黒の時間

日々人

第1話 囚われの売買人


預金通帳を開いたまま、ATMのすぐ横で立ちつくす。

貧弱な残高を見つめていた。

当然のことながら一円も入金はされていない。

この惰性な生活も2年目に突入した。

今となれば、感情に任せて唐突に仕事を辞めたことを後悔している。

未練がましく、振り込まれることのない未払い給与に期待しては、こうして病的に通帳記入を繰り返してきたが、いい加減に止めにしないと。

嗚呼、今朝から財布を何度覗いてみても、500円玉が一枚とそのほかの小銭が数枚だけだ。


これまでずっと独り身を謳歌してきた。

それなりに貯蓄はあった。

しかし再就職に失敗し、自暴自棄となり、高が外れて散財した結果がこの様だ。

来年には40歳を迎えるいい歳したオッサンが、いよいよ本気でお金がない。

誰かそんな状況を察して救いの手を差し伸べてはくれまいか。

無理か。

そうか。


すれ違った若い高校生の男女。

談笑しながらアイスクリームをスプーンですくって口に運ぶ。

せかせかと歩くスーツ姿の女。

颯爽と最新のスマホを取り出すと、だからお前は使えないんだよと電話口で叱りとばす。

のどが渇いたとせがむ幼児、自動販売機で飲み物を選ばせる母親。

何気ない、その金銭を伴う日常の行動、選択が今の俺には簡単ではない。

出くわす自動販売機の前でつり銭受け取り口に手を突っ込むが、どれもこれも手ごたえがない。

いつもよりも目の前に映る街が嫌に鮮明で、特に嗜好品の類が浮かび上がって見える。

突発的に盗みでも働いてしまいそうな、そんな衝動が起きそうな気がして、自制心を意識している自分が恐ろしい。


「…でも、それなのに。


そんな切羽詰まった状況なのに。


この期に及んでどこかで何とかなるんじゃないのか、と思っている俺がいる」


他人事のように、台詞口調で親指を自分に向かって指す。

何をしているんだろうな、と思っただろうよ、今すれ違ったそこの人。

そうだよ、そうなんだよ。世の中を舐め腐った人間のすること、下種な人間。

気がふれている訳ではない。いたって真面目だ。

真面目に性根が腐っているだけ。


ずっと。小さな頃から。

自分は普通ではないと気付いていた。

心の奥底で、腐敗した、淀んだこの感情が、誰かに気付かれるんじゃないかとドキドキしながら生きていた。

だから相応だと、理解する。今の、この有様を。


濁ったため息を周囲にまき散らしながら、ふらふらと、残された場所はぎりぎり今月分の家賃を支払えた自宅アパートの一室。

意味もなくあーぁと声を上げながら布団に横になる。

腹が鳴る。

お金がない。

原因不明の耳鳴りが始まる。

眠れない。

ぐるぐると頭の中を、今さらどうしようもない後悔の日々が渦巻いている。

部屋の隅をぼんやりと見つめる。

机の上には、結局形にならなかった脱サラの夢が散在している。

その横には埃を被ったギター。

ベランダの外には何日間も干し続けている洗濯物。


俺は何をして生きていたのだろう。

俺は何のために生きているのだろう。


今はもうこんな感じだが、仕事を辞めるまでは案外うまくいっていたんだ。

そこそこの会社に入って親孝行もしていたし、途切れることなく女もいて、友と呼べる相手もいた。

まぁ、それも随分と昔の様に感じるか。


毎晩続けていた寝酒を止めると全く眠気がやってこない。

酒が欲しいが、財布には現を抜かす余裕がない。

それから何日間か寝返りを、ありとあらゆる角度から堪能し終わった頃に、深夜が訪れた。





 ・ ・ ・ ・



たぶん夢だ。

枕元に立つこの真っ黒な小さな人影はなんだろう。

黒い装束をまとい、フードを被っているのが何となくわかる。

表情は見えないが、お互いに見つめ合っているような気がする。


「金に困っているなら何か買い取ってやろう」


子どものような声で、俺を見下ろしたまま語り掛けてくる。

金銭もろくに稼げなさそうな小さな背丈の影が。


「何か?なんでもいいのか?

 だったらそこに転がっている、そのギターとかでもいいのか?」


そこ、と言いながら体が動かせないことに気付く。

金縛りにでもあっているかのようだ。

耳鳴りは相変わらず続いている。


「物はダメだ。お前から買い取らせてもらう」


「俺から?…だったら、この耳鳴りを買い取ってくれ」


何気なく口にした言葉に小さな影が承諾したものだから驚く。


「今後一切、耳鳴りが起きないがいいな?」


こんなものいらねぇよ、と身動きが取れない中で、唯一動かせた顔面をいっぱいに使って笑うと、


「商談は成立だな

 また来る」


という声を残して影は去っていった。

すると意識は薄れ、緩やかに眠りに落ちていった。


夢だったのかと、解かれた体を起こしてみると枕元に一万円札が置かれていた。

気味の悪さから直ぐに手を伸ばせず、一枚の紙幣と距離を置く。

しかし、空腹に耐えられず、内から湧いてくる感情に押し流されるようにして紙幣を握りしめ外に飛び出す。

コンビニに入るなりカゴを引き抜き、手当たり次第に品物を放り込んだ。

店員は慣れた手つきで一万円札を受け取ると、その紙幣は無事にレジに吸い込まれていった。

自宅アパートまで待てず、歩いたり立ち止まったりしながら、その度にからっぽの胃袋に菓子パンにおにぎりを敷き詰め、それの上から大量のアルコールを注ぎ込むとなんだか笑いがこみ上げてきた。

出所の不明なお金。

でも、お金はお金。

そのお金で今を満たすことが出来た。

間違いない。

俺はこの上なく幸せだ。


その日の晩も、次の日の晩も、それからも。


小さな影は俺の枕元に連日姿を見せた。

そして、俺はその度に「俺のナニカ」を売って、その見返りとして得たお金で暮らすようになった。


「虫歯、頭痛、歯ぎしり、皮下脂肪、危機感、加齢臭、絶望感、鼻くそ、吹き出物、ホクロ、無力感、臍のごま、痒み、虚脱感、耳垢、虚栄心、同情心、既視感」


最初は本当に要らないと思うものばかりをお金に変えていた。

それによって俺という人間が精製されていくようにも感じられた。

なんだ、この取引は俺にとっていいことでしかないじゃねぇか、とそう思った。


しかし、それも毎晩売り続けること一年弱。


「体毛、触覚、遠近感、嗅覚、爪、味覚、握力」


いよいよ自分がからっぽになってきた。


俺の身体は痛みを感じない。空腹も感じない。

悲しみはとうの昔に、喜びは先週に手放した。

感情と記憶を結び着けていた「思い入れ」の楔が外れると、唐突にただの断片的な記憶にしか感じられず、今週に入ってからは残っていた記憶を順に売り払っていった。


「もう、売れるものはないのか?」


小さな影の問いに視覚と告げた翌日から俺の目の前は真っ暗になった。

そしてその次の晩、暗闇の中で聴覚と呟くと俺は詰んだ。

目の前は真っ暗闇で何も聞こえない。


そこから聖人として覚醒する、なんてアナザーストーリーは当然用意されていなかった。

きっと、こういう状況に這い出てくる感情や生理現象なりがあるのだろうが、既にそういう類のものを売却済な為なのか、どのように終わりを振舞えばいいのかさえ分からなかった。



 ・ ・ ・ ・



それからどれだけの時間が経ったのかは知れない。

自分のことだけはなんとなくわかる。

こうなった経緯も。


生きていけなくなった。

しかし、すでに逃げ道は断たれていた。

気付けば、死んだようにして生きることを強いられていた。

口一杯の水、食事、息をすることも簡単ではない、屍のような体を世話してもらった。

一つ、一つ。高額な金額で。


ツケが出来ていた。

大きなツケだ。

それは、俺が小さな影に売り払って得た何倍もの金額だ。


耳元でカラスのような鳴き声がギャァギャァーと喧しい。

それでも、聞こえないよりはマシだろうと諭され、何十人分もの耳鳴りを借金の形として受け入れた。その結果がこれだ。

献身など元より持ち合わせていなかった俺が今、ツケの代償として世の中の不幸をこの身に背負っている。


誰かが黒い装束の奴に売って、誰も買い手のつかなかったもの。

例えば俺が売り払った耳鳴りや虫歯など、誰も欲しがるものがいないような代物が、こうして俺のような廃人に落ちたものに対して宛がわれる。

これが借金の形だ。

真面な体に戻そうと願うならば、少しずつでも稼いで買い戻していかなければならない。


俺は他にも沢山、不幸や忌み嫌われたものを身にまとっている。

全身などはこぶだらけで関節は腫れあがり、膿みと瘡蓋でまだら模様だ。

視界は波打つようにして乱れるため焦点が合わず、喉は焼きただれているのか僅かにしか開かず、声もしゃがれている。

それらも全て、ツケの返済のために承諾して受け入れたもの。

最後に奇病の類を一つ受け入れることで何とか返済の目途が経ったのだが、しかし、時間に直すとこれは無限の苦しみだ。


解き放たれたい。逃れたい。

元の感覚を、早く。体を買い戻さなければならない。

そのためにはお金がいる。

これを違う誰かに買い取らせるために、カモを探さなければならない。

そいつを腑抜けにした上で、この身にまとったものを売りつけよう。

それがこの黒い装束を身にまとったもののやり方だ。


不意に、誰かの言葉が降ってきた。

柔らかな口調で、諭すような語りだ。


「それはいつか解放される日まで、


 あなたなら、きっと大丈夫よ。


 人生、いつでもやり直せるのだから」


まさか、な話だ。

身振り手振り。演技っぽい口調で、諭すように。


腐った俺の心が奥底に残っていたとは。


「…くっくっく…」


乾いた笑いが勝手に出てくる。

ツケで宛がわれた感情がそうさせるのか、今、改めて得たものなのかどうか、知れないが。

これが、今の俺に残された自分らしさ。

嫌悪感以外の何ものでもない。

悔しい、情けない。

恥ずかしさと怒りが同時に込み上げてくる。


ふざけやがって。

人と思えない歪な格好をして蠢く俺に、次の人生などあるはずがない。



 ・ ・ ・ ・




深夜の上空。

突然降り出した雨を合図にして、同じ格好をした、黒い装束をまとう者たちが飛び交う。

相変わらず耳元で鳴き喚くカラスが耳障りでならないのだが、なんだか俺自身がカラスになった気がしないでもない。


視界の先。多くの民家が淡い光の中に立ち並んでいる。

これから訪ねる相手が万が一、俺が過去に大切にしていた人であっても、もう俺には誰かを思う心の余裕など残されてはいない。

俺は囚われの売買人。

自らのツケを返済するために安く買い取り高く売る。

ただそれだけだ。


 








 ・ ・ ・ ・






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黒の時間 日々人 @fudepen

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