さよならララバイ

軒下ツバメ

さよならララバイ

 忘れられない声がある。

 暖かくて柔らかい、お日さまのような声。

 だから、私は大丈夫。


 二十五年間住んでいた家を出た。

 知り合いに 「一人暮らしをすることになった」と伝えると、大概理由を聞かれた。

 遊びの誘いや飲み会を断る理由にいつも家族を使っていたため、家族思いの子という認識を周りからされていたようだ。

 不必要な行動をするなら行動するだけの理由がある。何度も問われるとうんざりしたが、そう考えるのは普通のことだ。

 公務員なので仕事の関係ではない。そもそも地方に移動する事がないから今の職を選んだ。

 年齢からすれば、他に思いつく可能性は結婚だろうか。だが、私は恋人がいるそぶりを見せたことがないし、実際いない。

 わざわざ家を出る必要がないのに、何故そうするのか。

 その疑問に答えられるだけの理由を伝えると、皆納得し、おめでとうと言った。

 ……何もめでたくなんてない。こみあげてくる苦い気持ちを抑えて、私はありがとうございますと返し続けた。


 物心つく頃には、私は母と二人暮らしだった。父親が誰かは今も知らない。

 だけど不幸せなんかじゃない。

 私が産まれるより先に、父親はどこかにいなくなったと母の親戚から聞かされた時、なんの興味もいだけなかった。

 幼稚園に入って、他の子には父親がいるということに驚いたが、羨ましいとは一度も思わなかった。

 運動会で他の子たちは父親と一緒に出ている競技に母親と出て馬鹿にされた時も、悔しくなんてなかった。

 だって、私のお母さんはこんなにも私を愛してくれている。他の子たちの家では、二人で分担していることを一人でこなしている。

 なんて格好良いのだろう。そう思っていた。


 母は看護師で、私を養うために夜勤で働く日が多かった。

 身内に恵まれていれば、子どもを預けるという選択肢もあったのだろうが、シングルマザーとして私を育てることを決めた母は、家族からも親戚からも疎遠にされていたので、母が仕事の時は家に私一人で過ごすことが大半だった。

 昔からその生活が当然になっていた私は、身支度も食事もお風呂も、気づけば自分ひとりで出来るようになっていく。

 頼る相手がいない時間ばかりを過ごし、ある程度のことを自分で解決できてしまうようになった私は、年齢にそぐわない物わかりの良さと、大人の事情を理解してしまう子どもに育った。

 すると、子どもらしくない子どもを嫌う大人は世の中にいるもので、私のせいで問題が起きてしまう。

 疎遠になっていても絶縁されていないなら、参加しなくてはならない親類との集まりが大人にはあって、避けられなかったそれにより私は父の話を聞かされた。

 まだ七歳の頃だった。

 七歳といっても、私はその時には既に、他の子たちには父親という存在がいても自分にはいないという事実をきちんと理解していた。そして、父親がいないことになんの問題も感じていなかった。なので嫌味な口調で父の話をしてきた親戚に「そうですか」とだけ返事をする。すると露骨に不満そうな表情をされた。

 私の反応はどうもお気にめさなかったようだった。

 親戚は何か言いたそうにしていたが、私がもう目も合わそうとしないのを見て、望んだ反応を引き出せないと思ったのか離れていった。遠目から見かけたのだろう母がすぐに心配そうに近寄ってきたが、私は挨拶されただけだとごまかすように笑った。

 しばらくして皆で食事となった時に、どうやら私たち親子の話題になったのか、先程の親戚が嬉々として私のことを、可愛いげのない子どもだ。やはり父親がいないからだ。と話す声が聞こえてきた。

 今なら相手にしないが、その時は私も子どもだったので腹が立ち「可愛いげのない子どもだから、あなたの言葉の意味もわかるよ」と言ってやろうとした。だが私が口を開くよりも先に動いた人がいた。

 ――母だ。

 見たことのない顔をしているな。と、思ったその瞬間には、母がその親戚の顔を殴っていた。

「私の娘は頭が良いの、我慢が出来るの、人を思いやれるの。傷つけようと言った言葉に望んだ反応をしなかったからって私の娘を馬鹿にするのは止めて」

 ざわめく周りなどお構いなしに言い放った母は、私の手を取って「もう二度と私とこの子はあなたたちと会うことはありません」と告げるとその場を去った。

 帰り道、母に繋がれ握りしめられた手に冷たい雫がぽつりぽつりと降ってきた。

 何も話さず、私を見ることもなく、無言のまま、だけど手の力は緩まない。俯かず顔をあげて歩く姿を私は見つめた。

 私の手を強く握りながら、子どもの目線からは見えないように真昼の月を見上げて泣いていた母の横顔を私は一生忘れない。

 その時から、強くて脆いこの人から離れないと私は決めたのだ。


 母は、もう二度と会わないという言葉を実行した。手紙が来ても、電話があっても、一言二言でやりとりを終えた。

 私に父の話をした親戚は母の従兄弟で、後から知ったことだが母に好意を持っていたらしい。母の絶縁宣言以降も、何度か連絡を寄こしてきたらしいが、私が中学にあがる頃にはそれもなくなった。

 中学生になると、部活をしてみたらと母から言われたので陸上を始めてみた。

 本当は母といる時間が減るので、どこか楽そうな部活で幽霊部員でもしようと思っていたのだが、喜んでもらえるなら部活を頑張ってみてもいい。

 結果を出せばもっと喜んでもらえるだろうか、嬉しそうな母の顔を想像すれば自然と部活にも身が入った。

 そんな気持ちで始めた部活だったが、そこで私はやっと友達といえる存在と出会う。

 小学生の頃にも、友達のような存在はいた。けれど、同い年の子たちのあまりの子どもらしさに私は辟易していて、それは少なからず相手にも伝わってしまっていた。だから小学生の私にとっての友達は、先生や親の目からは友達のように見える程度の距離の子しかいなかったのだ。


 中学になっても教室ではいつも通り目立たず。しかし目をつけられないくらいには上手く立ち回る。

 クラスには同じ小学校だった子が大半を占めていた。変化の無さに私は安堵を覚える。

 もし万が一私がいじめにでもあったら母に迷惑をかけてしまう。これなら今まで通りやれば大丈夫のはずだ。

 昔からずっと、今になっても、私の物事の基準は母がどう思うか。それだけだった。

 陸上部に入部した新入生は私を含め五人いた。

 部活初日。顧問の先生と部長からの説明が終わると、私たち新入生が挨拶をする流れになった。それぞれ名前と出身校と一言。短い自己紹介ほど個性がでる。面白い挨拶をする人もいれば手早くすます人もいて、私は後者のタイプだ。

 そっけない挨拶を私が終えた後、最後のひとりが立ち上がり挨拶を始めた。見たことのない顔の、ひょろっとした男子だった。

「入谷昴。南小でした。プロの陸上選手になるために部活をやるので、あまり関わらないでください」

 発言に面食らった後、顧問も部長も表情が硬くなった。先輩からも苛立たしげな気配がするし、新入生の中でも良い感情を持った人はいないようだった。

 例えそれが本心なのだとしても、言い方を変えれば楽に過ごせるのに馬鹿正直な人だ。私は彼にそんな感想を持った。

 だけど彼は周りにどう思われようが一向に構わないようで、そう言ったきり黙ってしまった。奇妙な沈黙が流れたが、居心地の悪い空気から気を取り直して、顧問は明日からの連絡事項について話し出す。

「最初は基礎からだから持ち物はジャージくらいだな。それと適正によって変わるかもしれないが、どの競技に出たいかは考えておくこと。伝達事項は以上。質問がなければ今日はもう解散だ」

 特に新入生からの質問もなかったため、少しの問題を残しながらも初日は終了した。


 次の日から本格的に部活が始まると、うちの陸上部は本気で競技に打ち込みたい人より、部活を楽しみたい人の集まりであると気づく。その中に入谷のような人間がいると、どうなるか。……誰だって分かる。

 何か行動や発言をしなくても、心の内で思っている空気は蔓延する。しかし入谷は最初の発言通り同級生とも先輩とも交流せず、黙々と基礎メニューをこなしていった。

 表立って決定的な出来事は起きない日々が続く中、とうとう問題が発生したのは、学校にも部活にも私たちが慣れてきた六月だった。

 雨でグラウンドが使えない時は、普段の練習内容と変わり校内での基礎練と筋トレのみとなる。

 梅雨に入り、雨の日が増えると、部活は毎日毎日楽しくもない基礎練習と、キツイだけの筋トレの繰り返しになった。すると、それにうんざりした一部の先輩たちが、顧問や部長がいない時にサボりはじめた。

「筋トレマジだるいわ。てかこれさ、やったって意味ないよな。対してタイム変わるわけでもないし。こんなの本気でやるのなんて、プロがどうこう言うようなどっかの馬鹿真面目なやつだけだよなあ」

 先輩が当てつけるように言うと、同じようにサボっていた周りの人もその言葉に乗りだし、今までの不満を口にしはじめた。

「今まで楽しくやってたのに台無しだよな」

「プロになるとか本気で言ってんの勘違い人間すぎて無理だわ」

「せめて合わせるくらいはしても良いよな」

「これだけ言われても無視だもんな。なあ、先輩をちょっとは敬うそぶりくらいみせろよ」

 最初に言い出した先輩が彼に近づいていく。そうしてやっと、聞こえているのか疑うほどに反応をみせなかった入谷が、先輩たちに視線を向けた。

「最初に言いましたよね。関わる気はないって。先輩たちが部活をサボろうと俺は何も思いませんけど、これくらいのメニューもこなせない奴らを敬おうとは思わねえよ」

 カッとなった先輩が手を出すと「先に殴ったのそっちだからな」と入谷も殴り返した。

 咄嗟のことに固まっていた周囲がふたりを止めようと動き出すと、次第に騒ぎが大きくなっていく。

 先生を呼びにいった先輩が戻ってくる頃には騒ぎも落ち着いていたが、部内の空気はもう取り返しがつかない状況にまでなっていた。

 先輩が部活を辞めるか。入谷が部活を辞めるか。

 今までのように部活を続けるのは到底出来ないところまで、部内の空気はこじれた。

 顧問が来ると部活は中断され、私たちは返された。

 その後、顧問と部長も交えて、当事者ふたりが話し合いをしたそうだが、入谷は終始部活は辞めないという意思を突き通し、折れたのは先輩側だった。

 話の詳細は、私たちには教えられなかった。

 入谷がわざわざ話すわけがないし、先輩側も自分が部活を辞めるという事実しか周囲に教えなかったので、どんな会話が交わされたのか知っているのはその場にいた人だけのようだった。

 これ以降、入谷は部内でますます孤立していくが、彼が気にするそぶりを見せたことは一度もなかった。

 だが、事態はある事で好転する。

 八月にある中体連の全国大会。それに部で唯一参加標準記録を突破した入谷が、出場することになったのだ。

 人は勝手な生き物だ。結果さえ出せば見る目が簡単に変わる。先輩との確執をあっさり忘れ同級生は入谷を称賛し、先輩たちも入谷の存在を認めだした。

 そして、全国大会でも入谷がなかなかの成績を叩きだしてからは、部内で入谷に対して文句を言う人はいなくなった。

 めまぐるしく事態が動いてる中で、私はというと、何も変わらなかった。

 いつも通り当たり障りなく、頑張りすぎず怠け過ぎず。

 競技種目は短距離を選んだが、県大会への出場が出来るくらいには努力し、それ以上には進めないくらいには努力しなかった。

 全国にいけたら母はきっと喜ぶだろうけど、全国大会の出場費用にお金を使うくらいならちょっと豪華な夕食を母と食べる方が、私は幸せだから。

 入谷に対しても、無視はせずとも近づきもしない距離で過ごしていた。


 全国大会も夏休みも終わり、二学期が始まると部活の朝練も開始した。その中でいつもより早く朝練に向かった日があった。

 まだ朝の五時半、誰もいないと思っていた校庭にはすでに人影がいた。ストレッチをすでに終え、アップを始めているのは入谷だった。

 汗の流れる様子を見ると、さっき来たばかりとは思えない。一体いつも何時から練習しているのだろう。

 クラスの子が、入谷をストイックで恰好良いと言っていたが、ここまで来ると私には違う何かに見えてしまう。まるで執着しているように。

 そう思った瞬間、胸の中から、言葉にならない感情があふれ、頭の中がいっぱいになり――その日の朝練を、私は休んだ。

 胸の中でどろどろした感情が浮かぶ。今まで味わったことのない感情だ。あの親戚にだって、こんな気持ちにはならなかったのに。理由が、分からない。

 入谷に対して何を思ったというのだろう。彼への嫌悪ではない。なら何に対する? ――分からない分からない分からない。

 母と自分だけ。それだけで私の世界は完結していた。満足していた。何事も母が基準。母に喜んでもらうために、母に心配をかけないために、母に楽をさせるために、何もかもを決めていた。

 それは、でも、本当に、母のため?

 私の、人に知られたら異常だと思われる母への献身は、誰かのための行動ではありえないのだと、彼の姿を見て気付いてしまった。

 最悪の気分だった。


 体調不良を理由に朝練を休んだ私は、そのまま同じ理由で放課後の練習も休み帰宅した。入谷の姿を見たくなかったのだ。

 入谷が悪いわけではないけれど、まだ、あの身を削るような姿勢を見て平静でいられる自信がなかった。

 いままでずっと、何があっても何をしようとしても母のため。そう考えて行動してきた。それなのに、それが本当は自分のための行動だったのだとすれば、私は――。

 電気をつけずにリビングのソファに寝転がっていると、とぅるるるる。と電子音が聞こえて起こされる。

 考え事を中断させるように、家の電話が鳴っていた。人と話したくない気分だが、もしかしたら母からかもしれないと思い、受話器を取る。

「もしもし、すみません。狭山さんのお宅で間違いないでしょうか」

 聞こえてきた声は男のものだった。多分、若い。……きっと勧誘の電話だ。だが私がそうですが、と返事をすると相手の声のトーンが変わった。

「ああ、なんだ狭山か。俺、入谷。聞きたいことがあって電話したんだけど今いいか?」

 反射で「うん」と言ってしまったが、入谷からの電話だと分かった瞬間から私は少し混乱していた。

 部活で何か伝えることでもあったのなら、顧問か部長か同級生の女子か、とにかく入谷以外の人から連絡があるはずだ。だとしたら、朝、校庭にいた私の姿を彼に見られていたのかもしれない。でも相手はあの入谷だ。そんなことで彼がわざわざ電話をするはず――。

「嘘ついてまで、どうして部活休んだんだ。朝、何で急に帰った。あの速さで走っていって体調不良はないだろう」

 どうして入谷はそんなことを聞くのだろう。これまで人の部活態度を気にしたことなんてない癖に。私が黙っていると、彼がため息をつく音が聞こえた。

「明日の朝も今日くらいの時間には校庭にいる。休むなよ」

 ツーツーと、電話が切れた音が聞こえる。ツー、ツー、ツー、ツー、ツー。音が、聞こえる。

 絶対にいかなくてはならない。私はそんな強迫観念めいたものを感じていた。


 日が出ると同時に身支度を始めた。まだ誰も出歩いていない通学路を通って着いた校庭には、もうジャージに着替えて練習をしている入谷がいる。……昨日よりも早く来たはずなのに彼は本当に何時から練習を開始しているのだろう。

「今日は休まなかったな」

 私が到着したことに気づいて近寄ってきた入谷は挨拶もせずに第一声からそれだった。言外に休まずに来いと言ってきたのは入谷の癖にと少しカチンとくる。最初からペースを乱されてしまった。

「ねえ、私に何を聞きたいの。休んだことをとがめたいわけじゃないでしょう」

「前から気になってることがあったからせっかくだし聞いておきたかったんだ。気が散る程ではないけど、部活中に余計なこと考えたくないからはっきりさせたかった」

 ますます意味が分からない。入谷は怪訝そうにする私の目を見て、話を続ける。

「狭山お前、なんでそんな中途半端な努力をしてるんだよ。本気なのかと思ったらそうじゃない、でも適当にやってるのかと思えばそれも違う。頑張っても結果に繋がらないってわけでもない。ここまでで良いと自分で決めてそれ以上を望まない。そんな風に見える」

「何それ」

「練習。他の奴らと違ってしっかりやってたから、最初はお前も陸上好きなのかと思った。でも違うだろ」

 ――正解。好きなのは陸上じゃない。

「お前は、母親とふたりなんだってな。同じだよ。俺は父親だけど」

 瞬間体温が下がったのを感じる。バレた。そう思った。

「大会で母親に話しかけてる姿見れば分かった」

「それで、何か入谷に不都合はあるの? 別にいいでしょう何が理由かなんてそんなの。せっかくだから母親にも喜んでほしかったってだけだよ」

 会話を断ち切るように言葉を捨てる。同じ片親だからって何だ。珍しくもないだろうに。私の何を分かったというのだろう。

「自分以外に理由を押し付けると後悔するぞ」

 説教? あの入谷が私に? それこそわざわざ呼び出してまでする意味が分からない。

「押し付けてなんかいない。それに」

 それに母のための行動なんかじゃなかった。続けようとした言葉は口から出なかった。入谷の言ってることの方が正しかった。母のためという理由を使って、私は自分の行動をいつも正当化していた。本当は全て自分のためだったのに。

 背負わせて、しまっていたのだろうか。守っているつもりでいたのに。

 自分では上手く立ち回っているつもりだった。なのに簡単に入谷に見抜かれてしまった。きっと母だって気付いてる。私は母親のための行動に依存していた。いつの間にか母のためという理由を必要としていた。

 私には好きなものなんてない。食べ物も本も音楽もスポーツも、熱心に練習をしたはずの陸上もそうだ。

 何も好きじゃない。何もない。

 いつの間にか私は母を理由にしないと何も選べなくなってしまっていた。

「自分の夢だから俺は陸上をやってる。今からやらないと駄目なんだよ。活躍してるプロのアスリートは中学の頃には大体が大会で良い成績をとってる。そうすれば高校からスカウトされたりして、環境の整った場所で練習が出来るようになる」

 私が彼に感じた気持ち、それは羨望だった。

「俺だって親に負担はかけたくない。だけど夢を諦めるつもりもない。だから俺は周りからどう思われようが態度を変えるつもりはない。それに同級生と喧嘩したくらいじゃ父親は動揺もしないしな」

 彼は人間関係を器用にこなせる人間じゃない。だけど大切にしているものがきちんとある。自分で選んだものを持っている。それがたまらなく羨ましかった。

 自分の思う通りに、友人関係も勉強も部活もこなしていくことが空虚だった。

 理由を使ってふさいでいたそれは、感情に気付いた瞬間からはがれてしまった。

「…………やりたい事ってどうやって見つけるの」

 思わず口にしてしまう。彼なら答えを知っているだろうか。反応を見ようと俯いていた顔をあげる。

「は? 何言ってんの?」

 顔をあげると怪訝な表情の入谷が見えた。そういう話の流れじゃなかったのか。つくづくこいつの考えが読めない。

「母親を喜ばせたい。が、狭山のやりたいことだろ」

「さっき自分で言ったことも忘れたの? 母親を理由に使うなって言ったのは入谷でしょう」

「違う。俺は理由を押し付けるなって言っただけで、母親のために何かやることをとがめたわけじゃない。分かってやってるなら放っておこうと思ったけど、狭山は無意識だっただろ」

 何が、違うのか。納得していない私の様子が伝わったようで入谷は説明を重ねた。

「無意識って怖いからな。気付いた時には手遅れの可能性もあるから、今回のは確認、みたいな? そんなのだ。俺の父親が似た感じだったんだよ。母親いなくなってふたりになって、俺のためにって必死に働いて、家事もして、それで、いきなりぷつんと糸が切れるみたいに突然止まったんだ。俺が自分である程度身の回りのことが出来るようになった時。昔の自分は何を楽しみに生きてきたのか分からなくなったんだと。ちょっと時間が出来てたらもてあまして、自分が空虚になっていたのに気付いたんだって言ってた」

 ……ああ、同じだ。そう思った時、今まで真剣な顔をしていた彼が、突然笑みを含んだ話し方に変わった。

「だけどすぐに立ち直った。暇なら遊べって俺に言われて付き合ってたら、自分の楽しみは息子と一緒にいることだってやっと気づいたんだってさ。親馬鹿だよな。今でこそ笑えるけど、でもその時の親父の顔まだ覚えてるんだ。ずっと昔のことなのに。まあ、だから狭山のこともちょっと気になったってそういう話。分かってさえいれば問題ない」

 そう言うと、慣れないことをした自分に今更ながら照れたのか、私の返事を聞くこともなく入谷は練習に戻っていった。

 入谷が伝えたかったことの全部に納得がいったわけじゃない。だけど、私は私のために母親を大事にしたい。そう思っていいんだと、胸のつかえが少し楽になった気がした。


 そしてこれから先、私と入谷の関係は長いものとなる。高校、大学と同じ学校に進学し、私が就職してからも、入谷がプロの陸上選手になっても、私たちが疎遠になることはなかった。

 男女の友情がどうこうと言う人はよくいるけれど、入谷と私の間に恋愛感情は存在しなかった。人からはよく付き合っているものだと思われていたけれど。

 私に彼氏がいたことはなかったけれど、高校でも大学でも彼女と一緒にいる入谷を何度か見かけた。そこそこ告白されるしフリーの時は断らないと言っていた。……生意気だ。

 初彼女が出来た時にからかったら、うるさいと言いながらも嬉しそうにしていたから、満更でもなかったのだろう。長くても、半年で告白してきた女の子から別れを切り出されるとしても。

 入谷は、彼が目標としていた通り中学の間に大会で優勝して、高校に特待で入学した。私は高校では部活を続けなかったが、志望していた学校が同じだったために腐れ縁は続いた。

 彼は、ただ恐ろしく不器用なだけだった。

 言葉を選ぶのが下手で、走ることしか能がない。気軽に話すようになってからは、周りから「よく入谷と一緒にいれるな」と言われたものだ。


 高校の時には、もう私は私のために母のそばに一生いると決めた。きちんと考えたうえでの結論だ。

 私は、母を愛していた。

 子どもの頃から、ずっと私のヒーローは母だった。だけど私の手を握りながらも、耐えられず涙を流す姿を見た時、説明できないくらいの愛おしさを私は感じていた。

 全てのものから母を守りたかった。

 見返りを求めたことはない。だってもう充分すぎるくらいに貰っていた。

 今度は私が返す番だと思い、公務員を目指し必死に勉強もした。

 公務員試験には一度で合格した。就職先も順調に見つかり、私の社会人生活はスムーズに始まり、相変わらず無難に仕事もこなしていった。

 これで母に楽をさせてあげられる、もう何年かすれば母も仕事をやめて、家でゆったりと過ごせる毎日をあげられる。そう思っていた。

 しかし、私が順調だと信じ込んでいた日々は、母からの報告であっけなく終わる。


「再婚を考えている相手がいる」


 冗談かと、思った。

 否、冗談だと信じたかった。だけど緊張した母の顔を見たら、そうは思えなかった。

 平静を装って、誰と? と聞くと、母はちょっとほっとしていた。それに私は傷つく。

「同じ職場の人。内科の先生なの。前から結婚前提にって言ってくれてたんだけど、ずっと断ってて。……だけど、あなたもそろそろ仕事が忙しくなるでしょう? 一人暮らしのが楽なんじゃないかとも思って。……お母さんね、彼となら一緒になってもいいかもって思ったの。結婚生活をしたことがないから、ちょっと不安なんだけど、あなたが反対しないなら再婚しようと考えてる」

 幸せそうな母の顔を見て、駄目だと、また裏切られるかもしれないのに、再婚なんてしないでとは、私には言えなかった。

 ――お願い、私、笑って。

 強ばりそうな顔を必死に支えた。

 お願い、今だけ、笑え。

 笑って、祝福、の、言葉、を。


 報告から一週間がたって、母はプロポーズをしてきた相手と付き合い始めた。

 ――そして私は、二十五年間住んだ家を離れた。

 義父になる人と会ったのは、半年後に母がセッティングした食事会だった。

なかなか予定が合わなくて、時間がかかってしまったのだ。……私が会うのを避けていた、とも言えるが。

 相手は母と同い年だが初婚らしい。それを聞いて、何か問題のある人なのではないかと不安になったが、義父に会えばそれも杞憂に終わった。

「はじめまして、未来さん。どうかあなたが守ってきたお母さんを私に預けてはくれませんか」

 破談にしてやりたいと、思う気持ちもあったのだけれど。義父の言葉を聞いたら、自分の意思ではどうにもないくらいに気持ちが溢れて、涙が後から後から止まらなかった。

 喪失感ではない、安堵でもない、この人となら母は幸せになれる。そう思ったら涙が止まらなかった。


 義父と母の結婚式でも、私はずっと泣いてばかりだった。遠征帰りに出席してくれた入谷は、私を見て呆れていた。

 帰る時、入谷にぽつりと後悔しないかと聞かれた。

 私はきっぱりと言ってやった。

 後悔なんて、するわけがない。それを聞いた入谷は笑った。ちょっと寂しそうに、笑った。

 結婚式は、私と義父のごり押しで決まったことだった。

 母はこんなおばさんがドレス着るなんてと乗り気じゃなかったのだが、せっかくだからとふたりで推し進めた。

 私は世界で一番綺麗で幸せな花嫁を見た。

 ちなみにバージンロードは私が一緒に歩いた。新郎側の出席者の驚く顔を思いだすと笑える。

 提案してきたのは義父だった。始めは辞退した私に大丈夫だからと言って実行した。思っていたよりも行動力のある人だ。

 母を義父に手渡す瞬間、ためらいがなかったと言えば嘘になってしまう。だけど私は手を放した。

 愛していたから、手を放した。



 人生で一番幸せだった瞬間。

 子どもの頃の記憶。めったにない、母が休みだった時。

 抱きしめながら子守歌を歌ってくれた。どんなことからも私は守られていると感じた。

 温もりと、優しい歌。これを忘れなければ私は生きていける。

 例えいつか一人になったとしても、私は私のために人生を生きてくれた母が幸せになってくれるのならそれでいい。


 私にも隣で笑っていてくれる人が現れるか、それは分からない。だけど、母と義父を見ているとそんな未来も悪くはないんじゃないかと思える。

 太陽の光に目を細めると、私を呼ぶ声が聞こえた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

さよならララバイ 軒下ツバメ @nokishitatsubame

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ