第8話 弟/妹

 思案に深く沈んでいるようなその深い眼差しを見ながら話すのはいつも緊張した。

 けれどそれにも気付かないうちにいつしか慣れていくのかな、と思うと嬉しいような寂しいような気持ちがする。

 机に向かって座る彼に向き合うように、一列挟んで向かいの席に座って、わたしは彼の机に向かって振り返った姿勢で話した。

 椅子をずらして、体をねじるような姿勢。

 彼はまっすぐわたしのほうを見ているようでいて、まるでわたしの言葉そのものを見ているように、見られている感じがしない。

 さっと掃かれた眉の下にある切れ長の目。

 鼻筋の通った整った顔つきとともに、涼しげな表情に大きく寄与している引き結ばれた薄い唇。

 輪郭がみなわたしのそれよりも細く見えるほど、そこにちゃんといるか不安になるような存在感の男の子だ。

 影井先輩は、わたしが話し終えるとふむ、と考え巡らせるような顔をしてから言った。

「……すまん、なんの話だっけ?」

「えぇっ!? いまの話なにも聞いてくれてなかったんですか!?」

 ……あと、こういうことがよくある男の子。

「マジで申し訳ないんだが、反芻はんすう読書してたみたいなんだ」

 聞き覚えのない単語にわたしは思わずひっかかる。

「えっ、それ、なんですか……?」

「俺にはよくあることなんだが、考えごとをしてる時とかに、急にさっきまで読んでた本の内容が蘇ってきてな。だいたい一字一句を覚えちまってるから、もう一回本の内容が再生されてそれを読んでる」

「ええっ、よくあるんですかそれ……」

「気持ち悪いよな。すまん」

「気持ち悪いだなんて思いませんけど、人が話してるときはちゃんと聞いたほうがいいと思いますよ……?」

「おっしゃる通りだ。本当にすまんがもう一回話してくれるか?」

「わ、わかりました……大事な話ですから、しょうがないけど話しますね。もう一回だけですよ?」

「わかった。しっかり聞くよ」

 わたしは深呼吸して、さっきまでの少しだけ長くなってしまった話をもう一度繰り返すために口を開く。

 影井先輩もまた覚悟を決めたようにわたしにもう一度向き合って頷いた。

「……この前、高峰先輩たちと一緒に鍋パーティしたんですけど、そのときわたしがおうちのホットプレートを出そうとしてて、お母さんに送ってもらったばっかりのまだ新しいやつなんですけど、それが家庭用だったからちょっと重くて、いつも出すのに苦労するんですよね。そのときもひいひい言いながら運んでたら、さっきまで妹さんと楽しそうに話してたはずの高峰先輩がサッと現れて、わたしの持ってたホットプレートをさりげなく受け取ってテーブルまで運んでくれたんです! ふっとわたしの感じてたプレートの重みが消えて、顔を上げたら高峰先輩の顔がすっごく近くにあって……わたし、それだけでどきっとしちゃったんですけどっ! そのときのせりふがまたすごくて……高峰先輩ね、女の子にゃ重いだろ、ってそれだけ言ってさらっとプレート持ってっちゃったんですっ! わかりますっ!? 高峰先輩の力がふわっと私の手に加わって、あ、高峰先輩って力つよいんだ、ってそう思ったときにもすっごく、なんだかふわっとした気持ちになっちゃったのに、べつに気取ったりしないでわたしを手伝うことなんてなんでもないことみたいにしてくれて、でもすっごくよく気が付いてくれたからすぐに困ってるわたしに気付いてくれたわけで……もうっ、もうもうっ! すっごく、かっこよかったんですっ……! わかってくれますよねっ、影井先輩!?」

 今度こそ、という顔をして影井先輩を見ると、彼はまたわたしの話を丁寧に聞き取って深い考えに沈んだ顔をして、

「……あれ、俺またしてたのか!?」

 いたのかと思ったら何も聞いていなかった。

「ええ〜っ!? 二回もこんなことありますか!?」

「すまんっ……マジですまん」

 影井先輩は心から申し訳なさそうに頭を下げていた。

「なんでだろうな……さすがにここまで上の空になることはなかなかないんだが」

「はあ……影井先輩、もしかしたら疲れてるのかもしれませんから、今日はゆっくり休んでくださいね」

「ああ、そうするよ……」

 わたしたちは二人して何故か疲れ切ってしまっていた。

 いまどうしてこんな状況になっているかといえば、ひな先輩は図書委員の仕事で少し外しており、高峰先輩は生徒会から呼ばれているとかでいなかった。

 とはいえ一緒に帰る約束はしていたから、わたしと影井先輩だけが、二年生の教室でお留守番。

 やることもないので、世間話というか、わたしのこのまえのデートの話を聞いてもらっていた。

 いわゆる、恋バナ。

 影井先輩はあんまり聞いてくれないけど。

 そのときがらがらと音を立てて教室のドアが開いて、わたしたちしかいないこの部屋に入ってくる人があった。

 反応して顔を上げると、男の子だった。

 なんとなく見覚えのある顔。

 わたしと同じ一年生かな。

「……あ、影井さん。どもっす」

 彼はすらりとした長身で、思うより長い髪を後ろで結んでいたが、それがあっても男性的に見えた。

 しかし声は少し高く、ハスキーで、それでいてやはり覚えがある。

「ああ、遥くんか」

 高峰先輩が応える。

 遥……くん?

 わたしは少しずつ違和感を覚える。

 彼の顔をよく見ると思い出した。同じクラスの男の子だった。

「急に来てすいません。兄貴いませんか」

「ああ、高峰な……ってか、お前も高峰か」

「そうっすよ、はは」

 高峰先輩の名前が出る。

 お前も高峰?

「兄貴は生徒会に呼ばれたとかで席外してるぞ。なんかやらかしたんだろ」

「えっ、マジすか。あんな兄っすけど、問題は起こしたことないんだけどなあ」

 遥、くんと影井先輩は楽しそうに話している。

 わたしは思わず影井先輩に聞いた。

「す、すみません……そちらの方は?」

「ああ、悪い。面識なかったか。俺も最近知り合ったんだが、高峰の弟らしい」

「ども。っていうか、勧夕さんだよね? いちおう同じクラスなんだけど」

「えっ、すいませんっ!? わたし、あんまり男の子の友達っていないから……」

 慌てて謝ると、遥くんはいいよべつに、と応えてくれた。

 わたしはほっとしかけて、いやいや、と思い直す。

 高峰先輩の、弟?

「ああ、そういや勧夕はこのまえ高峰と飯食ったんだろ? その時は遥くんはいなかったのか?」

「え、ああ……え?」

 わたしはしどろもどろになって、遥くんを見た。

 ていうか影井先輩、なんだかんだちょっとは聞いてくれてたんだ。

 そうじゃなくてっ。

 影井先輩はわたしを見ているから、わたしだけが遥くんの目を見ている。

 影井先輩の後ろで、遥くんは少しだけ、よく見ていないとわからないくらいに、片目をぱちっと閉じて合図をした、ように見えた。

「キムチ鍋、ご馳走になったって兄貴が言ってたよ。すっごくおいしかったって」

「あ、そうなんですっ、くたくたの野菜とかお肉もよく味が染みておいしくてっ」

 わたしはなんとか会話を続ける。

 遥くんの助け舟のようなものに身を預けて、なんとか。

「ほう。この暑い季節にキムチ鍋とはオツなもんだね。俺もご相伴に与りたかったな」

「あっ、今度は影井先輩も来てくださいっ! そしたらまた、高峰先輩と一緒にご飯食べられますしっ!?」

「……俺を口実にすることに躊躇いがないな、勧夕。こいつは大物になるぞ」

「えっ!? どうもです……」

 わたしは思ったよりもテンパっていて、何を言っているかよくわからなくなってしまっていた。

「あ、そうだった。影井さん、また兄貴に伝言お願いしてもいいっすか」

「おう。それくらいはお安い御用だね」

「えっと……」

 影井先輩と遥くんが話しているあいだ、わたしはぐるぐると考える。

 高峰先輩にいたのって、弟さんだっけ。

 いまの話の流れからすると、というか目の前に見える現実からすれば、間違いなく高峰先輩にいるのは弟ということになる。

 でも、わたしが一緒にキムチ鍋を食べたのは妹さんだったような気がするのだ。

 ……わたしの記憶違い?

 いや、数日前のことをこんなに大胆に間違えることってある?

 そもそも、あのキムチ鍋パーティに至った経緯を思い出してみれば明確だ。

 わたしとひな先輩が二人でお泊まり会をしようとしていたあの日。

 わたしたちは高峰先輩が女の子と二人で腕を組んで歩いていたのを見つけたのだ。

 それで慌てて彼に声をかけたら、妹の遥さんだってわかって……。

 妹の遥さん、だよね?

「じゃ、俺は部活行きます」

「今日も頑張れよ」

「どもっす」

 は要件が終わったのか、教室から出て行こうとする。

 わたしが思わず引き止めて確認しようと腰を浮かせたところで。

「……あ、そうだ。勧夕さん」

「え!? はい……?」

 遥くんがわたしに逆に声をかけてきた。

 わたしは勢い余って大きな声で返事をしてしまい、影井先輩がびっくりしていた。

 遥くんは何を言うか迷った様子でふと考えるそぶりを見せて、それからようやく口を開いた。

「……やっぱ、クーラーかけて鍋ってのはちょっと不経済だと思うよ」

「え、あ、はい……」

 わたしは思わずそう答えた。

 ちょっとした沈黙が訪れて、わたしはやっと気がついた。

 あの日、クーラーをかけて鍋をしたなんて、わたしは影井先輩にも言ってない。

 高峰先輩や妹の遥さんがもし言ったのなら知っていてもおかしくないけれど、二人暮らしと言っていたし、別々に暮らしているなら弟さんといっても学年が違うから、そうそう話す機会はないはずで。

 つまり、これを知ってるということは、遥くんって……?

「……って、兄貴が言ってたな」

 そこで遥くんはそう付け足した。

 わたしはもうすっかりわからなくなってしまって、考えが回らなかった。

 そこでとりあえず応えた。

「高峰先輩……や、景一先輩にも怒られちゃったから、次は気をつけるね?」

「そっか、良かった。じゃ」

 そう言って遥くんは今度こそ本当に教室を出て行った。

 わたしは、本人こそ静かだったが、嵐にめちゃくちゃにされたみたいに心中は穏やかではなくなっていた。

 その様子を気取ってくれたのか、影井先輩がわたしに言う。

「……どうした、勧夕? 大丈夫か?」

「だ、大丈夫……だと思います、たぶん」

 その答えも要領を得ず。

 影井先輩のほうもつられて疑問符だらけのようになって、またわたしたちは教室で二人になった。

 今度は恋バナをするような余裕もわたしにはなくて。

 高峰先輩には弟、妹と二人いる?

 名前が同じハルカと聞こえたのはどういうこと?

 音が同じなだけで漢字が違うとか?

 でも、確か高峰先輩は妹の遥さんと二人暮らしと言っていたよね。

 もし三人兄妹なら、わざわざ弟さんとは別れて暮らしているのはなぜ?

「…………?」

 ひな先輩と高峰先輩が帰ってくるまでのしばらくのあいだ、わたしは漠然と遥くん/遥さんのことを思い出しながら、考えていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

親友ポジの俺がヒロインからモテすぎて困るんだが くすり @9sr

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ