扇風機
残暑が終わらないと、扇風機の仕事納めはやってこない。
私の部屋で、秋口でも回り続けるこの古めかしい回転翼は、亡くなった親戚から形見分けして貰ったものだ。
彼女と私に、特別な交流があったわけではない。
ただ、月に一度ほど会って、一緒に珈琲を飲んでいただけである。
それでも、貧乏にあえぐ私に、彼女はこの扇風機を残してくれた。
昨今は熱中症も怖い。
彼女だって暑いのは嫌だったのだろう。
夏を乗り切れたのは、間違いなくこいつのおかげであった。
さて、扇風機の置き場所というのは、各人違うものと思う。
私の場合は、布団の頭のところに置いている。
強弱をつける、リズム機能などと言うこじゃれたものを使ったこともあるが、あれは面倒なだけであまりありがたみを感じない。
もっぱら、弱とも強ともつかない、中途半端な強さで延々と回されているものだ。
そういうわけだから、寝ているときは常に、私の顔には涼風が当たる。
ある晩のことだ。
仕事を終え、疲れ切って寝床に入り、私は扇風機のスイッチを入れた。
勢いよく回り始める回転翼が、風を前へと掻きだし、夢の世界へのチケットを与えてくれる。
いつもはそうだった。
しかし――この日は違った。
ぴちゃ、ぴちゃっと。
顔に、何かが当たる。
思わず目が覚める。
唸りながら顔を撫でると、手のひらが湿った。
なにか、雫のようなものが顔に当たったのだ。
最初は雨漏りだろうかと思ったが、今日は晴れだったはずだ。
飲み物をこぼしたかと思ったが、枕元のペットボトルは空っぽである。
では、なにかと思っていると、また。
ぴちゃ、ぴちゃっと。
顔に、水滴が降ってくる。
そこで、ようやく扇風機が原因なのだと気がついた。
ありえるかどうかはともかく、ファンが結露でもしたのだろうと考えたのだ。
一度スイッチを切り、回転翼をマジマジと見る。
……なにもない。
異常と呼べるものは、ひとつもない。
古ぼけた羽根があるだけで、ホコリを僅かにかぶっているだけで、おかしなところは見当たらない。
その日は、それで終わった。
翌日、また夜になって、寝苦しいものだから扇風機をつける。
昨日の事なんてすっかり忘れて寝入る。
ぴちゃり、ぴちゃり。
また、顔に水滴が当たる。
今日のはすこし、粘っこい。
起きて扇風機を見やるが、やはり異常はないのだ。
疲れすぎて、幻覚でも見ているのだろうか?
首かしげながら、なんだか扇風機をつける気にならず、そのまま寝入る。
真夜中のことだ。
頬に当たる風で、意識が微かに浮上する。
ああ、慣れ親しんだ扇風機の風だ。
寝苦しくて自分でつけたのだろうか?
浮かんだ疑問は、心地よさに解けていく。
そのままもう一度、柔らかな風に抱かれながら眠りに落ちて。
ぴしゃり。
顔を、汁気を含んだ何かが叩いた。
ぴしゃり。
また顔に何かが当たる。
扇風機の羽根が一回りするごとに。
湿気た繊維状のものが顔を叩く。
これには慌てた。
すぐにスイッチを切る。
そうして、私は愕然とした。
扇風機の回転翼には、
びっしりと、長い黒髪が絡まっていたからである。
それが、しとどに濡れ、涙のように粘液を滴らせているのだった。
私はワッと悲鳴を上げ、そのまま昏倒した。
翌朝、悪夢だったかと目を覚ます。
けれど扇風機には。
変わらず黒髪が、巻き付いたままになっていた。
床は、現実だと私に教えるため、ぐっしょりと濡れているのだった。
彼女の死因は、入水自殺だった。
そういえば、もうすぐ命日だ。
今年の夏も、きっと彼女には暑かったのだろう――
秋の夜長のホラー短編集 雪車町地蔵@カクヨムコン9特別賞受賞 @aoi-ringo
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