三、探偵の捜し物
「ふう……終わった」
階段と廊下の拭き掃除を終え、額の汗を手の甲で拭う。バケツの傍らにしゃがみ込んだまま窓を見上げるが、太陽はすっかり天高く昇りきった後だった。
「やたらに広いんだよ……この屋敷……」
雇い主に聞こえないよう、口の中だけで愚痴を零すのと同時に、雑巾と指の間からは濁った水が溢れ出る。
何しろ、この屋敷の全ての部屋を隅々まで掃除するとなると、平気で一日が潰れる。いや、探偵の部屋は特別時間が掛かるから、二日か三日は見込むべきかもしれない。それぞれの寝室、台所、食堂、便所、廊下……それを順番に回っていくだけでも大変だ。掃除は苦手な方ではないが、こうまでやるべきことが積み上がっていると、さすがに嫌気が差す。
だが、溜息をついている暇は無い。次の仕事が待っている。
「ええと……今日の分……あとは……事務所か……」
事務所はこの屋敷の中で一番厄介な掃除場所で、応接室も兼ねているせいもあって、綺麗にしておけと探偵に厳命されている。普段であれば営業前か営業後、もしくは客がいない隙を見計らって掃除をしているが、今朝は食事の準備や探偵の雑用に追われ、後回しにせざるを得なかった。とはいえ、暗くなってからの掃除も面倒だ。できることなら、明るいうちに済ませてしまいたい。
「……よし、やるか」
そう自分を奮い立たせれば、自然と、雑巾を絞る手に力が入った。
掃除用具一式を抱え、事務所のドアを少しだけ開けて中を覗き込む。客がいないのを確認して、そっと中に滑り込むと、後ろ手でドアを閉めた。
そこで目に入ってきた光景を見て、思わず足を止める。
「何してんだ?」
乱雑な机を前に、書類をまとめたり、鞄を引っ張り出したりと、やけに慌ただしい探偵の姿があった。
「……喜村? ああ、ちょうど良かった!」
俺に気づいた探偵は、荷物を抱えたままこちらを向くと、大きく頷いて言った。その顔には、苦笑とも焦燥とも言える微妙な表情が浮かんでいる。
「何かあったのか? もしかして急ぎの依頼か?」
この男がここまで慌てるのは珍しいことだ。余程のこと起きたに違いない。そう思って、緊張に身を強張らせた。
「ん、ちょっとそこらで猫捜し」
「……は?」
俺は耳を疑った。まさか、聞き間違いだろう。きっとそうだ。
「そう、猫。猫は嫌い?」
「いや、別に……」
好きとか嫌いとか、そういう問題ではない。呆気に取られる俺にはお構いなしで、探偵は外出の支度を続けている。
「頼まれたんだよね、二軒隣の夫人に。飼い猫が逃げたから捜してくれ、って」
「……本気か?」
つい、声が上擦った。
「うん、夫人も報酬は弾んでくれるらしいし」
至って真面目な顔をしている男に、恐る恐る尋ねる。
「それって……俺も、行くのか?」
「こういうのは、人手が多いに越したことはないからね」
つまり、「ついてこい」ってことか。訊くんじゃなかった。後悔しても遅いけれど。
「今回ばかりは、俺の人脈も役に立たないし……猫と知り合いの奴とかいれば良かったんだけどね」
残念そうな口調とは裏腹に、探偵は軽快に上着の釦を留めていく。
「まあ、これも仕事だから」
逃げられないのは明白だった。それでも、一応の抵抗を試みるくらいなら許されるはず、だ。
「俺、掃除もまだ終わってな──」
「それは後回し。何せ、猫は逃げるが、埃は逃げないからね!」
探偵は俺の言葉を遮って、よく分からない理屈を早口で捲し立てると、つかつかと目の前までやってきたかと思えば、俺の手から掃除用具を奪い取った。
「しかも、あそこの夫人、怒ると……とんでもなく怖いんだよ! 俺、『困り事があったら何でも言ってくださいね~』って言っちゃったし……」
なるほど、それが理由か。合点がいったと同時に、深い溜息が出た。あの夫人の怒り様が尋常ではないことは、風の噂で聞いている。もし探偵が大目玉を食らうとすれば、俺も隣で巻き添えを食らうことになるのは、まず間違いない。
「……分かったよ。行けばいいんだろ、行けば」
俺は両手を挙げて、降参の意思を示す。
探偵は勝ち誇ったように笑うと、俺の肩に手を置いた。
「頼りにしてるよ。君、目いいもんね」
確かに、人より視力が優れていることは自負しているが、それとこれとは話が別だ。
「お人好しめ……だから、便利屋呼ばわりされるんだぞ」
「ははっ、それは褒め言葉かな」
探偵は軽く笑い飛ばすと、ふらりと事務所を後にする。
「褒めてない!」
そう声を張り上げてから、賑やかな探偵の後を追った。
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