chocolate

 初夏の昼下がり。

 西向きの大きな窓からは晴れた空の光が差し込んでくる。それでも眩しすぎないのは、放置されて伸び放題の蔦がちょうどいいカーテンになっているからだ。床に落ちる影はちらちらと揺れ動き、まるで店内にも風が吹いているかのようだ。


 週初めの洋菓子店は少しだけのんびりとしていた。客足は途切れ、町の小さなお菓子屋は時間に取り残されたように静まり返る。

 今までならここぞとばかりに仕込みに取りかかるところだけど、スタッフが増えたこともあって余裕がある。余裕があるというか、むしろ仕事を残しておかないといけないのだ。


 今でもちょっと手が空いたら何かしらしたくなってしまう。何もしていない時間が落ち着かない。

 だけど、仕事がなくなっていると怒る子がいるから、ぐっと我慢してぼーっとするようにしている。


 そうだ、あの蔦の手入れでもしてみようか。この店を両親から受け継いだのが、もう7、8年前。ひとりで製造から接客までこなさねばならず、外装の手入れになんて考えも及ばなかった。

 さすがにあれは伸びすぎだ。窓の外からショーケースが伺えないようでは、初めて店を見かけた人には洋菓子店だと分かってもらえないだろう。


 仕込みはこれから来る彼女に任せて、外の手入れでもしてみようか。

 ぱっつん前髪みたいにならないように、自然な剪定がわたしにできるだろうか……しかもこれから植物の成長期である夏が来るし、今切ったところでまた伸びてしまうだろうし……。


 無意識に頭の中でやらない言い訳を並べ立てている。つまるところ、あまり乗り気ではなかった。

 もしくは、彼女に剪定を頼んでしまおうか。いや、彼女なら「こんなのお菓子屋さんの修行じゃないじゃん」と言ってあっさり拒否するだろう。


 そんなことを考えていたら。


 長く伸びた蔦が、ひと際強い風に煽られて激しく揺れた。風を起こしたのは、さらさらとセミロングをなびかせる少女の自転車。ききぃ、とブレーキの音を響かせて停まる。


 わたしの胸は年甲斐もなく騒ぎ出す。もう20代も終盤に差しかかっているというのに。


 また少し蔦が風に煽られ、だけどさっきよりも優しくやわらかく揺れた。蔦の隙間からはたっぷりの陽光と、きらきらと弾む横顔が見えた。

 店の入口のわきにある通用口のドアの音がし、すぐに売り場の引き戸ががらっと勢いよく開いた。私服姿のなつきちゃんがにこにこと笑顔を見せている。


「おはようございまーす! 今日もよろしくお願いします!」

「おはようございます、なつきちゃん。よろしくお願いします」


 なつきちゃんはこの春高校を卒業し、2年前の誕生日にここで夢を語った通り、わたしの母校である製菓専門学校に進学した。学校生活に慣れてきたからとこの店でバイトをはじめたのが、ゴールデンウィークが終わってから。

 それから約1ヶ月、休業日の木曜日以外の放課後と土日はほとんど毎日来てくれている。


 正直、小さな個人店だから、あまり良い時給でを出すことはない。最低賃金に気持ち程度上乗せするのが精いっぱいだ。

 だけどなつきちゃんは文句を言わない。

 いや、文句はたくさん言う。ひとりで仕事を終わらせるな、もっと仕事をちょうだい、あかねさんの右腕になりたいからもっと頼ってくれ……もうそれはそれはたくさん言う。文句を言わないのは給料面についてだけだ。


 なつきちゃんはなかなか更衣室へ向かおうとせず、突っ立ったまま黙ってわたしを見つめている。

 高校の制服を脱ぎ私服姿になってから、彼女はますます大人びていった。シフォン生地のブラウスに、ハイウエストのキュロットスカート。靴下にはフリルがあしらわれ、重厚な厚底スニーカーの印象を軽やかに中和している。


 わたしは1歩後ずさりしたくなるのをおさえて、なつきちゃんに言い聞かせる。


「……えっと、着替えてきていいですよ?」


 なつきちゃんはくちびるを尖らせて、んー、と唸った。腕組みをして眉を寄せる姿は、思い通りに動かない役者を見つめる監督みたいだ。


「なーんか固いんだよねぇ。ていうか、おかしくない? 修行してるあたしがタメ口なのに、店長のあかねさんがいまだに敬語ってさぁ」

「だって、まだ修行がはじまって1ヶ月じゃないですか。お客さまだった期間の方が長いから、急に変えるのは難しいんですって」


 こういうときこそ、話を中断してくれるお客さまが来てくれればいいのに。願いは通じず、ドアのベルが鳴る気配はない。


「それにさ、冬乃ふゆのさんって呼ぶの禁止してくるし」


 お客さまだったころのなつきちゃんは知らなかった、わたしの名前。赤根あかね冬乃ふゆの。なつきちゃんはずっと「あかね」を名前だと思っていたのだ。


「ここは職場ですから。同じ苗字の人がたくさんいるならともかく、職場では基本的に苗字で呼ぶものです」


 何度もこうして言いくるめてきた。なつきちゃんはくちびるを曲げ、頬をふくらませ、こう言った。


「じゅりゅい」


 こういうところは高校生のころから変わらない。いつもなつきちゃんの「ずるい」は「じゅりゅい」になる。


「何がずるいんですか」

「だって、あかねさんはあたしのことなつきちゃんって呼ぶのに、あたしはダメなんて」


 うっ、と言葉に詰まってしまいそうになる。なつきちゃんは人の隙に目ざとい。少しでも甘いところを見せたらつけこんでくる。


「……せ、先輩から後輩に対しては許されるんです」

「ふぅーん」


 なつきちゃんは納得してないと言わんばかりに目をすがめている。


「でもやっぱりずるいから、これからあかねさんもあたしのことは日野さんって呼んで」

「分かりました。では日野さん、早く着替えてレアチーズの仕込みを――」


 わたしが言い終える前に、なつきちゃんは泣きそうな顔で両手をバタバタと振り回して暴れはじめた。


「あ、待って、やっぱなし! なつきちゃんって呼んで! まだ付き合えてもいないのにフラれたみたいな気分になるから!」


 今日の仕事前のワガママはそれで終わりだったらしく、なつきちゃんはころっと健気なバイト生の顔に変わった。


「じゃあ着替えてくるね」


 なつきちゃんは手を振って、静かに引き戸を閉めた。軽やかな足音と、タイムカードを切る音が聞こえる。

 あと5分。いや、1分でいい。

 この顔の火照りがおさまるまで、あのドアベルは鳴らないでほしい――。


 *


「あかねさん、好き。あたしと付き合って?」


 なつきちゃんがそう言ったのは、高校の卒業式の日だった。


「卒業おめでとう」のプレートをつけたケーキを予約したのはなつきちゃん本人で、いつかの誕生日のように彼女はひとりで受け取りに来た。


 そして、また素直に帰ろうとはしなかった。閉店後のキッチン。頭ひとつ分も小柄ななつきちゃんに、壁際に追いつめられていた。なつきちゃんが触れようとしてくるので逃げていたら、こうなってしまったのだ。

 わたしは取り押さえられる寸前の犯人のように、両手を上げて力なく首を振った。


「む……無理でしょう……」


 なつきちゃんは上目遣いで睨みつけてくる。さっき「好き」と伝えたばかりの相手に向けるには、殺伐としすぎている眼差しだ。


「なんで無理なの」

「だって、なつきちゃんはまだ高校卒業したばかりですよ? わたしはもう30手前で……。それに、専門学校に通うようになったらうちでバイトするんで――」

「修行」


 学生のうちは修行とは言えないのだけど、なつきちゃんは「修行」という表現にこだわりを持っているらしい。逆らうとまた面倒なことが増えそうなので、大人しく言い直す。


「……修行するんですよね、この店で。同僚同士ならまだしも、店長が学生に手を出すなんて――」

「よかったぁ!」


 なつきちゃんは急に満面の笑みを浮かべ、跳び上がった。今の話のどこに喜ぶ要素があるのか。眉をひそめるわたしを、なつきちゃんはひじでつついてくる。


「それって、世間の目を気にして断るしかないって話だよね? 嫌いだから無理って訳じゃなければ、希望はあるってことだよね?」


 本当に人の隙を見つけるのが上手い子だ。わたしは慌てて、その希望を握りつぶすすべを探した。


「いや、そういう訳じゃなくて――」


 だけど見つける前に、なつきちゃんはその希望を確かに存在するものだと信じきってしまった。

 なつきちゃんの瞳はわたしをわたしを見つめるにはもったいないくらい、透き通って輝いている。


「じゃああたし、卒業するまであかねさんの返事待ってる。ううん。一人前になったら、またあたしから告白する」


 そう宣言して、なつきちゃんはわたしが書いた「卒業おめでとう」のプレートをぱりっとかじった。あごを引いた上目遣いに、めまいと動悸がしてくる。


「そんなの……困ります」


 強く拒否できない自分は、たぶんずるい。

 なつきちゃんにすべてを委ねているに等しいから。


「次は無理って言わせないからね」


 なつきちゃんは宣戦布告するようにわたしを見上げた。自分が倒すべき敵は、わたしの自制心と理性だというように。


 *


「はぁ……あと1年10ヶ月か……」


 だれもいない店内で無意識につぶやいてしまう。なつきちゃんの専門学校卒業までのカウントダウン。

 そのころにはもうわたしは正真正銘の三十路。20歳のなつきちゃんと釣り合うはずなんかない。


 もしくは、あと2年弱なんて待たずになつきちゃんの心が変わるかもしれない。専門学校ではいろんな人に出会う。先輩、講師やその助手、OBやOG。卒業後の人脈にしようと近づいてくる者もいる。

 しかも、なつきちゃんは女子高出身。異性との交流はめずらしいものだろう。中学生のころには感じなかった気持ちが芽生えるかもしれない。


 いつかきっと、わたしへの思いが恋なんかじゃなかったと気づくときが来る。それをわたしは受け入れられるのだろうか。

 すでに絆されかけているわたしに――。


「あかねさん、明日のレアチーズって何個?」


 レジ脇の壁の小窓が開いて、なつきちゃんがひょこっと顔を出した。わたしは驚いて文字通り跳び上がった。


「うわあぁ!? あ、えっと、15個でお願いします!」


 答えたのに、なつきちゃんは怪訝そうな顔をしている。キッチンと繋がっているその小窓からは、ホイップクリームを立てるミキサーの音が聞こえてくる。


「あかねさん、ぼーっとしてたでしょ。何か考えごとでもしてた?」

「いえ、別に何も。なつきちゃん、やることはたくさんありますよ。レアチーズの次はいちごムース、それからタルト生地の焼成とプリン液の仕込み、あとはティラミスのエスプレッソシロップと……」

「ま、待って待って! 早すぎるから! いちごムースまでしか覚えてないよ~。また訊きにくるね!」


 なつきちゃんは手を振って小窓を閉めた。ぱたぱたと駆けていく足音が鼓膜をやわらかく震わせる。

 なつきちゃんの方が、告白して保留されている側なのに。今までと少しも変わりなく振る舞ってくるから、逆にこっちの調子が狂ってしまう。


「わたしの方が意識して、バカみたい……」


 ため息が出る。いつまでも心臓が高鳴っているのを、他人事のように不思議に思う。

 ひとりで忙しく働いていられるならまだしも、こんなふうに身体が止まっている状況が続くと、頭ばかりよく回ってしまって困る。




 その後もたまに接客をはさみながら、なつきちゃんの仕事を見守りつつフォローしているうちに夕方になった。

 なつきちゃんは仕事覚えが早く、丁寧で正確な作業をする。そのおかげで、ひとりでやっていたころの半分の時間で仕事が終わるようになった。


 洗いものも終えたなつきちゃんは、エプロンで手を拭きながら目の前にやってきた。


「あかねさん、全部終わったよ! あたしお店番してようか?」

「いえ、もう客足の途切れる時間帯ですから、休憩しましょう」

「あ! じゃあさ、実習で作ったチョコ、食べてほしいな。チョコだから、コーヒーがいいよね!」


 なつきちゃんはやかんに水を入れて火にかけた。わたしはふたり分のカップとドリップバッグを用意する。

 オーブンやミキサーなどの機械が止まり静かになったキッチン。冷蔵庫のうなりとお湯の沸く音がゆっくりと混ざりあっていく。


 なつきちゃんは沸騰したお湯を少しだけ落ち着かせてから、ドリップバッグに少しずつ注いでいく。慣れた手つきでコーヒーを淹れると、カップを片方差し出してくれた。

 それから、作業台の下から紙袋を取り出した。その中には赤い箱が入っていて、ぱっと見た感じではどこかで買ってきたような印象だ。


 その箱を開ける直前、なつきちゃんはわたしの目を覗きこみ、にっこりと笑った。

 作ったお菓子を誰かに見せるとき、わたしはこんな顔をしたことがあっただろうか。なつきちゃんの笑顔はすごくまぶしかった。


「ほら、見て! これはミルクチョコのトリュフ。こっちは抹茶のガナッシュ、これにはプラリネが入ってて、あとね、これはボンボンショコラで――」


 箱の中には仕切りがあり、9つのチョコが綺麗に並んでいる。ココアパウダーをまぶした丸いトリュフ、キューブのチョコにはさざなみのような模様が描かれ、ハートは鮮やかな赤色を輝かせる。


 わたしは主に洋生菓子を作っており、チョコレートにはあまり明るくない。きっとプロのショコラティエが見たらいろいろと批評したいことがあるのかもしれないが、わたしくらいの人間だったら売り物だと思ってしまうほど、そのチョコのクオリティは高かった。


 なつきちゃんはいつも実習で作ったお菓子をわたしに食べさせてくれる。それはもう、毎日のように。

 わたしはふと気になって、ハートのチョコの赤色がいかに大事かを語るなつきちゃんの言葉を遮った。


「あの……なつきちゃん? 実習で作ったお菓子、ちゃんとご家族にも食べてもらってますか? 何か……すべてここで消費しているように思えてきたんですけど……」


 そう言うと、なつきちゃんは目を丸くした。そして、当然と言うようにうなずいた。


「だって、あかねさんのために作ってるんだもん」


 わたしは頭を抱えた。

 もうすぐ成人を迎えるものの、ご両親からしたらなつきちゃんはまだまだ子どものはず。大学進学が当たり前のような東女子高校から専門学校に進学したのだって、ご両親の理解があってのことだろう。それなのに、専門学校での成果を大事な家族に披露しないだなんて。

 独り占めするつもりなどさらさらなかったとはいえ、罪悪感がわいてくる。


「なつきちゃん、プロのパティシエールを目指しているんでしょう? お店を持ちたいのなら、たったひとりのために作るのではなく……」

「お店? あたしが?」


 なつきちゃんが素っ頓狂な声を上げる。わたしまでつられて高い声になってしまう。


「え? 違うんですか?」

「あたしは自分のお店持ちたいとは思ってないよ。それにね、あかねさんのためっていうのはちょっと端折りすぎっていうか……その……」


 なつきちゃんはめずらしくもじもじと下を向いた。


 あかねさん、好き。あたしと付き合って?


 言われたこっちが照れるような告白をしたときよりも、ずっと顔が赤くなっている。

 パンパンの風船から空気を逃がすように、細い息を吐く。なつきちゃんのその吐息は、少し震えていた。


「あたし……ずっとここであかねさんといっしょに働きたいんだ。でもさ、あかねさんはずっとひとりでお店をやってきたでしょ? あたしが力になれることなんて全然ないと思ったの」


 なつきちゃんはひざの上でぎゅっと両手を握りしめた。いつもはふわふわとした綿飴のような彼女も、覚悟とか決意とか、そんな熱いものを隠し持っているんだと改めて思い知る。


「だから、チョコレートを専攻したんだよ。ここにはチョコレートの商品がないから。あかねさんが生菓子、あたしがチョコレート……そうやって役割を分担していったら、ふたりでうまくやっていけるのかなって。だから、あかねさんのためでもあって、このお店のお客さんのためでもあるっていうか……」

「わたしに何の相談もなく、そんなふうに考えて専攻を決めてしまったんですか?」

「相談したってどうせ賛成してくれなかったでしょ。あかねさん、どうせあたしの思いなんて本気にしてくれないし」


 この子はどれだけわたしのことを思ってくれているのだろう。

 告白されてからも、ずっと疑問に思っていた。疑念すら抱いていた。


 憧れと恋心を混同しているだけだとか、恋に恋しているだけだとか。バースデーケーキを作るだけだったわたしが、なつきちゃんにとって特別な存在になる訳がないとか。

 自分の頭の中だけで考えているより、なつきちゃんの言葉を聞き、顔を見たらすぐに分かった。


「だから、あかねさんにふさわしいショコラティエになって、もう1回告白する。プロポーズするの」


 まっすぐに、こちらの胸に突き刺さる言葉とまなざし。自信がみなぎっているように見えて、眉にはほんの少しの不安がうかがえる。噛み締めたくちびるにも、気持ちの揺らぎが表れているようだ。

 何と返事したらいいのか検討もつかない。「分かりました」でも変だし「やめてください」とも言えないし――。


 いっそのこと、口はものを食べるためにあるものだと主張するためにチョコを頬張ろうか。

 そう思ってチョコに手を伸ばそうとした瞬間。

 カランカラン、とドアベルが鳴り響いた。つい、助かったと思ってしまう。


「あ、お客さまですね。休憩は終わりです。片づけお願いしますね」


 早口でなつきちゃんに告げ、駆け足で店へと向かう。逃げているような気分になり、少し罪悪感を覚える。


「閉店したら食べてね!」


 なつきちゃんが背中に声を飛ばしてくる。閉店後にどんなことが起こるのか――不安ながらどきどきと高鳴る鼓動を落ち着かせるのが大変だった。




 閉店時刻の午後7時。

 この時間でもまだうっすらと明るい。夕日の名残が西の空にうかがえる。

 ショーケースを消毒し、レジを閉め終えたところで、キッチンと店内を繋ぐ小窓が遠慮がちに開いた。なつきちゃんがそっと顔をのぞかせる。


「あかねさん、お疲れさま」


 ダウンライトだけにした店内と、蛍光灯の白い光に満ちたキッチン。

 薄暗い店側から見るなつきちゃんは、逆光で表情を隠しているようだった。


 瞳に溶かした気持ちも、頬に滲ませた感情も、容易にはうかがい知れない。いつもは迷惑なくらいに一方的に押しつけてくるくせに。

 今は逆にわたしの方が表情を露にしている。ついでに気持ちまで読まれているような気がしてならない。


 なつきちゃんはすっと右手を伸ばしてきた。若さゆえか水仕事をしていても肌荒れのないその指で、真っ赤なハートのチョコをつまんでいる。


「ああ、チョコ……」


 そういえば、休憩のときに食べ損ねたままだった。食べ損ねたというか、逃げたというか……。

 受け取ろうと手のひらを差し出すが、なつきちゃんはチョコを渡そうとしない。その代わり、こんなふうに問いかけてきた。


「ねぇ、どうしてチョコレートは美味しいか知ってる?」


 どうして?

 理由なんかあるのだろうか。

 嬉しいと笑っちゃうのはなぜ、悲しいと涙が出るのはなぜ……そんなのと同じで、理由は分からないけどそれが当たり前なのだ、としか言いようのない問いかけに思える。


「えっと……甘いから、ですか?」

「うーん。それはね、半分しか当たってない。正解は……」


 なつきちゃんがチョコをわたしの口へと押しつけてくる。食べさせてもらうなんて柄じゃない。

 頑なに手で受け取ろうとするが、小窓から身を乗り出してきたなつきちゃんに手首を掴まれて阻まれてしまう。


 わたしは諦め、これは不可抗力だと自分に言い訳をして口を開けた。

 ころん、とチョコが転がりこんできた。舌の上で甘みがゆっくりと広がる。


 なつきちゃんはふっとリボンをほどくようにくちびるを綻ばせた。去年まで――店員とお客さまだったころには見せたことのない、つやめいた笑みだ。


 なつきちゃんはふたたび指をわたしのくちびるに近づけてきた。もう何も持っていないのに……怪しいと思う暇はあったのに、逃げ遅れた。


 なつきちゃんはわたしのくちびるを指先でそっと撫でた。その感触は、意外にべたっとしていた。息を吸うと、すぐ近くでチョコの香りがする。


「体温でちょうどよく溶けるからだよ」


 よく見るとなつきちゃんの指先は赤く染まっていた。真っ赤なチョコが彼女の体温で溶けたのだ。

 きっと今、わたしのくちびるにもその赤色が走っている。化粧っ気のないわたしの顔に不釣合いな、鮮やかな赤色が。


 なつきちゃんは指に残ったチョコを、何でもないような表情でぺろっと舐めた。わたしと視線をあわせ、いたずらっぽく目を細める。

 その瞬間、口の中にじわっと甘苦いものが広がった。チョコの中に入っていた洋酒のシロップが溢れ出したのだ。


 なつきちゃんはもう一度わたしのくちびるにちょっと触れて、笑みを浮かべた。

 シロップみたいに、甘いだけじゃなくて少し苦味を含んだ、ひと筋縄ではいかない笑みだ。


「あかねさん。あたし、がんばるからね?」

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