この世にあるものには全てに名前がついている。


 太陽が出ているのに雨が降ってくることは、狐の嫁入り。

 和音を分解して奏でるメロディのことは、アルペジオ。

 香水を吹きかけたばかりの香りはトップノート、消える間際の香りはラストノート。


 何にでも名前がある。


 きっと、この世で名前がついていないものは、わたしのこの気持ちだけ。


 友だちなのに大好きで、だけどそれを認めるのは怖い……そんな気持ち。

 名前がついていたら少しは楽なのに。

 難しく考えていたけどそんな単純なものだったんだ、って思えるくらい、短い名前があればいいのに。



 今日は咲雪さゆきさんと月に一度の待ち合わせ。

 どんな顔をして待ってたらいいだろう。もう1年になる関係なのに、いまだに迷ってしまう。


 ただの友だちだから、あんまり嬉しそうな顔をしてたら変だろう。だからと言って、平然とした顔なんてできっこない。

 前髪を手櫛で整える。朝しっかりとセットしてきたけど、少しの風や湿気でも乱れやすい髪質だから心配になる。


 上司との面談よりも、有給申請するときよりも、取引先との電話よりも、ずっとずっと緊張してしまう。


 今日はただ映画を観に行くだけなのに。

 終わったらいつもと同じようにランチを食べて、気になっていたジェラート屋さんに行く予定だ。


 男女だったら、デートというかもしれない。

 だけどわたしたちはただの女友達同士。特別な感情がないふたりが休日を共にするだけでは、デートとは呼べないだろう。


 駅前の待ち合わせスポットである古関裕而像の周りには、多くの人が人待ち顔で佇んでいる。

 待ち合わせ相手とやりとりしているのか、それともただの暇つぶしか、皆一様にスマホをいじっている。


 約束の時間まであと30分もある。時間ぴったりに行動することが苦手なわたしは、人を待つ方が好きだ。

 次々と人と人が落ち合い、像の周りにいる人の顔触れが変わっていくのを、手持ち無沙汰に眺めていた。


 大きな街路樹の木陰はまだ少し肌寒い。改札わきの喫茶店から流れてくる香りを嗅いで恋しくなるのはホットコーヒーだ。

 コーヒー派のわたしとは反対に紅茶派の咲雪さんなら、きっとポットに入ったホットティーを選ぶはずだ。


 そんなことを考えながら、ベンチの背もたれに体重を預け、まぶたを閉じる。まぶたの裏には木漏れ日がかすかに映る。

 早起きしてメイクやヘアセットをしたから、だんだん眠くなってきた。度を越した緊張で疲れてきたせいもあるかもしれない。


 駅前の大通りをくぐる地下道の入口からは、ぎこちないピアノが聞こえてくる。ストリートピアノが置いてあり、通行人がときおり弾いているらしい。

 のんびりとした仔犬のワルツ、それとは逆に異常な速さの猫踏んじゃった、音を探しながら奏でる流行のドラマ主題歌。


 ピアノの音は地下道に反響して輪郭をぼんやりとさせながらも、地上にも届いてくる。

 涼しい木漏れ日と楽しげな音楽が心地よく、ゆらりと身体が揺れる。



 ふと気づくと、目の前に咲雪さんがいた。近づいてくる気配もなかったのに。

 いつの間にか周りにはだれもいなくなり、そこにはわたしたちだけが佇んでいた。咲雪さんはベンチに腰かけたわたしを、静かな表情で見下ろしている。


 わたしは笑いかけようとしたのに、頬がぎこちなく強ばった。

 咲雪さんの隣には、彼女より少し背の低い女性が並んでいた。こんなに近くにいるのに顔はぼんやりとしか見えず、特徴がつかめない。


 モノトーンのコーディネートを身に纏う咲雪さんとは反対に、隣の女性は軽い色合いのものを着ていた。

 アップにした髪は長く、荷物は小さなショルダーバッグひとつ。


 どことなく、わたしに似ている気がする。わたしと咲雪さんが並んでいるところを第三者が見たらこんな感じなんだろうな、と思うような光景だった。


 その人はだれ?

 どうしてわたしとの約束の日に、他の人といっしょにいるの?


 疑問が次々にわいてくる。

 だけど、声にはならなかった。


「いずみさん」


 咲雪さんがわたしを呼んだ。わたしの目はきっと不安でいっぱいになっているだろう。

 咲雪さんはいつもの優しいまなざしを一瞬わたしに向け、それから隣の彼女へと惜しげもなく注いだ。


 世界から光が消えて、底のない穴に落ちていくような気がした。


「いずみさんに紹介したくて、連れてきちゃったんだ。この子、あたしの彼女」


 咲雪さんは少しはにかみ、恋人の肩を抱き寄せた。ふたりは目を合わせて恥ずかしそうに首をすくめている。

 咲雪さんには彼氏がいたことがあると聞いていた。あまりいい思い出ではないらしく、もう男とは付き合わないと事あるごとに言っていた。


 だけど、女の子となら付き合いたいとか、そんなふうには言っていなかった。

 そう聞いていたら、わたしにもチャンスがあるって分かったのに。


 怖がらずに、咲雪さんに対する気持ちは「恋」なんだって、名前をつけられたのに――。


「咲雪さんって、女の子も恋愛対象になる人だった、んだね」


 わたしの声は弱々しく震えていた。うつむいたらまぶたの縁から涙がこぼれてしまいそうだ。


「ねぇ、咲雪さん。わたし……咲雪さんのことが好きだったんだよ。ずっとずっと、好きだった……のに」

「そんなこと、今さら言わないでよ」


 咲雪さんの声が急に刺々しくなり、耳に突き刺さる。


「今言うなんてずるいよ、いずみさん……」


 咲雪さんが、彼女の恋人が、みるみる遠ざかっていく。手を伸ばしても引き止めることができない。


 もう会えないのかもしれない。


 わたしが臆病だったから。


 傷つくのを恐れて、自分の気持ちに向き合わなかったから。



 ふっと視界が翳り、馴染みのある香りに包まれていることに気づく。

 肌寒かった風がほんのりとあたたかくなったように感じる。


 ゆっくりまぶたを開くと、木漏れ日を背に咲雪さんが立っていた。


 咲雪さんだ。


 もう会えない場所に行ってしまったかと思ったのに、目の前にいる。

 咲雪さんはベンチに座ったわたしを、背中を丸めて覗きこんでいた。


 目が合うと、やわらかく微笑みかけてくれる。ぼんやりとした頭で、へにゃっと微笑みを返す。


「いずみさん、寝てたの?」


 寝てた?

 さっきのは夢だったのだろうか。目を閉じていたのは一瞬だったような気がするのに。


 わたしはまぶたを擦りそうになり、マスカラとアイシャドウをつけていることを思い出して手を引っこめた。


 咲雪さんと視線を合わせるのが怖かった。


 ――今言うなんてずるいよ。


 あれはきっと、わたしの不安から生まれた幻影だ。


 いつまで経っても自分の気持ちに名前をつけようとしないから。

 あれが現実になってしまったら、わたしは……。


「寝不足? これから映画観るのに、大丈夫?」


 咲雪さんは前髪を指で梳きながら、低く落ち着いた声で笑った。

 耳に息を吹きかけられたかのように、全身に鳥肌が立つ。胸がぎゅうっと苦しくなる。


 もっと声を聞きたい。

 いろんな表情が見たい。

 お互いの知らないところをひとつひとつなくしていきたいし、ふたりだけの秘密もいっぱい作りたい。


 だれにも奪われたくない。


「大丈夫。ちょっとまぶしかっただけだから」


 今日は咲雪さんに「好き」って伝えよう。


 告白をする訳じゃない。


 女の子同士がじゃれあうときに言うような「好き」をわたしも言ってみよう。


 咲雪さんへの、あたたかくてふわふわして、ときどき苦しくなるような、この気持ち。

 やっと名前をつける勇気がわいてきた。


 その名前は――。

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