彼女の好きなところ
彼女の好きなところは山ほどある。
くっきりとした二重まぶた、長い指とかたちのいい爪、すらりと細い脚。
どんなに長風呂をしても急かさないところ。
残業で遅くなっても寝ないで待っていてくれるところ。
わたしの話をいつも最後まで聞いてくれるところ。
挙げていったらきりがないし、さらに毎日増えていく。
もはや好きなところしかないから、数えることが無意味に思えてくるくらいだ。
だけど今日、彼女の好きなところがひとつなくなる。
そして、それをなくすのは……なくさなきゃいけないのはわたしだ。
「ねぇ、本当にいいの?」
わたしに背を向けて座る和花奈の、ロングヘアの後頭部に問いかける。目の前の姿見に映る彼女は、からっとした笑顔でうなずいた。
「うん、いいよ」
うっ、と息が詰まる。わたしは諦めきれず、和花奈の前に回りこんで膝をつき、彼女の両手を取る。
「ほんとにほんとにほんっとうに?」
「うん、本当に」
「ねぇ、やっぱり止めとこう? わたしは今のままの和花奈がいいと思う」
クロスを着た和花奈はため息混じりに笑った。和花奈はするりと手を振りほどくと、逆にわたしの手を包みこんできた。
「もう……先週からお願いしてたじゃん。ちえみが嫌なら美容院に行くけど……」
「そっちの方がダメ。絶対イヤ」
「じゃあお願い」
和花奈はサイドテーブルに置いてあったハサミを手に取り、わたしに握らせた。
なかなかリングに指を入れようとしないわたしを、和花奈は落ち着いた眼差しで見上げてくる。
このままじゃ、まるでわたしが駄々っ子みたいじゃないか。
わたしはようやく覚悟を決めた。
嫌々ながら、リングに親指と中指を通す。和花奈は綺麗なストレートへアを揺らして、ゆっくりとうなずいた。
髪の動きと、それに合わせて天使の輪がとろりと伸び縮みするのを見て、固めたはずの覚悟はアイスのようにどろどろと溶け出した。
「……やっぱ無理っ! 何で? こんなにきれいに伸ばしてきたのに……トリートメントもブローも手伝ってきて、あたしもいっしょに育ててきたのに……何でバッサリ切っちゃうの!?」
和花奈は今日、腰まで伸ばしたロングヘアを切りたい、切ってほしいと言い出した。
わたしは和花奈のロングヘアが大好きだ。それを切らなければいけないなんて、拷問みたいなものだ。
ハサミを投げ出し、和花奈に後ろから抱きつく。バックハグなんて格好つけたものじゃない。ただ縋りついて、泣きついているだけだ。
和花奈の髪からは、昨日つけてあげたトリートメントの香りがした。アイロンを当てなくても、ブローだけでサラサラになる素直な髪質。美容師生活5年目になっても、和花奈を超える髪の持ち主は見たことがない。
わたしは目に涙が浮かんでくるのを感じながら、和花奈の髪を指で梳いた。しっとりとしていながら、少しも指に絡みつかない。愛しい和花奈の身体が生み出した、愛しい髪の毛。
今までもこうして家でわたしが切ってきたけど、毛先を揃えるくらいだった。和花奈の髪が伸びるのを見守るのが、わたしの幸福だった。
「ねぇ、わたし、和花奈のロングヘアが大好きだよ。見た目はもちろんだけどそれだけじゃなくて、ふたりで大事に育ててきたっていう思い出もつまってて……だから、だから切るのやだよ……わかなぁ……」
「もう……ちえみは大げさだなぁ。あたしにショートヘアは似合わないとでも思ってる?」
「絶対似合うと思う」
即答じゃん、と和花奈が笑う。
「じゃあショートヘアになってもいいじゃん。ほら、最近流行ってるイヤリングカラーとか、やってみたいと思ってたんだよね」
「ああ、イヤリングカラーはショートからミディアムくらいでやるのが、ちらっと見えて可愛いからね。ロングでやると長い分カラーが目立ちすぎるから……」
後ろで髪を纏めて、鏡に映る和花奈をショートヘアにしてみる。和花奈は仕事モードになったわたしをにやにやと、鏡越しに見上げてくる。わたしはぱっと髪を手放し、和花奈を睨みつけた。
「ちょっと、和花奈? 話そらさないでくれる?」
「それてないよ。ずっと髪の話してるじゃん?」
そうだけど、と弱々しい声が出る。ため息も出る。
和花奈は急にまじめな顔になって振り向いた。鏡越しじゃなく、目と目で直接見つめあう。
「あたし、切るって決めてたの。ちえみがやってくれないなら自分で切る」
「決めてた……?」
和花奈の言い回しに引っかかる。
「決めた」んじゃなくて、「決めてた」?
和花奈は「あのね」とゆっくりと語りかけてきた。
困惑するわたしを包みこむように。
わずかにある迷いを振り切ろうとするように。
「ちえみにお願いがあって……切るときに髪をゴムで束ねて、切った髪がバラバラにならないようにしてほしいの。こうやって、何ヶ所かで結んで――」
和花奈は左手で顔のわきの髪を束ねる。そして、ハサミに見立てた右手の人差し指と中指で、その髪束を挟んで見せた。
わたしだって美容師の端くれ。その仕草ですぐに和花奈の意図は伝わった。
「それって、ヘアドネーション……?」
生まれつきや病気の治療のために、髪の毛を失った子どものためのウィッグには、人毛が使われている。
その材料になる髪の毛を寄付するのが、ヘアドネーションという活動だ。
和花奈は秘密を打ち明けたあとと同じように、俯きがちに目を泳がせた。
「ごめん。なんかさ、ちょっと言いにくくて。あたしは最初からヘアドネーションのために伸ばしてるつもりだったけど、ちえみには言ってなかったから……。自分の髪よりもあたしのヘアケア頑張ってくれてたらら、切るために伸ばしてるんだって後から言い出せなくて」
急に肩から力が抜けた。なかなか顔を上げない和花奈と目をあわせるために、わたしは膝を折ってしゃがみこんだ。
「ヘアドネーションするためだったんだ。和花奈がそういうのに興味あるなんて知らなかった」
和花奈はやっと視線をあわせてくれた。しばらく黙りこんでいたが、おもむろに口を開いた。
「……だってあたし、貧血だから献血するほど血に自信ないし、募金箱に100円玉入れるのも勇気いるくらいだし、仕事だけで精いっぱいでボランティア活動とか人のためになることできないし……。髪を伸ばすことならできそうだなって思ったから」
和花奈はゆっくりと言葉をつなげていく。和花奈がそんなことを考えていたなんてはじめて知った。
いっしょに暮らしてきて、たくさん話して、向きあってきて、和花奈のすべてを知っている自信があったのに。
「改めて言うのも変だけどさ……あたしたちって、その……同性愛者、でしょ? 世間からは自然なかたちじゃないとか、生産性がないとか、見たくもないとか言われて……だんだん自分でもあたしが存在する価値はないんだって思って、自分で自分を責めるようになっちゃって……」
わたしは少し後ろめたくなって、うつむいてしまった。和花奈はなぐさめるように髪を撫でてくれる。
和花奈の綺麗な髪には遠く及ばない、カラーを何度も繰り返して傷んだ髪。
和花奈は優しい声でつづける。
「ごめん、ちえみのことまで傷つけたいわけじゃないのに、こんなこと言って」
「ううん。わたしだって分かってる。いっしょに暮らしてたって家族って認めてもらえないし、子どもだって自然にはできないし、社会から撥ねられるしかない存在だなって思ってた」
和花奈はゆっくりとうなずいた。
わたしたちは世間一般でいう「普通」じゃない。その事実から逃げるように、わたしたちはお互いだけを見つめあって生きてきた。
そうしないと生きる意味を見出すこともできなくなりそうだった。
和花奈も同じ気持ちを抱いていたのだ。お互いに隠しあって、隠していることに気づかない振りをして。
「だからさ、あたしだって少しでも役に立ちたいなって思ったんだ。社会から目を背けられる存在でもさ……いや、そういう存在だからこそ、かな。少しでも罪滅ぼししたい……っていうか」
ぎゅっと胸が痛くなる。
愛しあうことが罪になるのか、わたしたちは。
ただみんなと同じように愛しあって支えあって生きていくことは、後ろ指を指されて仕方のないことなのか。
「……和花奈はわたしと付き合ってること、罪だと思ってるの?」
「それはさ、言葉の綾っていうか……違うよ、あたしは罪だなんて思ってない。世間にそう思わされてるっていうか……。だって、ちえみと付き合ってるのはあたしとしては当たり前のことだから――」
わたしと付き合ってることを「当たり前」って言ってくれるんだ。
そんな和花奈が愛おしくて、誇らしくて、自然と笑みがこぼれた。
「分かった。切ろう、和花奈の髪」
立ち上がってそう言うと、和花奈は口もとを綻ばせた。
さっきまでの重い気持ちは吹き飛んで、早速髪をゴムで束ねはじめる。そうしているうちに、どんなヘアスタイルにしていこうか楽しみになってきた。
ふたりで大事にしてきた髪が、だれかの笑顔のきっかけになるのなら。
「普通」じゃないわたしたちが生きていくための免罪符になるかもしれない。
罪を犯してるなんて、わたしだってこれっぽっちも思っていないけど。
「ねぇ、あたしも切ってみてもいい? 鏡で見える、このあたり」
和花奈は顔のすぐ側に束ねられた髪を手に取り、楽しげに問いかけてきた。
和花奈のロングヘアが好きだった。
彼女の好きなところは、今日でひとつなくなってしまう。
だけどその何倍も好きなところが増えた。
わたしは鏡を見つめ、ほほえんだ。
「いいよ。いっしょに切ろう」
Bouquet of lilies 桃本もも @momomomo1001
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