拝啓

おっかさん、おとっつぁん。無事に相模さがみでお過ごしとの文が届いて、安心しております。

私は珊石先生の下で、日々勉学に勤しんでおります。

まだ慣れないこともありますが、たくさんの書物に囲まれる生活は充実していて、好きなことをさせてくれたおっかさんとおとっつぁんには感謝してもしきれません。

ことにおっかさんは、恩人に会うことができて何よりです。

しばらく会えていませんが、相模の旅を満喫してください。

おっかさんとおとっつぁんの帰りを待っています。

静介






静介は手習い所に通い出して間もなく、珊石に才を見出され、幼い内から珊石の元で暮らし、指南を受けていた。

母も同じく珊石に学び、克草塾の分塾であるしずか堂で、文字の読み書きができない者たちのために手習い師匠をしている。


静介が珊石の下で学んでいるのは、母の伝手つてがあったというわけではなく、はじめに静介の賢さに気づいたのは、静介の通っていた手習い所の師匠であり、その手習い師匠が珊石と知り合いで、珊石に静介を紹介したという経緯があった。


数え年で七つにして、静介は親元を離れていた。


静介は珊石に自身の元で学ぶよう話を持ち掛けられたときに、真っ先に母親に相談した。


それというのも、父親は道場で師範代をしていて、自分が勉学の道に進むと言えば、父は哀しむだろうと考えたからである。

しかし剣術にはまったく興味がなく、道場に通う気もしなければ、書物を読んでいる方が性に合っていると自覚していた。


両親の落胆する姿を恐れて、それまで正直に打ち明けることができなかったのだ。


「静介は、静介のやりたいことを選んでいいのよ。

おとっつぁんもきっと、同じ思いだから」


母はそう言って、父に相談してくれた。


静介が思っていたよりもあっさりと、むしろ母と同じような道を選んでくれたことに、父は喜んでくれたのだった。


静介に好きな道を選ばせたのは、勝手な運命に振り回された父の願いがあったからである。






雪と辰巳、二人は鶴岡八幡宮の舞殿にいた。


二人が江戸を発ったのは一月前である。

約一ヵ月間にも渡り、竜次とお政夫婦が営む相模の商家に長逗留していた。


竜次とお政は、雪の恩人である。


お政が相模へ行ってしまった後も、雪は文のやり取りをしていたのだが、文字を書けなかった雪はいつも代筆を頼んでいたところを、珊石に学び、自力で文字を書けるようになったのは、数年も前のことだ。


静介が家を出て、手のかからなくなったときに、雪が会いに行きたいとお政に申し出たところ、両手を上げて受け入れたお政は、しばらく自身の家に雪たちを泊めてくれたのであった。


雪と辰巳が江戸に帰る前に立ち寄ったのが、鶴岡八幡宮である。


「ここで、静御前が舞ったのですね」


平安の御代みよに存在した静御前は、かの源義経の愛妾だった。

鎌倉は、義経が敵対した兄の頼朝の本拠地であり、敵方に捕らえられた静御前が勇敢にも、敵前で義経を想う舞いを披露したのが、この鶴岡八幡宮だと伝えられている。


雪は静御前が敬愛していて、自身が手習い師匠をしている塾の名前にも、静と名付けるくらいであった。


鶴岡八幡宮に植わる桜はちょうど見頃で、静御前が舞うに相応しい舞台である。


義経は奥州の地で果て、静御前がその後どうなったのかは、確たる伝承がない。

愛する人と死別したという事実だけが、はっきりとしている。


そんな静御前に思いを馳せてか、辰巳が神妙な面持ちで言った。


「俺は雪と一緒にいたい。

だけど、俺は地獄に行くだろうから、今生しか一緒にいられねぇな」


消えない過去を背負っている辰巳に、雪はそっと寄り添った。


「地獄でも、私は辰巳さんと一緒にいるつもりです。

いついつまでも……」


雪の想いに触れて、辰巳は思わず雪の手を握りしめた。


二人はその手が離れないように取り合って、静御前の幻影を舞台に見ていた。

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まつとし聞かば 夏野 @cherie7238

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