死ぬまでは死なせない
茶碗虫
本文
今日は僕にとって、覚えていたくはないが、覚えていなければならない日になった。
僕はとても悔しい。とんでもない親不孝者だからだ。
僕はとても悲しい。自分のことなのに、自分では何もできないからだ。
僕はとても恥ずかしい。まだ先は長いと勘違いしていたからだ。
「胃がんのステージ4、かなり末期に近い状況です。非常に残念ですが……半年から1年、もつかどうかでしょう」
まだ二十歳にもなっていない僕は、当然のことながら、現実を受け入れる能力も未熟だった。もともと体が強いわけではなかったが、致命的に弱いとも考えていなかった。
僕はそんな医師の言葉よりも、一緒に説明を受けていた母の横顔が忘れられない。
母は今まで見たどんな時よりも目を見開き、震えていた。すぐに口を左手で覆って俯いてしまったので、一瞬しか見えなかったが、僕の記憶に焼き付くには十分すぎるほどの時間があった。
母は泣いていた。僕よりもショックを受けていた。
しかし、僕には、母を慰める言葉なんかありはしないし、そもそも母を慰める権利も資格もない。
母の涙の原因は、紛れもなく僕にあるからだ。
♦
その日のうちに病院に入っても、実感はわかなかった。そもそも、生きている実感すら、いつのまにか欠け落ちてしまっていたのだ。そろそろ死にますよ、と丁寧に宣告されたところで、人生をただ消化していただけの自分には、なんのメッセージ性もなかった。
窓の外をボーっと見たり、部屋に入ってくる看護師さんに癒されたりしていたら、あっという間にこのベッドに寝そべり始めてから3時間が経っていた。そして、家に帰って僕の服や暇つぶし用の本を取りに行ってくれていた母が、部屋に入ってきた。
「慣れた?」
母の第一声はそれだった。慣れるわけない、むしろ慣れてはいけないのに。
でも、心配させるのも悪いので、僕は一応頷いてみせた。
「で、残り、なにしたいか決まった?」
ああ、そういえば、家に向かう前に、そんなことを言っていた。死ぬまでにやりたいことを考えろというありきたりな宿題だ。
「いざとなったら浮かばないものなんだな」
僕は本当は考えることすらしなかったのに、そんなことを言ってはぐらかした。入院費も親のお金なのに、もうすぐ死ぬ僕がいい思いをするわけにはいかない。死んでしまったら意味がないんだから、できるだけお金は使わないでほしい。
きれいごとに聞こえかねないかもしれないが、僕は本気だ。でも、そんなことを言うともっとお金を使わせにくる気がして、僕は泣く泣く本心を遠慮させた。
……第一、死ぬまでにやりたいことをやっちゃったら、もう死ぬしかないじゃないですか。生き残っちゃったら、ただ豪遊しただけになって、嫌じゃないですか。なんだろう、間接的に「死ね」って言うの、やめてもらっていいですか?
まあ、冗談ですけどね。
「確かにそうね。私がそっちの立場でもそうなるかも」
母は少し笑いながらそう言った。良くも悪くも母は鈍感だから、僕の遠慮に気づかない。それには助けられもしたし、逆に困らされもした。これが演技で、本当は気づいているのなら、たいした女優だ。今すぐに芸能界に行ったほうがいい。もうすぐ死ぬ息子のお墨付き。いらない同情がつきまといそうで嫌だ。
「で、母さんは泊まるの?」
ベッドの横に座った母を見て、ふと思いついた疑問を投げかけた。厳しいことはわかっていた。母には明日も仕事があったはずだ。無理なことを承知で、重い空気になってしまっていることを察知して、そう訊いてみたのだ。
予想通り母は首を横に振った。
「ごめんね、明日も一日中仕事よ」
「そっか」
僕はちょっと残念がってみせる。ひどい大根役者だが、母になら十分通用する。
意味もなく時計を見ると、もう6時を過ぎていた。もう2月だから、
「もう帰りなよ。父さんが飢えて俺より早く死んじゃうよ」
「……あら、余裕そうね。バイト続けてもらおうかしら」
母は僕の冗談に苦笑いで応えた。その表情はやっぱりどこか寂しそうで、元気づけようとしただけなのに、なんだか申し訳なくなってくる。
いつか、こんな冗談も言えなくなるほど弱る日が来るのだろうか。
そう思うと、怖いけど、ちょっぴり楽しみにも思えるようになった。
やっぱり僕は、1年だろうが半年だろうが、残りを噛み締めたい。精一杯生きたい。
宿題は、意外と簡単だったみたいだ。
♦
僕の病室は個人部屋ではない。あらためて気づかされたのは、病院での長い長い初めての夜を明かした翌日。
前日までは僕の独壇場(悪い意味)だった病室に、1人のおじさんが入室した。やせ細っていて、腕の骨が浮き出ている。彼は、僕の正面のベッドに配置された。ああ、実質僕の個人部屋だったのに……。これが、都落ち(良い意味)……?
しばらくして、小学校1年生くらいの男の子が入ってきた。察するに、入院してきたおじさんはこの子のお父さんか。あんなに若い子がいながら、なんらかの病気にかかっちゃったのかな。お気の毒に。あおっているわけじゃないけど。
男の子は、初めて病室というものを見たのか、楽しそうにしていた。元気のないお父さんには注意する気力もないのか、はたまたそういう教育方針なのか、だれも男の子を止める人はいなかった。
窓から外の景色を興味津々に数分間眺め、ようやく僕と目が合った。白いTシャツに青い短パン。おへそのあたりには、ミートソースかなにかを飛ばしたような跡が、うっすらと残っている。
「こんにちは!」
男の子は元気に挨拶をしてきた。御見それしました。教育方針には微塵も問題ありません。
ここで挨拶を返さなきゃ男が廃る。僕は恥じることなく元気に言った。
「こんにちは」
男の子は満足そうにうなずいて、お父さんのほうを向いた。何か話しているようだったが、ここまでは聞こえなかった。しかし、お父さんも男の子も笑顔でしゃべっていることだけはわかった。
僕はこういうとき、嫌でも考えて、願うようになってしまった。
どうか、せめて、僕よりは長生きしますように、と。
♦
それから半年ほどたった。僕はまだ生きている。7月にもなり、太陽が長く居座る季節になった。
抗がん剤の副作用に苦しむ夜こそあれ、なんとか生きている。持ってきた本も、ほとんど読み終わってしまった。
仕事で忙しい母は、土日はほぼ毎日来てくれたが、平日はやはり来ることは難しいようだった。そのかわり、向かいに入院しているおじさんや、平日の放課後にもランドセルを背負ったまま来てくれる男の子としゃべったりして、暇をつぶしていた。
そう、人生は暇つぶしだ。余命がわかっていようがいまいが。
ずっと病床にいると、曜日感覚が狂う。ときどき散歩をしたが、遠出なんて許されないし、そもそも僕に遠出する体力がない。
だから最近は、母が来る日や男の子が来る時間帯で曜日を計っていた。
今日、男の子は朝から病床に来た。昨日は夕方に来た。つまり、今日は土曜日である。
「おにいさん」
男の子がこう発言するときは、たいてい僕を呼んでいる時だ。眠かったが、なんとか目をこじ開け、声のしたほうを見た。
「おにいさん、これ、あげる!」
男の子がそう言って取り出したのは、緑色と透明なプラスチックでできた直方体の箱――虫かごだ。そばにあった机の上において、笑顔を見せてくる。
よく見ると、虫かごの内部はすでに整備されていた。僕の腕くらいのサイズの枝のようなものが寝そべっており、その真ん中あたりにあるくぼみから、つやつやした黄色っぽいモノが見える。昆虫ゼリーだろう。
だが、肝心の虫は見ることができない。昼間だから、地中に潜っているのかもしれない。
「ありがとう……これは?」
戸惑いながらもそう尋ねる。男の子の回答は、ごくシンプルだった。
「カブトムシ!オスのカブトムシ!」
2年生になった男の子は、それでも純粋さを隠し切れずに笑っていた。
そうか、このかごにはカブトムシが入っているのか。なんだか、懐かしい気持ちになる。
それと同時に、少しだけ引っかかるものがあった。
だって、6歳くらいの男の子にとって、自分で捕まえたカブトムシは宝物じゃないか。逃がすにせよ死んでしまうにせよ、別れが何よりも苦しかったはずだ。これは実体験に基づく話だから、信憑性は高い。とにかく僕の場合は、誰の手にもわたらず、ずーっと生きてほしかった。たかがカブトムシ、だなんて、到底思えなかった。
訊いてみたかった。この男の子に。「どうしてそんなことができるの」って。間違いなく昔の僕にはできなかったことをやってのけるこの男の子に。
でもなぜか、訊くことができなかった。勝手に納得してしまったからだ。
そうか、この男の子は、もう他人の幸せを願うことができるんだ。
これは、「もうすぐ死ぬ」というレッテルを貼られた人に対する同情のやさしさではない。おそらく彼はそんなことは知らない。だから、純粋に、僕の幸せを願ってくれている。正確には、僕と、このカブトムシの幸せを。
僕はそう解釈した。
「そっか……ありがとう」
今度は心の底から感謝を述べた。
その言葉を聞くや否や、男の子は「トイレトイレ!!」と言って病室を出て行ってしまった。
「こら、トイレの場所、わからんだろう」
そう言って点滴のスタンドを握りしめて後を追ったのは、お父さんだ。
残された僕は、もう一度虫かごを見た。まだカブトムシの姿は見えなかったが、眠いのはお互い様だ。
そして、ふと気づいた。予備のゼリーをもらっていないことに。
でも、せっかくこれをくれた男の子に食費すら請求するのは気が引けるし、さすがにそんなことはできない。
今日は土曜日だから、母が来てくれるだろう。そのときに買ってくれるよう頼めばいいや。
死ぬまでにやりたいことが増えてしまったが、やむを得ない。
僕より早く死なせるわけにはいかないから。
死ぬまでは死なせない 茶碗虫 @chawan-mushi
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