盲目幾何学序説、あるいは目が見えなくても絵を楽しむための、ひとつの方法

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　紡希（つむぎ）が数学科で幾何学を専攻しているのだと聞いて、思わず声が出た。いや、それはうそだろ。

　ん、うそじゃないよ。

　涼しげで、穏やかで、癇に障るいつものほほ笑みを残したままで紡希はいった。なんでさ、どうしてうそだなんて思うのさ？

　だって、お前。無遠慮に口を衝きそうになったその言葉を、今度は抑え込む。そう、こんな僕でも大人に近づいて、多少言葉を選ぶことも覚えた。気のおけないいとこ同士であっても、あまりむき出しの言葉を差し出すべきじゃない。

　ともかく僕は、疑わしげな表情を崩さないまま、そしてそのこと自体にまったく意味はないことも十分理解しながら、じっと紡希の顔を見つめた。閉じられたままのまぶたから伸びるまつげは黒く長く、紡希の整った顔立ちを、思慮深そうに飾っている。

　そのまぶたが開かれることはめったにない。

　紡希は生まれたときから目が見えなかった。

　＊　　＊　　＊

　僕と紡希はひとつしか年が離れていない。

　同じ県内に住んでいることもあって、幼い頃は比較的よく遊んだ。僕にとって紡希の目が見えないことは当たり前のことで、普通のことで、だからはっきりいって気兼ねすることなんて微塵もなかった。ムカついたときは思い切り頭をはたいてやることもあった。取っ組み合いになることだってあった。ちなみにどういうわけか、紡希にはいつも事前にこちらの動きを察知されていて、仕掛けた攻撃は、だから三回に一回くらいの割合でかわされてしまう。目が見えなくても、そういう勘は抜群に働くやつなのだ。

　腹立たしい。

　家族間の交流は続いたものの、お互い大きくなるにしたがって遊ぶ機会もすこしずつ減っていった。まず、喧嘩をするとどんな理由であれ怒られるのは僕のほうで、そのことにだんだんと理不尽さを感じるようになったこと。もうひとつは、僕が絵を描くことが好きになっていって、それについて褒めたり感想をいったりしてほしかったのに、紡希はそれをしなかったこと。そんなこんなで仲が悪くなったわけではないのだけれど、以前のように親密に遊ぶ機会は徐々に少なくなっていった。まあ、お互い順当に大人になったということなのだろう。

　昨年からはもう大学生だ。

　頭を叩いたり取っ組み合いになったりするようなことは、もう、ない。

　＊　　＊　　＊

　祖父の三回忌ということで、親戚が集まっていたのだ。

　当然紡希もやってきていて、一丁前にダークスーツを着こなしているのが、何だか小憎らしい。白のＴシャツ姿の僕が馬鹿みたいだ、まあ、それはいい。

　親戚一同はあれやこれやと準備に追われていた。パタパタとみんな忙しげに小走りに立ち回っている。お坊さんが来るまでふたりは部屋で待機しているようにと、僕たちふたりとも遠回しに追い払われることになった。瞭（あきら）、いい？　紡希くんの頭ひっぱたくんじゃないからね。

　はいはい、あのさ、いわれなくてもそんなことするわけないだろ。とげとげしく悪態をつく僕に、紡希は楽しげに笑う。その爽やかに澄ましたような顔は無性にどつきまわしてやりたい欲求を僕に生じさせたが、まあ、ともかく我慢した。僕ももう大人なのだ。

　部屋に入るの、久しぶりだ。

　階段を上がって僕の部屋に着き、紡希は感慨深げにそうつぶやく。確かに紡希を僕の部屋に招くのは、もう数年ぶりになるかもしれない。ドアを開け、その空間に足を踏み入れる、その瞬間、紡希の眉間にかすかな皺がよる。僕はからかうような声でいう。どうだ、臭いだろう。

　まあ、独特のにおいだね。表現を穏当なものに移し替えて紡希は肯定した。もう少しだけ部屋の空気を吸い込み、そしてたずねる。絵の具？

　油絵の具、と僕は答える。

　部屋の一角を、それに不釣り合いなほどの大きさのキャンバスが占めている。サイズＦ60の描きかけの絵、散らかる画材。汚れた布。製作中の提出課題。

　絵を描いているんだ、と僕はいう。

　美大に通ってるんだもんね、と紡希はいう。油画科？

　美術学部美術科油画専攻。僕は正しく伝える。

　ひとまず紡希をベッドに座らせて、それから僕は、イーゼル前の木椅子に腰を落ち着ける。程よい距離を捻出したあとで、僕はたずねる。紡希の専攻は、ええと、数学科だっけ？

　理学部数理学科、と紡希も正しく訂正して自らの所属を伝える。そして透明感のあるほほ笑みをつくってから、例の、問題のひと言を口にしたのだ。専攻は、まあ、幾何学ってところかな。

　キカガク？

　そのままオウム返しにして、それから頭のなかで貧困かつささやかな〈幾何学〉のイメージを呼び覚ます。キカガク。幾何学？　丸や三角、直線が描き出す図形が現れて、交叉し、その長さや角度の計算をしている紡希の姿が、ぼんやりと浮かび上がりかける。

　でも。

　いや、それはうそだろ。

　と、僕はいった。

　＊　＊　＊

　つまり、目が見えないと、幾何学なんてできるはずがないと。そう、いいたいわけ？

　ニュートラルで、端正で、透明感のある微笑を表情に残したままで、紡希はそうたずねてくる。

　その顔は、いつものようにこちらを向いていない。関係ないどこかよそを向いている。

　そしていつものように、僕には紡希の感情がうまく読み取れない。表情を探れない。紡希が腹のうちで何を考えているかが、わからない。

　それがまた、腹立たしい。

　できないとまではいわないけど。僕は態度を決め、息をつき、低い声で静かにつぶやく。ただそれが、なんだかずいぶん奇妙に感じられる。

　奇妙に感じられる？　と紡希は繰り返す。面白そうなほほ笑みを、その顔に宿したままで。

　幾何学って、よくわからないけど、つまり図形を扱うんでしょ？　僕はどことなく苛立ったような口調で、そう主張を始める。それって要するに、図に対する興味関心が出発点ってことで。模様とか構成とか、図像的な理解が必要になってくるわけじゃない？　でも紡希には、それがない。そういう理解の仕方はできないはずだ。だからとても奇妙に感じられる。あるいは何か、無理をしているっていうふうに感じられる。紡希が幾何学を学んでいるなんて、うそに聞こえる。ただそう、いいたいだけだ。

　ひと通りいい終わったあと、早口にまくしたてるようにぶつけたいまの言葉が、不穏当ではなかったかとつい自問してしまう。不用意なところがなかったかと、自問してしまう。そう自問してしまうこと自体がまた、膿んだ傷のように腹立たしい。その原因である紡希自身がまた、なおのこと、腹立たしい。

　子どもの頃はもっと、気兼ねなんてなかったはずなのにと思う。思い煩うことなんてなかったはずなのに。そう思ってしまう。何でもいえた。気軽に頭だって叩いていた。

　あの頃は、もっと。

　＊　＊　＊

　二十世紀を代表する数学者に、ダフィット・ヒルベルトという人がいてね。

　唐突にしゃべりだした紡希の言葉が、すぐには理解できなかった。

　え、ダフィ？

　ダフィット・ヒルベルト。微笑の種類をどこか得意げなものに差し替えて、紡希は言葉を続ける。ドイツの数学者で、数学的な業績ももちろんたくさんあるけれど、同時代の数学者たちのリーダー格というか、よくできた指針を示したことでも知られている、面倒見のいいタイプの学者なんだ。関わった分野は多岐にわたるけど、幾何学もそのひとつで、簡単にいえばルールの厳密化に取り組んだ。

　話についていくことができず、僕はあいまいにうなずき怪訝な表情で紡希の顔を見つめていた。

　そのヒルベルトが、幾何学を説明するときにこんなふうにいった。透明感あるほほ笑みを、すこしだけ不敵なものにして紡希はいう。幾何学で使われる〈点〉や〈線〉の概念は、例えば〈テーブル〉や〈椅子〉に置き換えたとしても、問題なく機能する、ってね。厳密に構成された幾何学においては、扱う対象が実際の点や線でなくても、差異や問題は生じない。大切なのは、そこに発生する関係性なんだ。関係性に注目するのが幾何学の本質ともいえる。だから別に、僕の目が見えなくても、幾何学的な興味関心は、それで弱まったりはしない。

　紡希のその数学者からの引用を、それで理解したとはいえなかった。

　でもなんとなく、なんとなくで納得させられそうな自分がいる。

　端切れのいい物言いに、そういうものかと思ってしまいそうな自分がいる。

　それがまた、無性に腹立たしかった。

　いや、意味がわからない。

　僕は意識的に語気を強め、きっぱりと、そう拒絶する。

　その言葉を聞くと、紡希は涼しげな顔のまま苦笑を浮かべ、そうかもしれない、とあっさりと認める。そしてたずねる。特にどのあたりが？

　居心地の悪い沈黙のなか、静かに、時間をかけて必要なだけの文字を拾い集めてから、僕はゆっくりと口を開く。そりゃ全部、といいたいところだけど、まあ絞ってみるよ。そうだな。例えば概念をすり替えても幾何学は機能する、というのは、実際そうなんだろうさ。偉い数学の先生もいっているわけだし。それはとりあえずは良しとするよ。でも、実際問題本当に〈テーブル〉や〈椅子〉で幾何学を考えるやつなんていないだろう？　それは譬え話であって、現実にはみんな〈点〉と〈線〉を使って幾何学を考える、そうじゃない？　確かに関係性は同じなのかもしれない。でも他のみんなが〈点〉や〈線〉で考えている物事を、〈テーブル〉や〈椅子〉で代用するのは、なんだか身勝手だという気がする。ズレがあって、そのズレは、ふさわしくないという気がする。自分勝手な想像のなかだけの関係性なんて、そんなもの、根本的に間違っているのでは？

　イメージするのは、いつも暗闇だ。

　暗闇の世界にいる紡希の姿。

　僕には共有できない世界にいる、紡希の姿。

　僕には共有できない価値観に基づく、紡希の姿。

　呼びかけても返事をしない。

　そっぽ向いたままの、ひとりきりの、孤独な姿。

　やはりどこかよそを向いたままで、それでも紡希は淀みなくいう。でもさ、目に見える世界だって、人は自分だけの理解のもとに何かを見ている。そうじゃない？　同じものを見ていても、厳密には人はそれぞれに違う見方をしている。解釈が違う。焦点が違う。誰もがその意味で、自分勝手な見方をしている。ときにそれは、一致しない。

　でもそれでいいんじゃないか？　と紡希はたずねる。違うものが見えたとしても、それはそれでいいじゃないか、と。ある人は〈線〉に見える。ある人は〈テーブル〉に見える。確かに違う。でも、見ようとしているものは同じなんだ。同じひとつの対象なんだ。だから大切なことは、ちゃんと見ること。同じものを見ているのなら、そのあらわれが違っても、違うように見えたとしても、それはきっと、正しいことなんじゃないか、と。

　渋滞する車列のような感情の奥に隠された、ちいさなちいさな怒りの火口。僕自身さえ意識しなかった暗い穴、それが静かに、赤く輝く。粘度をもった腹立たしさが、不快さが、そっと具体的な形を結ぶ。刺激され、圧迫され、抑えきれず毒づくようにして僕はつぶやく。大切なのは、ちゃんと見ること？　へえ、なるほど、なるほどね。そしてちいさく息を吸い込む。

　でも紡希は、ここでいとこの描いている絵を、見ようとさえしないじゃないか。

　そういってしまったあとで、ふと、自分の発言の幼稚さ加減に思い至って、息が止まる。むかし、描きあげた絵を見てくれない紡希に対して腹を立てた、不条理な癇癪を起こした、幼いころの自分の姿。幼稚な感情に支配された幼い頃の自分。いまもただそれを焼き増しているだけなのだと気づいて、乾いた冷たい驚きを僕は、味わう。

　そんなこと？

　子どもじゃあるまいし、と僕は思う。なんだ、笑わせる。僕は盲目のいとこが自分の絵を見てくれないことに、関心を示してくれないことに、ただ、イライラしているだけじゃないのか？

　そのとき紡希がこちらを向く。それまでは取り立てて意味のない方向へ向けていた顔を、静かに僕のほうへと向ける。僕の、あるいはその後ろの、キャンバスのほうへ？

　ごめん、そうだね。そうつぶやく。その端正な顔に微笑はもう浮かんでいない。どこか憂うような美しいその表情は、真新しい漆黒のダークスーツ姿によく馴染んで、紡希をひどく大人びて見せる。反発するような険しい顔をつくって、僕は紡希を見返す、もちろんそのことに意味はないのだけれど。そんなことにはお構いなしに、紡希は静かにつぶやく。じゃあ、絵を見せてよ。

　いや、だって。表情を崩して、僕はもう、遠慮せずにいう。だって紡希、見えないじゃん。

　見えるよ、大丈夫。

　そういって紡希は笑う。屈託なく爽やかに笑う。そして腰を上げる仕草をする。僕は反射的に素早く歩み寄って、何もいわず肘を差し出す。何もいわなくても、紡希は差し出された肘の位置まで察知して、そっと触れる。それを支えに立ち上がる。その身長が僕よりも、わずかに高いのが、腹立たしい。

　ともかくキャンバスの前まで誘導して、それに紡希を相対させ、そして覆いの布をさっと取り払う。八割がた完成された油彩画が、僕らの面前にあらわれる。ほら、これだよ、と僕は告げる。どこか吐き捨てるような声で、ちいさくつぶやく。いま描きかけの、最新作だ。

　ちいさくうなずき、目を閉じたまま、無言のまま、紡希はその絵に向かい合う。身じろぎもせず、顔つきも変えず、じっとその場に立ち尽くしている。手をかざすでもなく、頭を揺らすでもなく、何の動きも見せないままに。

　静かな時間が抑揚なく流れる。

　沈黙が部屋を支配する。

　まさか本当に、紡希には何かが見えているんだろうか。何かを感じ取っているのだろうか。戯れにであれそんなことをふと思ったそのとき、長い沈黙を経てようやく紡希が口を開く。

　それで、この絵は何を描いているの？

　何だよそれ、見えるんじゃなかったのか？　肩透かしを食らって、嘲るような声でそうたずねる。やっぱり何も見えてないじゃないか。

　少なくとも、いまはね。そういって紡希は笑う。そしてつぶやく。これは風景画？　人物画？

　まあ、人物画だよ、と僕は肩をすくめてそう答える。

　紡希はちいさくうなずく。そしてまた口を開く。その人物は、こちらを見ている？

　向いている、と僕は答える。

　正面を向いている？

　正面を向いている。

　笑っている？

　いや。

　怒っている？

　あるいは。

　じゃあ、少なくとも不機嫌そうではある？

　まあね。

　何か嫌なことがあったんだろうね。

　どうだろうな。

　人物の背景には、何がある？

　窓が見える。

　ということは、そこは屋内？

　部屋のなかだね。

　カーテンの色は水色？

　さあ、光の加減でそのへんは曖昧になっている。まあ、そうかもしれない。

　カーテンには、何か模様がある？

　チョークで描いたみたいな星型の模様がある。

　星型の模様、なるほど。

　その後も質問は繰り返された。

　紡希が提出する疑問について、僕はその都度短く答えた。

　紡希のまぶたは相変わらず閉ざされていたけれど、僕の視線はしっかりと、目の前のキャンバスに注がれていた。紡希の代わりに。まるで紡希の外付けデバイスにでもなったみたいに。紡希の質問は矢継ぎ早で、だから僕もテンポよく返事するよう努めた。誤解を与えたくないな、とごく自然に思った。この絵について、紡希に間違った印象を与えたくはない。

　紡希は決定的な情報についてはたずねなかった。

　僕はつい、それについてしゃべりたくなる。そのことについて、話したくなる。

　でも、いわなかった。

　最後の質問を終えたあとで、紡希はふいに押し黙った。集められた情報を、丁寧にひとつずつ整理するみたいに。僕は木椅子を差し出して、ゆっくりとそれに座らせた。そしてその肩に手を置き、からかうようにたずねてみる。それで、絵のことはじっくりと見られたのかい？

　まあね、と紡希はこだわりなくこたえる。おかげさまでよく見ることができたよ。良かった。気持ちのこもった、素敵な絵だった。

　気持ちがこもっているかどうかはわからないだろう、と僕はいった。

　わかるよ、と紡希は答えた。そういうのはわかる。だって、描いている本人の声を直に聞いたんだから。

　僕は、押し黙る。そのすきに紡希が口を開く。

　描かれているのは女の子だね。

　紡希の肩に触れていた手をそっと離す。背後のベッドに腰を沈めて、紡希との適切な距離をつくる。低い声でちいさくつぶやく。あたり。

　胸の鼓動が早まるのを感じる。

　年齢は十九歳。紡希は淡々とした声で続ける。髪型はすこし乱れたショートボブ。意思の強い眼差し。すべてのものを疑ってかかるような印象の眉。すこしだけ、潤いを欠いたくちびる。化粧っ気はあまりないけれど、飾り気のない素朴さが、でもとてもかわいらしい。

　最後のそれは、単なる主観だろう、と僕はいう。

　主観だよ。笑いながら紡希はいう。そう、僕が単にそう感じているってだけ。そしてまた顔をキャンバスに向け、ゆっくりと言葉を紡ぐ。彼女は何かに対して怒っている、何かに不満を持っている。そしてそれを、そう感じていることを伝えるために、そこに立っている。そう感じていることに気づいてもらうために、そこに立っている。その怒りは深く、根深く感じられる。

　でも本当は、そんなに怒っているわけじゃない、と紡希はいう。彼女は別にそこまで本気で腹を立てているわけじゃない。もちろんある程度は怒っている。それなりに腹を立ててはいる。でも別に、許す準備はできている。水に流す準備はできている。ひと言あやまってくれたなら、許してやるのにと、彼女は思っている。でもたぶん、その機会はまだ訪れてはいない。

　彼女は白いシャツを着ている。

　汚れてもいい、安物の白いシャツ。

　画面には見えないかもしれないけれど、彼女はたぶん、絵筆を持っている。そう。

　これは瞭ちゃんの自画像だ。

　と、紡希はいう。

　僕は音を立てずに立ち上がる。できる限り気配を消して紡希の背後に忍び寄り、右手を静かに振りかざす。

　そしてその右手は、振り下ろす前にあっさりと止められる。まるで僕の動作が、紡希には筒抜けになっているかのように。

　腹立たしい。

　何もかもお見通し、みたいなその態度が腹立たしい。

　僕のことをけっきょくしっかり理解されていることが、腹立たしい。

　暴力はよくないよ、と涼しい顔で紡希がいうので、腹立ち紛れにその髪をぐしゃぐしゃともみくちゃにしてやる。抵抗され、両手首をつかまれて、それからあらためて自分の絵を見つめてみる。大人になりきらない未熟さを抱えた女が、こちらを見ている。不満を抱えた女が、あるいはそれを演じている女が、こちらを見ている。

　課題として提出する予定の自画像が、そこにある。

　そろそろお寺さんが来るから降りてきなさいと、階下から僕らに呼びかける声が聞こえる。返事をして、僕はまた、無言で紡希に肘を差し出す。その肘に、紡希は何もいわなくても手を触れる。

　けっこうあたっていただろう、と紡希はいう。図星を指されると、瞭ちゃんはすぐ、殴りかかってくる。

　まあね、でもそんなに簡単に、許してなんかやらないけど。僕は精一杯の強がりをいう。

　また絵を見せてよ。ゆっくりと階段を降りながら紡希はいう。絵が上達したかどうか、確かめてあげよう。

　生意気な、といって、僕は紡希の頭をはたく。

　今度は、成功。

　階下に降りると、母親に紡希のくしゃくしゃ頭を見咎められる。やっぱり取っ組み合いでもしていたんじゃないの？　やだやだ。

　だからそんなことするわけないだろ。そういいながらも僕の顔は、たぶん赤らんでいた。責任を取って僕の手で、乱れた髪を直してやった。紡希はというと、涼しい顔でされるがままにしていた。

　そのうちにお坊さんがやってきて、三回忌の法要が始まった。退屈な長い読経に飽き飽きして、紡希の様子を探ってみるが、いつもの涼しい顔に厳かさまで混ぜ込んで、殊勝に身じろぎせず耳を傾けている様子が、無性に腹立たしい。こういう場にもごく自然と順応する、紡希の要領の良さが腹立たしい。

　でも本当は、そんなに腹立たしく思っていないことも知っているのだ。

　幾何学を教えてもらおう、とふと思う。紡希の専攻している幾何学というやつを、今度また、じっくりと教えてもらおう。他愛もないその考えに、自分でも思わず苦笑する。馬鹿らしい。きっと念仏が退屈すぎるせいでそんな世迷い言を考えてしまうのだ。どうせすぐに飽きてしまうに決まっている。

　でも、まあ、今日は僕の絵を見てくれたのだ。だからちょっとくらい聞いてやるのはいいのかもしれない。ちょっとくらいなら。そんなふうに、ふと思う。

　関係性に注目するのが幾何学なのだそうだ。

　見える線だけが関係性ではない。

　僕はそっと目を閉じる。静かに意識を集中させる。あらわれた広大で均質な闇のなかに、さて、何を描き出してみせようか。