混沌の邪神のしもべ(完結編)
——我がしもべは、ネクトー、この者なり
ジョルダンに斬られて死んだはずのネクトー。
その口から発せられた神の言葉。
わたしは衝撃をうけた。
わたしの横では、リチアがひざまずいている。
それはわかる。
わたしたちの耳に届いたその言葉には、まぎれもなく神性が顕現していたのだから。
あの言葉を発する存在に、わたしたちはただ、ひれ伏すほかない。
それほどの威圧。
だが、その神は……。
おそろしいことだが、それは邪神ハーオスなのだ。
ならば、この男ネクトーは、邪神ハーオスのしもべ。
苦痛と暴虐と絶望の神といわれている邪神ハーオス。
そのしもべということは、このネクトーという男も、そういう人間なのか?
人びとに苦痛をもたらすのか?
いや、この男の、あのひとなつっこい笑いは、ジョルダンやギルマンのような連中と同類のものだとは、とうてい思えない。
いったいなにがどうなっているのか。
わからない。
疑問ばかりが浮かぶわたしの前で、ネクトーの身体は変貌しつつあった。
どちらかといえばひょろりとしたネクトーの身体が、むくむくと膨れ上がっていった。
その骨格に、鞭のような筋肉が成長し、ジョルダンを圧倒するような逞しい身体となっていく。
色白の肌は、みるみる黒ずみ、漆黒の輝きを放つ。
膨れ上がるその身体のあちこちに、青や赤の、まるで稲妻のような光りが、ピカリ、ピカリと走る。
髪は逆立ち、眼がかっと見開かれ、眉間にしわを寄せ、口元が引き上がり、太い牙をむきだした、憤怒の表情が刻まれる。
これではまるで——神話の中の魔神だ。
「ライドンさん、リチア!」
わたしのところに駆けよってきたのは、サーシャである。
「おお、サーシャ」
「逃げろって! ここから離れろって!」
サーシャが、涙を流しながら、切羽詰まった顔でわたしとリチアをせきたてる。
「逃げる?」
「そうよ、バードが……バードが霧の中から、わたしにそう言ったの。とにかく、ここから遠ざかれって」
「バードが……」
ジョルダンに斬り殺されたバードの無残な姿が浮かんだ。
パリャードの神官や、エステバンのように、バードもまた、死してもわたしたちを救おうとしているのか。
「わかった、いこうリチア」
わたしはリチアの手を取り、走り出した。
リチアは素直についてくる。
サーシャも私の横を走る。
森を逃げながらふりかえると、怒りの魔神が、恐怖の表情をうかべ、尻もちをついたまま後ずさるジョルダンに、覆いかぶさっていくところだった。
わたしたちはあわてて、足を速める。
夜の森が、まるで昼のように、明るくなんども光った。
「「「ギィヤヤアアアアアア!!」」」
「新月の影」三人の、魂が抜かれるような怯えと恐れのこもった凄絶な悲鳴が、長く、長く、わたしたちの後ろから聞こえてくるのだった。
わたしたちは見つけた大木のうろに、身を寄せ合ってかくれていた。
どれほどの時間がながれたのだろうか。
リチアが、ふっと顔を上げて、言った。
「もう、だいじょうぶみたい」
「えっ、わかるのリチア」
「うん」
自信ありげに、うなずくリチア。
それで、戻ってみることにした。
おそるおそる、空き地までもどってみると、
「よう、みんな戻ってきたか」
そこにいたのは、ネクトーだった。
ネクトーは、はじめて会ったときそのままの様子で、たき火にあたりながら、果物のような何かを口にしていた。
サクリ、とネクトーの歯が果物をかじると、爽やかな果実の匂いがただよう。
「うん、うまいな、生き返るようだ」
生きかえるようだって?
「ネクトー……、あんた、生きて、いるのか?」
「ん…? まあな」
平然とした顔で言う。
その服は、ジョルダンの大剣で斬られて裂けたままだった。
だが、その服の下の色白の皮膚には、開いた刀傷はみられない。
よく見ると、いちど斬られて治癒したような白い痕がみられた。
ひょっとして……あの傷口がもうふさがったというのか?
「あいつらは……?」
サーシャが聞くと、ネクトーは顎で、ぐいっと隅の方を指し示した。
「うわっ、これは」
そこには、灰色の、岩の柱が大小三本立っていた。
人を模した柱のような……いや、柱を模した人のような……。
いちばん小さな柱は、あの
細長い柱は、ギルマンだ。ギルマンは両腕をからだに巻きつけ、そのまま強引に上下に引き延ばされたような姿で、岩塩の柱となっている。
そして、いちばん大きく太い柱が、ジョルダンだった。ジョルダンの姿は、もっとも悲惨だ。ジョルダンは、いったん手足と頭をばらばらにしたあと、でたらめにつなぎ合わせたような形でまとめられていた。
三人とも、絶叫する形に口をひらき、この世のものとは思えないような恐怖と苦痛をたたえた顔で、無機物と化していたのだ。
さらに恐ろしいことは、その三本の柱に近づくと
タスケテ……タスケテ……タスケテ……
という彼らの声が、どこからともなく聞こえてくる。
こんなありさまになっても、彼らには意識があるのかも知れない。
意識のあるまま、岩塩の柱にされ、永遠の苦痛に責めさいなまれる三人。
ああ、なんて、恐ろしいことを。
「いったい、こいつらに何をしたんだ、ネクトー?」
わたしは震えながら聞いた。
「さあ?」
ネクトーは、あっけらかんと言った。
「おれにはわからん。こいつに斬られたところまでしか、おれは憶えてないんだよ」
「——神罰。これは神罰です」
と、リチアが断言した。
「おっ、お嬢ちゃんは——」
ネクトーが、リチアに笑いかける。
「巫女さんだな。そんなに小さいのに、分かるんだな」
「いえ……わたしはまだ儀式をうけてないので」
「ほう」
とネクトーが感心したように言った。
「正式に儀式をうけてないのに、これだけわかるのか。お嬢ちゃん、あんた、すごいね」
「あの……」
と、サーシャがおずおずと言う。
「いいんですか?」
「なにが?」
「この子は、これから、パリャードさまの巫女になるんですよ」
「うん、それが?」
「あなたは——あの、つまり……」
サーシャが口ごもる。
「ああ、おれがハーオスのしもべだから?」
サーシャはうなずく。
「え、ええ……だって、パリャードさまと、ハーオスって不倶戴天の関係じゃないんですか?」
「そこが、違うんだな」
「それは、違うんですよ」
ネクトーとリチアが同時に言って、二人はうなずき合った。
「まあ、そこはね、説明が難しい。神の秘儀なんだけれども……いつか、だれもがわかるだろう。いや……わからないかな」
そういって、ネクトーはリチアを見た。
リチアはにこにこしている。
「ネクトー、その、ハーオスのしもべというのは、どういうことなんだ? 教えてもらえることなのか?」
わたしは最大の疑問を口にした。
「ああ……これまた、説明が難しいんだよ」
ネクトーは困ったように言う。
その表情は暗い。
「おれは、ハーオスから選ばれてそのしもべとなった……。だが、なぜ、選ばれたのか、どうやって選ばれたのか、全く分からない」
瞑目し、
「そもそも、おれが何者なのかもわからないんだよ。おれは気がついたら、しもべだったんだ。生まれも育ちも思い出せん。いつかどこかで、なにか、やつのしもべに選ばれるような、とんでもないことをしでかしてしまったのだろうか? ……お嬢ちゃん、分かるか? 分かるなら教えてくれよ」
リチアは悲しそうな顔で
「それは、わたしにもわかりません……」
「そうか、いつか分かったら教えてくれな」
「はい……。でもそれを知ることが、ネクトーさんの幸せにつながるんでしょうか……」
「お嬢ちゃん……」
ネクトーは感に堪えないという声を出した。
「あんたは、本当に……いつか、大神官になるかもしれんな」
それからわたしの方をみて
「しもべの話だったな。そういうわけで、おれはずっとやつのしもべだ。といっても、あいつから、こうしろ、ああしろってなにか言いつけられるわけじゃないんだ。気がつくと、にっちもさっちもいかない、現場に放りこまれている。そして、たちまち、わけのわからないことになり、次に正気を取りもどしたときには、そこにあるのは死体の山だ……なんのためか? あいつはおれに何をさせたいのか、それさえわからん」
「それは——」
わたしは、ネクトーの負わされた重荷に、言葉をうしなった。
そして、「新月の影」が、おれたちはハーオスのしもべだ、といったときの、ネクトーの反応が理解できた。
「いつまで、これがつづくのか? なにをなせば、終わるのか? さっぱりわからない。だが、いつかはきっと……」
ネクトーは、わたしに、暗い目をしていったのだ。
「それまで、おれはこの世界を
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生き残った、わたしとリチア、そしてサーシャは、なんとか州都にたどりつくことができました。
ネクトーは、州都まで付き合ってくれましたよ。
そしてまた、ふいっと居なくなりました。
また、神のしもべとして、どこかに呼ばれていったんでしょうか。
わたしはそれきり、ネクトーには会っていません。
わたしは、なんとか商売を畳まずにすみ、今日のこの日までやってこられました。
思い出すんですよ。
パリャードさまと、ハーオスさまが仲が悪いんじゃないのかといったサーシャの言葉に、ネクトーとリチア(大神官となられた今は、リチアさまとお呼びするべきでしょうか)が、そくざに「それは違う」と答えたこと。
あれはどういう意味なんでしょうかね。
そして、ネクトーはいま、どこにいるのでしょうか。
かれは、しもべから解放されたのか。それともまだ、この世界をさまよっているのか。
あのひとなつっこい笑顔を思い出します。
そして、あの昏い目を。
ああ、すべては二神の御心のままに。
(「混沌の邪神のしもべ」完)
混沌の邪神のしもべ かつエッグ @kats-egg
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