名もない気持ちでいられたら

ツリチヨ

名もない気持ちでいられたら

 狭くて薄暗い女子テニス部の部室。そこで過ごす時間が、美春みはるは嫌いではなかった。

 練習と片付けを終えたあと、部員たちはさっさと着替えて家路についてしまう。それは副部長である美春のことを避けているというわけではなく、美春に部誌の記入という仕事が残っているからだ。この仕事に時間をかけるため、部員たちには先に帰ってもらうことにしていた。


 部誌にはふたつの文字が連なっている。美春の丸っこい文字と、意外に端正な部長の文字だ。部誌は部長と副部長が日替わりで記入することになっている。

 美春はこの仕事が好きだった。大したことを書き込むわけではないが、黙々と記録をつけるような作業が好きなのだ。後から振り返ると、目に見える達成感を実感できる。

 そして、それ以上に楽しみにしているのが部長とやりとりできることだ。日替わりという性質から、自由記入のひとこと欄には交換日記のようなやりとりが生まれている。はじめは練習メニューや今後の課題などを書いていたのが、いつしか部活動とは関わりのない些細な話題が広がるようになった。テストの成績、新任教師の噂、家で飼っている犬……何度読み返しても嬉しくなる。目標のある練習とは違うあてのない散歩のようなものなのに、その喜びは具体的な達成よりも大きかった。


 ボールペンを片手にページを繰っていたら、不意に勢いよく扉が開かれた。驚きで美春の小さな肩が跳ねる。


「お、まだ残ってた」


 振り向けば、そこにいるのは部長の一愛ひよりだった。

 一愛は室内へと踏み込むと、迷うことなく自身のロッカーへ向かう。


「忘れ物?」

「うん。予備のラケット、クラブの方に持っていきたくて」


 実力の抜きん出ている一愛は、この冬から部活動だけでなく地元のスポーツクラブでもテニスをしている。もっと実力を高めて、全国出場を狙いたいのだという。


「日誌? そんなのサッと書いちゃいなよ」


 ラケットを引っ張り出す一愛の視線が、机の上に向けられた。開かれているのは今日ではなく、1週間ほど前のページだ。美春は慌ててページをめくった。


「ちょっと最近の練習振り返ってて」

「おお、えらーい。そんじゃあたしは先に帰るから、悪いけど鍵はお願いね」


 一愛の言う通りに急いで日誌を書き終えていれば、一緒に帰れたかもしれない。ありもしないたらればを想像したら、胸がちくりと痛んだ。

 美春が部誌を書く日は部員と帰らないのに対して、一愛はいつも部員と一緒に帰ることはなかった。彼女はいつも帰宅部の幼馴染と時間を合わせて下校している。今日だってそうだろう。


「ねえ」


 ドアノブを掴んだ一愛の背に、美春はとっさに声をかけた。


「大会、がんばってね」


 振り向いた一愛の顔には、呆れたような笑みが浮かんでいた。


「がんばろうね、でしょ。も出るんだから」


 あいまいな笑みで返事をすると、一愛は部室を出ていった。


『まみ』というのは美春のあだ名だ。フルネームの真宮まみや美春を縮めて『まみはる』だったのが、さらに縮められてこうなった。


 美春は机に顔を突っ伏した。誰の視線があるわけでもないが、表情は緩んだ笑顔になっているだろうと思うと恥ずかしい。

 一愛と言葉を交わしただけで、美春は浮ついた気持ちになってしまう。あだ名で呼ばれたとなればなおさらだ。

 この気持ちがどういうものなのか、美春にはよくわからない。


 みんな、こんなふうにどきどきするのかな。


 日誌に書かれた昨日の一愛の言葉をなぞりながら、美春はそんなことを思った。


 弱小の女子テニス部はブロック予選突破がせいぜいだが、その中でずば抜けて強い一愛は個人戦で関東大会出場を果たしている。美春程度では100回やって90回はストレートで負けることだろう。残りの10回も当然負けだ。

 そんな実力に裏打ちされて、一愛は同級生からの信頼があつく、後輩にも強い尊敬を寄せられている。もちろん、明るく快活な性格も理由のひとつだろう。

 自分の抱えるこの感情にも、尊敬や信頼と名付けられるのだろうか。


 美春を想像から引き戻したのは、部室の扉をノックする音だった。

 一愛が戻ってきたのかと思ったが、違う。一愛はわざわざノックなどしないだろう。


 恐る恐る扉を開けてみると、そこに立っているのは男子生徒だった。

 一愛でないのは案の定だったが、表情にこそ出さないものの落胆は拭えない。


 男子生徒は小柄な美春が見上げても首を痛くしない程度の背丈で、癖っ毛と大きな目のほかには取り立てるほどの特徴がない。ストレートな言い方をすれば、地味な部類だ。

 しかし、美春は彼のことを知っていた。細井ほそいあきら。男子テニス部所属の同級生で、部内ではあまり目立つ存在ではない。美春が男子テニス部員の名前を順番に言えと言われたら、細井は4番目か5番目くらいに挙がるだろう。テニスの実力もさほどでもなく、美春には勝ち越せるだろうが一愛には到底敵いはしない。


 ところが、この細井という男子はどうやら一愛に好意を抱いているらしい。

 もちろんそれは信頼でも尊敬でもなく、恋愛としての好意だ。


 本人は隠しているつもりらしいのだが、美春の目には明らかだった。なぜなら細井はポイント稼ぎなのかアピールなのか、なにかと一愛の目につこうと行動しているのだ。部間で伝えることがあれば部長や副部長でもないのに連絡係を買って出るし、練習中に一愛の視線があるとわかると目に見えてプレイに気合が入る。

 中でも美春が一番嫌だと思うのは、早めに朝練に来て部室近辺をうろつき、偶然を装って一愛に挨拶することだ。同じクラスなのだから朝練後に一緒に教室に向かうとか、放課後に一緒に部活に来るとか、もっと明確にアピールする機会があるはずなのに。照れているのか知らないが、いじましい姿が気にくわない。


 そもそも、一愛と細井なんて不釣り合い極まりない。

 片や、抜きん出た実力で皆を牽引けんいんする部長。片や、いてもいなくてもさほど変わらない部員その4。月とすっぽん。雲と泥。一愛に細井はふさわしくない。一愛にはもっといい相手がいるはずだ。せせこましいアピールに終始せず、芯が強くて思いやりのある人が。


 しかし、そんな細井がこんな時間に何の用だろうか。

 その面持ちは固く緊張している。まるで大会の試合前、いや、それ以上かもしれない。彼との付き合いは長くも深くもないが、尋常な気分ではないことは間違いない。美春の直感はひとつの答えを導き出した。

 いよいよ告白しに来たのだ。


 美春は思った。これまでのささやかに過ぎる積み重ねが告白に足るだけのアピールだと思っているのなら、それはスポイトで水を数滴垂らして水やりをしたと言い張るくらいの不遜だ。美春が一愛にストレートで負けるよりも高い確率で失恋するだろう。


 なんにせよ、ここに一愛はいない。細井のことはさっさと追い返すことにした。


「細井君、何か用事?」

「いや、用っつうか、鈴木すずきに伝えたいことがあって」

「一愛ちゃんならもう帰ったよ」

「あぁ、そっか……」


 ため息のような声音で細井は言った。落胆の中に少なからず安心も混じっているように見える。この様子だと、やはり告白なのだろう。


「伝言があるならわたしが伝えるよ」

「いや、いいよ。また今度にする。じゃあな」


 そう言って、細井は部室を後にする。

 扉が閉まると、窓の曇りガラスにぼんやりと映る制服姿があっという間に萎んでいく。これで細井の告白は1日か2日、あるいは、本人の度胸次第では限りなく先延ばしにされた。

 だが、それでいいのだろうか。


 美春の胸中に、にわかに不安が沸き起こる。

 もし、細井が再び意を決して告白したとき、一愛がそれに頷いたりしたら……いや、そんなことはあり得ない。しかしあり得ないにしても、告白された一愛に余計な物思いをさせてしまったら……それが大会に影響を及ぼしでもしたら……。

 ……違う、この不安はそんなものじゃない。

 この男が一愛のことを好いているというのが面白くない。あまつさえ、恋人になろうだなんて。


 この男の恋心は、今ここで叩き潰さないといけない。


 美春は部室の扉を勢いよく開いて飛び出すと、「待って」と声をかけた。

 立ち止まった細井に、美春は言う。


「一愛ちゃん、松本まつもとさんと付き合ってるんだって」


 細井はゆっくりと振り向いた。その表情は先ほどまでの緊張とは別の理由で強張こわばっている。困惑と動揺だ。


「……女子同士だろ」

「今どき、そういうのもあるよ」


 もっとも、一愛と幼馴染の松本みなみとの関係は“そういうの”ではない。美春はとっさに嘘をいた。

 ふたりの仲の良さは学年内でも広く知られているし、友達にランクがあるとするなら、ふたりにとってお互いは最上級の別格だろう。しかし、一愛と松本が付き合っているというのは女子テニス部内でお約束のジョークでしかない。一緒に帰ろうと一愛を誘った部員が断られるたびに「また彼女ですか」などと言ってからかうのだ。


「マジか……」


 しかし、細井はその嘘を真正面から受け止めて吞み込んでしまったらしい。お約束を知らないとはいえ、こうもあっさりと信用されるとは思っていなかった。「意外だな」「驚きだよ」などとつぶやいて心を揺さぶられているのを取り繕っているようだが、声の震えはまるで隠せていない。

 哀愁とともに縮む去りゆく背中は、『うなだれる』『肩を落とす』のあまりに見事な具体例だった。


 ひとまず危険は去った。

 美春は部室に戻ると、扉にもたれかかって崩れ落ちた。

 心臓の鼓動がうるさいくらいに響いている。胸が苦しい。ブレザーの胸元をぎゅっと握った。


 ……なんであんな嘘ついちゃったんだろう。


 美春は後悔していた。

 嘘を吐いたことへの罪悪感や、嘘がばれて責められるのではないかという不安。そして、嘘が広まったら一愛が奇異の目を向けられるのではないかと気が気でない。……それらもあるが、なによりも“そうであってほしくない”嘘を吐いてしまった。


 一愛と松本が付き合っている。


 それがもしも本当だったら、嫌だ。

 それは同性愛に対する忌避感ではない。好きな人に恋人がいたという、どうしようもない喪失感だ。


 気づいてしまったのだ。

 自分の抱える気持ちの名前に。

 自分は細井と同じだということに。


 美春は一愛に恋をしていた。

 一愛のことが好きだった。


 そして、


「一愛ちゃんに、ふさわしくない」

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