第4話
第四話
「星野さん、今日はありがとうございました。」
「俺ちょっと下北ぶらついていくわ。」
「わかりました、また連絡しますね。」
駅に向かって歩き出す松本を見送る。何度も振り返ってはこっちに手を振っている。インテリヤクザみたいな顔してるくせに人懐っこいやつだ。
松本とは逆方向にむかって歩き出す。あてもなくぶらつきたかった。ふと、ものを考えながら歩いても人にぶつかることがないことに気づく。東京に長く暮らすとそういう無駄なスキルばかりが育つ。肩をぶつけたことで生まれる出会いもあるだろうに。
先の公演は、ハチワレ第11回公演は、きっと失敗だったんだろう。収益こそなんとか僅かな赤字で済んだが、周りから評価されている気配もなく、出てくれた客演の役者たちも、最後まで作品にしっくりきていないようだった。手を抜いて作ったわけじゃない。自分の大切なものを、大切にしたいと思っているものを作品に詰め込んだつもりだ。でもそれはきっとみんなにとってはどうでもいいものだったんだろう。千秋楽の夜に客演してくれた女優のファンであろうおじさんからツイッターのDMが届いた。
「あの子の魅力が殺されていると感じました。役者はあなたの手足ではありません。」
勿論。その通り。あの子は普段は天真爛漫な笑顔と台詞で観客の目と耳を喜ばせているんだろう。言い返す言葉も無いのだが、
「僕ですら作品にとっての手足なんだ、ということはわかって欲しいです。」
と、そこまで返信を打って削除した。お前が書いて演出したんだろう、そう言われるだけだ。
ここ最近、いったい自分は何のために表現を行なっているのか考える。若い頃は自分の中から溢れ出す何かをありのまま表現してきたし、今でもそのつもりだが、何か……それは本当に自分のものなのかがわからなくなることがある。自分は大きな流れの中にある小石の一つで、自分の思考や判断なんてものは全てその流れに誘導されてのものなのではないか。自分の表現など何処にも存在しないのではないか。それが良いことなのかも、悪いことなのかも、抗いたいのか、このまま流されたいのかもわからない。ただずっと、モヤモヤとした何か、しこりの様なものを大事に持ち続けてしまっている。
どうしようもない思案にふけりながら数十分は歩いただろうか、目の前を何か羽虫の様なものが通り過ぎた。目線を上げると、街灯がパチパチと自分に近いところから順に点灯していく。気がつけば周りから人は消えていた。随分と駅から離れてしまったようだ。居酒屋や古着屋は見当たらず、閑静な住宅街が広がっているが、人の気配は無く、何の生活音も聞こえてこない。ただ、ジーーッという音が薄く聞こえる。出どころはわからない、虫の鳴くよな、もしくは自分の血液の流れる音のような……。風景がだんだんとモノクロめいたものに感じられてくる。貧血かとも思ったが、頭の中はクリアで、むしろいつもより呼吸は深く、落ち着いている。ふと、少し先に神社の鳥居がある事に気づいた。初詣に何度か訪れたことがある、北澤八幡宮だ。ここは下北沢の外れであるらしい。モノクロの世界に於いて、鳥居だけが赤く、まるで光っているように見える。この世のものとは思えない妖しくも美しい景色だ。いや、少し待って欲しい、北澤八幡宮の鳥居は、はたして赤かっただろうか……。その時、神社の中から赤い鳥居を潜って一人の老人が現れた。老人はこちらを一瞥するとひらりと踵を返し立ち去って行く。
「仙波卓郎だ。」
仙波卓郎。媒体を問わず広く活躍する大御所俳優で、齢80を越えても現役、劇団「東京砂漠」を率いて、演出をこなしながら自らも舞台に立つ、生ける伝説。一度、彼がイヨネスコの戯曲を上演した時に舞台監督に誘われ、演出部として稽古場に潜り込んだことがある。ただの読み合わせだったが、彼の言葉に魅了された。情報が鮮明に伝わってくるのに、まるで川の流れや樹々のさざめきの様に心地よく感じられ、そして気づいた時にはこちらのストレスの管理を握られている。俺は何も守る事ができず丸裸にされ、そしていとも容易く握りつぶされてしまった呆然と立ち尽くしていると彼は一言、
「君、目障りだ。出ていきなさい。」
俺は座組からあっさりと外され、以降の稽古に参加できなかったが、こんな俳優がいるのか、彼らはこんな事が出来るのか、と自らの俳優というものの捉え方を変えるに十分な衝撃を受けた。その仙波卓郎が今、目の前にいる。仙波なら、不世出の老俳優、仙波卓郎なら、このしこりの正体を知っているかもしれない。仙波は角を曲がって視界から消えようとしている。待ってくれ!僕は、僕達はいつまでこんなしこりを抱えながら生かねばならないんですか!
必死に追いかけたが、角を曲がった先にもう仙波卓郎の姿は無かった。モノクロの世界は気づけばその色を取り戻している。夕暮れの住宅街だ。学校帰りの高校生の姿が見える。家々からは夕餉の支度の香りがする。振り返ると先ほどまで煌々と赤く光り輝いていた鳥居は見当たらず、冷たい石でできた灰色の鳥居が聳え立っていた。……何か、幻を見せられたのかもしれない。俺はあの人が本物の妖精の王だと言われても信じるだろう。実際彼のやった夏の夜の夢のオーベロンは素晴らしかった訳だし。
彼の立ち去ったであろう方向へとぼとぼと歩き出す。丁度駅の方角だ。なんだかひどく疲れているし、腹も減っている。思えば今日はコーヒーを二杯飲んだだけだ。駅の周りで何か腹に詰めるかと
考えていると、中華料理屋の看板が目に入った。
「美亭。びてい?めいてい?」
中華でいいか。ここのチャーハンも赤かったりして。暖簾を潜り、引き戸を開ける。
「三八ちゃん、おじいちゃんビールもう一本飲みたいなぁー!」
オーベロンがいた。
「もう、仙田さんちょっと飲み過ぎですよ!」
「三八ちゃん、この通り!」
オーベロンが若い女性店員にテーブルに頭を擦り付けてビールのおかわりを懇願している。仙田さんと呼ばれているが間違いなく仙波卓郎だ。上下グレーのスウェットに、薄手のダウンベストというなんとも見窄らしい格好だが、間違いなく名優仙波卓郎だ。
「これで最後ですからね!」
女性店員は慣れた手つきで赤星の栓を抜き、仙波のテーブルに置く。仙波は手酌でそれをなみなみとグラスにそそぐと、口を置いたグラスに近づけてグラスから少しこぼれた泡を舐め取り、そのまま低い姿勢でグラスを傾け、ビールをずるずると啜った。なんと情けないビールの飲み方だろう。いけない、目があってしまった。
「おや、三八ちゃん、お客さんだよ。」
「え?あっ、ごめんなさい!いらっしゃいませー!」
なんだか、また妖精の世界に迷い込んだ様な心地がする。中華料理屋の中の赤い様々な意匠もまた、あの鳥居の様に光っているように感じられた。
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