第5話

 第5話



「一人なんですけど。」

「それじゃあこちらのテーブルどうぞ!」


 仙波の隣の二人がけテーブルだった。案内されるがままに着席する。すぐにお冷がテーブルに置かれた。


「決まったらお呼びくださいね。」

「あ、天津飯と餃子を。」

「はーい。かしこまりました。天津飯と餃子ね!」


 女店員は厨房に向かって威勢よく声を上げると、他のテーブルに料理を配膳しにいった。店内は八割くらいが埋まっている。厨房には夫婦だろうか、60歳くらいの男女が忙しそうに中華鍋を振るっており、フロアはさっきの女性店員が一人で切り盛りしているようだ。キョロキョロと周りを見渡していると隣の仙波卓郎と目が合った。片手にグラスをもち、頬杖をついている。よく分からないが色っぽい。


「はじめて?」

「あ、はい。」

「だと思った。ここの餃子美味くないからな」


 厨房からうるさいよ!との怒声が聞こえたが、仙波はヘラヘラと笑いながらグラスを回している。


「一度稽古場にお邪魔させていただいた事があります。」

「覚えてるよ。追い出したやつだろう。」


 仙波卓郎が俺のことなんかを覚えていてくれているなんて。


「あの……」

「余計な事言っちゃいけないよ。ここで俺はただの飲兵衛の仙田爺さんなんだから。」


 仙田はちなみに本名な、と仙波は付け加えた。柔らかな口調だが、有無を言わさずに人を従わせる迫力がある。


「すみません……。」

「三八ちゃん、こちらに俺の奢りでビール一本差し上げて!」

「え、そんな!悪いですよ。」

「いいのいいの、口止め料なんだからさ。」


 女店員はビールを一本とグラスを持ってくる。


「大丈夫でした?」

「はい、頂戴します。」

「なんか、ごめんなさいね。」


 仙波はまたヘラヘラ笑いながらグラスを回している。女店員が瓶の栓を抜き、ビールをグラスに注いでくれた。


「ありがとうございます。」


 仙波と軽くグラスを合わせて、ビールを空きっ腹に注ぎ込んだ。乾いた体に染み渡り、ついつい声が出てしまう。店員がお通しにザーサイを持ってきた。ラー油をかけて口に放り込み、グニュグニュとしがんでまたビールで流し込む。


「いい飲みっぷりだね、奢った甲斐もあるやな。」

「仙ば……仙田さん、ありがとうございます。」


 酒は大して強くもないし、好きでもないが、この時ばかりはひどく美味く感じられた。疲れているのもあったし、何より仙波卓郎とサシでの奢りの酒だ。なんと気分が良いのだろう。自分のミーハーさに辟易とするが、喜ばしさの方が遥かに勝ってしまう。さんに芸事の悩みなど相談できないが、それでも良いじゃないか、それよりも貴重な体験をしているじゃないか、そう金色の液体が囁いてくる。あぁ、気分が良い、気分が良い。何かを話す。何を話しているのかはよく分からない。多分自分はテレビから流れてくるどうでもいいニュースについて仙波卓郎と話しているんだろう。あぁ、気分が良い、気分が良い。アルコールよ、このまま俺を何処かへ連れ出してくれーー


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「お客さん、どこかで見たと思ったら先週舞台に出てませんでした?」


 若い女店員が空になった天津飯と餃子の皿を片付けながら話しかけてきた。人がいい気分で飲んでいるのに。先週の舞台では急に増やした役に役者が捕まらず、仕方なく舞台に立っていたのであった。


「あぁ、ありがとうございます。」

「へえ、お兄ちゃん劇団やってんの!で、その芝居どうだったのよ。」


 仙波が白々しく女性店員に問いかける。


「山間の農村の話なんですよ。あたしも田舎の出だから、あるある、って感じで楽しかったですよ。」


 浅いところを話してくれている、と感じたが、悪い気はしない。このくらいの若い子のものの見方はそうだろう。 楽しんでくれたみたいで安心する。


「でもなんかすごくむず痒かったですね。」


 は?


「ん?どういうこと?おじいちゃんにきかせてごらん?」


 老人の目に好奇心の光が煌めいた。おい、やめろ答えるな。その爺さんは仙波卓郎なんだぞ。聞かせてくれるな。


「んー、上手く言えないんですけど……作演さんは恥ずかしがり屋さんなのかなって。」


 仙波卓郎がビールを吹き出し、大きな笑い声をあげた。


「あ、ごめんなさい、えらそうに。」

「いいよいいよ、もっと聞かせて欲しいな。」


 平静を装うが、苛立ちと動揺が合わさって心がぶくぶくと泡立ってしまっている。

 仙波はヒィヒィ言いながら呼吸を整えている。


「だって、だって、何かに隠れてずっとこっちを見てるくせに、見てないふりをするんです。何か欲しがってるみたいに。こちらと付かず離れずの距離を保って。手を伸ばせば届くのに。」


 知った風な口を聞く。一瞬で怒りが頭を支配した。


「口を開けてピーチクパーチク何かを欲しがってるのはお前たちだろう!?」


 店内が静まり返る。大声が出てしまった。自分でもその早さに驚く。


「いや、ごめん」


 観てくれた客に言い訳がましく怒声を浴びせるだなんて、なんて情けないやつなんだろうか。


「あたしは手を伸ばしてたんですよ!」


 予期せず女性店員が言い返してくる。俺より大きな声だ。今初めて気づいたが背が高い。170センチくらいはあるだろうか。声をあげた時に巻いていたバンダナが外れて纏められた髪が露出する。青みがかった様な黒髪だ。


「きっとあたしだけじゃない!客席のみんなが手を伸ばしてたんですよ!なのに、手を引いてくれなかったのはどっちなんですか!」

「自ら立てばいいだろう!自ら立って、一緒に歩いて欲しいんだよ!」


 ついつい言い返してしまう。丸裸の言葉を強要された。この娘は、さっきまで背の高さも感じさせなかったこの娘はいったいどこにこんな熱量を隠し持っていたのだろうか。そして彼女はそれをあっという間に取り出してみせた。


「立てないから!きっと何かが重くまとわりついてて、自分一人では立ち上がれないから、だから芝居を見るんでしょう?なんでそれをわかってくれないんですか?こんなにも立ち上がりたいのに、歩き出したいのに!なんですか、こっちをちらちら覗きながら勝手に期待して!もうらしい!」


 体の芯を撃ち抜く強い声。目には薄く涙を浮かべている。もうらしいとは彼女の故郷の言葉だろうか。


「あたしたちの手を引いてくださいよ。あなたたちにはそれができるんだから。」


 目が赤く光っている様に見えた。赤い光が収束してどんどんとその光量が鋭くなっていく。なんだかこの世のたくさんが馬鹿馬鹿しくなってきた。あ若々しい滾りが背骨を上がってくるのがわかる。プライドを、なさけなさを全て無視してこのまま滾りに身を任せてみようと思った。まるでティーンエイジャーのように。


「引いてやる!引いてやるさ!お前たちの手をいくらでも!どこへでも連れて行ってやる、だから……。」


 俺を一人にしないでくれ。その言葉を飲み込むだけの矜持が保たれていたことを俺は神に感謝した。


「連れて行ってください、あたしたちを。遠い世界に。」

「あら、入る劇団決まったの?」

「え?」


 厨房から女将さんが顔をのぞかせながらそう差し込んだ。目を丸くする俺と女店員。


「若いなぁ。」


 老俳優が言った。それはきっと俺にかけられた言葉だ。アラフォーはまだ若手だったらしい。恥ずかしい。顔が熱くなってくる。


「続けるしかないのよ。」


 老俳優は聞こえるか聞こえないかの声でそう言うと、グラスを傾けてビールの最後の一滴を舌で掬い取った。

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龍の棲む劇場(ハコ) バイカルマン @gasman0310

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