空白に願う

沙夜

第1話

 1 今の生活


「ありがとうございましたー」

 カランカランとドアベルが鳴り、先ほど会計を済ませたお客さんを見送った。レジ横の時計をちらりと見て、三時から数分すぎていることを確認する。

 今日は早めに帰る人たちでよかったな。特に用事はないけれど早くに帰れるほうがいい。

 店の外に出て「open」から「closed」へと扉札をかけ替える。入り口わきのメニューを書いた看板は、内容を夜間営業のものに書き換えるために店の中へもっていく。看板をレジ台に立てかけ、テーブルに残っていたグラスと皿を厨房に運んだ。

「店長、外閉めましたよ」

「はーい……」

 店長は冷蔵庫内の在庫を確認していたようで、声だけの返事が返ってきた。

 洗い物を済ませ、テーブルを拭いていると、厨房から出てきた店長が話しかけてきた。

「ユキちゃん、夜のことなんだけど。新しいアルバイトの人が決まったよ」

「そういえばこの間、面接するって言ってましたね」

「そうそう。来週から来てもらうことになったから、ユキちゃんのシフトはそのままでお願い。かぶってる日はいろいろと教えてあげて」

「分かりました」

「北島さんっていうんだけど、西川君と同じ大学なんだって。ユキちゃんもそうだったよね」

 雑巾に持ち替え椅子を拭いていた手が止まり、大学のことを思い出す。時々通る正門から見る大学。

「ええ、まぁ」

「あそこ近いからねー。学生のお客さんもそこそこいるし」

「丁度いいんでしょうね」

「だろうね。それから学科とかは詳しく聞かなかったけど、大学のことも教えてあげたらどうかな? 北島さん一年生らしいから」

「そうなんですね、でも教えられることってありますかね?」

 適当に笑うと、店長は困ったような顔をした。

 箒を取りに行くとそこで会話は終了し、店長は手元のメモ用紙に視線を落とした。数えていた在庫管理のものだろう。

 同じ大学、か。掃き掃除も終わり道具を片付けながら考える。僕がその北島さんに教えられることなんてあるのだろうか。


 1-2


 制服であるエプロンをロッカーに仕舞って休憩室から出る。店長はまだ店で夜の仕込みをしているはずだ。いつものことだけれど一人で大変だなと思う。

 そっと裏口から出ると、きゅうと腹が鳴った。

 昼食は何にしよう。夕食も考えないと。

 家に何があったか思い出す。朝確認したとき、今日は買い物には行かなくてもいいと思ったはず。そうだ、まだサラダが残っていたから食パンと挟んで食べよう。

 鍵をあけて、ただいまとつぶやく。自分が帰るときに答える声はない。手を洗いさっそくサンドイッチを作る。ついでに冷蔵庫の中を確認した。

 野菜のはみ出た不格好なサンドイッチがのった皿を持って移動し、テレビを流しながら冷蔵庫の中身で作れる料理を検索する。料理をするのは苦ではないけれど、作れるものが少ないため時々困る。こういう時マサキはあまり料理にうるさくなくて助かる。食事にはうるさいと思うけれど。

 空腹が満たされて落ち着いてきた。まだ四時過ぎだけど今日は先に作ってしまおう。


 使いかけの野菜たちをまな板に転がす。小さくすることを意識して切る。気を抜くといつもゴロゴロと大きな塊になってしまう。

 店で初めて調理を手伝ったとき、店長に指摘されたっけ。

(もっと小さく切ってね、久しぶりだからかもしれないけど)

 あの時は少し焦った。まだ料理自体慣れていなかったけど、性分なのか、小さく切ることは今でもむずかしい。

 アルバイトを始めた時はどうだっただろう。同じように言われた? いや、丁寧にやっていたかもしれない。初めてのアルバイトだったから。緊張していたかな、人と話すことは苦手だったから緊張してそうだな。

 数秒の間、手を止め包丁の背を見つめる。口元がかすかに緩んだ。よく思い出せない。

 切るたびにまな板がなる。切った野菜は一度ボウルに入れ、包丁でざっと流すように思考を変える。

 その北島さんもアルバイトは初めてなんだろうか。教えるってどうすればいいんだろう。そもそも夜に入るのは久しぶりだな。ちゃんと思い出しておかないと。あとで紙に書き出そう。そうしたら教えられるかな……。

 ふと染みついた言葉が浮かぶ。

(ユキなら、どうするのかな)

 ユキなら初対面の人間にも、にこやかに接するだろう。丁寧に教えて、それなりに仲良くなって、アルバイト中は何事もなく終わるだろう。

 大丈夫、いつもと同じようにすればいい。適当に笑って、踏み込まない。

 初めての相手でも。


 1-3


 かちゃりと火を止めて、鍋に蓋をする。流しに置かれたボウルなどを洗う。手を拭いてリビングに目を向けた。

 筆記用具は自分のものを使っているけど、紙はどこに置いてあっただろう。家事であまり使わないものは、どこにあるのかまだ把握しきれていない。

 リビングの棚をざっと見ていくが、使ってよさそうなものは見つからなかった。

 寝室だったかな。

 部屋を移動し、マサキの棚や机を見ていく。見てはいけないとは言われていないが、プライバシーにかかわるし、それ以前に知ろうとは思わなかったため、しっかりとみるのはたぶん初めてだ。仕事に関するものや個人の趣味らしき本や印刷物がいくつか置いてある。白紙や裏地の使えそうなものはなさそうだ。

 自分のスペースに向き直り、少しだけ持ってきているノートとスケッチブックから使えそうなページを探す。そうしてようやく見つけた一枚を破りとった。

 筆記用具と破ったページを持ってリビングに戻る。紙に時間を軸にした大まかな項目を作る。少しの間、目を閉じ、夜間営業のことを思い出した。


 必要な作業内容のほかに、自分が気を付けたいことも書いたため、紙は文字で埋まってしまった。明るいからと電気を消していた室内はもう暗く、白い窓がまぶしい。

 立ち上がり電気をつける。ぱっと明るくなった部屋を見渡し、さっきまでのうす暗さを知った。窓際にいき、カーテンを閉めようと外を見る。それでも外はまだ明るい。

 日が長くなっている。あの部屋でいる時は真っ暗だったのに。

 やるべきことをこなすため。帰る時間は遅く、早くても部屋では食事をして体を休めるだけだった。本当はほかにも何かしていたと思うけれど、あまり覚えてない。

 今も変わらないけど。

 意識を窓の外に戻すと、見慣れてきた姿が見えた。

 もうそんな時間か。でも、今日は少し早い気がする。

 カーテンを閉め、テーブルの上を片付ける。時計を見ると七時までまだ時間がある。やっぱり、いつもより早く帰ってきているようだ。


「おかえりなさい」

「ああ、ただいま」

 このやり取りの時、マサキは穏やかに笑う。もともと穏やかな人だと思っているけれど、ほかの会話よりもそう見える気がする。

「今日は早いですけど、すぐ夕食にしますか?」

「そうだね、そうしようかな」

 マサキの返答を聞いて鍋を温めなおしに行く。マサキは着替えるために寝室へ行った。

 温め終わったものを器によそう。自分の分だけをテーブルに運んだ。この頃はマサキが食べるだいたいの量がわかってきたけれど、その時々の空腹度合いによるだろうし、そこまでする理由はない。初めは〈らしくない〉かなと思っていたが、特に何か言われることはなかった。

 マサキが着替えて戻ってきた。テーブルにある僕の器をちらりと見ると、鍋のほうに向かった。

「今日は同僚たちが食事をする予定だったらしくてね。みんなして早くに上がるから、それに倣って帰ってきたんだ」

 マサキは早くに帰ってきた理由を独り言のように話す。

「なんで行かなかったんですか?」

「それを知ったのが今日の昼休みだったからね。連絡してもよかったけど、用事があるなら、ちゃんと言ってからにしたいから」

 こちらに歩きながら、僕の目を見る。そう言われて育ったのか、この人はよく、人の目をじっと見ることがある。

「いただきます」

 そうして席に着くと、マサキは静かに言って食べ始めた。僕も箸をとる。

 しばらくの間、黙々と食べる。咀嚼音とテーブルに戻された器が立てる音のほかはなく、耳をすませば時計の針の音も聞こえてきそうだ。僕らの食事には会話がない。

 ユキも食べる時にあまり話さない人だったと思うけれど、店で働いているときに見る人々はそうではない人が多かった。本来、食事とは賑やかなものなのだろうと思ったものだ。

 マサキはどちらなのだろう。彼は僕らに合わせているのだろうか。

 話さないからか、目を合わせられることもない。僕が顔を上げられないからかもしれないけれど。

 沈黙は穏やかなもので、いやではない。ただマサキが何を思っているかと考えると少し居心地が悪いような気もする。


 やがて食べ終わり、食器を流しに置くついでにお茶を入れる。今度は二人分。

 テーブルに戻り、先に座っているマサキに差し出した。

「ありがとう」

 お茶を飲みながらその日のことを互いに報告する。食後のこの時間はどちらが言い出したわけでもなく、いつの間にか始まった。

「そういえば前に話していた来週の夜なんですけど」

「人が足りなくて、ヘルプで入ったって言っていたこと?」

「はい。新しくアルバイトが決まったらしくて。でも、そのままサポートしてほしいと言われたので、やっぱり遅くなります」

「わかった。昼からの日は食事を自分でするから必要ないよ。帰りはひとりで大丈夫?」

 夜の時間に入ると、帰るころには日付が変わっていることもある。以前は夜に入ってばかりいたため、夜中のあの独特な雰囲気にも慣れている。

「大丈夫です」

 マサキは少し考えていたが、数秒ののち頷いた。

「そっか。もし何かあったら連絡して。迎えに行くから」

「大丈夫ですよ。それに、私は次の日休みにしてもらってますけど、マサキさんは仕事がありますよね? 夜が遅いと大変じゃないですか」

 ごまかすように言う。マサキがそれを苦としないだろうことは分かっているけど。

「まぁ何かあったら言ってね」

 マサキは穏やかに笑うと、席を立った。

 何かあれば連絡する。初めに言われた約束のひとつだ。

 立ち上がりグラスをもって流しに向かう。洗い物と翌朝の下ごしらえを済ませ、台所を後にした。マサキは寝室で何か作業をしているのだろう。食後はいつも一時間程度こもって、持ち帰った資料の整理か読書をしている。

 僕は特にすることもなく、テレビを流した。



 2 夢‐部屋の前で


 柔らかな光が満ちている空間に僕は立っている。左右はとても長い廊下が続き、その先は薄暗くて見えない。目の前にはあの部屋の扉がある。

 ここにはユキがいる、はずだ。

 この扉は重く開けられない。いつやってきても扉が開いていることはなく、なんとなく気配を感じるだけ。それでも僕はユキに向かって話しかける。

「今日は少しだけ話題があるよ。あの店に来週から新しい人が来るんだ。前に西川君が二か月くらいアルバイトに来られなくなるって話したよね。それで入った人なんだけど、僕らと同じ大学に通っているらしいよ。一年生だって聞いた。ああ、北島さんって名前でね、店長の話ぶりだと女の子みたいだ。色々教えてあげたらって言われた。教えるってどうすればいいんだろう。店の作業ならまだしも、大学のことは分からないから」

「それで少し思い出していたんだけど、ユキがあそこで働きだしたときってどうだったのかな。初めてで緊張していたのかなって考えたりしたんだ。その時はまだ人と話すことが苦手だったと思うから、すごいなって思う」

「僕は少し怖いんだ。北島さんのこと。ユキから預かっているものはだいたい見てきたけど、初めてなんだ、初めてユキを知らない人と接するんだ。ちゃんとユキのようにできるかな……」

「それから、今日はマサキさんが早くに帰ってきたんだ。他の人がみんな食事に出かけるからって。マサキさんも行ってくればよかったのにって思った。店でのことを話したら、食事や夜道のことで気を遣ってくれた。彼は優しいよ。少し心配性にも思えるけど。ユキもきっと」

「きっと楽しいものはたくさんあるよ。いつか自分で見たくなったらいって。それまで僕がいるから」

「それじゃあまた。そうだ、次は北島さんがどんな人か話に来るよ」



 3 初めての人


 夕方五時過ぎに店につく。最近はこの時間でも心なしか暑い。少し早めに来た僕は体の熱を冷ましながらシフト表を見た。今日は初めて北島さんと被る日だ。北島さんは昨日から入っていたらしい。しばらくしてから持ってきていた紙片を眺める。久しぶりだった夜間営業の時間に入るのも、今日で三日目。作業については問題ない。時刻を確認し、そろそろだとエプロンを手に取る。もう一度シフト表を見ようと視線を向けたのと同時に裏口で音がした。そして休憩室の扉が勢いよく開けられた。

 頬を上気させた〈北島さん〉は驚いたような表情だったが、少し間が空いた後、あわてて言った。

「は、初めまして! えっと、北島水緒といいます。今日はよろしくお願いします!」

 その勢いに圧倒されながら僕も自己紹介をする。とても急いでいたのだろう。彼女は息を整えると「確認もせずに入ってすみません」と謝った。

 いつの間にか彼女のものになったいたらしいロッカーを開けて準備を始める。制服はエプロンだけだが、急いできた彼女は身だしなみを整えるのに少しかかりそうだ。ハンドタオルで額の汗をぬぐっている。

「夕方になっても少し暑いですよね」

 僕が声をかけると北島さんは困ったように笑った。

「そうですね、すぐ汗をかいちゃいます。夏が近いですね」

「夏は嫌ですね、暑くて」

 北島さんは軽く同意しながら手を動かす。嗅ぎなれない制汗剤の香りがした。僕は一瞬感じた胸のもやを忘れ、エプロンを広げるとそっと隣をうかがった。

 彼女は手で首を押さえたあと、上から腕を回し背中側と胸元を触れていく。Tシャツの裾をまくると腕を上げ脇の下を、次に胸の中、最後に背中を手で押さえるようにする。そのたびに柔らかな肌が見え隠れする。黒いTシャツと相まってより白く見えた。汗はぬぐっても新たに水滴となって浮かび、それは首筋を流れ、ちらりと見える背中や胸元にじんわりとにじんでいた。

 僕ははっとして手元に視線を戻す。広げていたエプロンを腰に当てると指先は意識せずともあっという間にひもを結んだ。

「じゃあ先に行っていますね。急がなくても大丈夫ですから」


 3-2


 短い廊下を歩きながら胸部をなでる。遠く奥のほうに置いてきたものがかすかに疼いた。ふと調理場に店長の姿が見え、ぱっと顔を向ける。明るくあいさつをすると店長はいつものように陽気に返した。店長は僕の後に続く姿がないことに気が付き、首をかしげる。

「あれ? 北島さんは? 今日は一緒じゃなかったっけ」

「もう少ししたら来ると思います」

 北島さんが急いできたことを伝える。しばらくして彼女がやってくると店長はからかうように遅刻の理由を尋ねた。

 話す二人を笑って見ながらも体は特に考えることなく動き出す。いつも先にする物の確認や補充をやり始めてから、北島さんが新人であることを思い出した。僕は解放された北島さんを呼んで、消耗品の補充や飲み物について簡単に説明する。物の場所が覚えられればすぐにできる作業だ。そのほか口頭で大まかに伝えると北島さんは昨日のことを思い出していたのか、確かめるようにうなずいたり、はっとした表情になったりした。

 昼に仕舞われたメニュー看板をしゃがんで書き換える北島さんの背を見て、次は何をしてもらおうかと考える。慣れた作業を自分でするのではなく、他人に教えながら進めるというのは思いのほか難しい。

 ぼんやりと眺め見る北島さんの髪は長いわりに手入れが行き届いている。綺麗に編まれた黒髪は艶やかで、染めるとなると勿体ないという声を聞きそうだ。

 店長がこちらに向かってきたことに気が付き顔を上げる。店長はカウンター裏から身を乗り出し北島さんに声を掛けた。

「北島さん、それが終わったらこっちで調理してみようか」

「はい!」

 素早く返事をする北島さんを見て、店長がくすくすと笑う。

「緊張しなくても大丈夫だよ。すっごく簡単だから。ねえユキちゃん」

「そうですね、家の手伝いみたいな。包丁で切ることができれば問題ないと思うよ」

「あっだったら大丈夫そうです」

 そう言った北島さんが力を抜いて笑う。店長はうんうんと頷いて厨房へと戻っていった。北島さんは途中になっていたメニューを書き終えて、カラーペンを引き出しに戻す。立ち上がった彼女は行ってきますと一言告げると厨房へと小走りで向かい、残された僕はほかの作業を始めた。


 店内で一番正確な時計が六時を指す。看板を持ち北島さんを連れて店を開ける。僕が看板を立てている間に、北島さんが店の扉札をかけ替えた。中に戻ると店長が北島さんを手招きしている。そうして少しばかり黄ばんだコピー用紙を渡した。

「昨日渡し忘れていたんだけど、これ作業マニュアルだから一応読んでおいてね。すぐにはお客さんも来ないだろうから」

「わかりました」

 受け取りつつさっそく読み始めた彼女につられてマニュアルの陰を見る。店長は北島さんから僕に目を向け、懐かしむように言った。

「ユキちゃんも初めは真剣な顔してそれ読んでたよね」

「そうでしたっけ」

「そうだよ。ここ来て初めはわからないことがあるとすぐそれ読んでいたかな。聞いてくれればいいのに。まぁその時お客さんと話してたのかもしれないけど」

 店長が思い浮かべている情景を考える。

「……ありましたね! そんなこと。よく覚えてますね」

「たしか常連さんとも話してたんだよね。それに、似た状況だから思い出しやすいのかな」

「かもしれないですね」

 僕は笑ってやり過ごし、店長とともに再び北島さんのほうを見た。ユキもそうしていたのかと一瞬、想像する。

 ときどき北島さんの質問に答えながら、しばらく雑談をしていると、カランカランとドアベルが鳴った。

「いらっしゃいませーお好きな席へどうぞ」

 そう言ってお冷の準備をする。お客さんへの日替わりメニューの説明を北島さんにやってみてもらい、その後も彼女を隣に接客をした。


 3-3


「店長、お先に失礼します。お疲れさまです」

 事務室でノートに時刻を書き込んだ後、パソコンで作業していた店長に挨拶する。この時期だと来月のシフト表でも作っているのだろうか。

「はーい、お疲れさま。気をつけて帰ってね。北島さんもお疲れさま」

「はい、お疲れさまでした!」

 後ろから顔をのぞかせる北島さんは少し疲れている様子だったが、それでも元気に返事をする。その明るい性格に少し口元が緩んだ。

 裏口を閉め、北島さんに向き直る。

「北島さん、家はどのあたり? 暗いけど大丈夫かな」

「家は郵便局のあたりです。ここからはまぁ少し遠いですけど、自転車なので大丈夫ですよ」

 そういえば裏口の隣に自転車が見える。

「そっか。なら大丈夫かな。じゃあ気を付けてね」

「ありがとうございます。その、歩き、ですか?」

 北島さんがとぎれとぎれに言う。何か話しにくそうに見えるのは気のせいだろうか。僕がうなずき家の方向を話すと、途中まで一緒にどうですかと言われた。

 自転車を押す北島さんと並んで帰る。誰かと並んで歩くのは久しぶりだ。店では作業の話くらいしかできなかったため、改めて北島さんについて少し質問をした。アルバイトは初めてなのか、大学生活は慣れてきたか。相槌を打つだけで話が進んでいく。

 アルバイトは初めてですね。大学に入るまではできなかったので。ここにした理由ですか? 近いからって理由が一番ですけど、一回だけ食事したことがあって、お店の雰囲気とかいいなと思ったから、ですかね。えっと、たぶん〈西川さん〉が働いているときですね。ああ、店長から聞きました。店長っておしゃべりですよね。いろいろと話してくれて飽きないです。大学生活はまあまあですね。もともと地元なのであまり変わらないというか、高校が同じ友達も何人かいますし。想像していたよりずっと気楽に行ってます。課題とかはまだあんまり出てなくて、大変! って実感はないんですけど。やっぱり期末とかは忙しいですか? 

 僕は適当に返事をする。とった科目によるかな、それにそのうち慣れるよと。

 そうした話をしていると信号のある交差点に出た。北島さんがあっと声を上げて僕に確認する。

「えっと、ここを右に曲がるんですよね? 私はまっすぐなので」

 楽しかったですと笑顔で言われる。僕も同じ言葉を繰り返した。北島さんを照らしていた光が点滅する。北島さんはさっと自転車にまたがると、「お疲れさまです。気を付けて」と言って黒い背は夜に消えてしまった。


 3-4


 ぬるい湯を頭から浴びる。髪は流れに沿って頬や首に張り付き、耳は雨と似た音を拾う。湯と共に流れていく汗や疲れとは違い、思い出されたものは胸にこびりついて落とせない。さっきまで僕を映していた鏡は温度差で曇っている。肌色だけが変わらず残り、凹凸の有無まではわからない。

 そっと左胸に触れる。柔らかな感触。

 ぼんやりと夕方の北島さんのことを思い出した。汗をぬぐう彼女は僕のことを気にしていないようだった。無遠慮ではなかったけれど、それほど気にしない。

 それはなぜか。僕が彼女と同じだから。同じ〈女性〉だから。

 身体を見下ろし、視線と共に指でなぞる。胸、腹部、下腹部、臀部、腿。柔らかな印象を与えるだろう曲線。それらを鍛えていないからだと言われれば、そうなのかもしれない。

 それでも腿の先や下腹部にある内臓の機能がなければ。

 思い出したこの感覚を忘れるのは容易ではない。ずっと忙しく、気に掛けることなんてなかったのに。この自分の手で包めるようなささやかな乳房でも、平らにすることは難しい。

 でも。

「これはユキのものだから……」

 こんな違和感があっても、当然なんだ。

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