ユキさんが好きな服ってどんなのですか?」

「えっ、うーんと、ブラウスとかスカートの可愛い感じと、シャツ系のスッキリした感じは見ると素敵だと思うけど、自分が着るなら何が好きってあまりないかも……」

「可愛い感じって、例えばこんなのですか?」

 北島さんがスマートフォンをリュックサックから取り出し、いくつかの画像を見せる。僕は頷く。

「あとスッキリしたシャツ系でしたっけ」

 ぼんやりとイメージしていたものがはっきり映し出される。話すつもりのないことを言っている気がする。変に思われたりしていないだろうか。

 北島さんがもう一度、検索画面を見せてくる。

「ユキさんのこういう服、見たことがない気がします。このちょっとかっこいい感じも見てみたいです」

 北島さんはそう笑ってスマートフォンを背に仕舞う。

「そうだ、あの、もし嫌でなければ、今度、服を見に行きませんか? ユキさんの都合のいい日で構わないので」

 北島さんの隣を歩いているはずなのに、僕だけがすっと後ろにいるような気がする。こちらをうかがっている彼女の顔がやけに明るく見えた。

「いいよ。私も参考になるし。いつにしようか?」

 予定を話していると交差点についた。細かな時間についてはシフトの同じ日に決めることになった。北島さんに手を振って、その後ろ姿が見えなくなるまで見送る。これでよかったのかと、ここまでの会話を振り返る。

 いや、ユキは誘いを断らない。


 再び歩き出しながら、夕食の買い出しに行くつもりだったことを思い出し、考えを今晩のメニューに移す。

 スーパーがある通りに出ると工事看板が見えた。この先の歩道で水道工事をしているようだ。道路まで張り出した三角コーンが遠くにみえ、そばに案内係の人が立っている。いつもならまっすぐ進んでからスーパー前の横断歩道を渡るが、工事の手前で先に渡ってしまおう。横を向いて青いランプを確認する。

 道を一つ挟んでいるだけなのに景色は違って見える。あんなところに看板はあっただろうか。ここには空き家があったような気がするけど。じわりと掻いた額の汗をぬぐう。脇道を見ていた顔を戻すと、視界には誰も映っていなかったはずのに、すぐ目の前に人の姿が見えた。驚いて立ち止まる。

 自分と同じくらいの背格好の女の人、隣に彼女より頭一つ分ほど背の高い男の人。

 僕は目を見開く。

 知っている後ろ姿。使いなれたショルダーバッグに、今はハンガーにかかったままの服。隣を見上げる彼女の表情は見えないのに笑っていると分かる。その小さな手は隣の彼と繋がれて隠れている。

 男の人の背は広く、右肩にかけているリュックサックが少し小さく見える。その先の右手は何か伝えているようで、彼が話をしているのだろうか。

 通り過ぎた車のせいで目が痛み、瞬きをする。すうっと色が戻った歩道に二人の姿はない。向かいから自転車がやってくる。すれ違う瞬間、自転車に乗った人は僕をいぶかしげに見た気がした。

(今のは、ユキ、と……)

 胸の奥がズキズキと痛んだ。しかし、すぐに何もなかったように治まった。



 7 小さな部屋


 がちゃり。鍵を開けて暗い玄関に入る。とたんに感じるむわっとした空気に顔をしかめた。靴を脱ぎ部屋を横切ってベランダの戸を開ける。かすかに風が入り、よどんだ空気が動くのがわかる。さらに扇風機のスイッチを入れ風を送る。静かな部屋では外の雑音と扇風機の音がより大きく聞こえた。クローゼットや物置の扉を開けながら、異常がないかを確かめる。おかしな点がないことに安心して扇風機の前に座った。

 郵便受けに入っていた紙の束を机に広げて確認していく。ほとんどがチラシで、いくつか光熱費の請求書が紛れている。その数枚を除いて捨てる。同じような先月の紙ごみがまだゴミ箱に残っていた。

 またひと月が過ぎた。いつまでこの生活を続けられるだろう。

 時間の止まったようなこの部屋に来ると考えてしまう。見えないふりをして考えないようにしていること。

(マサキとの共同生活に期限はない。同時に、続く保証もない)

(休学している大学もいつかは復学しなければならない)

(ユキの家族に話していないことが多すぎる。もし知られたら)

(マサキはこの生活のことをどう思っているのだろう)

 マサキは生活について気にかけてくれているが、今後のことは何も言わない。僕はどうして彼がこの生活を提案してきたのかを知らない。ユキと話していたのかどうかも。

 扇風機のぬるい風で流れた汗の痕を感じる。考えすぎか、頭がぼぅっとする。

 まだ先延ばしにできる。でもいつかは決める日が来る……。そのとき僕はどうしているだろうか、ユキは笑っているだろうか……


 知らないシャワールームで身体を洗う。いつも以上に時間をかけて念入りに。すごくドキドキしている。キュッと湯を止めて、バスタオルで身体を拭く。バスローブを着る前に処理の行き届いていないところがないかのチェック。シャワールームを出ると、鏡の前には化粧水などのいろいろな容器が並んでいる。その中の一つを手に取り両手で顔を覆う。少し怖いけど、きっと大丈夫。外で待っている彼になんて言おうかと考えながら、洗面所の扉に手をかけた。誰かに抱きしめられている。温かい体温が伝わってくるけれど、肌で感じる温もりは分厚い膜を通しているかのよう。大きな体に包まれて、自分がより小さくなったような気がする。苦しくない程度に優しく抱きしめられているのに、指の一本でさえ身体が動かせない。刺激がびりびりと神経を伝達し、応えるように声が漏れる。大きなクッションに顔を埋め、しがみつくように手に力が入る。後ろからの刺激は繰り返され、そのたびに聞きなれない呻き声が身体から発せられた。声が枯れて喉が痛い。時々せき込むけれど刺激は止まることがない。痛い、痛い、早く終わって。暗い家の中でお母さんにお話をする。さっき妖精さんを見つけたの。きれいな羽はチョウチョと一緒で、もっと近くで見たかったのに飛んで行っちゃった。いつも楽しそうにお母さんは聞いてくれるのに、今日はあんまり笑ってない気がする。聞こえてなかったのかな? あのね、さっき妖精さんが……。「xxxxxx!! xxxx、xxxxx……」びっくりして身体が固まる。何か言われた、なんて言われた? お母さん怒ってる、変なことってなに? 妖精さんのこと? 言っちゃダメなこと? いつもは笑ってくれるのに……


 ばっと目を開ける。ドッドッと心臓が脈打ち浅い呼吸を繰り返す。ここはどこだ。体を起こし、あたりを見回す。混乱した頭が徐々に現実を理解する。

 そうだ、換気をしに部屋に来たんだ。いつの間にか寝てしまったのか。

 ひどく汗をかいている。ゆっくりと立ち上がり洗面台へと向かった。タオルを一枚取り出してから顔を洗う。ついでにコップ一杯分の水を飲み干し、はーっと長く息を吐く。ぬるい水でもかなり楽になった。

 部屋に戻り時計を見る。眠ってしまってからそれほど経っていないようだ。暑さで寝てしまったからだろうけれど、とても嫌なものを見たような気がする。マサキに話すと怒られそうだな。

 気持ちが落ち着いてきたため帰る準備をする。扇風機のコンセントを抜き、使ったタオルはカバンに仕舞う。戸締りを確認して部屋を出た。傾いていた太陽は沈み始め雲に隠れている。帰ったら先にシャワーを浴びようかな。


「ただいま」

 マサキが台所にいる僕に声をかける。振り返って答えた僕に微笑み、寝室へと向かう彼を僕は引き留めた。

「あの、まだ夕食ができていないので、お風呂を先にどうですか? 夜でも外は暑いし汗もかいたでしょうし」

「うん。じゃあ、そうしようかな。ゆっくり入ってくるね」

 言葉通り普段よりは長く風呂に入ったようで、マサキが再び台所に来たときには料理はちょうどよく冷めていた。

「ごちそうさまでした」

 食器を流しに置いた後、いつものようにお茶を飲む。最近は麦茶が多い。マサキの話を聞いていると、途中で彼は僕をじっと見た。顔色を窺うようにこちらをのぞき込む。

「ユキさん、今日少し体調が悪かったりする? 片づけはしておくから先に休んだらどうかな」

「え? いや、大丈夫ですよ」

 確かに気怠さを感じるが僕は何でもないように笑う。マサキは困ったような顔をしながらも、ひとまずは退いてくれた。僕は少し申し訳ないような気持ちになりつつ、マサキの話を促した。

 やがてマサキが僕に話を振る。今日は何かあった? と。

「今日は帰りに、換気のために部屋に行っていました」

 暑さで寝てしまったことを伏せて話す。

「とくに先月と変わりなかったので良かったです」

 当たり障りのないように話しているつもりだったが、マサキの表情が硬い。何か変なことでも言ってしまっただろうか。どうしようかと考えていると、マサキが口を開いた。

「部屋の換気、僕が行こうか?」

 唐突な申し出に驚いていると、マサキが付け足す。

「あっ、急にこんなこと言ってごめんね。その、もし部屋に行くのが負担に思うなら、僕が代わりに行くこともできるよ」

 マサキが何を気にしているのかがわからず困惑する。

 部屋に行くのが負担? 別にそんなことはないけれど。熱中症になりかけたことは話していないし。ふと思いついて彼の考えを否定する。

「体調が悪くなったのは部屋に行ったからじゃないですよ。その、換気をしている間に寝てしまって……」

 違っているかもしれないが、僕が部屋に行くことをマサキが心配しているようなことは先月もあったような気がする。

「あ、そうだったんだ。ごめんね、勘違いしてて。それはそうと、この暑い中で寝るのは熱中症になるかもしれないから、気を付けてね」

「そうですよね、気を付けます」

 あははと笑う。そういわれると思って隠そうとしていたのにな。

 話が終わり台所に向かおうとすると、マサキに止められた。僕が大丈夫だと言っても譲らない。たまには手伝わせてと言われ、イスに戻される。僕らの約束からいえば手伝うっておかしな話だ。でも熱中症になりかけたことがばれてしまった以上、マサキがそういって譲らないことは薄々分かっていた。諦めてイスに座り、流しに立つマサキの横顔を見る。

 どうして僕が部屋に行くことを負担だと思ったのだろう。

 僕がマサキのことをあまり知らないように、マサキもユキのことをそれほど知らないのだろうか。それとも僕が知らないユキのことを知っているから、僕とのずれが生じるのかな。本当に勘違いだということもあり得るけれど。なんにせよ、マサキが心配してくれたことははっきりしている。

 優しい人だな。ユキにも優しくしてくれるかな。

 洗い物が終わったマサキが戻ってくる。ありがとうございますと伝えて微笑むと、マサキも嬉しそうに笑った。



 8 夜の迎え


「遊びに行くの楽しみですね!」

「そうだね」

 湿度の高い夜道を並んで歩きながら北島さんがにっこりと笑う。今日は思いのほか忙しく、店を出た後で服を見に行く日を決めた。僕と北島さんの休みはあまり重ならないが、たまたま北島さんの午後の講義が休講する日と僕の空いている日が同じだったため、彼女のその日の講義終わりに出かけることになった。

 初めは適当に相槌を打っていただけだったのに、この頃は僕からも話すようになった気がするなと時々口調が崩れる北島さんを見て思う。

 予定が決まったため、また他愛のないことを話しながら交差点まで歩く。日付は変わりいつもより遅い時間だからか、たまに通る車も今日はほとんど見ない。歩道脇の草木や住宅の庭からかすかに生き物の気配を感じるだけで、とても静かだ。

 ヴー、ヴー、ヴー。

 振動音が僕のカバンから聞こえる。スマートフォンを取り出し画面を確認した。まぶしさに目を細めながら見ると電話の着信のようだ。表示された名前はマサキのもの。驚きつつ北島さんに断って電話に出る。

「も、もしもし、マサキさん?」

『急に連絡してごめんね、ユキさん。帰りが遅いからちょっと気になって。いま近くのコンビニにいるんだけど、もう通り過ぎたかな? もしまだだったら、そっちの道から帰ってきてほしいな』

「あっわかりました」

『うん、じゃあまた』

 マサキが電話してくることは初めてで、疑問を感じながらスマートフォンをしまう。夜が遅いことは伝えているし、今日以外の日は電話なんてしなかったのにな。

「ユキさん?」

 少しぼーっとしていると北島さんに声をかけられた。はっとして彼女の顔を見る。

「ああ、ごめん。話、途中になっちゃって」

「いえ、大丈夫です。電話、恋人とかですか?」

「恋人じゃないよ。うーん、こっちに来てからお世話になっている親戚の人で、保護者替わりかな」

「そうなんですね。ユキさんって出身はこっちじゃないんでしたっけ」

「うん、大学からだね」

 そこから地元の話になり、特産品などの話をしているとあの交差点に出た。北島さんが残念そうにする。そんな北島さんの様子を若干うれしく感じながら、帰りを促す。さすがに夜が遅い。

「それじゃあ気を付けてね」

「ユキさんも。約束、楽しみにしていますね!」

 北島さんの元気な声が響く。自転車はすぐに見えなくなった。


 一人になり周りがさらに静かに感じられるなか、マサキに言われた通りの道で帰る。とはいえ、夜であればいつも使う道だ。特に気にすることなく進む。

 やがてコンビニが見えてきた。街灯もあるけれど人の気配がする店の明かりは、やはりほっとする。駐車場に車は少なく入り口付近がよく見えた。脇に立っている人影を見つけ、駐車場を横切り近づく。マサキが着ているTシャツの色が見えるようになってから気づいた。なんて言えばいいんだろう。

 そうしているとマサキもこちらに気づいた。僕はぎこちなく笑う。

「おかえり」

「たっ、ただいま」

「何か買って帰る?」

「いえ、大丈夫です」

「そう、じゃあ帰ろうか」

 マサキが僕の隣に並ぶ。共に暮らし始めてから二人で外にいることはほとんどないため、少し変な感じだ。隣を歩くなんて家に案内された時くらいじゃないか?

「今日はどうして遅かったの?」

 会話をしたほうがいいのか、沈黙のままでいいのかと考えていると、マサキの方から話かけてきた。

「常連さんが店長と話し込んでいて。他にお客さんがいたのもあって、店を閉めるのが閉店時間より遅くなったんです」

「そっか。お疲れさま」

「ありがとうございます。あの迎えに来てもらってなんですが、こんな時間まで起きていて大丈夫ですか?」

「うん、まぁ、何とかなるんじゃないかな? そんなに遅い時間でもないから」

「マサキさん言っていること矛盾してませんか?」

「そう? でも一日くらいなら大丈夫。あっユキさんは明日の朝ゆっくりしてね」

 マサキはとぼけるように笑って、僕には気にしないように言う。

 僕にするようにちゃんと自分のことも気にかけているんだろうか。マサキには心配されてばかりで、彼を心配することはあまりなかったのだなと思う。

 でも、どうして今日は来てくれたんだろう。

 電話を切った後に抱いた疑問が再び浮かぶ。明日も仕事なら多少僕の帰りが遅くとも気にするべきではないし、いつも通り寝ていれば気づくこともない。

 マサキを見上げる。ちょうど灯りを通り過ぎたところで、彼の顔はよく見えない。

「マサキさん。今日はどうして迎えに来てくれたんですか?」

「いつもより遅いから心配になったんだよ」

 決まった台詞のように言ってから、マサキは口を閉じる。しばらくして付け足した。

「本当はちょっと怖くなってね。ユキさんが何かに巻き込まれてないか、事故にあっていないかって。もともと目が冴えていたんだけど、そう思い始めると部屋にもいられなくなってね。電話が繋がるまでは、もうここにはいないんじゃないかとか考えていた」

「心配かけてすみません」

「ううん、僕の方こそごめん。心配もしたけど、それよりも自分の怖いって感情を優先したから」

 マサキの声はいつになく静かで、彼の方こそ消えてしまいそうな感じがした。普段のマサキは穏やかに笑っていて、こうした様子を見るのは初めてだ。感情の起伏が緩やかな人で僕にはそうした面を見せないと思っていた。彼にも恐れているものがある。かつてマサキにそうさせる何かがあったということなんだろうか。

「今日みたいに遅くなる時は連絡するようにしますね」

「うん、ありがとう」



 9 約束の日


 北島さんとの待ち合わせ場所から少し離れた陰の中で彼女を待つ。昼食後に待ち合わせ場所についてから、他の大学生も多く通るのではないかと思って離れたところへと移動した。今までユキの知り合いに出会わなかったのは、運が良かっただけだろう。

 北島さんを待ちながらこれからの時間、話が持つかどうか考える。店でいる時に北島さんが話に来るようになったとはいえ、今日はそれ以上に長く彼女といることになる。共通の話題など尽きてしまいそうだ。

 駅へと向かう人が増えてきたところで腕時計を見る。流れの中から北島さんを探していると、あたりを見渡している人がいた。パッと目が合い、彼女が腕を上げる。僕も小さくそれに応えようと手を挙げようとした。瞬間、彼女の姿が差し替えられた。明るい短髪にしっかりとした体格、グレーのTシャツの胸元にはシンプルなネックレスが光っている。

「お待たせしました!」

 目の前に来た北島さんが挨拶をする。僕は大して待っていなかったことを伝え、彼女を見る。ゆったりとした白いブラウスとデニム。大きなトートバッグは中身が軽いのか肩にかかる紐が浮いている。

 またか……。

「そういえば自転車はどうしたの?」

「大学に置いてきました。ここの駐輪場は有料なので」

 時刻表を確認して、北島さんの話を聞きながら電車が来るのを待った。


 ショッピングモールに着いてから、とりあえず前に僕が行ったところから見ていくことになった。店に並ぶ商品は変わっていないが、以前の僕が流すようにしか見ていなかったこともあり、北島さんの話を聞いていると別の店に来たような錯覚を覚える。

 おそらく基本的なことから話してもらっているのだろう。マネキンしか手本にしていなかった僕にとってはとてもありがたい。

「これとか、ふんわりしてて可愛いですよ」

 北島さんは話しながら時々これはどうかと提案してくる。初めて服の話をした日にスマートフォンで見せられたようなもの。いいなと思ったけれど、僕がそれを身に着けることは想像できない。

「可愛いけど……」

「やっぱりこういうのは見るだけの方が好きですか?」

 そう言うと北島さんは持っていたセットをかけ戻して店を見渡した。

「他のところを見ますか? 前に話していたシャツ系が多いところも、どこかにあったと思います」

 北島さんに任せきりになっているからか、もやもやしたものが胸に広がる。案内板を見て歩いていく背中を追いかけながら、胸に当てた手をぎゅっと握った。北島さんは親身になって考えてくれているのに僕は本当のことを言っていない。

 目的の店に入り、再び北島さんの説明を聞く。にこやかに話している北島さんの声が聞こえるけれど、その内容はところどころ流れてしまってよく分からない。目の前にある服を見る。さっきのものより可愛さは抑えているが、それでも女性的に思える。そう考えて僕は可笑しくなった。今身に着けている服の方がそう見えるだろうに。

「もう少しかっこよくしたいな……」

「え?」

「あ、いや、なんでも」

「イメチェンですか? いいですね。じゃあ、あっちのユニセックスな服を見に行きましょう!」

 口をついて出た言葉を拾われどきりとしたが、北島さんの反応は好意的で、むしろさらに楽しそうにすら見える。僕はびっくりしながら彼女についていく。

 歩いているといつの間にか胸のもやもやは消え、店に入ってからの北島さんの話もちゃんと聞こえる。それからは一緒になって考え、数着分の服を買うことにした。会計を済ませ、後ろで待っていた北島さんにお礼を言う。

「服、一緒に見てくれてありがとう」

「いえいえ! 私も楽しかったですから。それに格好いいユキさんも見られてよかったです」

 にこにこと北島さんは笑う。僕はもう一度お礼を言った。格好いいという言葉は本音でなくとも嬉しい。それに一人だと、きっと迷った末に初めの店のマネキンと同じものを買っていたかもしれないから。

 二時間ほど歩き回っていたため帰る前に少し休憩することにした。軽食店に入り、注文を済ませる。カップを持ってテーブル席に座り、イスに身体を預けたあと二人して息を吐く。北島さんと僕は顔を見合わせて笑った。

「あの、ユキさん。少し聞いてもいいですか?」

 北島さんがすっと真面目な顔になって遠慮がちに聞いてくる。

「休学しているんですよね? えっと、店長から聞いて。その、いつまでなんですか」

「いつまでかはまだ決めてないかな。とりあえず今期だけにしているけど、伸ばすかもしれない」

「そうなんですね。休学の理由って聞いても大丈夫ですか?」

「大丈夫だよ。去年の終わりあたりから体調を崩してね。ちょっと通えなくなって。今は元気だけど。それにもともとお金に余裕がなかったから、それもあるかな」

 言っていることは間違っていない。でも僕が経験したことと、北島さんが想像したことはかなり違うんだろう。そう思うとなぜか寂しさを感じた。

「大学のことで困っていることでもあるの?」

「いえ、そうじゃないです。もしユキさんが復学したら、学内でお話しすることもできるのかなって思って。そう何度もお店に遊びに行くわけにもいかないので」

「なるほど。まあ店にお客さんとしてくる分には問題ないけどね」

「それはそうですけど」

 北島さんは何か言いたげに頬を膨らませる。僕が働いているときに遊びに行くことを多少は気にしていたようだ。

「あの、これも聞いていいのかわからないんですけど、前に電話していた親戚の人ってどんな人ですか? ダメだったらすみません」

 少し驚きながら北島さんに大丈夫だと答える。マサキのことを聞かれるとは思っていなかった。前はなんて説明したっけ?

「どんな人? うーん、とても優しい人かな。あとはたぶん真面目な人」

「たぶんなんですね、そこ。大学からお世話になっているって言ってましたけど、仲はいいんですか?」

「悪くはないよ。すごく仲がいいってこともないけど。そんなに離れていないけど年の差もあるしね」

「やっぱり親の方が仲良かったりしますよね。その人は何歳なんですか?」

「詳しくは知らないけど、まだ三十代だと思うよ」

「親戚の人って聞いて、もっと年上の人だと思ってました。でも少なくとも十歳は違うんですよね。それくらいの人と暮らすのは親戚といってもなんだか想像つかないです」

「慣れればどうということはないよ」

 北島さんはそういうものなのかなと首をかしげる。そのあとも僕やマサキについていくつか聞かれたが、僕はずいぶん前にあらかじめ考えていた設定を思い出しながら答えた。

 話しているとカップの中身がなくなるのも早い。家族について北島さんの話がひと段落着き、帰りの電車にちょうどいい時間になったため僕と北島さんは席を立った。


「今日は付き合ってくれてありがとう。おかげで新しい服を買うことができた。本当にありがとう」

「いえ、私から誘ったので。服を決めることができてよかったです。またいつか遊びに行きましょうね」

 にっこり笑う北島さんを見て僕も笑顔になる。彼女が誘ってくれて本当に良かった。またこうして出かける時があればいいなと僕も思う。自転車を取りに一度、大学に戻るという北島さんに手を振って、僕も家へと帰る。こんなに楽しい気分でいるのはいつぶりだろう。何でもない帰り道が夕焼けとは違う光を放っているような気がする。

 そうした僕の心とは対照に子どもの泣く声が聞こえた。歩みを緩め、あたりを見渡す。少し先にある小さな公園のベンチに泣いている女の子が座っていた。女の子は小学生くらいの見た目で、公園に人は他にいないようだ。どうしようと考える前に胸をぐっと掴まれたような感覚に襲われる。

 早くそばに行って抱きしめたい。慰めないと。助けなきゃ!

 その強い衝動に一瞬前の楽しい気分はかき消され、彼女を助けたい思いに飲み込まれる。それなのに足は一歩も前に進まない。女の子が変わらず泣いている姿だけがはっきりと目に映る。

(もっと可愛い良い子なら……もっとちゃんと自分を信じられたなら……)

 声が聞こえる。頭の中で聞こえたのか、あの女の子から聞こえたのかはわからない。どちらでもあるようにも思えた。

 すっと力が抜ける。女の子を慰めるにしてもどうすればいい。僕は今まで小さな子供と接したことがない。知らない人に話しかけられても怖がらせてしまうだろう。

 こうしている間にも徐々に日は傾き、空の色は一瞬一瞬で変わっていく。奥の十字路にライトを点滅させ右折のタイミングをうかがう車が一台、周りにある家の明かりが先ほどよりも強く感じられた。女の子の姿が暗闇に紛れそうになる。街灯はまだ点灯しない。

「またここにいて! もうご飯の時間だから帰るよ!」

 別のところから入ってきたのか、公園の奥から中学生くらいの子が現れた。その子は女の子の前にしゃがみ込み、何度か話しかける。女の子も初めは首を振っていたが、そのうち小さく頷くようになり、しばらくすると二人は手をつないで帰っていった。

 音量の小さい映像を集中して観ているような感覚は、全身をぱっと照らされたことによって消えた。僕はライトを低くした車が通り過ぎていくのを見送って、帰る方向に身体を戻す。街灯は点灯し、十字路を行き交う車のほとんどがライトをつけている。いつの間にかあたりはとても暗くなっていた。


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