二、探偵のご贔屓
「ありがとうございました。また、何かあればよろしくお願いします」
客の姿が見えなくなったのを確認してから、玄関扉に鍵を掛ける。
「何で、俺が見送りやってんだ……」
俺は、げんなりと呟く。やっぱり、人前に出るのは好きじゃない。もとより、愛想笑いさえもできない質(たち)だ。まあ、居候をさせてもらっている以上、雇い主の頼みに応える義理はあるのだろうけれど。
仮にそうだとしても、あの男──高端の方がよっぽど向いている気がする。背は高く、鼻筋も通っていて、常に笑みを浮かべ、それでいて、話術と社交性も兼ね備え、立ち振る舞いにも隙が無い男だ。日頃から、探偵が客と面談している姿は何度も見ているが、それは普段のだらしない探偵とは似ても似つかない。
そんな男に嫉妬こそしないが、羨む気持ちが微塵も無いわけではない。
「アイツ、どう笑うんだっけ……」
ふと思い立って、玄関脇の壁に掛けられた身支度用の鏡に顔を向ける。ぎゅっと口角を上げ、ほんの少し目を細め、頭の中に浮かべた探偵の笑顔を真似た。
だが、鏡に映ったその顔は引きつっていて、到底笑顔とは呼べない代物だった。固い頬はふるふると震え、鏡の向こうからは睨みつけるような視線が投げ掛けられる。
自分で自分を苦笑してから、顔から力を抜く。そこにはいつも通りの無愛想な顔が映っていた。
馬鹿馬鹿しい。そもそも、こんなことをして何になる。別に、あの男のようになりたいと思ったわけでもないのに。
「だから、笑顔は苦手なんだよ」
鏡の中の自分に向かって、そう吐き捨てた。
廊下を抜け、事務所のドアを開く。
元々居間として造られたであろうこの部屋は、入り口近くに応接用のテーブルとソファが置かれ、部屋の隅には電話機もあった。部屋の奥まったところには、探偵の仕事机が据えられ、大量の書籍と書類から成る塔がいくつも建っていた。調査などで外に出る時以外は、探偵は一日の大半をこの机の前で過ごし、今も例外なく、定位置で書類仕事をしている最中だった。
「戸締まり、終わったぞ」
俺は探偵に業務の終わりを告げる。
「うん、ありがとさん」
俺の声に反応して、男はちらりと視線を上げた。その顔には疲れが見え隠れしているが、心なしか満足げにも見える。眠い時の仕事は嫌だのなんだの言っているが、なんだかんだ探偵業を辞めない辺り、根っこはお人好しの類いなのだろう。
ふむふむと感心していると、探偵の机の上に見慣れない陶器の灰皿が置かれているのが目に入った。見事な文様が描かれているようだが、すっかり埃を被ってしまっている。
「あれ、何、その灰皿。アンタ、煙草吸う人だったか?」
「いや、こいつは来客用。最近うちを贔屓にしてくれる客がよく吸う人だから、灰皿ぐらい置こうと思って。物置から引っ張り出してきた」
この男の言う物置とは、今は使われていない部屋のひとつに様々な物品を一緒くたに押し込んだ場所で、どちらかと言えばガラクタ置き場と呼ぶ方が正確だ。
「道理で埃だらけのわけだな」
埃まみれのまま机に置いておくのはどうかと思うが、探偵は一向に気にした様子もなく、自分の前髪を指先で弄んでいる。
「俺も、昔はよく吸ってたけどね。たまに客がくれるのを吸うくらいかな、今は」
「ふーん、今流行りの『キャラメル』ってのは? 煙草の代用に、とか言われてるやつ」
「あー……あれは俺苦手なんだよ。前に一度食べたけど、歯に挟まって仕方がない。だから、俺はこっち」
探偵は仕事の手を止めると、おもむろに机の引き出しからを硝子の瓶を取り出す。その中には、煎餅のように丸くて平べったい形の小さな菓子がたくさん入っている。それは、俺でもどこかで見聞きしたことのあるものだった。
「それ、『ビスケット』ってやつか?」
「そうそう。俺はこの甘さが好きなんだよ。まあ、金平糖やカステラも好きだけどね」
そう言って、探偵は瓶の蓋を開けた。
「手、出しなよ。ひとつあげる」
探偵の言われるままに手を差し出す。「ほれ」と掌に載せられたそれを囓ってみると、サクサクと音がした。砂糖の甘みが口の中に広がり、少し遅れて小麦の香ばしさが鼻腔を通り抜ける。これなら幾らでも食べられそうだ。
「……美味い」
率直な感想を述べると、探偵は得意げに胸を張った。
「だろう? 俺のお気に入りのやつなんだ」
探偵自身も、瓶の中から一枚取り出しては囓る。
そんな男を横目に、俺は眉をひそめた。
「……ただ、少し口の中が乾くな」
ビスケットの欠片が口の中の水分を吸って、何とも言えないべたついた感触になる。
「まあね。それなら、茶でも淹れる? きっと、これに合うよ」
探偵はそう持ち掛けるが、机の前から動こうとはしない。
「……どうせ、それも俺の仕事なんだろ」
先回りして言ってやると、探偵の顔が分かりやすく綻んだ。
「お、気が利くね」
「そりゃどーも」
アンタがやればいいじゃないか、と言ったところで、上手く言いくるめられて、さらに余計な仕事が増えるだけだ。だったら、さっさと終わらせてしまった方がいい。
「あんま食い過ぎるなよ。夕飯入らないぞ」
台所へ向かうついでに、探偵に釘を刺しておく。
「分かってるって」
口では言いつつも、探偵は二枚目、三枚目のビスケットに手を伸ばしている。まったく、困った男だ。
「せっかくだ、美味しいのを頼むよ」
視界の隅で、ビスケットの欠片を口の端につけた男が無邪気に笑うのが見えた。
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