探偵は、屋根の下
藤原暁
零、探偵の拾い者
男は、身も心も闇の中にいた。
勤めていた工場は倒産し、職を失い、家を手放し、穏やかな生活は絶たれた。昼も夜も関係無い。男はただひたすらに闇の中を彷徨っていた。
それは、自分が「いつ」「どこに」いるのかも分からなくなった頃のこと。
僅かな蓄えも尽きた男は、偶々通り掛かった路地裏の塀に萎びた体を預けていた。
辺りに人気は無く、建物の間から差し込む夕日の橙色が荒れた地面を照らしている。上着は土埃に汚れ、空の財布さえ盗まれ、鞄の中には虚しさだけが詰まっていた。
「そういや……最後に食ったの……いつだっけ……」
幾日も食料を与えられていない胃から、無意味に胃液が吐き出されては飲み込むのを繰り返す。身体は鉛のように重く、指一本動かすことも億劫で、乾いた肺からはひゅうひゅうと呼吸が漏れる。
この道端で倒れてから、一体どれくらい経ったのだろうか。自分と外界の境界も曖昧になり、音の無い世界にゆっくりと沈んでいく感覚に襲われる。いっそのこと、このまま眠ってしまいたいと思うほどだが、目を閉じることもままならない。
俺、もう死ぬんだろうな。
そんなことが男の頭をよぎった時だった。
「──ねえ、君」
突然、声がした。塀にもたれ込む男とは別の、男の声だ。
朦朧とした意識の中、男が声のする方に目を向けると、そこには鼠色の背広を着た男が夕日を遮るようにして立っていた。薄暗くてよく見えないものの、随分長身らしく、男を見下ろす目は鋭い。
背広の男は真っ黒な髪を掻き上げると、もう一度、声を掛けた。
「そう、君に話し掛けている」
まるで頭の中を見透かす、奇妙な口調だった。男は、その声が自分に向けられているものだと気づくまで、しばしの時間を要した。
しかし、話し掛けられたところで、返事をする気力も男には残っていない。男は黙って、視線を地面に落とした。
背広の男は長い脚を折って屈むと、下を向く男の顔を覗き込んだ。
そして、一言、問い掛けた。
「君、掃除はできる?」
あまりにも唐突な質問だった。男は思わず顔を上げ、呆気に取られたまま、しばらく言葉を失っていた。
何を言っているんだ。俺は今、死にかけてるんだぞ。
男は心の中で、そう返す。見ず知らずの男からのこんな問い掛けなど、何の価値も無い。ましてや、生死の境にいる人間に対してのそれならば尚更だ。
それでも、男は口を開いた。なぜそんなことをしたのか、男にも分からなかった。ただ、答えなければ、と思った。義務感ではなく、もっと別の何かに突き動かされて。
「……で、きる……おれは、そうじ……できる」
男は血の味のする喉から音を絞り出す。弱々しく空気を震わせるだけだったが、男にとっては精一杯の叫びだった。
背広の男はこくりと頷いて立ち上がると、上着の裾で手を拭い、その手を男に差し出した。
男は何が起きたのか理解できないまま、目の前に現れた大きな手を見つめていた。男の節くれ立った手とは対照的で、背広の男のすらりと伸びた手指には傷ひとつ無い。
「ほら、立ちなよ。手、貸してあげるから」
催促されてようやく我に返った男は、躊躇いながらも差し出されたそれに自分の手を伸ばした。
肌触りの良い手が、土埃で汚れた男の掌を掴む。そのままぐいと引き上げられると、男の体は背広の男の胸へと飛び込むような格好になる。
男が慌てて顔を上げると、深い色を湛えた双眸がこちらを真っ直ぐに見据えていた。今にも吸い込まれそうな瞳だと、男は思った。
それも束の間、背広の男は体を離すと、おもむろに言い放つ。
「俺は高端海之。探偵をやっているんだけど、俺は掃除が大の苦手でね。ちょうど、掃除が得意な人間を雇おうか考えていたところなんだ。君がこの手を掴んだってことは……契約成立、ってことかな」
背広の男──高端と名乗る男は、未だ状況が飲み込めずにいる男に、再び問い掛けた。
「それで、君の名前は?」
さも当然かのように名前を訊かれ、一瞬戸惑うが、男の口からは反射的に言葉が零れる。
「……喜村、朋江」
傷んだ喉からはひどく掠れた声しか出なかったが、背広の男は気にも留めていない。
「よろしく、喜村君。うん、君は運がいい。拾った命だ、拾ったものは大事にするといい」
そう言って、白い歯を見せて笑った。
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