四葉の鎖

芋メガネ

四つ葉の鎖

著 木花


 昏い、昏い水の底。

 空からの光も多くは届かず水に沈んだ建物には影が落ち、人の代わりに数多の魚達がその場所を住み処にしている。

 かつてこの場所のシンボルだったであろう巨大な塔もその面影は殆ど残しておらず。元の色が分からぬほどに錆に覆われていた。そんな景色を遠目に僕はこの場所を一人歩んでいく。


 この場所はあまりにも人が住むには空気も熱も足りず、それを示すかの様に辺りには白くなった骨が無数に散らばっていた。

 踏まない様に気をつけはしているのだが、どうしても砂に埋まった物は見つけられずに足の下にしてしまって、その度に申し訳ない気持ちになる。


 ただ、この世界には僕独りな訳でもない

『よう、ここに客が来るのは久しぶりだな』

 声の方を向けば、そこには二足歩行の機械仕掛けの人形が一体。いや——、

『そもそも人間はおろか、動いてる僕らさえも少なくなってきましたからね』

 正確にはこの場には、僕も含めて二体だ。




 この世界に、もう人は居ない。




 かつての大災害で人類という種は絶滅し、人の住む地上のほとんどは海の底へと沈んでしまった。

 この水底を闊歩するのは人の記憶を回収し、保存する為に造られた僕ら"自律型作業用ロボット"達。正確には人の記憶を移植した、機械仕掛けの人モドキ。

水底に沈んだ人や物を探すために作られた僕らは水の中でも錆びることなく、少しの太陽光でエネルギーを賄うことができるように設計されていて。結果として人が滅んだにも関わらず僕らは生き延びてしまい、今この水底の世界は魚達と僕ら人モドキの世界となってしまっていた。


 ただ記憶を移植されたとはいっても当時の記録媒体にも寿命はあり、今となっては自分が人の身体を持っていた時の記憶は全て失われて。自分が何者なのか、何故こんな身体になったのかはもう思い出せない。機体に刻まれていた識別番号ももう掠れてしまって、幾つもいる人モドキの一体でしかなくなってしまったのだ。


 そして顔も個性も全部失った僕たちは、この水底であたかも人だった頃の様に会話を交わす。

『貴方はここで何を?』

『俺は人の記憶探しついでに散歩してたらエネルギーが尽きちまってな。五日ほどここで朽ち果てるのを待ってたらお前さんが来たところだ』

『じゃあ、僕のエネルギー分けてあげますよ』

『いいのか?』

『いいですよ。丁度充電してきたばっかなのでそれなりに余ってますし』

『お前さん、いい奴だな』

『困ってる時はお互い様です。僕が困ってたらその時はお願いしますね』

 ほんの少し命の形が変わっただけでやりとりは人とそう変わらず。僕らは互いに支え合いながら生きていた。


『そういや、そいつはなんだい?』

 彼は僕のケーブルから電力を受け取りながら、僕の首元を指さす。その先には欠けた、歪な形をした三つ葉のクローバーのペンダント。

『ああ、これですか』

 上へ上へと浮かぼうとするけれども首に引っかかったままのそれ。

『よく覚えて無いんですけど、ずっと付けたままだったので』

 何となく無いと不安になってしまうので、いつから付けているかも思い出せないけれどずっと首から提げている。正確には引っ掛けているが正しいのだが。

『いいじゃねえか。俺たちはもう誰が誰だかようわからんが、それがあれば次会った時にお前さんだって一眼でわかる』

『そしたら、今度は助けてくださいね』

 笑顔、は見えないが出来るだけ朗らかな声で。感情を目に見えるところで露わにできない分、最大限にここで表して。

 それと同時、充電の終わりを告げる電子音が鳴り響く。無事に終わったことを嬉しいと思う反面、この会話が終わってしまうことを少し寂しいと思ってしまう。

『おうよ勿論さ。ま、とりあえずは今の分の払いだ』

 そう、彼が言うと転送されるのはこのあたりの地理データ。事細かに人が住んでいたころのデータとのすり合わせも行われているようで。

『いいんですか、こんなに?』

『たりめえよ。お前さんは命の恩人だからなぁ。ただ、な――――』

 突然、彼がいい淀む。少し疑問に思っていたところで、彼は続けてくれて。

『この辺りの人間の記憶は見ないほうがいい』

『どうして、ですか?』

『いかんせん当時の災害に巻き込まれた人間の記憶が鮮明に残ってやがるんでな。どうしてもショッキングな映像ばかりが流れ込んできちまうんだ』

 彼の口ぶりからしても相当見るに堪える記憶が多いことは明らかで。知らなければどうしてもこちらの精神がやられてしまっていたと思う。

『とりあえずもし急ぎじゃねえのならもう少しマシな場所には連れてってやれるが……どうする?』

 ただ、僕にも理由があってこの場所に来た。

『大丈夫です。少し、ここに気になるものがあるので』

『そうかい』

 彼もそれ以上、深くは聞かず。

『まあ無理はすんなよ。一応俺たちは頭ン中だけ人と同じように作られてるらしいからな』

『お気遣い、ありがとうございます』

『探しもん、見つかるといいな』

『できるだけ頑張ってみます』

 手を振り別れる。バッテリーが戻ったおかげか彼の足取りもしっかりしていて。きっとまた会うこともあるのだろうが、しばしの別れを惜しむこととした。

 そして彼の姿が見えなくなった頃、僕も前へ前へと再度歩き出す。この辺りは人の生きていたころの名残が強く残っているようで、地面も綺麗に舗装されていて何もない海底を歩くよりもとても歩きやすく感じる。辺り一帯には数多の白骨があることからも、この場所が人にとって住みやすい場所だったのだろう。

 

 なのに、この辺りには人モドキの姿が見当たらない。一人として存在しないのだ。


 言い方は良くないが、人の亡骸の多い場所は僕ら人モドキにとっては心地の良い場所となるはず。それなのに、ここには人モドキの気配すら感じられない。それだけこの場所にいる人たちの最後の記憶が凄惨で、人の記憶を求める人モドキにとっても苦痛なのだろう。それでも僕は、僕の記憶を探すためにここに来たのだ。

 


 だから、僕は彼の記憶を覗き見る。たとえそれが、凄惨な物であろうとも。




―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 僕ら人モドキには、その身体に宿っていた記憶を読み取る機能が備わっている。


 元々水難事故で亡くなった人を探すために作られたロボットだった僕らには、その人が誰で、どんな終わりを迎えたのかを知る必要があった。だから事細かにその人が最後に何を見たのか、どんな人生を迎えたのかを読み取れるようになっていた。


 でもそれはかつて人がまだ生きていたころの事。機械的にはこんなことする必要もないし、そんな義務を遂行するようプログラムなんかも組み込まれてはいなかった。 それでも僕らが人の記憶を求めるのは、僕らが僕らである自我を保つため。人の頃の記憶も失われ、得た記憶も長く保持できない僕らは人が生きていたころの記憶を辿ることで僕らが人モドキであり続けるようとこの数十年とも言える時を生きてきた。


 そしてもう一つ、僕らは本当の自分が何者であるかを探し求める。

 誰かの記憶を頼りに、僕らは僕らという存在を探し続けているのだ。




―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



『っ…………』

 時間としては二日ほどが経ったのだろうか。記憶が、濁流の様に流れ込んだ。人一人の人生という膨大な情報量。それも死に際がやはり印象的だったのか、彼の死があまりにも鮮明に、はっきりと自分の体験のようにして受け取ってしまった。

 人モドキが人の死の記憶を読みたがらないのは余りにもその体験を己の物のように捉えてしまうから。死に近い、ではない。自分は彼の記憶を読み取る中で、確かに一度死んだのだ。そんな記憶を読んでしまえば、普通自我を保つなんて話ではない。そもそもそれ以上に精神が崩壊に至る可能性が高いのだ。


 ただ、それも承知で僕はこの場所に来た。


 ここは、かつて僕ら人モドキが人であった頃の体が残されている場所。僕は、僕という人間がどのような経緯でこんな身体になったのか知りたい。たとえ僅かしか残らない記憶だったとしても、それでも僕がどうして僕になったのか追い求めてしまう。 忘れてはいけない、思い出さねばならない物が確かにそこにある筈だから。


 しかし当たり前というべきか、一回の読み取りでもこうも精神を摩耗してしまうと心が折れそうになる。 まだ一人目。手掛かりの一つさえも手に入れることができていないのに、こうもへこたれてしまうと終わりが見えなくなってくる。ましてや、ここに本当に自分の体がここにあるかも分からない。余りにも果ての無い、険しい道のりに途方に暮れてしまいそうになる。

 

 まずは一度バッテリーの方を補給しよう。とは思うものの、やはりこれだけの消耗の後では足元がふらつき揺らぐ。例え舗装された道でも思うように足が進まない。

 急いでバッテリーを補給し、新しい記憶を見なければ。だが逸る気持ちに身体は付いていかず転倒。立ち上がろうと両腕に力を込めるが、関節のモーターはギリギリという音を立てて悲鳴を上げる。そういえばメンテナンスもこの数日ロクにしてなかった。このまま無理に立ち上がれば駆動部が壊れるのは何となく察しがついた。

『どうしようか……』

 別の方面で途方に暮れる。周りに人モドキが居ないのにこの状況はあまり好ましくない。

 とりあえずはSOSは出すけれど、運が良くて一週間後に助けが来るだろうか。幸か不幸か彼に渡したバッテリーを差し引きしてもまともに動かなければ一ヶ月は保つだろうし、どうせこの命は不死に近い。


 気長にのんびり待とうとした矢先。

『おうおう、大丈夫かお前さん』

 この眼には、あの時の彼の姿が。思ったより、運が向いていたようだ。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


『念の為見に来たんだが、まさかここまで丁度いいとはな』

『助かりました』

 バッテリーを受け取った僕は彼の手を取って立ち上がる。

『なに、お前さんには恩があったし……それに気になる事を思い出してな』

『気になる事?』

 聞けば、僕の首にかかったネックレスを指さす。

『この辺の仏さんの記憶で、お前さんが付けてるソレに似たのを見た気がしてな。お前さんがもし記憶を探しているのなら何かしら手掛かりになるんではないかと思ってな』

『……!』

 確かな手掛かり。途方もない道だと思っていたが、思わぬ所でこの縁が長き道のりの導となって。


 ただ彼も少し疑問に思ったようで、僕に問いかける。

『にしてもお前さん、どうしてそうも焦りながら己の事を知りたがる? もう少し遠回りしながらでも良いんじゃねえのか?』

 自分の事を知りたがる人モドキは五万といるが、鮮明な死の記憶を漁ってまで知ろうとするのはそうそういない。 当たり前だ。生きているものが、不死に近い感覚を得た筈なのにも関わらずわざわざ死を好んで体験しようとする者はいない。


 それでも僕がこうも焦るには、漠然ではあれど確信があった。

『思い出せない、思い出せないんですが……誰かと何かを約束した気がするんです。とても大切な、約束を……』

 人としての記憶は残っていない。だが記憶領域の深くに刻まれた想いのカケラは確かに残って、今も僕にそれを果たせと告げてくる。そしてそのカケラは、僕にこのペンダントを決して手放すなと言い聞かせてくるのだ。

 

 彼も、小さく頷くと少し納得してくれた様で。

『なるほどな……。なら俺が手伝わない理由もねえ。こっちだ、付いてきな』

 ゆっくりと彼は歩き始める。人々の亡骸の一つも踏まない様に、それでいて慣れた様子で。

 彼が向かったのは一つの建物。元が何の建物かはもうわからないが、内部を見る限りは何かの研究施設だったのだろう。

 奥深く、奥深くを進んでいく。途中崩れた道はあれどこの水底では意味を成さない。歩いて、時々泳いで彼が進む先についていく。


 そして辿り着いた場所にはいくつもの亡骸が。

『ここは……』

『恐らく、俺たち人モドキの身体が保管されてた場所だろうな』

 その多くが綺麗に並んで横たわり、その命の終わりを迎えていた。見れば医療器具がその亡骸の周りにも配置されていて、きっと本来は役目を終えた僕ら人モドキは再び人として戻るように作られていたのだろう。

 けど、それは叶わなかった。彼らが帰還するよりも早く、この場所は水に呑まれてしまって。

『こいつが、そのペンダントに似た何かを持ってた筈だ』

 代わりに今、僕の記憶の道標になってくれて。

『まあ、その無理はするな。外の奴らと比べりゃマシだが、それでも心地のいい記憶じゃあねえ』

『お気遣いありがとうございます。ここまで来たんです。約束したその人の為にも、やってみます』

『そうかい。じゃあ、幸運を』

『はい、ありがとうございます』

 親指立てた彼に小さく頭を下げて、僕はその亡骸と向き合う。


 僕は己が存在を、この胸に残るカケラを求めて、

『失礼、します』

 三つ葉のペンダントをこの手に、未知なる記憶へと手を伸ばした。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 初めの記憶。目の前に広がるは緑一面の草原に雲一つなき青空の下。

 まだこの世界が水に沈む前の、人が住んでいた頃の地上の姿。

 暖かな陽射しと涼やかな風が優しく身を包み、花々や草木の匂いが春の訪れを報せる。



「まってよ、たっくん」

 少女の声。 歳にして三歳か四歳程の子の声がした。この声は、この体から発せられて。少女がその目で追うのは少女と同じ年頃の少年。追いかけっこでもしてるのか視界が激しく揺れて揺れて、時々何かに躓き視界が跳ねていた。


 少し、不安が生じる。このまま走り続ければ転んでしまうのでは————

「あっ」

 ………的中。

 視界が大きく回り始め、草のクッションの上に転がり込む。

 ただ転がった時に膝を擦りむいた様で、破れたズボンから傷口が覗いている。

「いたい……いたいよぉ……」

 幼児にこの痛みはやはりそれなりだった様で、少女は泣き出し始めてしまう。涙で視界がぼやけ、少女の母親が駆け寄っても泣く気配は無く。もはや溢れ出る感情のままに少女は泣いて、泣いて、泣き続けて。

「はるちゃん」

 同じく彼女に駆け寄った少年が声をかけると同時、一度声は止んで。

「これあげるから、なかないで……」

 ほんの少し不安げに、その小さな手の半分を埋め尽くしてしまう程の四つ葉のクローバーを差し出した。


 涙が、止まる。 痛みが無くなったわけではない。それ以上に大きな気持ちを、彼女は感じ取ったようで。彼女も足元の小さなそれの一つをちぎって彼に渡す。

「こうかん。これ、わたしから……」

 小さな三つ葉のクローバー。握ってから手を開いたからくしゃくしゃになってしまっていて。

 それでも少年は、この上ない笑顔を向けて。

「ありがとう、はるちゃん! 大事にする!」

「うん……私も大切にする……」

 先程まで泣き喚いていたのが嘘の様に少女も満面の笑みを浮かべる。


 小さくも大きな約束。

 これが、彼女にとって最初の記憶だった。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 彼女、春香という少女の記憶を辿っていく。明るく元気で、時々お転婆だけれども優しき、春そのものの様な少女の記憶。


 そんな彼女の傍にはいつもたくる拓輝という少年がいた。心穏やかで、自分を省みぬ程に他人想いの優しき少年。 幼き頃からの付き合いで、運動会や学芸会などの人生のイベントの時は勿論、彼女が涙した時には必ず彼がいて、彼が喜ぶ時にも必ず彼女がいた。


「ねえ春香、まだそのクローバーの栞使ってるの?」

「だって、たっくんが初めて私にくれたものだもん」

「そんな、小さい頃のプレゼントを取っててくれるのは嬉しいけど……」

「まさか私のプレゼント、捨てたりしてないよね?」

「捨てるわけないだろ。ちゃんと家に取ってあるよ」

「ほら、たっくんだって同じでしょ?」

「だって、それこそ春香からの最初のプレゼントだから。って、そろそろ行かないと門閉まっちゃうよ」

「そうだったごめん。今支度する!」


 友達、と言うにはあまりにも深い関係で。中学や高校に上がれば周りに噂されるくらいには親しく、当の本人達にはこの関係があまりにも当たり前のものとなっていたからいくら騒がれても気にすることなく、今まで通り仲良く、仲睦まじく過ごしてきた。



 ただ、少女の方はこの穏やかな、波のひとつもない関係が続くのをほんの少し快く思っていなかったのだろう。

「そうだ、たっくん」

「何?」

「今度の休み、空いてたり……する?」

「部活は休みだけど……どうして?」

「その、今やってる映画……一緒に行かない?」

 一歩その関係が近づく様に、また別の名前で呼ばれる様に少女は踏み出して。

「……うん。勿論、一緒に行こう」

「……!」

 少年も同じだった様で、歩み寄ることで二人の関係はより近づいていった。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 彼女の、いや二人の記憶はこれを機にして増していく。 二つの糸が撚り合わせられるように二人の時間が一つになって交わり合って。一本の糸、というよりも一本の鎖の様に二人は固く結ばれ、互いに互いを支え、幸せを紡ぎながら生きていく。


 けれど、その時間は長くは続かなかった。


「嘘でしょたっくん……ねえ……」

「やめなさい春香! 一番辛いのは拓輝君なのよ……」

 少女は目元に涙を浮かべながら、やり場のない怒りを露わにしながら彼に詰め寄る。彼女の母も静止するが、それでも抑えきれないほどに彼女は悲しみ、怒る。

「……ごめん、春香」

「嫌……嫌よ嫌……! なんで、何でたっくんが……!」

 無慈悲とも言えるその、運命に彼女は幼き頃と同じ様に、いやあの時よりも感情の全てという全てを吐き出していた。



 彼、拓輝は不治の病に冒された。



 今はまだ症状は小さくとも、次第に身体が動かなくなり、いつかその脳が、心臓が停止して死を齎す病。 その時が来るのは数十年後かもしれないし、明日かもしれない。 どちらにせよ彼はこれからその身体に爆弾を背負って生きていく様なもの。若き彼には余りにも酷な運命。

 だが、少女が怒りをぶつけていたのはその事にではない。

「たっくんじゃなくたって良いじゃない……そんなロボットのテストなんて……」

 彼女が許せなかったのは、彼が選んだ、最後の命の使い方だった。

「もう一緒にいられないならもっと長く、せめて生きてる間だけでも一緒にいてよ……。きっとたっくんじゃ無くても大丈夫だから……だから、さぁ……」

 涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになる。感情もごった混ぜになって自分がどんな顔をしてるかも分からなくなる。


 嫌われてもいい。それでもいいからせめて最期まで長く一緒にいたい。そんな彼女の思いが、願いが僕にも突き刺さって。


 それでも彼は、優しく、力強く彼女を抱きしめた。

「ごめん、春香……勝手に決めて……」

「そうだよ……何で、何で勝手に一人で……!」

 彼の胸の中で涙を流す。彼女がどれだけ涙を流し、シャツを濡らそうとも彼は決して離さず。優しく、優しく包み込んで。

「でもね、春香。僕はまだ君と生きていたいからこの選択をしたんだ……」

「え……」

 彼の思いを、願いをゆっくりと口にした。


「僕がロボットのテストをしてる間はちゃんと僕の身体を生かしてくれるみたいで、ロボットは太陽光でずっと動くみたいで、だから今は治らないかもしれないけど、いつか治るかもしれない……その間誰かの為にこの命を使って……全部終わったら、そしたら……そしたらさ……」

 続けようとして、声が震える。言葉が途切れ途切れになる。


 本当は怖い。怖いのだ。

 いつか訪れる死も、彼女と離れ離れになる事も。

 もしかしたらこれを最後に二度と会えないかもしれない。

 そんな恐怖に襲われて、今まで我慢してきた涙が溢れる。泣かないように、彼女に心配をかけないように堰き止めてきた全てが溢れ出して。

「……じゃあ私、たっくんを信じる」

 少女もまた、彼を強く抱きしめた。

「ごめん……ごめん、春香……!」

「私、待ってる。ちゃんと待ってるから大丈夫……」

 彼女の声には怒りももう無く。ただあるのは彼を信じるという想いのみ。

 幼き頃から共に歩んできた彼の想いを信じて、彼女はその背を押すように彼に応えた。


「……いつ、行くの?」

「来週……そこから暫く会えなくなる……」

「だったらこれ、少し早いけど渡しとかないとだね……」

 少女が取り出したのは二つのペンダント。一つには四つ葉のクローバー、もう一つには三つ葉のクローバーの飾りがついていて。

「本当はね、今度の誕生日に渡そうと思ってたんだけど」

 少女は四つ葉がついた方を彼に手渡す。

「私、あの時本当に嬉しかった。たっくんがくれた四つ葉のクローバーが、優しさが本当に嬉しかったの。だからこれは私からの、ずっと一緒にいてくれたたっくんへの感謝の気持ち」

 堪える。泣かないように、笑って渡せるように、最後の記憶が涙で終わらないように。


 そして彼もまた彼女を抱きしめ、笑顔で優しく言葉を紡いだ。

「じゃあ僕は次に君に会う時、必ずこの四つ葉を君に渡す。どんな形になっても、どんな身体になっても君を見つけ出して、またプレゼントするから……!」

「うん……その時は私も、これをあげるから……だから……」

「必ず、必ずまた会おう……」



 約束を交わす。

 叶うかも分からない、それでも絶対に叶えるとその心に刻み込んで。決して、切れることのない約束で僕らは結ばれた。



 そこからの記憶はおぼろげで、長くは続かなかった。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 そして、その時が訪れた。


 場所は水に沈む前のこの場所。

 あれから数年経ったのか少女だったその女性は機械仕掛けの人モドキに何かを握らせていた。

「お前さんも早く意識を移せ!! この場所ももう十分も保たん!!」

「待ってください、すぐに行きます!!」

 天井や壁から水が既に流れ込み始めていて、もう時期この場所が水の底に沈むことは容易に見てとれた。


 そんな状況でも彼女は動揺することもなく、強くそれを握らせたと思えばすぐ近くのベッドに横たわって。

「お願いします……!」

「幸運を……!」


 意識が、遠のいていく。

 浮遊感とともに己の意識が全てあちら側へと移されていく。


 恐怖に思考が埋め尽くされていく。

 確実に訪れる肉体の死。未知の存在へと己の全てを託すという行為。その全てに恐怖が湧き出でて、脳の全てが恐怖で溢れてしまいそうになる。

 けれど、彼女が握らせた三つ葉のクローバーのペンダントに目を向ければその恐怖は全て消えて。

「ごめんねたっくん……本当は迎えにきてもらうはずだったのに、私から迎えに行くことになりそう……」

 ほんの僅か小さな、それでも確かな希望が彼女の視界を照らし出して。


「私も、絶対に見つけ出すから……待ってててね」


 最後のその瞬間、彼女の頭の中には恐怖も闇もなく。

 確かな願いだけが、希望だけがそこに存在していた……



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 


 ――――明転。


 意識が、こちら側に戻る。

『お、戻ったか』

『ただいま、です』

 彼に声をかけられて己がまた人モドキに戻ったことを認識する。

 右手に握っていたそれはうかぼうと上へ上へとゆらゆら揺蕩うが、確かに今もこの手の中に強く握り締められ、確かなものとして感じられる。

『それで、探し物は見つかったかい?』

『僕の記憶じゃなかったんですが……はい、お陰様で』

『そうかい、それはよかった』

 何処となく嬉しそうに口にする彼。口調からして安堵も感じ取れ、己が見つけたものが確かだった事をより強く認識する。


『それで、これからどうするんだい?』

『また、別の探し物を探しに行きます』

『折角見つかったのに、また探し物かい?』

『はい。約束を守らないといけないんで』


 首に、欠けて三つ葉になってしまった四つ葉のクローバーのネックレスをかける。

 彼女からの贈り物で、彼女に渡すべきもの。


 探し出そう、見つけ出そう。そして約束を果たそう。

 彼女も人モドキになったのなら、この水底の何処かに必ず居るはずだから。

 確かになった約束を強く握りしめ、一歩前へと足を踏み出していく。



 己の体も存在さえも不確かで、泡沫と消えてしまいそうになる水底を僕は歩いていく。


 決して切れる事なき約束と、小さな鎖を手繰り寄せるように。


 いつかまた、この四つ葉を彼女に渡すその日まで。


 彼女の三つ葉を受け取る、その日まで。

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四葉の鎖 芋メガネ @imo_megane

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