キューピット

nikata

キューピット

「あれ? またかよ」


 契約書類のコピーを整理していた同僚が嫌そうな声を上げた。


「どうかしたのか?」


「あぁ、これ見てくれよ。また付いてるぜ」


 そう言って顔をしかめる同僚の手元に目をやると、白黒でコピーされた書類に赤い斑点が付着していた。


 血だ。私も同僚と同じように顔をしかめる。


「ここのところ多いな。これじゃまるで嫌がらせだぞ」


 同僚はそう言って自分の両手を表、裏の順に確認して血液の出処が自分じゃないことを確認する。


「さっきのお客さんの血、ってことはないよな?」


「それは流石に有り得ない。原本じゃなくてこれは控えなんだから、お客さんが直接触ることはないだろ?」


 同僚は分かってるだろ? というニュアンスでそう問いかけてくる。仕方なく私は頷いた。

 



 血液らしい赤い液体が書類やパンフレットに付着するようになったのは、先月このテナントに越してきてからだった。それまで駅前のオフィスビルの一階に看板を掲げていたうちの賃貸会社は、賃料の安さを理由に駅から徒歩十分のこのロードサイドの空きテナントに越してきた。不景気の呷りをもろに受けた形だ。このままだとゆくゆくは客に部屋を探す仕事の筈が、新しく自分の仕事を探す羽目になるかも知れなかった。


 しかし、そうはいっても部屋を探す人間というのは一定数は必ず存在するもので、駅前と比べて立地的に客が立ち寄り難い場所になってしまったと危惧していたにも関わらず、車などで来やすい分、今の店の方が来客自体は増えたような気もした。

 



 始めに問題が起きたのは越してきてから三日目のことだった。


 店内を訪れていた夫婦客の夫人のほうがそれに気付いて私に声を掛けてきた。


「このパンフレット、なにか付いてるんですけど」


 夫人は汚い物を触るようにインターネットカタログの端を指で摘まんで私に渡してきた。見ると確かに表紙の白地の部分に点々と赤い斑点のような物が付着している。夫人が斜めに傾けたことで赤い斑点が一筋の筋状に、つう、と音もなくカタログの下側に垂れてきていた。


「なんでしょう? 確かに何か付いてますね」


 そういってカタログを受け取る。赤い液体は血液のように見えた。


「申し訳ございません。すぐにお取替えさせていただきます」


 そうお詫びして夫人に新しいカタログの両面を一応確認して手渡した。


「ちなみに先ほどのカタログはどちらに置いてありましたか?」


 そう訪ねると夫人はテーブル席を指す。


「あそこの上に置いてありました」


 その席はつい先ほど同僚が別の客を接客していた席だった。私は頭を下げて謝罪し、以後は無いように努める旨を伝えた。しかし、それから度々血液付着騒ぎは起こった。


 赤い染みはカタログやパンフレットのみならず、テーブル、椅子、果ては客の手の届かないカウンター内の電話機やクリアファイル、書類などにも付着していた。抵抗はあったが鼻を近づけてみると、その液体からはサビた金属のような匂いがしたことから、血液でほぼ間違いなかった。しかしその血液の出処は依然として不明なままだった。




 新しいテナントに越して三カ月が過ぎた頃。業務を終えて報告書を作成していたところ、新人の同僚女性が小さな悲鳴をあげた。


「どうした?」


 見ると彼女は自分の斜め前方の天井部分を指して見上げたまま固まっていた。遠目からでも天井を指した指が震えているのが分かった。私の席からでは影になっていて良く見えなかったので、彼女の側に行き同じように上を見上げた。白い天井からは赤い液体がぽた、と床に落ちてきていた。同僚女性は恐ろしい物でも見たように目を見開いて震えている。


「あれって、血、ですよね?」


 私は無言のまま視線を天井から外さずに、赤い液体が濡らす床に近づいてみる。床には一定の間隔で液体とも体液とも判別しかねる赤い滴が落ち続けている。


 ぽた。


「ど、どうして血が天井から垂れてくるんですか? こんなのおかしいですよ!」


 言われるまでもなく理解していた。今までは手の届く範囲に誰も気づかぬうちに赤い汚れが付着していたことから、この店舗内の自分以外の誰かの仕業ではないかと疑っていた。それは恐らく他のメンバーも同じだろう。だが、今、その犯人がと明確な事実を持って突きつけてきた。そう考えている間にも滴は床を赤く染めていく。


 ぽた。――ぽた。


 まるで滴自体が意思を持っているように感じた。


 私は怖さからヒステリックに叫ぶ同僚女性を先に帰るよう促し、店の外まで送ると、もう一度店内に戻り天井を見上げた。


 ぽた。――ぽた。


 見るに、赤い液体が垂れているのは今の時点ではあの天井一カ所だけのようだ。しかし過去には店内の至る所が赤く汚されている。ひょっとすると、この次の瞬間にでも別の場所からも赤い滴が漏れ出すのかも知れない。


 天井から無数の赤い滴が筋となって垂れ落ちてくる。――そんな生理的に嫌悪する想像が脳裏を過り、実際に目の前で起こっている出来事のように映像となって浮かぶ。一瞬にして体中の毛穴が開く。その間にも赤い雫は床に滴り続けていた。


 ぽた――ぽた。怖い。酷く怖ろしい。


 二階に続く階段を見る。二階に死体でも転がっているんじゃないか。何故かそんなことが脳裏を過る。そんな筈はない。誰も居ない。それは分かっている。誰も居ない二階に続く暗い階段を見る。


 確かめなければ。明日の朝まで放っておくわけにもいかない。


 誰かに見られているような気配を振り払うように、私は身体を動かす。重い。第六感が二階に上がることを拒んでいるようで身体がひどく重く、怠い。心拍数が上昇し手のひらがじわりと滲む。階段脇の壁のスイッチに手を掛けて明かりを付ける。青白い昼光色の蛍光灯が上階に続く階段を薄ぼんやりと照らす。ゆっくり。ゆっくりと、一段ずつ歩を進める。


 二階には従業員用の休憩室がある。ドアを開けると中央に白いテーブルと椅子が四脚、それと壁際にテレビと電話機、壁時計が掛けてある。


 私は手探りで壁際をまさぐり、室内の明かりを探す。指先が壁際の突起物に触れ、ぱちんと乾いた音を立てた。室内に階段と同じ冷えた色味が広がる。


 怖い。夢なら良いのに。


 私は室内に足を踏み入れ、先ほど赤い液体が滴っていた天井の真上の辺りまで進む。


 今もこの下では赤い滴が滴っているのだろう。


 ぽた――ぽた。と。


 怖い。もう駄目だ。帰りたい。


 怖さを紛らすように踵で思い切り床を蹴った。


 一発。もう一発。


 聴こえる筈もない水滴の音が聴こえる。


 ぽたぽたぽたぽたぽたぽたぽたぽたぽたぽたぽたぽたぽた。


 限界だった。


 私は電気もそのままで一目散に階段を駆け下り荷物を引っ手繰ると天井を見ることなく店の外に出た。店の外の駐車場には先ほど帰らせた筈の女性社員が心細げに立っていた。話しかけると「車の運転は気持ちが落ち着いてからにしようと思って」と言った。


 私は外から戸締りをし終えると、ただの水漏れだったと彼女に嘘を教え、安心させてから、明日業者を呼んで天井裏を調べてもらうことを伝え帰宅させた。

 



 翌日業者を手配して天井裏を確認してもらうと、二階の水道管から漏れ出た水が天井裏を伝い、階下に垂れていたと知らされた。赤い色の正体は天井裏を伝っていく過程で周辺の金属が錆び、それと水が混ざり合ったことが原因だろうと聞かされた。


 比較的新しいにも関わらず欠陥建築だったことから、それを機にうちの会社は再びオフィスを駅前に戻すことになった。

 



 あれから五年後。


 買い物帰りに例のテナントがあった場所を通りかかった。テナントは丁度解体作業の途中で、業者の人間と重機が所せましと動いているのが窺えた。妻が私に言う。


「昔、あそこで働いてた時、天井から赤い血が落ちてきて私を先に帰らせたことがあったでしょ?」


 懐かしいな、と私は相槌を打った。


「今だから言うけど、あの時建物の何処かから女の人の声が聴こえた気がして。それで凄く怖かったけど貴方のことが心配で外で待ってたのよ」


 ひょっとしたら。


 ひょっとしたらその女の人は恋のキューピットだったのかも。


 そういうと妻は、キューピットがあんな怖い声だったらヤだなー、と笑った。




 それから一週間ほど経った頃。


 例のテナント跡地から身元不明の白骨化した遺体が出たとニュースで報道された。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

キューピット nikata @nikata

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ