四、探偵のお遊戯
裏庭の物干し竿に掛けた洗濯物はパタパタと音を立ててなびく。そこは日当たりも良く、洗濯物を干すにはうってつけの場所だった。ここ最近は雨続きだったから、洗濯物の量は一段と多い。例えば、探偵の肌着、探偵のシャツ、探偵の靴下、探偵の寝巻き、探偵の──
数えるほどの自分のものは全て干し終えてしまい、残ったのは全て探偵のものばかりだ。足元に置かれた洗濯桶には、探偵の衣類が高く積み上げられている。それを目にしているだけで、何やら腹立たしい気持ちになってきて、溜息が漏れる。
俺は頭を振った。そんな事を気にしている場合ではない。気を取り直し、今一度作業に取り掛かることにした。
幸運なことに、今日は朝から快晴だった。空を見上げれば、雲ひとつない青空が広がっている。この分だと、洗濯物も夕方までには乾くだろう。
やはり、久し振りの晴れというのは気分がいい。こんな日は、窓を開けてみるのも有りかもしれない。事務所の窓は大抵の場合が閉めっぱなしだ。こういう時ぐらい、部屋の中に新鮮な空気を取り込んだ方がいいに違いない。
そんなことを考えながら、洗濯物の皺を伸ばしては掛けていく、その作業を繰り返した。
ようやく桶が空になった頃、酷使した肩や腕をほぐそうと伸びをする。探偵にあれこれ押しつけられるのは気に食わないが、こういった作業は性に合っているらしい。
「これでよし、っと」
使い終わった桶と洗濯板の水を切り、壁に立て掛けておいてから、勝手口から屋敷の中へ戻る。
事務所に入ると、机の向こうから呑気な鼻歌が聞こえてきた。だとしても、こんな鼻歌を歌う人間なんて、この屋敷には一人しかいない。
毎度のことではあるが、報酬を貰った後の探偵は誰が見ても分かるくらいに機嫌が良い。調査料はもちろんのこと、調査報告の際にはちゃっかり追加報酬をせしめる辺り、本当に抜け目が無い男だ。
「……他人の生活こそこそ覗いて貰う金、なぁ」
窓の鍵に手を掛けつつ、ぼそりと呟く。
「なーに、浮気してたあの奥方が悪いんだよ。ありゃ、旦那殿も大変なこった」
探偵の声の調子は、微塵も変わらない。
「そりゃ、そうかもしれないが……」
俺としては何か言い返したいところだったが、とりあえずは黙っておくことにした。現状、この探偵の働きで飯を食わせてもらってる立場だ。あれこれ口を出す権利は自分には無い。
窓を開け放つと、爽やかな風が髪を揺らした。その心地に目を細めてから、室内に視線を向ける。ふんふんと音の外れた鼻歌の主は、なおも上機嫌で机に向かっている。
ところが、どうにも様子がおかしい。ペンを走らせているわけでも、書類の束を捲っているわけでもない。書籍の山に阻まれてよく見えないが、何やら熱心に手を動かしている。
気になった俺は歩み寄り、探偵の手元を覗き込んだ。
「……紙飛行機?」
「その通り。今日は気分がいいからね」
嬉々としてそう返す男の手の中には、便箋を折り紙代わりに使った、何とも不恰好な紙飛行機が収まっていた。左右で翼の大きさは異なり、よく見ると何度も折り直された跡がある。その出来は、子供が適当に折ったものの方が、幾分か見栄えがするのではないかと思ったほどだ。
「ひどい出来だな」
呆れ気味に感想を述べると、探偵はその言葉を聞き逃さなかったようで、こちらを見上げて一瞬、眉をひそめた。
「でも、これはこれで味があるだろう?」
「どこがだ。そもそも、まだ営業時間内だろ。客来るぞ」
探偵は「平気平気」と言って席を立つ。隣で呆れる俺の存在など、意に介していない。探偵業が暇ではないことくらい、探偵自身が一番知っているはずなのに。
「えいやっ」
自身が作り上げたそれを手に、思いっきり腕を振る。
だが、勢い良く手元を離れた瞬間、くるりと宙返りをしたかと思えば、そのまま急降下して床に墜落する。
探偵は床に落ちた自分の紙飛行機を拾うと、今度は上向きに、また腕を大きく振り回した。何度か試した後、諦めたように大きく溜息をつくと、手に持ったそれを机の上に置いた。
「どこが駄目なんだろう……」
本気で不思議そうにする男を見かねて、仕方なく口を挟んだ。
「あんな折り目だらけの紙飛行機が飛ぶわけないだろ……」
「でも、結構自信作だったんだよ?」
大真面目に言われても、困ってしまう。その自信はどこからやってくるのだろうか。一度くらい訊いてみたいものだ。
しかし、当の本人は首を傾げているばかりだったので、俺は助け船を出してやることにした。
「……手本見せてやるから、俺にも一枚くれ」
「……どーぞ」
探偵から手渡された便箋を受け取り、物が溢れる机上の僅かな隙間にそれを広げる。
「左右の翼の釣り合いが取れるよう、角と角をきちんと合わせて折るんだ。それから、こうやって、先端を少し折って、頭に重しをつけてやる」
手本を見せながら順に説明をしていく間、探偵は黙って俺の手元を眺めていた。
「……これで完成」
自分で言うのも何だが、まあまあいいものができたと思う。最後に、丁寧に形を整えてやると、おお、と声が上がる。
「俺のやつと全然違う」
探偵は完成したものをまじまじと見つめている。
「最後は……風上に向かって……それっ」
紙飛行機は、部屋に流れ込む柔らかな風を全身に受けて、ふわりと浮かぶ。緩やかな曲線を描き、窓から射す太陽の光を浴びて飛ぶ姿は、軽やかに空を翔る鳥の姿を思い起こさせた。
部屋の隅まで飛んだところで、それは床へと着地していった。その行方を追っていた視線を戻すと、そこには羨望に満ちた眼差しの男がいた。
「すごい……」
「ちょっとしたコツが分かればいい。アンタはそれ以前に、もう少し丁寧に折る必要があるけどな」
そう言ってやれば、探偵は拗ねたような顔をしながら、自分の椅子に座り込んだ。
「……紙飛行機にも文句言う?」
「これは文句じゃない、指摘だ」
素早く訂正を入れると、探偵は肩をすくめて笑った。
「って……いい加減、休憩してる場合か?」
紙飛行機を拾い上げるついでに声を掛けるが、探偵は悪びれる様子をちっとも見せずに、指を三本立ててみせた。
「ご明察。実は、明日までの書類が三つもある」
「呆れた」
俺は溜息混じりに返事をしてから、探偵に背を向けた。俺自身にもやるべき仕事は、まだ山のようにあるのだ。夕飯の買い出しも、部屋の掃除もまだ終わっていない。
「でも、君、とっても楽しそうだったよ? こう、目が輝いて」
思いがけない指摘を受け、俺は振り返る。探偵は変わらず、横柄な態度で椅子に腰掛け、端正な顔に笑い皺を寄せていた。
「……そうか?」
「そうだよ」
そう断言する探偵を目の前に少し逡巡した後、俺は口を開いた。
思い当たる節は、あるにはある。
「今日は、気分が良かったからかな」
探偵は、屋根の下 藤原暁 @fujinomichi
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