一、探偵の決まり事

「よし、炊けた」

 日が昇ってしばらく経つ頃、俺は台所に立っていた。

 高端という探偵に拾われて、居候になってからというもの、探偵より早く起きて朝飯の準備をするのが、いつしか「決まり事」のひとつになっていた。



 俺を拾った高端海之という男は、素行や浮気の調査といった如何にも探偵らしい仕事から、小さな頼み事まで幅広く請け負う人間だった。どんな些細な依頼であっても断ることがほとんど無いからか、近所では「探偵」ではなく「お人好しの便利屋」として通っているらしく、ちょっとした有名人扱いだ。

 そんな男だからこそ、なのかは知らないが、探偵の下には依頼が後を絶たない。朝から晩まで何かしらの仕事に追われる日々が続き、書類片手に自室で夜通し作業することも少なくない。

 多忙な探偵から押しつけられる仕事は様々だ。料理や洗濯はもちろんのこと、その傍らに探偵業の雑用までもが加わってくる。そうなると、のんびり掃除ばかりをするわけにもいかない。

「これじゃ掃除どころじゃない。アンタ、俺を掃除夫として雇ったんじゃないのか」

 ある時、そう食って掛かったことがある。そんな時でさえ、探偵は書類に目を落としたまま、平然と答えた。

「まあ、掃除が得意な人は欲しかったけど、掃除だけをさせるとは言っていないからね。そうだね、君は言うなれば……助手だ!」

「……じょ……しゅ?」

「いいじゃないか、探偵の助手。素敵な響きだろう?」

 唖然とする俺を尻目に、探偵は愉快そうに笑っているばかりだった。

 とはいえ、死にかけの命を救われた上に、衣食住を提供してもらっている身だ。恩返しのひとつやふたつ、しないわけにもいかない。

 こうして、行くあても無い一文無しだった俺は、探偵の思うまま「助手」として働くことになった。

 その結果が、この「決まり事」だ。



 初めはしぶしぶやっていた仕事も、手を動かすこと自体が嫌いではなかったのが幸いした。特に炊事は、洋式の台所に慣れるのに時間が掛かったが、慣れてしまえば簡単だ。今日のように飯が綺麗に炊けることも、小さな達成感を日々に与えてくれる。

 工程を一通り終え、布巾で手を拭う。汁物と総菜は既に準備してあるから、あとは米が蒸れるのを待つだけだ。

 片手間にちらりと時計を見遣る。

「遅いな……」

 肝心の探偵が起きてこない。いつもならとっくの間に起きていて、整った顔に皺を刻みながら、朝飯の準備を急かす時間だ。

「……仕方ない」

 軽く溜息をついてから、台所を出る。早速、「助手」の出番らしい。



 新しくもなく、かといって特別古いわけでもない洋館の階段を上がっていく。

 街の中心部から少し離れた小高い丘の上に建っているこの屋敷は、大豪邸というほどではないが、それなりに広く、端から見ても中々に立派な造りをしていた。全ての部屋には電気が通り、派手すぎない輸入物の調度品を明るく照らす。一家とその使用人が住むくらいなら、どうということもないだろう。

 それなのに、俺を拾った男はこれだけ上等な住処を持っていながら、使用人も雇わず、一人で暮らしていたという。どうして今更、俺のような得体の知れない人間を雇おうと決めたのか。正直、分からないことばかりだ。もっとも、他人様の事情など、さして興味は無いから詮索はしていない。

 階段を上がりきり、廊下を進む。奥から二番目、そこが探偵の寝室だ。

 ドアの前に立ち、ノックを三回。コンコンコン、と乾いた木材の音が廊下に響いた。

「起きてるか」

 声を掛けてからしばらく待ってみるものの、反応は無い。人が動いている気配も無い。

「おーい」

 今度は強めに鳴らすが、やはり応答は無い。試しに冷えたドアノブを握る。鍵は掛かっていなかった。

「入るぞ」

 一応の断りを入れて、ドアを開けた。

 部屋の中は薄暗く、カーテン越しに差し込む光は、脱いだ衣服や読みかけの本が散らばった床をぼんやりと照らしている。

「昨日、片づけたばかりなのに……」

 掃除が苦手だ、というのが雇い主の言い分だが、いくらなんでも限度があるだろう。自分の働きが見事に無残になった光景を見回してから、部屋の奥に置かれた寝台に近寄るが、寝台の上に探偵の姿は見当たらない。

 寝台から床へ目線を下ろしていくと、掛け布団に絡まったまま、床の上でいびきをかく男が一人転がっていた。寝巻きははだけ、枕は寝台の遥か遠くに投げ出されている。

「おい、起きろ」

 探偵の脇腹辺りを爪先でそっと小突く。小突かれた男は目元に皺を寄せ、ゆっくりと目を開いた。

「……蹴り起こすなんて、度胸がおありのようで」

 俺の顔を見るなり、欠伸混じりに言った。

「そりゃ光栄なこった」

 今となってはすっかり慣れた軽口を叩いてから、床に転がる探偵に手を差し伸べた。探偵は頭を掻きながら俺の手を取り、上半身を起こす。

「今日の予定、何だっけ」

 探偵に催促され、ズボンのポケットから紙切れに写した予定表を引っ張り出す。

「ええと、午前は面談が二件、午後は先週の身元調査の報告、それから」

「あー……聞こえない……聞こえない……」

 探偵は再び床に転がると、逃げるように掛け布団の中に包まった。白の布団に頭から爪先まですっぽりと収まる様子は、さながら蚕の繭だ。

 床の上で布団の繭に包まる男を、もう一度、足で小突いた。

「いい加減、諦めたらどうだ。いい大人だろ、探偵さん」

分かりやすく悪態をついてみせるが、探偵は籠城を解こうとはしない。

「俺は眠い。眠い時は、仕事を……しな、い……」

 それどころか、探偵の声は段々と小さくなっていく。普段、客に対して小難しい言葉を並べ立てているとは思えない、子供じみた物言いだ。

 お手上げだと言わんばかりに、わざと大きく溜息をつく。そういえば、もう飯も蒸し終わる頃合いだ。これ以上、ここで粘っても無駄だろう。

 これから起こるに違いない慌ただしさに想像を巡らせてから、床に転がる寝巻きの男に向き直る。

「俺、戻るぞ。知らないからな!」

 それだけ言い捨てると、踵を返し、部屋を出た。

 ドアを閉める間際、誰かが寝台に沈む音がしたが、俺は聞こえないフリをした。

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