十四

雪と鈴彦は、左近に会いに御子柴家を訪ねていた。

玄関で出迎えてくれた左近の妻が二人を客間に通して、すぐに左近は現れた。


「弟が、ご迷惑をおかけしました」


雪は左近に向かって頭を下げ、鈴彦もそれにならう。


「どうか、もう一度、弟が門下生として剣を学ぶことをお許しください」


「お願いします。俺は町人だけど、剣を学べることが誇りなんです」


御子柴道場は武士であろうが町人であろうが、身分を問わず剣を学ぶことができる。

鈴彦が御子柴道場の門を叩いたのは、その寛大さに惹かれたからであった。


実際に剣を学んでみれば剣術への興味は高まるばかりで、師範代の強さにも憧れている。


鈴彦は、御子柴道場で剣を振るっていたかった。


「はて……破門した覚えもなければ、いつ道場に帰ってきてもいいんじゃよ」


雪と鈴彦は、思わず顔を見合わせる。


あっさりと、しかも左近は始めから鈴彦のことを許していた。


「門下生らもお前のことを心配しておった。

あの辰巳も、俺に頭を下げてお前のことを許してくれと言っていたんだぞ」


「師範代が……?」


雪を除いて他人には決して頭を下げないような辰巳が頭を下げてくれたことに、鈴彦の胸が熱くなった。


門下生たちも何度か家まで訪ねては、道場への帰参をうながしていたのだ。

左近や辰巳に合わせる顔がないと固辞していたが、左近に許しを請うことを覚悟できたのは、一緒に謝ると言ってくれた雪のお陰である。


よかったと喜んでくれる姉には一生頭が上がらないだろうと、鈴彦は思った。






「というわけで、お雪ちゃんのことはもう解決したから」


ある日のこと、弥勒みろく屋では辰巳と和泉が肩を並べて昼飯を搔き込んでいた。


和泉は、藤次郎とさとが江戸を後にしていることを辰巳に報告した。

さとに頼まれて雪を襲おうとした男たちも、和泉が睨みを効かせたので、二度と雪に近づくことはないということも聞いて、辰巳は空になった丼に、静かに箸を置いた。


「これでやっと、雪が平穏に暮らせる」


「それはどうかな。辰巳がまた、泣かせるんじゃない?

そしたら今度こそ、お雪ちゃんは俺がもらうから」


「お前も言うようになったな。雪が俺以外の奴を好きになるわけねぇだろ」


「まったく。そんなんだからお雪さんは苦労するんだよ。

今だって父親の世話や子どもの面倒で大変だってのに」


二人の食べ終わった食器を片付けながら毒づいたのは、弥勒屋の女将お松である。


元よりお松の小言は多かったが、雪と静介を置いて出て行ってからというもの、さらに辰巳に対して小言をぶつけるようになった。

自業自得なので、辰巳も言い返せない。


「これ、お雪さんの親父に」


弥勒屋の主人でありお松の夫である卯吉も顔を出して、辰巳に渡したのは鯉こくだった。

鯉は精が出る食材であり、病人には重宝されていた。


「いつもすまねぇな」


「お安い御用でさぁ。で、具合はどうなんで?」


「こいつと、雪の心尽くしでよくなってる」


そう言って、辰巳は鯉こくを受け取る。


どう頑張っても、夏になるまで留五郎は生き長らえない。

それでも踏みとどまっているのは、ひとえに、雪と過ごす時間を取り戻そうとしているからだった。


「俺も、できることは何でもするつもりだ」


父の病状を間近で見て、死期も知らされている雪が、どんなに心細いだろうか。

雪を支えてあげることしかできないけれど、辰巳は己にできる最大限を妻のためにすると決めたのだ。






留五郎の看病で遠のいていた克草こっそう塾に、雪は実に半月ぶりに足を踏み入れた。


克草塾には行かずとも、雪は空いた時間で珊石から借りた書物で勉学に勤しむことも忘れていない。

この日は雪が家で書いていた手習いを珊石と寛石に見せ、手ほどきをしてもらっていた。


ちなみに留五郎のことは鈴彦に任せている。

雪が克草塾を訪ねたのも、鈴彦が気を利かせてくれたからだった。


「うむ。相変わらず、お雪殿の文字はきれいだ。

それに勉学の方も、わずかな時間しかできないであろうに、飲み込みの早さには感心する」


珊石は雪の手習いを満足そうに見ながら言った。寛石も同じ反応である。


「お雪殿に、お願いがあるのだ」


雪が留五郎の世話をしていることは珊石も知っていて、無理に勉学を勧めたり、雪にできる手伝いなどを頼んでいなかった。

なので珊石のお願いに、雪は見当もつかなかない。


「もちろん今すぐにとは言わん。お雪殿には是非に、手習い師匠をやってほしい」


「私が、ですか?この歳まで、私は文字を書くことも、読むこともできなかったのです。

そんな私に、何ができましょうか」


雪は恐縮して、思わず顔を下に向けた。


「お雪殿。もっと、自信を持たれよ。

そなたは、すばらしい才がある。この才は人のために、ひいては文字の読み書きができない者たちに発揮してほしいのだ」


人に学を教えるに足る才があると、珊石は断言した。

そして、子どもだろうが大人だろうが、読み書きができなくて悩む者たちを助けてほしいと、珊石は言った。


「学ぶということは、身分も、性別や歳さえも関係がない。

これは、儂がお雪殿から学んだことだ」


「珊石先生……!」


誰からも気づかれずに埋もれていた才を、珊石は見つけてくれた。

もしも辰巳が珊石に引き合わせてくれなかったら、この瞬間は訪れなかったのだ。


雪はもう、否定の言葉は口にしなかった。


「おとっつぁんに、自慢できます」


「たくさん自慢するとよい。お雪殿が娘で、お父君も鼻が高いであろう。

儂は、誰もが学べる場所を作ってあげたいのだ」


雪を手習い師匠とする塾は、半年後に実現することとなる。






「おとっつぁん、起きてて大丈夫?」


昨夜も咳が止まらずなかなか寝付けなかった留五郎は、翌日になって見違えるほど回復していた。

食事も喉を通り、言葉もなめらかである。


一時のことかもしれないが、それでも雪には喜ばしいことだった。


「ああ。今日は不思議と何でもねぇんだ。

折角だから、桜でも見に行かないか?」


「でも……」


雪とて留五郎と桜を愛でたい。

だが、いくら調子が良いとはいえ、病人に無理をさせることはできなかった。


桜は満開を過ぎ、明日にでも枝が寂しくなりそうなこの頃、今日を逃せば、桜を愛でられるのは来年になってしまうかもしれない。

来年には、もう……

雪はその先を考えそうになって、無理やり思考を止める。


「本当に、大丈夫なんだ」


結局、雪は留五郎に押し切られる形で、近所の道にそびえている、一本の大木の桜まで足を延ばした。


七割がた姿をとどめている桜は、見応えが充分であった。

風が吹いていて、幾度も花弁をさらっていったであろうに、眺めていても寂しい気持ちにはならない。


まるで雪たちに見せるために、懸命に咲き誇っているようで、それは病身でありながら雪に思い出を与えようとする留五郎のようにも感じられる。


「今まで一度も、花見にも連れてかなかったな。

雪と一緒に桜を見ることのなかった人生だと思ったら、どうしても、来たかった」


残された時間の中で、あとどれだけ雪と一緒に過ごせるのだろうか。

その時間は、過去の償いをするには足りなくて、留五郎の未練は、雪に償いきれないことだった。


何度だって、雪と桜を愛でる時間はあったはずだった。

できなかったのではなく、しなかった。


やり直せるのならばやり直したいという愚かな願いは、決して叶うことはないのだ。


「おとっつぁん。私、すごく幸せだよ。

今日でおとっつぁんとの花見の一生分を味わえたんだから」


留五郎が見た雪の横顔には、うっすらと涙がにじんでいた。

すぐにその涙を拭って、雪は留五郎に微笑んだ。


「見て。静介ったら、あんなにはしゃいでる」


静介は地面に落ちた花弁を集めては、ばっと花弁を舞い散らせている。


雪は桜を見るよりも、可愛い我が子の様子を愛おしそうに眺めていた。

親とはそういうものなのに、そんな簡単なことさえできなかったのだと、留五郎はやはり自身の行いを悔いた後で、娘に愛情を向けることを忘れなかった。


その日は早く休むと言って寝床に入った留五郎は、翌日の朝になって容態が急変した。



「親父!!」


鈴彦が辰巳に呼ばれて駆けこんだときには、留五郎は虫の息だった。


留五郎の右手を握る雪は、今にも泣くそうな顔で、留五郎にささやいた。


「おとっつぁん、鈴彦が来てくれたよ」


鈴彦は雪とは反対側に座って、左手を握りしめた。

握り返す力は、雪も、鈴彦も感じられなかった。


「おとっつぁん」

「親父」


一瞬、留五郎が微笑んだ気がした。


再び二人が呼びかけようとしたとき、留五郎の両目から、一筋ずつの涙が零れ落ちて、呼吸が止まった。


「嫌っ……!おとっつぁん、おとっつぁん……起きてよ……」


取り乱して泣き叫ぶ娘と、放心して涙を流す息子は、やがて訪れるときを迎えた。


あまりにも静かに、安らかな終焉だった。






右の手には幼い娘が、左の手には幼い息子がいた。


どちらも可愛くて仕方ないから、この手を離したくなかった。


これから何処どこへ行くのだったか、思い出せない。

だけど目の前に広がるまばゆい世界に、不安はなかった。


大好きな子どもたちと一緒に、留五郎は陽だまりの中に消えていった。

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