十五

「雪はいいのよ、私たちがやるから」


「動いていた方が楽なんです。紫乃さんもお清さんも、ありがとうございます」


「何言ってんの。水臭いじゃない」


 留五郎の死をいたむ間もなく、葬式の準備はせわしなかった。

 遺族にとっては幸いなのかもしれない。


 長屋の住人はもちろんのこと、紫乃も準備を手伝ってくれていた。


 そして葬式には、雪と鈴彦にゆかりのある人物たちが足を運んでいたのだった。


「こたびはご愁傷さまであった」


 慇懃いんぎんに挨拶をしたのは御子柴道場の師範、左近である。

 他にも……


「先日見舞ったときには、お雪殿のことを褒めたら喜んでおった。自分の所為せいで、手習い所に通わせてあげられなかったとも悔やんでいたが、またお雪殿が学べるようになったことを何度も感謝されたことが、つい昨日のことのように感じられる」


 珊石と寛石までもが顔を見せて、つい先日の出来事をなつかかしんだ。


 そして……


「苦しまないであの世にいけて、こんな孝行娘までいて、留五郎は幸せ者だよ」


 かつて留五郎が雪にした仕打ちを許せなくて、一度も留五郎が存命中には見舞わなかったおまちが、何と葬式に来てくれたのだ。


 わびしい生活を送っていた留五郎の葬式は、華やかなものになった。


 諸々を終えて、留五郎の遺体は、棺桶かんおけの中に入れられた。菩提寺まで運び込むのを、前方を辰巳が、後方を和泉が担ぐ。


「せまいとこにいれちゃ、じいじかわいそうだよ」


 まだ死というものの概念が理解できない静介は、雪に取りすがって言った。

 静介はまだ、留五郎が生きていると思っているのかもしれない。しかも幼い時分に亡くなった祖父を、果たして成人したその日まで覚えているということは、限りなくないのだろうと知っている雪や周りの大人たちの涙を誘った。


「じいじがちゃんと、極楽に行けるようにするためなのよ。静介も見送ってあげようね」


 棺桶は、長屋を旅立った。

 雪と鈴彦は皆に頭を下げて、ともに歩く。


 葬送の道には、昨日の桜の花弁が散っていた。



位牌いはいは、姉さんが持っててくれ」


 留五郎を菩提寺にとむらった後で、鈴彦は雪に言った。


 父と再会して、義理の弟との関係も良好になったとはいえ、留五郎は鈴彦の母と所帯を持ったのだ。

 つまり、位牌を持つ正当な主は、母亡きいま、鈴彦ということになる。

 雪は断ったが、鈴彦は不満な様子を一つも見せずに、再び口を開いた。


「親父は姉さんの元に帰ってきたんだ。それに俺には、お袋の位牌がある」


 だから充分だと、鈴彦は雪に位牌を渡した。


「鈴彦……ありがとう。いつでもおとっつぁんに会いに来てね」


「ああ。姉さんの上手い飯も食わせてくれよ」


  *


 留五郎の死から、一月ひとつきが経った。


 広くもない部屋の中では静介が昼寝をしていて、なのに寂しく感じられる。


 父と過ごした日々は、あっという間だった。

 しかしその刹那に、雪は満たされていた。


 朝も拝んだ位牌に向かって、雪は再び合掌がっしょうする。

 まぶたの裏に焼き付いているのは、留五郎と見た桜だった。


 思い出して、雪は小さい声で泣いた。


 戸口が開く間際の、がたっという音が聞こえて、雪はあわてて涙をぬぐった。


「おかえりなさい」


 部屋に入ってきた人物は、ゆっくりと近づいて、雪の身体を包み込んだ。


「俺の前では無理するな」


「無理していません。こんなに、甘えてるもの」


 雪は身体を反転させて、辰巳に強く抱き着く。


 涙が止まったのは、無理をしているからではないという証拠に、雪はたおやかな笑みを浮かべた。


「辰巳さんが、今日も無事に帰ってきてくれてうれしい」


 雪を引き寄せた辰巳は、その唇を奪って、離して、次はどちらからともなく重ねる。

 幾重も交わしたこの所作を、二人が飽きることはなかった。


「雪、愛してる」


「私も、愛しています」


 うっとりと見つめ合って、再び触れ合った瞬間、その声は聞こえた。


「おっかちゃ……」


 ぎくりとした雪は、慌てて昼寝から起きた静介を見る。

 寝ぼけまなここすっていて、両親の情事には気づかなかったようだ。


「おっきしたのね。すぐに夕餉ゆうげを作るから」


 立ち上がろうとする雪の耳元で、辰巳がやけに甘い声でささやいた。


「続きは夜だ」


 箱入り娘のように耳まで真っ赤になった雪は、小走りに台所へと向かう。


 ばっちり目を覚ました静介と遊んでいる辰巳は、すでに父親の顔をしていた。

 おかしくなって、雪はくすりと笑う。


 些細ささいなことに喜んで、笑っていられるような日常が続きますようにと祈りを込めて、雪は家族のために料理を作る。

 天窓から、遅咲きの桜の花弁が一枚、迷い込んだ。

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