クロユリここに散る

干月

第1話

 雪が降り、寒さに凍える季節が日本にやってきた。


 純一ははあっと息を吐いた。白い息が純一の視界を塞ぐ。純一は眼鏡を外した。純一が嫁の叶恵とまだ結婚していなかった頃、貰ったものだ。あれから少なくとも二十年の時は過ぎたはずだが、眼鏡は変わらず使えている。修理を繰り返してはいるものの、二十年前とはなんら見た目が変わらない。眼鏡も、叶恵もだ。


 純一は目を擦った。視界は澄んでいるが、明瞭ではない。


純一は一抹の不安を覚えていた。叶恵は純一と出会った時からずっと変わらない。もしかしたら浮気しているのではないか。そんな考えが頭をよぎる回数は一度や二度ではなかった。


 誰一人いない街を純一は歩いた。街灯が照らす地面を辿るように。車さえ通らないこの道では、純一の足音がよく響いた。


 嫌な思考が頭を駆け巡るには、絶好のシチュエーションだった。


 家の近くの公園まで来たところで、純一は首を傾げた。公園には一人、赤色のジャンパーを羽織った男が花を売っていた。花は全て、クロユリばかりだ。


「兄ちゃん、一本買ってかない?」


 赤いジャンパーの男は気さくに純一に話しかけた。純一は眉をひそめて一歩、不気味な男から距離をとる。赤いジャンパーの男は、まあまあと大声で笑った。


「安くしとくぜ?ほら、たったの五十円だ。どうだい?悪かないだろう?」

「いや、大丈夫です」

「じゃあ四十円。四十円でいいよ」

「大丈夫ですって」

「そんなこと言わずにさあ、買っておくれよ。俺だって生活が厳しいんだ。四十円くらい恵んでくれたっていいだろ?」


 男は頼むよ、と両手を合わせた。随分と図々しくて、遠慮のない男だと純一は頭の端で思った。


 純一ははぁ、とため息をついて財布を取りだした。このままでは時間を無駄にするだけだと判断するのに、大した時間はかからなかった。


 辺りが暗くて小銭の色の判断がつかない。純一は触った感覚で確かめながら、財布から四枚、小銭を取り出した。少し見えやすくなった小銭は銅色に光っている。純一は小銭を赤いジャンパーの男に渡した。


「まいどありぃ」


 赤いジャンパーの男はひっひと下品な笑い声を上げて、クロユリを純一に渡した。口笛を吹きながら、赤いジャンパーの男は元々いた場所に戻っていく。


 純一は再度ため息をついて、家に帰った。


 純一が家に着くと、嫁の叶恵が笑顔で出迎えた。玄関に置いてある時計は、既に十二時を回っている。


「おかえりなさい。疲れたでしょう?」

「ただいま。先に寝ていてくれて良かったんだよ」

「やだ、お仕事を頑張っている旦那さんを置いて先に寝るわけがないじゃない」


 叶恵は驚くほど美しい笑みを浮かべて言った。何年経っても変わらない、優しくて温かい笑みだ。


 どうしてこんなに遅くに帰ってくる亭主を、こんなに美しい笑顔で出迎えることができるんだろう。やはり、浮気をしているのではないか。浮気をすることで、気分転換をしているのでは。


 純一はそう考えて、頭を横に振った。クロユリの歯が音を立てる。叶恵は純一の手元に目を向けた。


「あら、その花どうしたの?」

「そこの公園で買ったんだ。四十円で売ってたからね」


 純一はクロユリを叶恵に渡した。叶恵は飾らないとね、と花瓶を用意する。以前マリーゴールドを飾っていた花瓶だ。叶恵は花瓶に水を入れて、クロユリを差した。


「ささ、早くお風呂に入っちゃって。ご飯はどうする?」

「ああ、食べることにするよ」

「分かったわ」


 純一はネクタイを外した。


 花弁の数は六枚だった。



 二日ほど経った日のことだった。


 純一は朝から咳が酷く出ていた。顔も赤く、息も荒い。叶恵は心配そうにベッドに横たわる純一を見つめた。


「今日は会社、休んだら?はい、体温計」

「あ、あぁ……ありがとう。すまないね」

「きっと疲労が祟ったのよ。ほら最近、残業続きだったから」

「情けないことだ。忙しくなったくらいで体調を崩すとは」


 純一は己を嘲笑して、体温計を脇に挟んだ。叶恵は汗をかいて濡れた純一の髪をゆっくりと撫でる。子でもあやすかのような手つきに、純一は目を細めた。穏やかな表情で、叶恵の手を捕まえる。


「もしかしたら風邪をうつしてしまうかもしれないよ。叶恵はあっちに行っておいで」


 諭すように言った純一に、叶恵は笑って見せた。


「大丈夫よ。私、風邪なんか一度も引いたことないもの」


 何故かドヤ顔をする叶恵に、純一は呆れたように息をついた。ぴぴぴ、と体温計が鳴った。体温計には三十八度五分と表記されている。叶恵は数字を見て立ち上がった。

「お粥を作ってくるわね。あなたは会社に休みの連絡しておいて」

「わかったよ。迷惑かけるね」


 純一を残して叶恵はキッチンの方へと向かっていった。


 花弁の数は五枚になった。



 そしてそれから二日が経った。


 純一の体調は一向に治る気配を見せない。むしろ熱も上がり、咳も酷くなっている。昨日病院に行った時に貰った薬は一切効いておらず、叶恵の表情も暗くなるばかりだった。

「純一さん」

「大丈夫、だいじょうぶだよ。そんな暗い顔をしないでおくれ」


 叶恵は口を真一文字に結んで俯いた。純一の骨ばった手が叶恵の頭を撫でる。叶恵は小さく笑って見せた。口端は引き攣り、眉は垂れ下がっている。


「今日はまた別の病院に行きましょう。もしかしたらヤブだったのかもしれないし」

「そう、だね。そうするよ」

「なにか食べれそう?」

「いや」


 純一は黙り込んで、目線を窓側へ逸らした。そして笑顔を浮かべて叶恵を見る。笑顔に先日までのような元気は見られない。


「一口くらいなら食べれそうだ」

「そう、わかったわ。雑炊を作ってくるから、ちょっと待っていてちょうだいね」


 叶恵が立ち上がった時、純一は呻き声を上げ、両手で口を押さえた。叶恵は慌てた様子でビニール袋を純一に渡す。純一がビニール袋を受け取ってから嘔吐するまでに時間はかからなかった。


 酸の匂いが部屋に充満する。叶恵はすぐさま窓を開けた。


「あら?」


 叶恵は窓の向こうに、赤いジャンパーを着た男を見つけた。見た目のラフさにはそぐわない仰々しい鞄が目につく。


 風が部屋の中に入ってきた。枯葉が一枚、ベッドに落ちる。叶恵は振り返って純一を見た。


 花弁の数は四枚になった。



 純一は入院することが決まった。随分と痩せ細ってしまった身体に何本か管が繋がれている。身体を動かすことさえも大変になってしまった。


 翌朝、叶恵は病院に訪れて直ぐに、純一の手を握った。目には不安と心配が浮かぶ。純一は弱々しく叶恵の手を握り返した。


「だいじょうぶだよ。だからそんなかおをしないでおくれ」


 叶恵は答えなかった。答えられなかった。見るからに衰弱していく純一に何もしてやる事ができない自分を悔いることしかできなかった。


「だめだな、ぼくは。きみをしあわせにすることもできないのだから」


 純一は自傷気味に言った。叶恵は首を無言で振った。


「わたしは純一さんといれるだけで充分幸せよ」


 叶恵はより強く純一の手を握った。純一は微笑んで頷く。


「純一さんといられるだけで、充分」


 叶恵は力強く言った。純一は目を細めた。


「そうかい」


 純一はそれだけ言って目を閉じた。


「ええ、充分よ」


 叶恵は絞り出すような声で告げた。


 花弁の数は三枚になった。



 花弁の数は次第に減っていき、その度に純一の体調は著しく悪くなっていった。呼吸をすることすらままならず、喋るなんて以ての外だった。純一の命は、もう尽きかけていた。


 それでも叶恵は純一の元へ通い続けた。毎日毎日純一の細くなっていく手を握り、冷たくなっていく頬を撫でた。純一の意識はハッキリとしたものではなかったが、それでも毎日愛を語った。願うように、時に涙を流しながら。


「ねえ、純一さん。私、本当に幸せだったのよ。純一さんと結婚してから、後悔した日なんか一度もないの。ほんとうよ。嘘じゃないわ」


 叶恵は掠れた声で訴えかけた。純一の反応は見られない。叶恵はそれでも言葉を続けた。


「純一さんはいつも優しかったわ。自分がどれだけ大変でも、いつも私を一番に考えてくれていた。だから私だって待てたのよ。毎日日付が変わっても、純一さんを待っていようって思えたのよ」


叶恵は椅子の隣に置いてあった鞄から、眼鏡ケースを取り出した。


「私が結婚する前に純一さんにプレゼントした眼鏡。あなたはこれをずっとつけていてくれた。壊れた時も部品を取り替えてまでつけてくれた。買い替えても良かったのよ?それでも純一さんは、君がプレゼントしてくれたものだからって笑ってた」


 叶恵は眼鏡ケースから眼鏡を取り出して、純一の手に乗せた。眼鏡のツルにはイニシャルが刻まれている。


「愛しているわ」


 叶恵は純一の頬に手を添えた。涙が純一の頬に吸い込まれていく。


 「純一さん。愛しているわ。だからお願い。ゆかないで。私を置いて、どこにゆくと言うの。お願いよ純一さん。ゆかないで」


 叶恵の涙は虚しく散っていった。


 クロユリの最後の花弁が、地面に落ちた。



 純一の葬式が終わってからも、叶恵は毎日仏壇の前で手を合わせた。何が起因かも分からぬまま、突然純一は生涯を終えたのだ。


 「きっとまた、会えるわよね」


 叶恵は小さい声で呟いた。当然、誰の返事も来ることはない。


 叶恵は立ち上がった。玄関にはもう、クロユリの花は飾られていない。



 クロユリの花言葉は呪い。それを知る者は果たしていただろうか。



 赤いジャンパーの男はまた、口笛を吹きながら寒い夜の街を歩く。クロユリを大量に抱えて。

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