はりはり
うつりと
寝手場架莉
チャビンが五階建てのビルの屋上の古い扉を開けると、すでにホーJとクジラが寒空の下で鍋を作っていた。まだ約束の八時には三十分もあるのに。
「おせーよ」
ホーJが叫ぶ。
チャビンは笑って缶ビール十五本を差しだした。
屋外での料理にしてはずいぶん小さい鍋に、肉と青い野菜がぎゅうぎゅうに詰まっている。
クジラは黙ってその鍋を大事そうにかき回していた。
ビルの外は真っ暗で、遠くに灯るネオンと車の音が微かに聴こえるだけだった。
「五年ぶりかあ」
チャビンはそう言ってキャンプ用の小さな折りたたみ椅子に腰をおろす。
「お前の薄毛が進行しているので年月がわかるよな」
背が小さいホーJが、お玉の柄でチャビンの頭を突く。
「そうなんだよ。冬は本当に辛いんだ」
「もうすぐチャビンの語源に到達するな。あと二年くらいか」
「ホーJこそ腹の肉がやばいんじゃないか」
「腹の肉は永遠にクジラには追いつかないから大丈夫」
今度はお玉の柄をクジラのお腹にめり込ませるホーJ。
クジラは何を言われても、何をされても笑っている。
「俺たちまだ27だぞ。髪の毛だの太っただのの話は早すぎるだろ」
ホーJが缶ビールの蓋を開けながらしかめっ面をする。
「お前が言い出したんじゃん」
チャビンも缶ビールを開ける。
黙って二人の話を聞きながら鍋をかき回しているクジラは、身長が195センチ、体重も三桁の巨漢。鍋がスープ皿に見える。
「大学の屋上でみんなで食べた時は途中から雪が降ってきて、めちゃくちゃ寒かったよなあ」
「ああ、俺たちバカだった」
そのバカを五年ぶりにまたやろうと呼び出したのはホーJだ。
みな同じ大学同じゼミだったが、就職でバラバラになってしまい、会うのは卒業以来である。
「あの頃は金がなかったから、いつも宅飲みだったよなあ」
「宅じゃねえ、いつも大学の屋上だっただろ」
ホーJが首筋を爪でぽりぽり掻きながら気怠げに言う。
「なんで屋上でばかり飲んでいたんだっけ。寒いのに」
「キャンプのつもりだったか、UFOでも見たかったのか」
早くもホーJが二缶目のビールを開けた。クジラは黙って鍋をコトコト煮込んでいる。
しばらくすると錆びた灰色の扉がギイと音を立てて開き、ナリデンとカリンバが一緒に現れた。
「お前ら、遅すぎんだよ」
ホーJがビールを飲み干しながら二人をなじる。
「ごめんねえ。テヘッ」
ピンク色のダッフルコートに鼈甲の眼鏡のナリデン。
「アフリカ時間ではちょうどいいくらいだよ」
「アフリカから戻ってきたのか。寒いだろ」
ホーJがカリンバを学生時代と同じようにからかう。
「じゃあ、みんな揃ったところではりはり鍋に乾杯! ウフフッ」
ナリデンがホーJより先に乾杯を告げた。
みんな缶ビールを掲げたが、クジラだけはジンジャーエールだった。
「クジラはいまだにビール飲めないのかあ」
チャビンがクジラに訊いた。
「こいつはさあ、飲めない酒で酔っ払ってクリスマスにユキちゃんにフラれてから、一滴も飲めなくなったままなんだよ」
ホーJが昔の事件を楽しそうに話す。
「ホーJは俺たち全員の恋愛事情にやけに詳しかったよなあ」
「そういや、俺たち全員まだ独身だな」
水名雪音はこの五人と同じゼミに在籍した唯一の女子だった。人気者だったが全員が牽制しあい、結局誰とも付き合わないまま卒業していった。
「ユキちゃん、懐かしいなあ。かわいかったよね」
ナリデンが舌を出しながら肩をすくめる。
「なんだよ、お前もユキちゃん好きだったのかよ」
ホーJがすかさず突っ込む。
「僕は憧れてただけだよっ。だってユキちゃんはみんなのアイドルだったからさっ」
ナリデンはクジラがよそってくれた鍋を、ハフハフしながら口の中に入れた。
全員に配り終え、クジラも自分でよそい食べ始める。
「アツッ」
チャビンが汁を飲もうとして、熱さで飛び上がった。
「あんまり熱いの食うと余計ハゲるぞ」
ホーJは容赦ない。
「お前こそ甘いもん食いすぎて糖尿になるぞ」
「ホーJってしょっちゅう教授とシフォンケーキ食べてたよね」
話題をすり替えるナリデンの眼鏡が湯気で曇る。
クジラは慎重に鍋をフーフー冷ましながらほうばった。
「ああ、アフタヌーンティーごっこ毎日付き合ってた。あの汚い研究室をパーム・コートって呼んでたよ、あのロマンチスト教授は」
ホーJが早くも四缶目のビールを開ける。クジラははりはり鍋に肉をタイミングよく追加するのに余念がない。
「うまい! クジラのハリハリ鍋は本当に昆布と鰹の出汁が効いているよ。あっさりしているのにコクがあるんだ」
チャビンがそういうと、クジラは無言で赤くなった。
「いやずっと言ってるけど、冬の屋上ならおでんとか石狩鍋とかもっと腹の足しになるものたくさんあると思うんだよな」
そう文句を言うホーJは、誰よりもたくさん食べている。
「ロマンチスト教授が講義でよく『クリスマスに雪が降ったら奇跡が起きる』って予言してたな」
ぽつりとカリンバがつぶやく。
「してた、してた。あれ、要するに雪が降る頃までにギリギリ卒論出せれば奇跡的に就職できるかもって言いたいだけだったんだよね。全然ロマンチックじゃない現実的な話だよねっ」
ナリデンがよく火の通った肉を頬張りながら笑う。
「そうなのか。だからひな祭りに卒論出した俺は就職できなかったのか」
カリンバも悔しそうに肉を噛む。
「え? 就職する気ないからアフリカ行ったんじゃないの?」
「実はアフリカには行っていない」
ナリデンの問いに素直に答えるカリンバ。
「えええ、そうなの」
「そういうことにして、コンビニでバイトしてた。今は店長」
「アフリカで発電所建設するって言ってたやつがコンビニ店長か」
ホーJが躊躇なく叩く。
「店長なんてすごいじゃない。でもいつかアフリカ行けるといいね」
「アフリカはもういいんだ。カリンバも弾いてないし」
「そっか」
「みんな大人になったってことさ」
ホーJがしんみりと言う。
全員が言葉を失い、クジラが鍋をかき回す音だけが屋上に響く。
しばらく黙々と鍋を食べていると、ナリデンが左手の手のひらを宙に広げた。
「雪だよ」
音もなく雪片が夜空から落ちてくる。
ナリデンの手のひらに落ちると、結晶はわずかな体温で溶けた。
「今日ってクリ……」
チャビンがナリデンに訊こうとした瞬間、屋上の扉がゆっくり音を立てて開いた。
「こんばんは」
チャビンとナリデンとカリンバが一斉にそちらに目を向けて肉を咥えながら目を丸くする。
スラリとした、ショートカットの女性が立っていた。
「あれっ、ユキちゃん?」
水名雪音は微笑みながら皆に近寄り、ホーJとクジラの間に座る。
三人は箸を持ったままその様子に見入っていた。
「久しぶりだなあ。元気?」
「うん」
ユキが学生時代と変わらない笑顔で答える。
「発表がある」
ホーJが全員に視線を向け、注目させる。
「なになに、改まっちゃって。気になるぅ」
ホーJはたっぷり間を開けてから、まるでノーベル賞の発表のように厳かに話だす。
「ユキちゃんとクジラが結婚する」
クジラの頰がますます赤くなる。
「え? クジラが?」驚くチャビン、ナリデン、カリンバ。
クジラは大きな背中を丸め、クジラというより冬眠中のクマのようになる。
「クジラ、フラれたんじゃなかったの」
ナリデンが目を丸くする。
「あの大学三年のクリスマスに、『ユキがフッた』から奇跡が起きたんだよ」
「雪が降った? どゆこと?」
「教授の予言は当たったのさ」
今日、初めてホーJが笑った。
クジラが全身真っ赤になって、ユキにはりはり鍋をよそう。
ユキはそれを慣れた手つきで受け取る。
「このはりはり鍋もクジラがユキちゃんにモテようとして最初作ったんだってさ」
「鍋でモテるか?」
チャビンが不思議そうな顔で訊く。
「研究室の汚れた実験道具で作ってたから、最初は断った」
ユキがくちびるを内側に巻き込んで肩をすくめた。
「そんなんだったら俺が連れてったイタリアンの方がずっと洒落てたのに」
チャビンが悔しそうにつぶやく。
「俺も映画に誘った」
「あ、僕は絵本をあげた」
「お前らいつの間に。俺もユキの誕生日にカリンバでオリジナル曲をプレゼントしたけど」
カリンバの低い声で顔を見合わせる四人。
そして白いため息を吐く。
「まさかのクジラがねえ……」
チャビンが思い出したように肉を頬張る。
「はりはり鍋は鯨肉と水菜だけのシンプルな鍋なんだ。今はなかなか鯨肉が手に入らないから豚肉で代用しているけど」
照れていたクジラがようやく口を開く。
「……あ、鯨肉と水内、クジラと水菜!」
ナリデンが目を丸くして二人を指差す。
「ほとんどダジャレだな」
カリンバも呆れる。
「それを毎年続けられちゃったんだよね」
ユキが恥ずかしそうにビールを飲む。
「クジラの粘り勝ちか」
巨大な体躯のクジラがダウンジャケットをユキの肩にかける。
「ありがと」
ユキの言葉を満面の笑みを返す無精髭のクジラ。
「江戸時代より前には、枯葉の擦れ合う音や物が燃える音を『はりはり』と言ってたらしい」
カリンバが思い出したようにひとりごちた。
「へええ。じゃあ、雪の降る音もはりはりって言ってたかもねえ」
「雪の降る音は、ひらひらか、はらはらと一千年前から決まってるだろ」
ナリデンの思いつきを軽くいなすホーJ。
「だってユキがフってはりはりしたんじゃない」
「なんでもいいよ、二人ともおめでとう!」
チャビンが缶ビールを振り上げる。
「おめでとう!」
静かな屋上が温かな声とハリハリ鍋の湯気で包まれる。
「はふがほう」
ユキが熱い肉を咥えながら答える。
それを見たクジラがユキのハフハフ顔を真似て笑う。
ナリデンも四本目の缶ビールを開けた。
「雪がはりはり降ってきたよ」
はりはり うつりと @hottori
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