フミカの選んだ男

くしき 妙

第1話




 黄泉の国へと乗客を運ぶ列車の窓を涙雨が叩いています。1人の乗客の男の袴が濡れているのは、春時雨に降られたというばかりではないのです。膝を濡らすほどの涙を流したのでしょう。彼の耳朶にこびりついて離れない恋しい人の声が、彼を苦しめます。


 「貴女は、その人が忘れられないのですか?」

 「ええ、あの人は、私を愛してくれたのです。幸せだったのです」

 「もう一度恋をしたらどうです?」

 「………あんなに誰かを好きにはなれませんわ」


 男は、黄泉の国への通行手形をぎゅっと手の中に握りしめました――――。

 



 むかしむかし、荒ぶる川の流れるところに水のあやかしが住んでいました。


 まだ治水政策も確立しきっていなかった頃は、川の氾濫、津波、海の時化で失われる命も少なくはありませんでした。そんな水に関わる天災を引き起こしていたのが、海や川にはびこる水あやかしだったのです。


 あやかしの世界にも縄張りがあります。この物語のあやかしは、荒川を縄張りにしていました。たびたび起こっていた荒川の氾濫もこの水のあやかしの仕業でした。


 荒川は半里ほどもある長くて広い川です。下流には美しい田園地帯が広がり小動物たちが自然の恩恵を受け、豊かな暮らしを営んでいます。

 

 川の土手では子供たちの笑い声がさざめき、土手のすぐ側に立てられた家の軒先には洗濯ものが、所狭しとはためいています。幸せのかおりが漂ってくる村落の風景がそこにはありました。


 ですが、荒川は、かつては暴れ川と呼ばれた川です。人間たちは、この川に、じゃじゃ馬に轡をはめるように、土嚢を積み上げ堤防をつくってきました。


 それが面白くないあやかしは、雨が降ると我が物顔で川を荒らし、波を立て人間どもに目にものみせては喜んでいたのです。


 あやかしは、悪さの好きな少年のような心持ちの妖怪です。もう、何百年も生きているのに、子供のように悪戯を繰り返してきたのです。


 あやかしは、体を持っていません。でも、雨の日だけは、雨を己が魂に集めて人型をつくることができます。ですから、雨の日にいろんな人に姿を変えて、人を誘惑しては川に引きずり込んで溺れさせるという悪さもしてきたのでした。その悪戯で、狂わされた人生がいくつもあったことなど、この妖怪にはあずかり知らないことなのです。


 時には、近所に嵐を起こして呑み込んでやろうかなと算段がてら、縄張りにある民家を見て回ったりします。あやかしは、雨の日ほど、心が昂ります。川を氾濫させるにはもってこいだからです。


 その日も、ほの温かい菜種梅雨でけぶる縄張りを歩いていました。質素な長屋が並んでいる界隈に差し掛かると、通りがかった家から美しい歌声が聞こえてきました。その家は、その界隈では珍しく書院造を模した贅沢な平屋の家でした。明治の頃に建てられたのでしょう。屋根瓦に意匠がこらしてあり、きっと裕福な商家の家なのだろうと、あやかしの好奇心に火がつきました。


 塀の隙間から覗き込むと、縁側に座っている女が見えました。黒髪を無造作にまとめあげ、着物の衿を抜いて白いうなじを惜しげもなくさらし、細く長い首をかしげて、歌っているのです。年のころは、23~4でしょうか。黒目がちな瞳は潤んでいるように見えました。


 あやかしは人からは見えません。実体がない妖怪だから。しばしの観劇だとばかりに、彼女から見えないことをいいことに縁側の正面にどかっと座り、庭の真ん中で美しい女を眺め、女の美声に耳を傾けました。


「壮介さん、『松の声』、歌うわね。♪ああ、夢の夜や♪」


 そんなことを呟いて、その美しい女は、ある明治の終わりの流行歌を歌いあげました。あやかしも川辺の家のラヂオから流れてくるのを聞いたことがあります。

 女の歌は余りに心地よいものでした。あやかしは、春の鶯の声を耳に川で漂いうとうとする時のように、気持ちよく耳を澄まして聴きいっていました。

 美しい声に聞き惚れ、しばし、彼女の美しいかんばせを眺めたあと、あやかしは、耳の保養、目の保養だ、大した眼福だったなと呟いて、そこを後にしました。

 

 別の日に、あやかしがまた通りがかると、女はいませんでした。


 気になって何度も、その家を見に来ました。そうするとひとつの規則性に気が付きました。女は天気の日は出かけていて、雨の日だけ、縁側で美しい声で歌っているのです。

 それからというもの、あやかしは雨の日になると、するりとその家の生垣を乗り越えて、庭に入り込み、女の歌を鑑賞しに訪れるようになりました。


 そのうち、あやかしは、この女がフミカという名だと知りました。女は両親が亡くなった後、1人でこの大きな屋敷に住んでいるのです。

 雨の日に外に出かけようとしないフミカは、縁側で歌ったり、まるで、誰かが隣にいるように独り言を言います。

 お母さまが昔よく聞かせてくれたわ、と独り言を言い出したフミカの言葉をじっと聞いている見えない影があるとも知らず。


 ―― フミカって名前はね、お父様がつけたのよ。ハイカラかしら?


 フミというのはお父様の芳文のフミ、カは、お母様のカヨからとったそうなの。 

 お母様とお父様の愛の結晶だからって。夢想家でらしたのよ、私のお父様は。

 お父様は生まれたての私を抱いて3日3晩離さなかったって、お母さま、何度も嬉しそうにお話しなさったの。

 

 お母さまのように美しくて人を愛することに長けた子になるよって、おっしゃったんですって。お母さまは、お父様のような優しい子に育って欲しいと願っていたの……。


 あやかしは、フミカの独り語りに聞き入っていました。綺麗な名前だなと思いました。この綺麗な女によく似合っている名前だな、歌だな。可愛いな、綺麗だな。滅多に人に関心を持たないあやかしが、フミカの何に惹かれたのでしょうか。


 フミカは縁側が好きです。青葉雨に庭の木の葉が緑を輝かせていた夏香る日も、美しい声で朗読をしていました。母が好きだった与謝野晶子の『乱れ髪』は、何度も読み返してボロボロになっています。


 男女七歳にて席を同じくせずという風潮の明治の頃は、世の少女たちは、恋焦がれる人を人知れず想って寝込むことさえあったのです。そんな儒教の名残りが強い時世に、恋心を堂々と謳いあげた与謝野晶子は、なんと大胆な女性だったことでしょうか。恋に恋する女性たちの教祖となったのは言うまでもないことです。


 彼女に憧れ、自由に生きようとする女性もちらほら出てきました。そんな女性のうちの1人がフミカの母でした。

 

 母には愛した人がいたのです。その人には親が決めた許嫁がおり、母と結婚することは許されませんでした。でも、母は初恋を捨てませんでした。母の愛した人は、母に家を買い与え、出来る限りの愛情を注いだのです。それは母にも、後に生まれた娘であるフミカにも。


 母が亡くなって、フミカは一人暮らしをしています。


 小さい頃は幸せでした。両親の愛を両腕いっぱいに抱えて生きていました。父が特にフミカを愛してくれたからです。


 江戸の頃には武家でしか祝われていなかった七五三も、フミカが尋常小学校にあがる頃には、庶民の間にもお祝いが流行しました。呉服屋が社参りをするための可愛い着物を売り出すようになったからです。


 流行に敏感な父はフミカの7歳のお祝いに着物を仕立てて、お宮参りに連れて行ってくれました。着飾るフミカを抱き上げて相好を崩して父が言いました。


「愛する娘よ、初恋の人に嫁ぐその日まで、君は僕の大事な人だよ」

「フミカ、初恋の人と深く愛し合って幸せになってね」と、母も願ったのです。


 フミカの両親は、初恋同士。初恋の人と結ばれたけど、一緒に暮らせなかったから、それを娘に託しました。なのに、花嫁姿を見ないうちに彼女を残して流行り病で逝ってしまいました。父も母もまだ若かったのに……。


 両親に愛された思い出に包まれながら、フミカは独りで生きていたのです。フミカは両親が望んだように美しく心優しい娘に成長しました。

 

 本家の兄達が見合い話を持ってきますが、フミカは首を縦にはふりません。初恋の人がいたからです。 


 初恋が訪れたのは、16の時でした。


 フミカの愛した人は、フミカが歌を歌うのを好んで聞きました。縁側でフミカが歌を歌うと、フミカの膝に頭を預け、優しい微笑みを浮かべて目を瞑ってその美声に耳を傾けるのです。


 フミカは、白地に紺と黄色の縦縞が入った着物がよく似合っていました。帯は橙色に白い幾何学模様が入っている恋人の壮介が贈ったものです。


 髪は当時の流行りの耳隠しに結っています。まだまだ、断髪には抵抗がある時代です。流行の先端であったモダンガールのように短髪に見えながら、長い豊かな髪をそのままに結い上げた髪型が、伝統と前衛の間をとったようで、フミカは気に入っていたのです。


 「フミカの髪はいい匂いだな」

 「壮介さんが好きな椿油の香りね」

 「フミカは耳隠しが一番似合うと思う、可愛いなぁ」


 「うふ、壮介さんが結ってくれるからこの髪型でいられるの。自分でするのは大変だわ」

 「髪結いだからね、俺は。ほら、こうやってコテで髪をうねらせるだろう。おでこから両脇に流して両耳を覆って……。毛先を後頭部にまとめるとできあがり。フミカのような可愛い娘に似合う髪型だ。昨日、牛みたいなおばさんがやってくれって店に来たんだけど、笑いを堪えるのが大変だったなぁ」


 「意地悪言ってはいけないわ。お客さんでしょ?」

 「分がってるって」



 壮介はフミカのつむじに口づけを落としました。リンゴのように顔を赤くしたフミカは、その先の壮介の望む展開を受け入れる恥ずかしさに身を固くするのです。


 壮介がフミカをそっと後ろから抱きしめると、気を逸らそうとフミカは歌いだしました。


 それは、壮介が一番好きな『松の声』という歌でした。

    

 透き通ったフミカの高音が、栗花落の雫を伴奏にして旋律を美しく歌い上げていきます。

 

 「壮介さん……」

 

 フミカは、何度、この場面を回想したことでしょうか……。


 愛する人がいました。愛する壮介は、出張髪結いに出かけた日、大雨で氾濫する川で溺れて帰らぬ人となったのです。


 帰りが遅いのに胸騒ぎを覚え、役にも立たない蛇の目傘を持って、土砂降りの中飛び出したフミカが家から1町ほど行ったところに流れる荒川の支流に辿り着くと、男たちが叫び声をあげながら川岸に壮介を引き上げているのが目に飛び込んできました。困っている人を放っておけない男気にあふれた壮介は、過って川に落ちた子供を助け岸に放り投げたあと力尽きてしまったのです。側で壮介に助けられた子供が泣き叫んでいました。


 フミカは眼前に世界が崩れ落ちていくのが見えました。


 それ以来、雨の日は家から一歩も外に出ることができなくなってしまったのです。雨の日に外に出ると、その光景が目の前に蘇ってきて、フミカは壮介がいなくなったことを認めざるを得なくなるからです。

 雨粒なのか、彼女の涙なのかわからない雫が縁側を濡らしています。 


「壮介さん、『松の声』、歌うわね。♪ああ、夢の夜や♪」


 吟遊詩人のような朴訥とした歌唱で一世を風靡したこの曲が壮介は大好きで、よくフミカに所望したものです。


 「なあ、フミカ、『松の声』歌ってくれないか?」

 「壮介さんって、随分硬派な歌が好みなのね」

 「惜しむ別れのステーションってとこで、福島のおっかあを思い出すんだよ」

 「壮介さんも15歳で上京したんだったわね。学びに身を投じよっていう父母の願いが胸に迫まるわ」

 「そうだな。初心を忘れるなっていう戒めにも聞こえてね、修行時代に随分、救われた」

 「素敵よ、壮介さんのそういう真摯なとこ」

 「歌っておくれよ」

 「ええ、よくってよ」


 思い出は尽きませんでした。こうやって縁側で恋人の好きだった歌を歌って過ごしてもう幾年。初恋に身を焦がした少女はもう23の大人の女になっていました。フミカの歌は、雨を伴奏に一日中続くのです。綺麗な高音を響かせて歌う声は少女の時と変わりません。

 

 そんな彼女に見惚れている影があるなんてフミカは全く気づいていなかったのです。


 あやかしがフミカの独り語りで知ったことは、フミカの両親はもういないこと、そして壮介という名前の恋人がいたらしいことです。どうして、その壮介がもう訪ねてこないのかはわかりませんでした。独り言ちているフミカが、壮介さんと唇から零す音に、胸を甘く締めつけられるような感傷を感じました。そして、涙を零すと濡れるフミカの睫毛はとても長いな、とぼんやりと思いました。

 

 あやかしは、もっとフミカの話が聞いてみたいなと思いながら、この家の庭で、フミカから見えないのをいいことに、・・・、何も考えないで、頭を空っぽにしてゴロ寝をしています。軽快に2拍子を刻む雨音を聞いて鼻歌気分でいると、いきなりパッとひらめいたことがありました。


――――そうだ! 雨の日に人型をつくってフミカと話をしてみよう!。


 我ながら名案だ! と急な思いつきにあやかしはわくわくしました。

どんな人型にしようかな?と、あれこれ考えてその夜は、珍しく眠れませんでした。


 その日も、フミカは縁側で歌っていました。雨の日に、フミカが決して見ようとしない外の世界は、静かで冷たい秋霖に濡れ、心躍る夏のあいだ太陽の光に煌めいていた空気は色を失ってしまいました。淋しさが誘われます。


 フミカは、寂寥感を払おうと、北原白秋の歌を口ずさんでみました。

  

  ♪遊びに行きたし、傘はなし…

 

 かえって淋しくなってしまって、苦笑いを溢していたその時、玄関で声が聞こえました。


 「もし、どなたかおいでですか?」

 「はーい、只今!」

 

 フミカが縁側から玄関に回ると、そこには背の高い25~6の見目の良い男性が立っていました。大きな目は少し吊り気味で、口元には少年の面影が残っています。

 白い長着に袴を着け、なにやら道具箱を持っています。傘を忘れたのか、道具箱が大きすぎて持てなかったのか、白い長着は肩まで濡れていました。


 「はい? なにか御用ですか?」

 「私、出張髪結いをしております高山雄一といいます。お嬢さん、僕が髪を結いますが、いかがでしょうか? 貴女のお好きな髪に結えますよ」


 フミカは心臓が跳ねるのを感じました。壮介と知り合ったのはまさに同じ状況でした。そして、壮介が生きていたならきっとこんな大人の男性になっていたに違いないと思ったのです。フミカの胸は熱くなりました。


 「お嬢さんなら、耳隠しが似合いそうですよ」

 「あら、耳隠しはもうさほど流行らなくてよ。おできになるの?」

 「ええ、勿論、夜会巻がよろしければそちらでも」

 「いえ、耳隠しをしてくださる?」

 「はい、承知しました」


 縁側に回るように言うと、フミカは高鳴る胸を沈めようと大きく深呼吸をしました。

 高山と名乗った髪結いは、縁側で手際よく道具を広げました。失礼しますと言って、フミカの襟もとに手ぬぐいを手早く巻くと、豊かなフミカの髪をひと房手に取り、櫛を取り出して梳き始めました。ひと房終わると、また、ひと房。椿油を少量手にとり、さっと髪全体にならしていきました。無造作に纏めていただけのフミカの髪が瞬く間に艶めいて、匂い立ってくるのがわかります。

 コテを取り出した高山は、鏡越しににっこりとフミカに笑いかけました。フミカの大きな瞳が僅かに潤んでいました。


 「ほら、こうしてコテでうねりを出します」


 そう言いながら、小さくジューっと音を立てるコテを器用に操り、髪全体に、綺麗に山の稜線のようなうねりをつけていきました。


 「額からこうして両側に流すんです。そして耳を覆って後ろで纏めるっと」


 最後に纏めた髪にキュッと櫛を挿して固定し、鏡の中のフミカの表情を伺う高山は、等しく壮介と同じ得意げな少年のような顔つきをしていました。

 フミカの大きな瞳から、ポロっと大粒の涙が零れました。


 「お嬢さん! どうしました? 僕なにか気に障ることでもしましたか?」


 吃驚した高山は大声をあげました。


 「いえ、何でもありませんの。ただ、耳隠しにしたのが久しぶりで懐かしくて……」


 フミカの脳裏に蘇った壮介の髪を結ってくれた手つきと、上手くできたという得意げな表情がフミカの涙腺を刺激したのでした。


 「ごめんなさい。お気になさらないで」


 頬の涙を拭いながら笑顔をつくるフミカは少女のように可愛らしく、高山の心臓を鷲掴みにしてしまいました。濡れた睫毛が蠱惑的でした。


 「あの、お嬢さん、お名前を聞いてもいいですか?」

 「フミカですわ」

 「フミカさん……綺麗な貴女にぴったりの名前だ……」

 

 この時から遡ること3か月。あやかしは、仲間の妖怪に人間の女が気に入ったから人型になって話がしたいと言いました。話し相手はいつでも空の妖怪・空亡きです。


 「なあ、空亡き、知恵を貸せ。どうやったら怪しまれないで近づける?」

 「女は、恋人がいたんだろ? じゃあ、その男に似せればいい」

 「どんな男かわからんよ」

 「じゃあ、覚(さとり)に頼んでやる。彼奴がその人間の記憶を読んでくれりゃ化けられるさ」


 人の心を読むという妖怪の覚によれば、その男は髪結いだったのだそう。そして、フミカの髪を結ってやったことがきっかけで恋仲になったのだとか。

 あやかしは、いつも寂しそうなフミカに、想い人がいつも結ってくれていた耳隠しを結ってやろうと思い立ちました。そして、髪結いの家に透明なまま入り込み、髪結いの手元をみて一生懸命覚えて練習したのです。

 さして器用でもないのに頑張って練習したので、フミカの髪を上手く結ってやれた時は、少年のように得意満面だったのでした。その得意顔が存外可愛くて、フミカは壮介も得意顔をしていたことを思い出して思わず涙したのです。

 しかし、髪を結えるようになったのはいいけれど、あやかしは雨で人型は作れても、実体はないから人に触れません。どうしたらいいだろうかと思いあぐねて、また空亡きに聞きました。


 「なあ、髪に触るにはどうしたらいい?」

 「人間になれば出来るだろうがな……」

 「どうやって?」

 「知らんのか? 閻魔様に言って永遠の命を返せば、人になれるんだぞ」

 「知らなかった。知っていたらとっくに人になったのに」

 「馬鹿だな、永遠の命を手離してまで、50年そこらしか生きられない人間になんて誰がなりたいんだよ」

 「そうだな……」


 あやかしは頭を抱えてしまいました。50年なんて短すぎるが、でもフミカに逢いたいし触りたい。あやかしは閻魔様に直談判しました。

 これから先、閻魔様の言う通りに川の氾濫を1年で10回起こすから、半年だけ人間の体を貸してくれと頼み込んだのです。閻魔様は妖怪のくせに人間の女に懸想しているとはと、腹を抱えて笑いました。が、あんまりあやかしがしつこいので期限付きで人間を貸してやることにしました。

 但し、条件があるのです。黄泉の国の人間の魂を半年だけ貸してやる。雨の日に自分の妖術を使って人型をつくれ。そのつくった人型に魂を入れれば、一時的に女に触れる、とのことです。晴れた日に女に触れたら蒸発するから気をつけろ、とも言われました。あやかしは、大丈夫だ、自分も雨粒がないと自由に人型をつくれないから、どのみち天気の日には会わないさ、と応えて意気揚々と縄張りの荒川に帰っていったのです。


 フミカの髪を結ってやりたい。それが為に結構な時間を費やしたあやかしは、満を持してフミカの前に現れたというわけだったのです。

 あやかしの体を一時的に人間にしている魂は、生まれ変わるのを待っている魂です。眠っている魂なので、あやかしの意識に何も影響を及ぼしてきません。

 念願だったフミカと言葉を交わすこと。それが叶って、あやかしは今まで味わったことがないようなふわふわとした気持ちです。


 「あの、フミカさんはずっと一人暮らしをしているのですか?」

 「ええ、そうですわ。両親は流行り病で亡くなりましたの」

 「お寂しくないのですか?」

 「え? ふふ……」


 フミカは言い淀んで目を逸らしました。楓の葉が散った着物の胸元をきゅっと握りしめているのは、きっと本心が零れるのを防いでいるのでしょう。

 静寂が訪れました。さらに強くなった雨音だけが2人の耳に響きます。

 気まずさを打ち消そうとあやかしが口を開きます。


 「すみません、立ち入ったことを聞きましたね」

 「いえ、いいんですのよ。それより高山さんとおっしゃったかしら?」

 「ええ、雄一です」

 「雄一さん、耳隠しは需要がなくなってきたのに、お上手ですわ」

 「お褒めに預かり光栄です。今節、断髪流行りだから、髪結いは床屋にすっかり客を奪われてますから」

 「ええ、そうでしょうね」

 「だから、こうして出張髪結いもするんですよ」

 「あら、それにしてもちょっと突然でしたわよ、うふふ。私の髪をしてくれてた方は、私のお母さまが呼んだから来たんですのよ。それからその方にばかりしてもらってましたの」

 「その人はどうしたんです?」

 「嵐の日に髪結いに出て、氾濫する川で溺れた子供を助けて命を落としましたのよ」

 「……あの……それは、いつ?」

 「7年前ですわ」


 まさか!とあやかしは、思い当たることがありました。

 7年前と言えば、あやかしは、荒川流域の人間たちが土嚢を積み堤防を一生懸命につくるのが気に入らなくてならなかったので、悪戯に悪戯を重ねていました。

 空を操る空亡きの機嫌がすこぶる悪く嵐が起こったので、この時とばかりにあちこちの支流に氾濫を起こさせたのです。フミカの住むこの家から一町ばかり行ったところにある支流で、あやかしは子供が走っているのをみつけ、おいでおいでをして川に引き込みました。

 大声で、戻れ!と叫んで走り寄ってくる若者がいたのを覚えています。


 じゃあ、あれが、フミカの恋人だった男? まだ若かったはずだ。多分、20歳になるかそこらの……。あの後どうなったのか見もしないでその場を後にしたんだ、とあやかしは青くなっていきました。


 「どうなさったの?顔が青いですわ」

 「いえ、なんでもありません」

 「いえ、なんだか変ですわ。よろしかったら、温かいものでも持ってまいりますわ。ちょっとお待ちになっていらしてね」

 

 あやかしは、台所へと立ち上がったフミカの後姿を慙愧の念をもって見つめました。

 

 何も知らないフミカを騙していることが心苦しくて、あやかしはフミカが淹れてくれた熱い生姜入りの紅茶を飲み干すと、すぐ暇を告げました。

 外に出ると、次第に雨足が強くなっているのが分かりました。あやかしは髪結いの道具箱を抱えて歩きながら、フミカを想いました。


 「君は、7年もの間、その人を想って独りでいたの? 俺のせいだな……ごめんな、ごめんよ」


 あやかしは見境もなく悪戯を繰り返し、川を氾濫させてきました。そのせいで人の命も人生も奪い、自分が親しみを感じている人に悲劇をもたらしたのだと思うと自分が許せない気持ちがこみあげてくるのです。

 例によって、唯一の友達の空亡きに愚痴を言います。


 「空亡き、俺は人間に酷いことをしていたみたいだ」

 「よせよ、あやかし、妖怪らしくもない。なんて様だよ。人間の女に魂とられたのか?」

 「フミカはとてもいい娘だ。あんな美声のいい娘が独りぼっちでいる原因が俺だったんだぜ」

 「いいか、あやかし。人間と妖怪は敵対してきた。戦いに犠牲はつきものだ。弱っちい人間がいくら死んだからって世界は変わらない。世界は妖怪が支配してこそ秩序が保たれる。女が独りでいるくらいで妖怪の本分を忘れるな!」

 「フミカは守ってやらなきゃ! 俺が守る!」

 「馬鹿か! 女なんて適当に弄んで捨てろ。人間の女が妖怪と添い遂げられるとでも言うのか!」

 「何とでも言え! 俺がフミカに幸福を運んでやるんだ!」


 空亡きの罵倒は、あやかしの中でまだ目を覚ましていなかったフミカへの恋心を叩き起こしてしまったようです。いつも綺麗な声を聴かせてもらっていたから、ちょっと話して、髪を結って喜ばせてあげたい、そんな気持ちだったのに。

 あやかしは、はっきりと自覚しました。俺はフミカに惚れているんだと。自分のこの手でフミカを守ってあげる、幸せにしてあげると、あやかしは決意したのです。


 翌日からしばらく3日間は秋らしい穏やかな晴天が続きました。天気の日は人に触ると、その人の熱で蒸発すると脅されたので、あやかしは大人しくしていました。

 言葉は交わせませんが、透明になってフミカの様子を覗きに行ってみました。天気の日のフミカは、家を出て、買い物に出かけたり、近所の奥さん連中と井戸端会議をしたりしているようです。淋しげに歌っているフミカはあやかしを惹きつけますが、朗らかに笑い声をたてるフミカもなんて可愛いんだろうと思いました。


 待ち遠しい雨の日です。4日ぶりに、あやかしはフミカを訪ねました。


 「こんにちは! フミカさん! 雄一です、いらっしゃいますか?」

 「あら、雄一さん! どうぞ縁側に回ってくださいましな!」

 

 フミカは、幾何学模様の地に鮮やかな紅葉がいくつか散っている着物を、衿を抜いて当世風に着くずしています。締めている帯は黒地に渋みのある色合いの赤や緑の葉があしらわれていて、着物とよく調和していて粋でした。

 可愛いなとあやかしの相好が崩れます。


 「フミカさん! ご機嫌いかがですか?」

 「うふふ、よろしくってよ、雄一さんは?」

 「ええ、フミカさんの笑顔を見たら気分も軽くなりましたよ」

 「あら、お上手ですのね! 今日も髪を結ってくださるの?」

 「ええ、勿論! 耳隠しは貴女によく似合っているが、今日は夜会巻にしませんか?」

 「夜会巻きも素敵ですけど、夜会には参りませんものね」


 悪戯っぽく微笑むフミカに胸がキューンとするのを感じて、雄一が頬を染めた。


 「あら!先日は青くなってらしたけど、今日は赤くなってらっしゃるわ!お熱ですの?」

 「あ! いや!なんでもないんだ! 大丈夫です!」


 あやかしの額に手を添えて熱があるか見ようとするフミカの手を思わず掴んでしまって、あやかしは大慌てで手を解きました。


 「すっ!すみません!」

 「こちらこそ、ごめんなさい、急に触ったりしたらご迷惑でしたわね」

 「いえ!いえ!あ、あの!……」


 存外と純情なあやかしでありました。

 

 「雄一さん、やはり、耳隠しにしてくださいませんか? 私の思い出の髪型ですの」

 「お抱えの髪結いの得意の髪型だったんですか?」

 「ええ、そう、私、その方に懸想しておりましたの。……似合うよって……」


 フミカの大きな瞳がまた潤んできました。 


 「思い出しますか?」

 「ええ……ごめんなさい」

 「いいんですよ、では、耳隠しを結いましょうね」


 あやかしは、未だにフミカの心を独占しているあの若者が羨ましくなり、今度もキューンと胸が締めつけられるのを感じました。しかし、先のキューンと今のキューンの種類が違うことも自覚しました。


 「耳隠しにもいろんな変型があるんですよ。やってみましょうか?」

 

 鏡越しにフミカを覗き込むと視線が鏡の中でかち合います。ちょとどきっとしたのはフミカのほうでした。


  「ええ、お願いしますわ」


 あやかしは、にこりとすると、フミカの髪を丁寧に梳きだしました。椿油でしっとりさせると、手櫛でうねりをつけ、額からふんわりと両側に流し耳を覆うと、後ろ毛を纏めずに髪紐で縛りました。髪紐は着物の色に合わせて紅葉色にしました。季節感が出てとても素敵です。


 「ほら、まとめ髪じゃなくて縛っただけですけど、こういうのも若々しいフミカさんにはお似合いだ。素敵でしょう?」

 「まあ! 私は、こんな大年増ですのに! 喜ばせるのがお上手でらっしゃるわ!」

 「フミカさんは、可愛い……」


 思わず零れてしまった自分の言葉にあやかしは赤面しました。秋の長雨のしとしと降る音が、少しはあやかしの胸の鼓動を隠したでしょうか……。

 

 ふいにフミカが涙を零しました。

 

 「いやだわ、可愛いだなんて……。あの人はいつも私を可愛いって言ってくれていたの……」


 あやかしは、はっとしました。自分が何をしてもフミカの思い出に結びついてしまう。なんとも言えない気持ちがこみあげて来ました。こういう気持ちを切ないと呼ぶのだとあやかしが知るのはもう少しあとのことでした。


 泣いてしまったフミカを慰めなくてはと咄嗟に思いついて、あやかしは歌を歌い始めました。唐突に歌いだしたその歌は、フミカが歌っていた歌のひとつでした。♪雨はふるふる……。


 抒情豊かな歌詞が好きで覚えていたのです。

 長調に変わるところで、殊更元気いっぱいに声を張り上げるあやかしを見て、フミカは笑い声を立てた。

 「おほほ! 雄一さんたらひょうきんでらっしゃるのね!」

 「笑いましたね! フミカさんは泣いているより笑っているほうがずっといいな!」

 「……まあ! うふふ、面白い方ね、雄一さんは。私もこの歌好きだわ、北原白秋ね」

 「今度、歌ってくださいませんか?」

 「ええ、よろしくってよ」


 あやかしは心が躍りました。フミカの歌は大好きでした。


 「一緒に歌いませんこと? 童謡ならご存知でしょ?」

 「ええ?! いや、僕は歌は得意じゃないです」

 「あら、今しがた、あんなに楽しそうにお歌いになってらしたのに! 歌は楽しければいいのよ」


 フミカの笑顔につられて、あやかしも満面の笑みを浮かべました。また、胸がキューンとするのを感じました。この胸の締めつけは苦しいからじゃないと、あやかしには分かりました。

 秋の雨が打つ打楽器の伴奏に合わせて、2人は、雨雨ふれふれ、と楽しそうに童謡を歌いました。

 晩秋の冷たい雨は、鮮やかに紅葉した木々の葉を散らし、また、訪れる春の準備をせよと世界に冬眠を促していました。


 冬将軍が世界を支配しました。

 凍雨が降る寒い日のことでした。ずぶ濡れの子猫を右腕に抱え、左手に髪結いの道具箱を持ったあやかしがフミカの家の縁側に現れました。

 

 「まあ! 雄一さん! びしょ濡れじゃなくって! それにその猫ちゃんも!」

 「ああ、フミカさん、僕はいいんです。ここに来る途中で見つけたこの猫があんまり鳴くんで、放っておけなくなってしまって……」

 「まあ、お優しいのね……さあさ、猫ちゃん、私のところにいらっしゃい!」


 フミカは子猫を腕に抱き上げて、急いで手ぬぐいでくるんであげました。微笑んでその様子に魅入っているあやかしをフミカは好ましく感じました。やはり少しずつですが、あやかしに心を開いているのでしょう。


 「この子、私がお世話しますわ。名前は雄一さんがつけてくださいな」

 「そうですね。空はどうですか?」


 あやかしは、親友の空亡きにちなんで、空という名を提案しました。


 「まあ! 可愛いわ! 空ちゃん!」


 子猫は安心したように、フミカの腕の中でスヨスヨ眠り出しました。

 以前のあやかしは、子猫を氾濫する川に放り込むような乱暴者だったのに。子猫を放っておけなくなったのは、母猫を見失ってミィミィ鳴いている子猫の姿が、雨の日に失った人を想って泣いているフミカの姿と重なってしまったからでした。

 人ではないあやかしに人の感情が芽生えたのは、フミカの可憐さと優しさにすっかりと絆されてしまったからなのでしょう。

 この日以来、あやかしとフミカの距離はぐっと縮まっていきました。


 まだまだ続く冬空に利休色の雨が降っています。空も部屋のこたつで丸まっていました。


 「雄一さん、今日は雄一さんがお得意な髪型にしてくださる?」

 「いいの?」

 「ええ」


 フミカが自分に髪型を任せてくれたのがとても嬉しくて、あやかしは自然に笑みがこぼれてきました。


 「あらあ? 雄一さんたら、ご機嫌なのね?」

 「そりゃ、髪結い冥利につきるだろ? 任せてくれるんだからね」

 「お礼にご所望の歌を歌って差し上げてよ」

 「じゃあ、城ヶ島の雨を歌ってほしいな」

 「よくってよ! この歌がお好きだものね」


 あやかしは、フミカの髪を真ん中から二つに分けると、片方ずつ三つ編みを編んでいきました。二つのお下げをつくり、それを横から顔の輪郭に沿わせるように捩じり上げていきます。そうするとフミカの頭に自毛のカチューシャができあがりました。

 フミカは、髪を結っている間に歌ってくれました。

        

 「ありがとう、フミカさんが歌うのが僕は大好きだ」

 「喜んでくれて嬉しいわ」

 「歌詞に利休鼠の雨ってあるけど、今日のような灰色の雨だ、冬の雨だね」

 「そうね」

 「ねえ、なぜ、雨の日は外に出ないの? 冬はいざ知らず、柔らかい春の雨に打たれて歩くのは気持ちがいいよ、春になったら散歩しない?」

 「ええ……」


 暗い顔になってしまったフミカを鏡越しに見つめると、鏡の中で視線が合いました。


 「無理にとは言わないよ。ごめんね」

 「いえ、いいの」


 フミカは、涙を誤魔化そうとしたのでしょうか、お茶を淹れるわと言って台所に立ってしまいました。

 フミカが7年間も雨の日に家から出られないのは、壮介の死に顔を見てしまった心の傷なのでしょうか、それとも、甘美な思い出を残した初恋の人の死を受け入れられないのでしょうか?

 あやかしは、癒してあげたい、手を繋いでそぼ降る春の雨の中を蛇の目傘に一緒に入り、雨にも慈雨があるんだと教えてあげたいと思いました。


 冷たい雨に濡れる縁側で、あやかしはぎゅっと拳を握りしめていました。

 

 雨の日にフミカを訪ねるあやかしの姿は、もうすっかりご近所では有名になっていました。少女の初々しい恋が嵐の夜に突然、神様に召し上げられてしまったことを、大人たちはとても気の毒に思っていました。

 フミカさんはまた髪結いを好きになったんだよ、良かったじゃないか、と近所のおかみさんたちは喜んでくれました。


 冬が名残雨を執拗に降らせていました。

 あやかしにとっては、フミカと逢えるので嬉しいことでした。冬の縁側は寒いので、縁側続きの部屋の障子を開けて、火鉢の前に2人で座るのです。フミカが淹れてくれる熱い生姜入りの紅茶を飲み、他愛もないお喋りに興じるのは、あやかしにとってはこの上ない至福の時でした。


 「フミカさん、寒いだろ? 障子を閉めようか?」

 「いえ、いいの。庭の山茶花が綺麗でしょう? 眺めていたいわ」

 「山茶花も綺麗だけどね……もっと綺麗なものがある……」


 勿論、フミカのほうが綺麗だと言ってあげたいのですが、照れ隠しにコホンと咳ばらいをしました。

 フミカはふふふと笑っています。


 「ねえ、雄一さん。山茶花の花を髪に飾ってみたいの。結ってくれるかしら?」

 「ああ、いいとも」

 

 あやかしは、豊かなフミカの髪を後ろから巻き上げ、左右に輪を作りました。鹿鳴館で踊る令嬢たちが洋装に合わせた髪型でしたが、黒地の着物を纏ったフミカにもよく似合います。山茶花を耳の後ろにひとつ飾りました。山茶花の桃色が黒地の着物にもうひとつ華を添えました。


 「どう? 気に入った?」

 「ええ、とても! ありがとう、雄一さん」

 

 合わせ鏡で自分の後頭部が華やかに飾られているのを嬉しそうに見つめるフミカ。乙女のような笑顔が眩しくて、ああ、可愛いなあと呟きが漏れそうになります。あやかしの目が弧を描いて、口角は上がっていました。


 上機嫌で帰っていったあやかしを見送ったフミカは、また、縁側に座り直しました。フミカの肩には、壮介の福島のお母さんがフミカの為に編んでくれた毛糸の肩掛けがかかっていました。

 

「お母さん、あの雄一さんが壮介さんだったらいいのにね」


 フミカの瞳は遠くを見つめていました。


 「なあ、フミカ」

 「なあに、壮介さん?」

 「庭に山茶花を植えたらどうだい?」

 「そうね、素敵でしょうね」

 「決めた! 明日、苗を買ってくるよ」

 「壮介さんって、お花に興味があったかしら?」

 「桃色の山茶花が冬に咲くと綺麗だよ。花屋の次郎に聞いたんだよ、花言葉はね……」

 「知ってるわ……」


 壮介がそっとふみかの蟀谷に口づけました。


 桃色の山茶花の花言葉は『永遠の愛』です。雄一が現れるようになってから、壮介との思い出が前にもまして蘇るのがフミカを苦しめます。


 「ねえ、壮介さん、どうしていなくなっちゃったの?」


 涙を拭うフミカの膝に空が乗ってきて、ミャウーと声をたてます。空には女心がわかるのでしょう。

 それから数日が一番の冷え込みでした。山茶花ちらしの雨が降っています。フミカの家の庭の山茶花も花びらを散らし、庭に桃色と白色の絨毯をつくっていました。


 フミカは、山茶花が散る様子に強い喪失感を覚えました。そんなフミカの睫毛の影にあやかしはいつも心を痛めているのでした。


 居座っていた冬が春に世界の支配権を譲りました。啓蟄の春です。梅の花も綻び、冬の間、肩をすぼめていた通行人たちも、背を伸ばして顔を綻ばせています。


 小糠雨の降る中を、あやかしは大きな蛇の目傘だけ持ってフミカを訪ねました。


 「フミカさん、今日の雨は温かくて、柔らかいよ。空気が気持ちいいんだ。どう? 僕が手を引いてあげるから、この蛇の目傘で歩こうよ」

 「え? 相合傘をするの?」

 「ああ、いいかな?」


 フミカが赤面しているのが可愛くて仕方なくて、あやかしは触れたくて堪らなくなりました。手をそっと握ってみました。

 フミカは体を固くしていましたが、あやかしの手を振り払いはしませんでした。


 「雨は恵ももたらすんだ。このまま一生雨の日は外に出ないつもりじゃないだろう?」

 「ええ、でも……」

 「僕が支えるよ」

 「そうね……」


 渋々という感じではありましたが、フミカはあやかしに手を引かれ7年ぶりに外に出ました。慈雨がやさしく降り注ぎ、梅の花弁が舞い散る中を、2人はひとつの蛇の目を差して歩きました。


 「フミカさん、どう? 気持ちがいいだろ?」

 「ええ、そうね。空気が柔らかいわ」

 「ね、言った通りだろ。これからもっと暖かくなる。雨の後には花も咲くよ」

 「そうね。お花の季節は楽しみね」


 フミカが微笑みました。あやかしの胸はざわざわとさざめき立ちました。


 その時、突然、遠くに春雷が聞こえて、2人は、思わず足を止めました。蛇の目の中でお互いの顔を見つめあう2人は、確かに、お互いに温かいものを感じていました。

 ツーンと瞼の奥を刺激する感覚がありました。フミカの顔がこんなに近くにあって自分の目を見上げているのです。 

 あやかしは胸が震えていました。幸福ってこういうことを言うのだろうか? 手を握り直すと弱々しくはありましたが、フミカはあやかしの手を握り返してきました。

 

 しかし、確かに感じた幸福の刹那は、瞬く間にあやかしの手から滑り落ちていきました。

 

 荒川の支流が見えてきた時、フミカが肩を小刻みに震わせ始めました。硬直したように一歩も足を踏み出せなくなったフミカは、だんだん過呼吸が止まらなくなりました。


 「フミカさん! 大丈夫かい? しっかりして!」

 「壮介さん!壮介さん! 私、無理よ、壮介さんがここで亡くなったのよ、私、何もできなかった。ただ、突っ立って見ているだけだったのよ!」


 あやかしは、フミカの肩をしっかり抱いて支えました。妖怪の力を発揮してフミカを担ぎ上げ、フミカの家に風のような速さで戻ったのです。

 フミカを介抱し寝かしつけると、フミカが、はしっとあやかしの手首を握ってきました。


 「ねえ、雄一さん、貴方は本当は誰なの?」

 「え?」

 「どうして雨の日しか現れないの?」

 「それは……」


 あやかしは唇を噛みしめ、二の句を呑み込んでしまいました。


 「ううん、いいの、いいのよ。雨の日だけでもいいの」


 あやかしの心臓は早鐘のように鳴っていました。妖怪だとバレていたのでしょうか? 

 ちょっと躊躇ってからフミカが口を開きました。


 「ねえ……、本当は壮介さんじゃないの?」

 「え?」

 「なんでもないのっ! 忘れて!ごめんなさい」

 「……」


 あやかしはふいに理解してしまいました。雄一に壮介を重ね、剰え、もしかしたら雄一の化身だったらといいと願うほどに、フミカは壮介を未だに恋い慕っていたのです。今まで積み重ねてきたフミカとの時間はなんだったのだろうかと、あやかしの心には嵐が吹き荒れました。


 「ごめんなさい、私、どうかしているわ」

 「いや、いいんだよ。僕こそ、辛い思い出のある場所に連れ出してしまってごめんよ」

 「ごめんなさい。あんなに息が苦しくなるとは思わなかったの」

 「今日はゆっくりお休み。また来るね」

 「ええ……約束よ」

 「ああ」


 力なくフミカに笑いかけ、フミカの家を後にしたあやかしの心は、ぽっかりと穴が開いたようでした。

 あやかしはどこをどう辿ったか自分でも分からないうちに、荒川の土手に立っていました。そして、幸福が滑り落ちていった手をじっと見つめていたのです。春夕立があやかしを全身ずぶ濡れにし、袴が足に絡みついています。草履が泥だらけで脱げそうになっていても、あやかしは、ただただ、雨に打たれて立ち尽くすだけでした。


 いつの間にか、空亡きが側に立っていました。


 「よう、友よ。泣いてんのか?」

 「妖怪は泣かない」

 「そうかよ。もうあやかしに戻れ。似合ってないぞ、人間の姿は」

 「ありがとよ、本当のことを教えてくれてな」

 「女は前の男を忘れてねぇんだろ?」

 「……」

 「このまま放っておけ」

 「駄目だ、俺が幸せにするって決めた。決めたことは守る」

 「お前、命失うぞ」

 「いい、それでも」

 「愚かな奴だよ。恋は人間だけじゃなくて、妖怪までも狂わすんだな」

 「空亡き、それは至言だな」

 「覚えててやるよ、俺が、永遠にな」

 「ありがとよ」


 あやかしは、閻魔大王のもとに行きました。黄泉の国の通行手形を閻魔大王に頼んだのです。閻魔大王は、永遠の命がなくなる覚悟なら出してやると言います。


 「いい、俺には決めたことがある。永遠の命どころか、俺は消滅覚悟だ! 手形を出してくれ!」


 きっぱりと言い切ったあやかしに、呆れたように閻魔大王は通行手形を発行してくれました。妖怪史上初だ、人間の女に懸想して妖怪をやめようという馬鹿はと、嘆息しました。

 

 あやかしは、閻魔大王の呟きを覚えていたのです。あやかしに貸してやる人間の魂は転生を待って眠っている魂だ。死ぬ前の傷を癒している人間は黄泉の国で暮らしている。その人間をあやかしが人型に入れたら、その人間が人型を乗っ取ってしまう。あやかしが消えてしまうのだ。だから転生準備の眠りに入った魂を貸してやらないとと、ブツブツ言っていたのです。

 黄泉の国にはざっと100年くらいは暮らすと聞いています。壮介が死んでまだ7年だから、まだ、黄泉の国をうろうろしているはずだと思ったのでした。

 

 あやかしは、黄泉の国行きの汽車に乗り込みました。到着までの間、脳裏に蘇るのは、フミカの可憐な笑顔、泣き顔……。そして、あの美しい高音で歌うフミカの歌声でした。季節の花をあしらった着物を着て穏やかに微笑むフミカ。あやかしが結ってやった髪に季節の花を飾ってやると、嬉しそうに鏡に映していた愛らしい姿。思い出が次々と走馬灯のように浮かんできて、あやかしの胸を締めつけました。二度と会えなくなると思うと、あやかしの胸が軋みました。でも、消えていくことは、口が裂けても言わない。隠す。フミカを泣かせたくはないから。


 思い出に浸りきっていると、黄泉の国に到着しました。通行手形を見せればお咎めなしで通してくれます。

 嵐の夜に見たきりですが、はっきりと覚えているあの若者の面差しを、道行く人に説明し壮介というと伝えました。すると、髪結いなら、2町行った先の黄泉の国の床屋で髪を結っているよと教えてくれる人がいたので、そこを訪ねていきました。

 床屋を見つけて暖簾をくぐると、確かにあの若者が前掛けをかけて、どこかの商家のお内儀さんの髪を結っていました。


 「おい、お前、壮介だな?」

 「そうですが、あんたは誰です?」

 「俺か、俺は水のあやかしだ!」

 「あやかしさんが俺になんの用ですか?」

 「フミカのところに戻れ」

 「え? 戻れるなら、とっくの昔に戻ってますよ! それよりどうしてあんたがフミカを知っているんです?」

 「妖怪はなんでも知ってんだよ!」

 「フミカはどうしてるんだ?」

 「元気だよ。お前のことばかり想っているよ。帰れ! 俺が戻してやる」

 「ちょっと待ってくれ! あんた、何言っている? 死んだ人間は生き返ることはできない」

 「俺が生き返らせる」

 「馬鹿言うな、そんな理に反したことができるか!」

 「フミカは、お前が死んだ雨の日は家から一歩も外に出られないんだぞ! 7年もの間、フミカは独りぼっちで、お前以外の男を愛そうともしないんだ! お前じゃなきゃ駄目なんだよ!」

 「……」

 

 壮介は、じっとあやかしの目をみつめました。切れ長の目で、全ての経緯を読み取ろうとするかのように見つめ続ける視線に、あやかしは射殺されそうだと思いました。この男は腹の座っている男だ。あの嵐の日、自分の命を投げ出しても子供を救い出した胆力は伊達じゃなさそうだと、腹の中で、壮介の気迫に舌を巻き、これがフミカが愛した男かと、ちょっと負けたような悔しさを感じました。


 壮介に髪を結ってもらっているお内儀さんが、まあ、なんていじらしいのと白いハンカチを噛んでいます。壮介が静かに口を開きました。


 あやかしは、気圧されてたまるかと、壮介の肩を掴み、連れ出そうとしました。


 「待ってくれ。結いかけの髪をほったらかして行くことは出来ない。髪結いの誇りとしてな」

 

 そう言って、壮介は長い指で櫛を動かし、コテを手に取りました。壮介の結いあげた耳隠しは、見事な出来でした。商家のお内儀さんは、もういい年のようでしたが、壮介の手になり、可憐な乙女に変身しました。壮介は櫛を置き前掛けを外して、あやかしに近づき口を開きました。

 

 「待たせたな。どうすればいい」

 「じゃあ、俺の体の中に入れ。俺の体は雨粒でつくった人型だ。意思がある人間の魂が入ったら俺のこの人型が本物の人間になるんだ」

 「あんたはどうなる?」

 「俺か? 俺はもともと実体がないんだ。いずれ俺はこの人型から離れるから心配するな」

 「何で、あんたは俺にそこまでしてくれるんだ?」

 「お前のためじゃない。フミカのためだ。今は、時間がない、早くしろ。」

 

 あやかしは、黙りこくってしまった壮介を訝し気にみました。長い沈黙のあとに壮介がやっと口を開きました。


 「俺の勘が正しければ、あんたはフミカを愛しているんじゃないか?」

 「違う! 妖怪が人間の女を好きになることはない!」

 「嘘をつかなくていい。俺にはわかる。あんた、あやかしの永遠の命を捨てでも、フミカに俺を戻してやろうとしてるんじゃないのか?」

 「違う、俺は、あやかしに戻れる」

 「そんなはずない。黄泉の国にどうやって来た? 永遠の命を担保にしたんだろ?」

 

 驚きでした。やはり、この男はフミカが焦がれるだけの男なのでしょう。


 「……なんで知っている?」

 「黄泉の国に暮らしてもう大分たつ。髪結いって商売はな、お客さんからいろんなことを聞くんだ。黄泉の国から人を戻そうとして自分が消えていった例は引きも切らない。人はな、逝った人間に未練を持つものなんだよ」

 「……」

 「図星だったようだな。それに、あんたフミカの髪を結っていたんじゃないのか?」

 「!!どうして分かった?」

 「伊達に髪結いやってない。あんた、椿油の匂いが手に染みついてる。さっき俺の肩を掴んだ時にはっきり匂った」

 「どんなに髪を結ってやっても、どんなに一緒に過ごしても、フミカはお前を忘れようとしない。俺は、フミカの思い出の中のお前に負けたんだ」

 「死んだ奴に勝てる奴は絶対にいない。あんたは戦う前から敗北宣言してるようなもんだ」

 「なにを!」

 「フミカの心を全力で奪いにいけよ。あんたはあやかしとは言え、生きているんだろ」

 「お前……。俺についてくれば、蘇えることができるんだぞ! 死人じゃなくなる」

 「死んだ人間が蘇るなんていうことがあっちゃいけない。そして、フミカは、俺との思い出にケリをつけるべきなんだ。生き残った人間は、自分の人生を生きるべきだ。死んだように生きてはいけない」

 「帰ってやれ」

 「断る。人の命の犠牲の上に築く幸福があっていいとは思わない」

 「だが……お前の命を奪ったのは俺だ。あの日、子供を人型で誘って川に引き込んだ」

 「……分かっていた……一目見た時から、あんたはあの時のあやかしだろうと思ったよ。責任を感じていたのか?」

 「ああ、そうだ。フミカから幸せを奪ったんだから」

 「宿命は変わらない。無理に変えてはいけないんだ」

 「だが!」

 「あんたが、腹を括れ!あやかしの永遠の生命を手離して、限りある命でフミカを死ぬまで愛せ。俺が、死ぬその瞬間までフミカを愛したようにな」

 「もう一度言うぞ。俺と帰れ」

 「帰らない。フミカに伝えろ。山茶花を生きている男と守れと」

 「この頑固者が!」

 「達者でな」


 壮介は、背を向けました。

 

 あやかしは、まさか、壮介が戻らないという事態になるなど思っても見ませんでした。フミカを喜ばせてやろうと思ったのに。 

 戻るしかありませんでした。閻魔様に啖呵を切ってきた以上、永遠の命はもう手離すしかありません。そして、人として生きることになるのです。

 あやかしは、帰りの汽車の時間が迫っていることを思い出し、脱兎のごとくかけていきました。


「壮介! 俺は戻るぞ!」

「ああ! 幸せになれ!」

 

 床屋に残った壮介の肩が震えていました。

 立ち去る機会を逸した商家のお内儀さんが、心配そうに声をかけます。

 「壮介ちゃん、どうして言う通りにして戻らなかったの? あんなにフミカちゃんのことばかり話していたじゃない。眠れなくなるほど恋焦がれている人に会える絶好の機会をどうして?」

 「おかみさん、あの男は俺にも負けないくらいフミカを愛してる。消えてもいいと思えるほどの愛情を持ってフミカを愛してる。だったら、生きている男のほうがいいでしょう」

 「でも、あの男のせいで貴方は命を落としたんでしょう?」

 「恨んでませんよ。天災だ、あの男は天災を起こすことが仕事だったんです」

 「お人よしね、壮介ちゃん」

 「あの男は、俺に輪をかけたお人よしだ。あ、いや、妖怪良しかな、ははは」

 

 無理をして笑う壮介の肩をポンポンと叩いてお内儀さんが出ていきました。

 壮介は、フミカが独りぼっちだというあやかしの言葉を聞いて、また、彼の真剣な目を見ていて、心臓が抉られるようでした。フミカが、自分が突然逝ったことで、どれほど辛かったか想像に難くなかったからです。自分自身にとっても、幸せの絶頂から奈落の底に突き落とされる堪えがたい悲しみだったのです。

 

 あやかしは、娑婆世界に戻ってきました。娑婆世界の駅で通行手形を差し出すと、改札係から言われました。


 「閻魔様から伝言です。体の中にいる人間はもうすぐ起きるので、吐き出してくださいとのことです。そして、娑婆に戻った時点で、貴方はもう永遠の命を手離したことになります。あと30年ばかしの命を人間の女と過ごして、歳をとって朽ち果てろ、とのことです。」


 あやかしは心から愉快になりました。何百年も生きてきたのに、たった1人の人間の女ために永遠の命を手離しました。そんな自分が滑稽でもあり、誇らしくもあり、思い切り腹を抱えて笑いたくなりました。

 「上等だ! 俺は、永遠に未練はないぜ! 限りある命を思い切り生きる! フミカを幸せにしてやる! 決めたんだ!」

 春時雨で霞む山に向かって大きな声で叫ぶと、あやかしはフミカの家を目指して、全速力で駆けていきました。その速度はもう妖怪の超人的速さではありませんでした。


  すっかり雨もあがった縁側に、あやかしの愛しい人は座っていました。フミカは浴衣の肩に羽織をかけていました。おそらく寝込んでいたのでしょう。髪をひとつ結びにして左側の肩に乗せている姿がしどけなく、衿を左手でキュッと握って掻き合わせています。目が潤んでいるのは、誰かを想って泣いていたからでしょうか。


 「雄一さん、どうして雨だっていうのに現れなかったのかしら? きっと、壮介さんなんて、私が言ったから、怒ってしまったのね。もう、二度と来てくれないのかしら? あんなによくしてくれたのに、雄一さん……」


 フミカの胸に苦い後悔がこみあげます。


 「壮介さんをいつまでも思っていて、壮介さんだって心配よね? 駄目ね、私……」

 

 その時、ふと、風が黄泉の国で壮介があやかしに伝えた言葉を運んできました。


 「山茶花を生きている男と守れ」


 フミカは、わっと泣きだしました。どれだけ泣いたのでしょう。

 縁側は、柔らかい太陽の光に照らされています。その光の中に立ち尽くしている影がありました。


 フミカはその影を見つけると、微笑みました。

 

 荒川はもう氾濫することもなく、今日も静かに佇んでいました。


 



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フミカの選んだ男 くしき 妙 @kisaragimai

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