濡れる布切れ

あいえる

濡れる布切れ

 

 

 揺れ動くのは果たして誰のせいなのか。


 開けられた窓から入り込む風のせいか。それとも、スマートフォンの中にいる私ではない誰かのせいなのか。


 カーテンのようにどこか美しい揺らめきであればと何度思ったことだろうか。今揺れ動いているのは、心の奥底から噴き出る鬱憤という燃料に引火した怨念とでもいうべき感情なのだろう。


 冷静なのか、正気であれと誤魔化す狂人になり果てているのか。最早どちらでも構わない気もするが、どちらの方が都合が良いのだろうか。


 時たまにそうやって悩んでしまうところを馬鹿だと見下し賢いのだと崇めて。


 一体いつまでミルクの混ざり切らないコーヒーが入ったマグを持ち続けなければいけないのだろう。排水溝にでも捨ててしまいたいのか、混ざり切ってくれと願っているのか。


 そんなことすら分からなくなってしまうまで放置していた自身を恨みたくなる。


 刹那的な快楽など求めてはいない。そう、初めから求めてなどいない。


 だからこそ一度も許したことがない。クソみたいな待てをしている自覚を持ったのはここ最近のこと。


 そしてどこまでも利口に飼い主の機嫌を窺う姿を情けなく感じたのも、ここ最近のこと。


 人間の感情とはここまで本性が出てこないものなのかと怖くなる。便器にでも座れば勝手にでも出てくる都合の良い身体の構造にすら羨望の気持ちが湧いて出てきてしまうのはどうかと思います。


 おもむろに立てば、視界の端で必ず追いかけてくる。


 気持ちが悪いということはないが、ドブ底を覗き込んで見たくもない虫々と目が合った時と同じくらいの感覚に襲われないとも言い切れない。


 もういっそのこと今この瞬間にでもどうにかして欲しい。


 あくまでも他人に縋る幼馴染の姿はどんな風に見えているのだろうか。醜いだろう。目を背けたくなるほど醜いことだろう。


 今ここで部屋の鍵を投げ捨て恨みつらみを吐き捨て一生ここに戻ってこなかったとしても、非があるのは己だと私を責めることなく気持ちの整理をつけてしまうのだろうよ。君は。


 たとえ殴りかかっていっても、抵抗もしないで好き放題させてくれるのだろうよ。


 心臓を一刺しにしたとしても笑って逝ってくれるのだろうよ。


 それが君の幸せなんだろうよ。


 勝手な妄想を嘘のように忠実に再現するのだろうよ、君はさ。


 ああ、嫌になる。


 さっさと別れ話を持ち掛けてくれればいいのにさ。こんな焼却炉に放り捨てられるべきクズなんかと一緒にいなくたっていいのにさ。


 早いところ愛想尽かしてくれればいいのにさ。


 そうすれば、一時的な感情のせいにして私も逃げられるんだけどな。


 ほんと、どこ行っちゃったのさ。身体だけ残して心はどこか旅に出てますってか? 子供の考えた言い訳であったらどんなに良かったか。


 ある日突然戻ってくるからとか言い残して、廃人同然になって。


 こっちは待ってんだよ。いつまで経っても戻ってこねぇクソみてぇに好きだった誰かさんのことをよ。


 誰かに頼れば君は撃ち殺されて。そんな状況を悟られれば間違いなく身体を良いように使われて。


 最低限、外を二人で出歩ける状態でなければとっくに終わっていたことだろう。偶然なのか、出ていく時に狙ってそうしたのか。


 せめて書置きなり全部説明するなりしていけと思う。いや、それでもこんな状況を許せていたとは思えないけどさ。


 数日、数週間までならば一発殴れば気が済んだのかもしれない。数か月も、まだどうにかなった気がする。


 でもさ、流石に四年は無理だって。どうやったって前みたいに笑ったり口喧嘩したり、どっか出掛けていくとか考えられないよ。


 気持ちの整理とかそういうレベルじゃないんだよ。分かってた? 分かってなかったんだろうなぁ。だって戻ってこねぇんだもん。


 死のうとすれば全力で止められる。でも、殺されるという状況に対しては設定ミスしたシステムのように何も行動を起こさない。


 こんなにも待ったんだしもしかしたら明日にでも。なんて希望は、既に反転してしまったのだから質が悪い。


 今この状況を捨てて、されるがままの快楽に流されてしまった方が幸せなのかもしれない。


 そう考えたこともあった。


 ただ、強制的に公開される末路を見せつけられれば身体は動かない。今この状況の方がまだマシであると判断してしまうから。


 当然のように使い捨てられるのは誰も望まないだろう。それが至上の幸福であると洗脳でもされてしまえば違うのかもしれないが。


 ――。


 今日も叩かれるドア。


 公開映像を見たのかという検査と、妙な企みをしていないだろうなという圧力をかけられる恒例の時間。


 たまに部屋に押し入ってくることもあるが、廃人同然の同居人には寝かせたり喫煙させたりで誤魔化す。


 本当に、最低限の動きだけはこなしてくれるからありがたい。


「……身体検査だ」


 胸を揉まれる。腹を触られる。尻を撫でられる。股を弄られる。腿を擦られる。


 逆らえば良くても死。悪ければ一生性処理用に身体を使われる。抵抗を赦されるのは毛の生えない子供まで。


 それがこの世界のクソみたいな仕組み。


 誰が天辺にいるのか知らないけど、良い奴じゃないことは確かなのだろう。


 唯一、感謝することがあるのだとすれば勝手に犯されるということがないということだけか。下手をすれば犯した側が罰を受けて死ぬのだから。


 汚される前に断罪してくれるその判断だけは立派なものなのだろうと、嫌だがそう思わざるを得ない。


 そのおかげで生きているだけで性処理道具になってしまうなんてことにはならないのだから。


「よし、明日も来るからな。くれぐれもおかしなマネはしないように」


 そんな明日なら一生来なければいいのに、って。


 なんのために私は生きているのだろう、って。


 働いて、見返りを貰って、好きなものを食べて好きなことで遊んで。


 恋人をつくって、親になって、また次の世代を築いていく。


 搾取はされるが生きるのが苦しいということもなく。だからこそ甘んじて受け入れてしまうのかもしれない。


 これをされないんだったら。という最低限の線引きを越えてこないからこそ、犠牲を払ってでも反旗を翻そうとする人間が多くないのかもしれない。


 当たり前になってしまえば、嫌であるという拒絶の感情すら消えていってしまうのだから。


 こんな世界になってどれだけ経ってしまったのか、私には知る由もない。


 ただ言えるのは、こんな世界は間違っているということだけ。


 この世界に迷い込んで数年が経ち。それは、この世界に慣れ始めてしまうには十分過ぎる期間であり。


 迷い込んできた人間が私一人だけかというとそういうわけでもない。過去にも大勢いたらしいし、きっとこれからも大勢いるのだろう。


 それを止める術もなければ、救う術もない。


 私は、ただ身につける布切れが湿っていくのを自覚することしかできない。

 

 

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