献身的な幼女狐が俺に懐いて離れない
赤月鵯
ごん
「はぁ……はぁ……」
森の中に男のかすれた呼吸がこぼれる。
左脚には横断するようにして大きな裂傷が刻まれ、正常に呼吸をすることもままならない。
それでも、立ち止まらないように足を引きずっていく。血痕を辿った獣に襲われるかもしれない。弓矢も刀も荷物になるから置いてきてしまった。
それに、もしまた化け物が出てきたら今度こそ自分も殺されてしまう。間一髪生き延びたというのに、こんなところで命を落としてしまうなんて御免だ。
しかし心と裏腹に体は正直なもので、流れた血の量だけ身体が冷えていくのを感じる。気が付けば周りを包むのは暗闇で、まるで先が見えない。
ここでおしまいなのだろうか。不甲斐ない俺をどうか許してくれ……
いよいよ疲れ果て、地面に身を投げ出してしまう寸前。一筋のか細い光が足元を照らした。まるで進むべき道を示しているように。
支えっぱなしでとっくの昔から震えている足に、さらに鞭を打つ。ようやく見えた光へと近づこうとする。
「ぐぁっ……」
堪えられず前のめりに倒れてしまう。衝撃で口から漏れた空気が音を立てた。
身を引きずってでも前へと進む。足が使えないのなら腕だ。帰らないといけない。地面を這いつくばってでも。
ざっざっざっ。地面を伝って、何か音が近づいてくる。
規則的なところからして何かの動物だろうか。大型獣にしては軽快な音だ。
「うぅ……」
助けを乞うにも、うめくような声しか出ない。音は草木に憚れて届いているかどうか。
しかし足音は段々と近づいて来る。そして、
「おじさん! へいき⁉」
甲高い声が駆け寄る。身体を揺らす小さな影を認めるのを最後に、俺の意識はゆっくりと暗闇の中へと落ちていった。
※
鼻を通る香ばしい匂いで目が覚めた。
目を開けると、うす暗い中でも影が揺れている。身をよじると足に激痛が走った。
「いたたた!」
「あ! おきた!」
声の方向を向くと、少女がいた。
ここは……?
何も変哲もない家。部屋はここだけで、大人が三人くらい寝転がれそうなくらいの広さをしている。
「おじさんへいき? これ、食べる?」
そう言うと、少女は器を差し出してくる。
「ああ。かたじけない。……いたた」
容器を受け取り、起き上がろうとすると足が痛んだ。動揺した拍子に藁の布団が滑り落ちる。
見ると、血が止まったらしい傷口には湿った草が乱雑に塗られていた。鼻につく臭いはいかにも薬効がありそうだ。
しかし、肉が割かれるようにして傷の走った足は使い物にならない。激痛が走る左足を庇うようにして胡坐をかく。
「いただきます」
合掌し器に手をつける。栗やら松茸やらとおからを混ぜたものだ。油揚げも乗っており、森だからこそ味わうことのできるごちそうとも言えるだろう。
「おいしい?」
「うまい。まさかこんなごちそうにありつけるとは。家に上げてもらい、施しも受けるだなんて。命の恩人だ。本当に、ありがとう」
感謝の念に頭を下げる。あのまま血を流し森の中で倒れていたら、今頃には野垂れ死んでいただろう。獣に食べられていたかもわからない。
「にひひひ」
少女は年相応に無垢な笑顔を見せる。前歯の抜けた笑顔は愛嬌を感じさせる。
麻の服に身を包んだ可愛らしい少女だ。髪も綺麗に伸ばされている。愛情を持って育てられたのだろう。
「他の縁者は外に出ているのか? 是非御礼をしたいのだが」
他に人の気配はない。部屋の隅で寝ているということでもない。
「うん。じっちゃはね、くまを狩りに行くって出て行っちゃったの」
「そうか」
蠟燭に照らされた空間の中で確認できるのは、用意された食器といい布団といい、ちょうど二人分だ。
どうやら少女の親類は祖父だけらしい。しかし、こんな夜更けまで少女を一人にするとは無用心ではないだろうか。
「其方は――」
「ごん!」
「?」
「『ごん』!」
「ああ、『ごん』という名前なのか。ごんは―― こらこら」
ごんは側に寄ってきたかと思えば、俺の服が興味深いらしく両の手で触っている。
「すべすべ!」
絹の触り心地が気に入ったようでごんは話を聞く様子もない。
その姿は、外界の刺激に興味をそそられる純真無垢な子供のようだ。
「おじさんは、都の人なの?」
「ああ、そうだ」
「お侍さん?」
「その下っ端だけどな」
「なにをしに来たの?」
「もう倒したんだ。だからここはもう安全だ」
「えー! すごい!」
やったー、とごんは両手を上げて喜んでいる。
ごんが楽しそうに話を聞くものだから、すっかり乗り気になってべらべらと話してしまった。
そして同時に、これまでの事が脳裏を駆け巡った。
事の始まりは、化け物が現れたということだった。
すぐに俺を含めた仲間達が数日かけてここまでやってきた。
そして、見たのだ。
その化け物は、幾つもの長い尾を携えていた。
人ほどの大きさもある熊を咥えるほどの巨体。
掠めただけで、肌を抉り割く鋭い爪。
そんな怪物を相手に、仲間はばったばったとなぎ倒されていった。
ある者は腹を割かれ、二つに分かれた胴体から臓器をぶちまけた。
またある者は振り払われた尾に吹き飛ばされ、岩に血化粧を彩った。
それでもこいつを野には放すまいと、震える身体を奮起させ、化け物へと立ち向かったのだ。
そして、化け物は倒した。
俺だけが生き残ったのは、ひとえに俺が幸運だっただけだ。
そうだ。彼らのためにも、早く帰らないといけない。
血みどろの足に目を落とす。薬草臭い足は、まだ十全に動くことはできない。
「くさーい」
我に返ったごんも臭いが鼻についたのか、鼻をつまんで一目散に離れていく。
「ふふっ」
「?」
その無邪気な様子は、都に置いてきた娘を思い出させる。
「俺には、ごんと同じくらいの娘がいるんだ」
「おんなのこ?」
「ああ。ちょうどごんと同じくらいの年頃でな。この間、馬の糞を踏んだときにそんな顔をしていたな」
踏んだ拍子にお気に入りの服が汚れてしまったとかで、鼻を指でつまんで目に涙を浮かべている様子はとても愛らしく、つい笑ってしまった。
そしたら顔を真っ赤にして殴られたっけ。
「泣いてるの?」
「悪い。安心したら、つい」
慌てて涙を拭う。帰ることができるんだという実感が喜びが胸を支配すると、知らぬうちに涙が出てきてしまっていた。
「重ね重ね、助けてくれて本当にありがとう。今度娘を連れてくるよ。こんな立派な子がいるんだぞって」
「ほんと⁉ やった!」
ごんは小躍りしてまで、喜びを全身で表し出した。
もしかしたらこんな辺鄙な土地だと、同じ世代の子に会うのも初めてかもしれないな。
なんて考えながら見ていると、ごんは目を擦り始めた。
話し込んでしまったし、夜が更けてからも時間が経っている。普段ならもう寝ている時間なのかもしれない。
空になった器を隅に置く。
「ご馳走様。こんな時間まで付き合わせて悪かったな。もう寝るとしようか」
「うん。おやすみ、おじさん」
「おやすみ」
※
岩が段となって積み重なったその隙間を縫うようにして、ざあああ、と自然身溢れる音を奏でながら水が流れていく。
よいしょ、と川が一望できる手頃な岩に目を付け、苔を払い腰を下ろす。
俺とごんは、家から離れ川のほとりまで散歩に来ていた。
生い茂った木々の柔らかな、それでいて少し鼻につくような匂いが鼻をくすぐる。
つい数週間前に近辺で化け物が出没していたとは思えないほど、のどかな森林地帯。
手つかずの自然は変わらぬ顔をして俺達を優しく包む。
そんな中、俺の心は安らぐことはなかった。
未だ十全に歩ける状態ではないというのもあるが、理由はもう一つあった。
「お爺様、なかなか帰ってこないな」
「こないね~」
ごんはよじ登った岩の上で足をぶらぶらさせている。遠くの方を見つめてどこか上の空といった様子。
「他に頼れるような人がいたりしないのか?」
「うーん……」
俺の質問にごんは言葉を詰まらせる。
「おじさん!」
「いやそういうことじゃなくてだな……」
人里離れた奥地であるここでは、他に住民の姿はない。ごんが頼れるのは親類である祖父だけなのだろう。
そんな理由もあり、助けてもらった恩を返すようにして、俺の怪我が治るまでごんの家に滞在することになった。
保護者が帰ってきていないというのに、こんな小さな子を置いて帰るというのも薄情なものだろう。それに俺だって人の親だ。余計にごんが気がかりなところも否めない。
そんなごんは俺に随分と懐いてくれている。よく抱きついてくるし、最近では川の字でもないが、二人並んで横になって寝ることもある。慕ってくれているのだろう。
今も俺の横に移動してきたら、寄りかかるようにして身を寄せてきている。
「じっちゃの匂いがする」
「そりゃあ、お爺さんの服だからな」
ごんは袖に顔を埋めたかと思うと、俺が借りている服の匂いを嗅いだ。
そして、にひひ、と愛らしく笑う。
そんなごんの手にはかご一杯の野草やら茸などの食料が詰められている。
歩いている途中、どこか目がけて走っていったかと思うと、目ざとく食料を取ってきていた。
一緒に暮らしてわかったが、ごんは小さいながらも自分のことは自分でできている。というより、着替えから食事の準備まで一人で難なくこなす。娘に見せてやりたいくらいの良い子なのだ。
「お爺様はごんに余程良い躾をされたのだな」
「うん、じっちゃはね、すごいんだよ! 魚だってこーんなにとってくるし! くまにだって負けないし!」
「おーそれはすごいな」
ごんは手を目一杯に広げて、たくさんを表現する。
「それにね!」
そう言うと、火がついたようでお爺さんの自慢話が始まった。
あの木を積み重ねた家は実は一人で作り上げただの、両手をすぼめて作った小さな丸ほどの大きさの距離から鹿を打ち抜いただの。子供特有の少しばかり過剰に表現した武勇伝が幾つもの語られた。
ごんが楽しそうに話している様子を眺めていると、ふとごんが後ろを振り向いた。
「どうかしたか?」
ごんは一点を見つめる。後ろの草むら、その向こうを。
すると、その草がガサガサとかき分けられ、木の向こう側から何かが飛び出してきた。
「加助?」
「お、おめぇ! 兵十じゃねぇか! 良かった、無事だったんだなぁ!」
出てきたのは俺と同じく都の兵士の一人、加助だった。
加助は俺の姿を認めると大股で足を鳴らして駆け寄ってくる。
「どうしたんだぁその怪我!」
「いや何、戦いでやられてしまってな。帰ろうにも帰れなかったところだ」
「でもおめえが無事で良かった! おらぁてっきりもう……」
あの凄惨な現場を目撃したのだろう。加助は口ごもり視線を落とす。そして、頭の低いもう一人に気が付いた。
「そっちの嬢ちゃんは?」
「ああ。こっちはごん。怪我したところを助けてもらったんだ」
「そうかぁ嬢ちゃんが。ありがとうなぁ!」
「にひひひひ!」
ごんは前歯の抜けた口を吊り上げて笑う。
「おじさんはだれ?」
「俺は加助ってんだ。こっちの兵十と同じで、みんなを守る兵士をやっとる!」
「お侍さん⁉ すごーい!」
喜ぶごんは置いておいて、内密に、小さな声で話を切り出す。
「それで? 他に生存者は?」
「いや、それが……」
やはり、あの場で残ったのは俺だけだったらしい。
二人の間に沈黙が満ちる。中には顔馴染みもいたのだ。その悲しみは簡単に処理できるものではない。
「魚とってくる!」
「気をつけるんだぞ!」
良くない話だと感じ取ったのか、はたまた疎外感を感じたのか、ごんは川へと走っていった。
「他のやつらもいるのか?」
「おう。第二陣だ。けんども、化け物はもうくたばってたし、このまま帰るだけだなぁ」
加助は、肩透かしを食らったかのようにその坊主頭を撫でた。
「しっかし、よく生き残ったなぁ。俺は初めて見たぞ、あんな
くたばってても恐ろしかったと、身を震わせた加助が付け足す。
「まさかあんなのが出てくるとはな……。何十年も生きてたんだろうな。いや、下手したらもっとか」
化け物に生えた幾つもの太い尾。一般的に妖狐と呼ばれる狐の化け物は尾の数が増えるほど強大な力を持つとされる。今回現れた妖狐が持っていた尾の数は五つ。厄介なほど成長してしまっていた。きっと、散々人を襲ってきたのだろう。
けれど、それも俺の手で倒されたのだ。人に被害を与えるようなやつはもういない。
「でもお前が来てくれて助かった。これで俺も帰れる」
「それじゃあ、帰るべ。向こうでみんなが待ってるぞ。歩くのが大変なら肩でも貸してやろうか?」
「いや、俺は……」
「おじさん、いっちゃうの?」
ごんのお爺さんのことを話そうと俺が言葉を紡ぐのを、いつの間に戻って来ていたごんの声が遮った。
「大丈夫だよごん。俺は――」
そこまで言って、ごんに振り返った俺は、言葉を続けることが出来なかった。口を開いたまま硬直してしまったのだ。
ごんは、抱えるようにして、大きな魚を持っていた。
夢中になって魚を捕っていたのだろうか。頭まで水を被ったその身体からは水が滴り落ちている。
その綺麗な髪を伝って。
「ば、化け物!」
「え? あっ」
加助の発した大声に反応し、ごんは慌てて両手でその尾を隠す。
しかしもう遅い。大声にびくついた拍子に頭の上に現れた両耳が、ごんが人間でないことを告げている。
加助は明確な敵意を持ってごんを睨みつける。腰に下げた刀を抜く。
「ひっ」
「ま、待ってくれ!」
自分に向けられた刀身の煌めきに怯えたごんが息を呑んだ。俺の静止の声も加助には届かない。
慌てて立ち上がろうとするも、左足で突っかかる。走り出すことは叶わず、勢いだけが余り、地に倒れる。
これでは間に合わない。ごんの細い首に刃が突き刺さるかと思われたそのとき、
加助の持っていた刀が、あらぬ方向に飛んで行った。
「うああああ!」
加助が放った、あらん限りの絶叫が静寂な森林をこだまする。
まき散らすのは、声だけではなかった。
雑巾を絞ったかのように血が流れ出て、血だまりを作る。それを作ったのは、筋肉の流れに反するようにして引き裂かれた加助の右腕。その傷口からだ。
そして――
鋭く伸びたごんの爪から、暗い赤色をした液体が滴り落ちる。
「ああああ!」
半狂乱になった加助は、左手で自分の傷口を抑えると、ごんに背を向けて走り去っていった。
残されたのは俺とごん。
力を振り絞って立ち上がった俺は、虚ろな目で、放心状態になっているごんに近寄る。
「ごん! 怪我は⁉」
「…………ない。……ないよ」
自らの長く伸びた爪を眺めるごんは、それだけを呟いた。
その爪からは、赤黒い液体が滴っている。
ごんがふと顔を上げた。俺と視線が合う。
「うぅ……」
顔をくしゃくしゃにしたごんは、その手で顔を隠すように、あふれ出る涙を拭った。
その姿は、泣きじゃくる子供のようで。
「大丈夫。大丈夫だ」
気が付けば、抱きしめてしまっていた。
その小さな肩を。川で濡れて冷えてしまった体温を伝える身体を。
大丈夫だと、俺は側にいることを身体全部で伝えるのだった。
※
家へ連れて帰ると、ごんは夕飯も食べずに寝てしまった。
部屋に敷かれた網目の粗い畳。その上でごんは眠っている。
土台を汚すばかりになってしまった蠟燭から放たれる光が、その顔を照らす。
目を真っ赤に腫らし、頬には幾筋もの涙痕が愛らしい顔を縦断している。
その輪郭は、俺と変わらない。人間のそれと同じだ。
居場所を探した華奢な親指は、柔らかそうな唇に収まった。
きっと寒いのだ。そう思い、布団をかけてあげると、ごんは満足したように寝返りを打った。
「ふふっ」
仰向けになり、両手を頭の横に持ってくるとその姿勢で安定したらしい。
唇が動いている。食べ物の夢でも見ているのだろうか。そのことが可笑しくてつい笑みがこぼれてしまった。
部屋の隅に置かれている小さなかごを見やる。かごから顔を出しているのは、今日二人で見つけた食料だ。
山菜。茸。そしてごんが取ってきた魚。どれも一般的に食べられるもので、そこに違いはない。
しかし。
ごんの服には、赤黒い斑点が大小さまざまに散らばっている。
それは、加助から浴びた返り血だ。染みは、べったりと、烙印のようにこべりついてもう離れることはない。
思い返すのは、今日の昼間のことだった。
例え決して意図したものではなかったとしても、ごんは人を傷つけてしまった。
その鋭く尖った爪は、人を簡単に切り裂く。
人には存在しない、怪力を発揮する尾は、人を簡単に吹き飛ばす。
そして、それは。
「じっちゃ……」
「⁉」
ごんはすやすやと眠っている。ただの寝言だったようだ。
しかし、ごんがうわ言のように呟いたその人は、俺がこの家に来てから今日に至るまで一度も姿を現していない。
『じっちゃ』は俺が来る前に狩りに出かけたままだ。
確か、
そして間違いでなければ、俺達の前に姿を見せたとき、あの化け物は
否が応でも、点と点が一直線で繋がってしまう。
――つまり、ごんの祖父というのは、俺が殺したあの化け物なのではないだろうか。
身体中からどっと汗が吹き出る。
心臓が激しく脈動して止まらない。
消えかかっている蠟燭の光が俺の影を足元から揺らす。
『もう大丈夫だ。化け物は倒した』
ごんと最初に話したとき、俺はそう言った。
だが。
見た目で化け物だと判断し、先に手を出したのはどちらだ。
親を殺したくせして、その子供の家へと転がり込み、何食わぬ顔で世話になっているやつは本当に人間なのか。
俺さえここに来なければ――
「ハッ、ハッ」
呼吸さえもままならない。
頭がどうにかなってしまいそうだった。
揺れる俺の影は、定型を持たずに何にもならない形を作り続ける。
――いや、待ってほしい。
本当に俺だけが悪いのか。例え、人に迷惑をかけないようにと、人に見つからないようにと隠れて過ごしてきたとしても、一度人間を傷つけてしまったら、救いようのない化け物なのではないだろうか。
俺の愛する人達を殺したあいつはなんて言っていた。
奥底から、明瞭な光景が思い出される。
『人は
手足があらぬ方向へと捻じ曲げられ、見るも無残な二人の亡骸。鬼の化け物は、その上でうっとりとした顔を見せていた。
――ああ。化け物には、大層な理由なんて存在しないのだった。
おもしろいから、痛み付ける。少しばかり度が過ぎて、殺してしまう。
だから、化け物は殺さないといけない。味を知ってしまう前に。人を傷つけてしまったのなら、なおさら。
気が付けば、俺の両手は輪を作り、すぐ横にいる化け物の首へと迫っていた。
「……おじさん?」
その身に体重をかけると、少女は覚醒した。
「どうしたの?」
そして、目の前にある俺の顔を見るなり不思議そうに眉毛を寄せて、そんな言葉を投げかけてくる。
「おじさん?」
再三にわかる問いかけ。少女――ごんは、ただ俺を心配している。
首にかけられた手のことなど、全く気にしていない。
もはや、その意味さえも理解していないのかもしれない。
俺は、ごんを、殺そうとしているというのに。
ごんにとって俺は、今も行方が分からない『じっちゃ』の代わりに唯一信頼できる人物だ。
ごんは、死にぞこないだった俺の手当てをしてくれ、俺に純とした親愛を向けている。俺はごんの親を殺したというのに。
――そんな人間を俺は殺そうとしているのか?
「…………何でもない。…………ゆっくり寝なさい」
「うん!」
横に転がっていたごんの布団を掛け直す。
その身を滅ぼすつもりで出された手は、逆にその身を安堵させた。
しばらくすると、安らかなごんの寝息が再び音を立て始めた。
蠟燭の光で壁に映し出された影は、人の形をしていた。
※
俺はひどい高熱で動けなくなった。
足の傷口から病に罹ってしまったのか、はたまた俺への罰なのか。
熱に浮かされ朦朧とする意識で、目に映るのは同じ光景だった。
一方は、人を壊し、壊れた人で楽しむ鬼の化け物の姿。
もう一方は、涙を浮かべながらも必死になって俺を看病するごんの姿。
何日が経ったのだろう。
段々とごんの姿を見ることは少なくなっていった。
そしてそれに比例するようにして、身体は言うことを利かなくなっていく。
「――さん! しっか―― くすり――」
ごんが何かを俺に語りかけている。
だが、何を言っているのか聞き取れない。大きな声で話してくれないか。
トタトタトタ。聞き覚えのある軽快な音が、遠ざかっていく。
「……ぉ、ん」
……ごん。どこかに行ってしまわないでくれ。……頼むから、近くに。
※
「ごん!」
意識が戻ったと同時に、ごんの名前が口に出た。
視界は霞んでいるが、見える。
頭が割れるような頭痛に意識を刈り取られそうになる。押しのけて、周りに目を巡らせる。
枕元には水の入った容器が置いてある。
その横には、ごんと一緒に食べた山のごちそうが。
しかし、部屋にごんはいない。
被されていた藁の布団をどかして、身体を無理やりにでも動かす。
頭から、水気の絞り切れていない布が落ちた。
「ごん…………!」
足を引きずりながら家から出るも、家の近くにもごんの姿はない。
どこへ行ってしまったのだ。
とにかく、ごんが加助達に見つかってしまう前に探さなければ。
ごんが出て行ってからどのくらい時間が経過しているのかわからない。まだ近くにいるといいのだが。
そのとき、
「ウォォォォォォォ」
獣が叫び声が轟いた。反応するように、小鳥が木々から飛び立っていく。
このけたたましい声には聞き覚えがある。――狐の化け物だ。
やつめ。また現れたのか。あいつは次々と俺の大切な存在を奪っていく。今度はごんを狙っているのだろうか。
そして、草むらの影から、一匹の化け物が姿を現した。
揺らめく強靭な尾。二つにも、四つにも、八つにも見える。
そして、俺の家族を引き裂いた鋭利な爪。その爪には覚えがある。加助の腕を抉ったものと同じだ。
狐の化け物だ。
その姿は大人が一人分くらいと、記憶にあるよりも幾ばくか小さいように感じる。
化け物は、家の中へと一目散に入っていく。
「兵十!」
「加助!」
後を追うように、加助が出てきた。
負傷した片手を布で覆った加助は、真剣な目付きをしている。
「兵十、おめえ。これはきっと、神さまのしわざだぞ」
「え?」
「神さまだ。神さまが、お前がたった一人になってのをあわれにおもわっしゃって、お前に機会をめぐんでくださったんだよ」
そう言うと、もう片方の手で持っていた刀を放り投げた。
それを受け取り、刀を抜く。手に馴染んだ刀。俺が置いてきてしまった刀だ。
普段より重く感じるのは、俺が本調子ではないからだろうか。
そうだ。化け物は俺の敵だ。
化け物は、俺の家族を、仲間達を殺したのだ。
ごんがいないからといっても、大切な家で暴れさせるわけにはいかない。そこはごんの居場所なのだ。
熱で思考のまとまらない頭を回転させる。奇策が思いついた。
入り口で静かに化け物を待ち伏せる。
家の中から、金品を探す盗人のような、暴れるような音が聞こえてくる。
今にも飛び出したい気持ちを抑え、息を殺す。変に早鐘を打つ心臓の音がうるさい。意識は朦朧とし、気を抜くとこの場で倒れてしまいそうだ。
その時間が、永遠にも感じられた。やがて、
「ようし」
化け物が戸口へと向かってきた。
足音をしのばせて近よって、今、戸口を出ようとする化け物を、ザクと切りつける。
首元への一撃。
「おや…………?」
切った化け物の身体が瞬く間に小さくなり、そしてそれは少女の形を取った。
ここ最近で見慣れた少女の形。
少女は手に薬の箱を持っていた。
「ごん、お前だったのか?」
ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなづいた。
持っていた刀がばたりと落ちた。赤黒い色をした血が、刀身についていた。
献身的な幼女狐が俺に懐いて離れない 赤月鵯 @hiyodori_akatsuki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます