メタにメタ。だがユニークだけでは留まらない凄みがここに。

<※こちらは杜松の実が主催した自主企画に寄せた講評です>

 随分と挑戦的な作品を書き下ろして下さりました。私のことを信頼して寄せて頂けたと受け取ることにします。
 本文学祭にエントリー頂けた作品を読むとき、私はどうしても「どう講評を書こうかな」という視点で読みがちです。本小説においてもそうでした。
 ですから、作中に講評が現れたことに、度肝を抜かれました。してやられたな、と大変喜びました。この楽しみ方は、おそらく私にしか出来ませんでしたし、この楽しみ方も崇期さんが用意して下さったことにも、なお嬉しかったです。
 まずは構造について、講評を書き進めていきます。
 ネット空間の文学サークルにて、先生から「十年後の自分を書いた小説」を課題として出されます。スウキには何を書けばよく分からなく、悩み、そして空想世界にて悩みから脱却し、「十年後の自分を書いた小説」が書けた、としたその制作過程を小説として先生に提出。その題は『不機嫌なユーモア小説』です。
 先生の立場にしてみれば、『不機嫌なユーモア小説』はメタフィクション小説、つまりは虚構です(同時に現実でもあるわけですが)。そして『不機嫌なユーモア小説』の中における空想世界は、スウキの小説感が擬人化されたものであり、スウキにとってのメタフィクションです。そして、小説全体『十年後の自分小説についてたしかに一日考えたようだった』は読者方にとって、ことさら本文学祭の主催である私にしてみても、メタフィクションとなります。
 何という多層構造、多重入れ子構造か。最下層に小説感を擬人化したスウキの空想世界、中間層である「十年後の自分を書いた小説」をテーマとした作中作『不機嫌なユーモア小説』、最上層である小説全体『十年後の自分小説についてたしかに一日考えたようだった』、と言ってしまってよろしいでしょうか。しかし、これはただ多層であるだけなく、メビウスの輪の如く、裏は裏であって裏でなく、表は表であって裏であるように、虚構は虚構であって、現実であるのです。同様に、スウキはスウキであって、崇期さんでなく、崇期さんなのです。
 最下層と言った、スウキの空想世界から見ていきましょう。ここでは<地の文>やら<風景描写>などが擬人化され、それぞれの役割ロールから由来する個性を持って現れます。注目人物は<ユーモア>と<プロット>でしょう。<ユーモア>は恰幅の良い紳士であり、崇期さんのユーモア小説へのリスペクトや従事してきた誇りが顕れています。対して<プロット>は赤ん坊であり、それはこれまで崇期さんがプロットを忠実に組み上げ書いて来なかった経緯が顕れています。プロットのない小説は、崇期さんがこれまで読んで来たユーモアを目指して、志して、そしてユーモアにのみ基底された。崇期さんのありのままの小説感が書かれており、それは虚構でなく現実です。
 中間層である『不機嫌なユーモア小説』もまた虚構であり、私小説のような現実性を持っています。どうしてそこまでスウキが(崇期さんが)ユーモア小説を愛し、必要とし、書きたいと駆られるのかが書かれています。

   「あなたがそれをいかにも大事と握りしめている理由は明白だ。そこにあるのはただ不安という感情ですよ。あなたの魂はずっと人生に対する不安、恐怖に苦しめられてきた。そして実際起こった不幸──言うまでもなくご存じですよね? その痛々しい記憶の数々。引きずってきたボロボロの影。そのせいで心がのびのび寛げないことに窮屈さを感じ、どうにかしたいともがいてきた。」

ここで述べられている”あなた”はスウキでなく、崇期さん自身であるように思えます。虚構のスウキであれば、「言うまでも無く」と濁さず、創作した不幸を羅列しそうなものです。<ユーモア>と崇期さんの間だけで共有され、読者には教えない、という違和感が実にこの作中作というメタフィクションに、現実味を持ち込んだ強い一因だと思えます。
 それから、先生からテーマを与えられて小説を書き提出し、対して先生からは講評を受け取るという構図、これは本文学祭の構図と大差ないです。私が先生で無いことくらいでしょう。現実とのアナロジーをメタフィクションとして映したそれは、ユーモアであり、虚構とも現実とも落ち着かない、狭間に揺蕩う小説となります。
 構造についてはこの辺にしておきます。長くなってしまいましたね。

   「この出来事の中に含まれるなにか、言葉にならないなにか──を描きたいんだ、ということかもしれません。」

「なにか」は、後に上記でも引用した箇所で、「不安」と言い当てられます。

    「言葉は愛を定義することはできない。
     しかし、物語は愛を喚起することはできる。」
               by「構造素子」樋口恭介

つい先日まで読んでいた小説の一節です。なので驚きました。同じく、不安は定義できず、そして小説で表現することは出来ます。
 但し、崇期さんは不安を表現しようとこの作品を書かれた訳ではありません。不安を描きたいと思うほどに、不安に苛まれ、恐怖心を抱くスウキなる人物は、ユーモア小説に慰められて来た。そして今後もおそらく恒常的に不安が和らぐことはなく、ユーモア小説は手放せないままだろう。しかし、それを後ろ暗く捉えてはいません。スウキは「でも、なんだか寂しいですね。」と不安が無くならない未来を憂う様子ですが、<ユーモア>はそのような未来が「届くのを楽しみにするでしょう。」と快活に答えます。<ユーモア>はスウキによって創られた虚構内存在ですから、彼の言葉はスウキの言葉です。スウキもまた、そのような未来でも自分のものと引き受け、<ユーモア>と共に小説を書き続けていくのです。
 ここで、スウキは崇期さんによって創られた虚構内存在でありますが、先述のとおり、虚構であって虚構でなく、現実なのです。
 現実から余分なものが削ぎ落される故に、一層真実を表す虚構が、三層に組まれることで、読者としての没入感、スウキに、そして崇期さんに近づいていく感覚が、とてもユーモア小説でした。

杜松の実さんの他のおすすめレビュー293