Birthday
店の大きな窓ガラスから射し込む橙色の夕日と、18時半を差す時計を見比べて、ずいぶん日が伸びてきたんだなと思った。少し前なら、この時間は真っ暗だったはずだ。
時計の歯車がオレンジ色に錆びついて、動きがゆっくりになってきている。そんなふうに思わせるような夕暮れだった。
今日は日曜というのもあって、なかなか忙しい一日だった。朝早くから仕込んだケーキは、ショーケースにほとんど残っていない。19時の閉店を待たず、もう店を閉めてもいいくらいだ。
ただ、一件だけ予約の受け渡しが残っていた。
4号のバースデーケーキの、日野さん。チョコプレートには「おたんじょうびおめでとう なつきちゃん」……その予約票の文字を見た瞬間、そういえば、と声が漏れた。
日が伸びてきた、どころじゃなかった。もう伸びきったのだ。
今日は昼が一年でいちばん長い日だったのだ。
毎年、こんなふうに「今日は夏至だったんだな」と思い出しているような気がする。
床に伸びる影と日射しの見分けがつかなくなってきたころ。
大きな窓を左から右へ、自転車が通り過ぎた。はらはらとなびくセミロングが視界から消え、すだれのように垂れる蔦が、自転車の起こした風を受けてぶわっと舞い上がった。きっ、と短いブレーキにつづき、スタンドがアスファルトにこすれる音が聞こえる。うちのお客さんらしい。
窓越しに見えたのは、スキップ混じりのご機嫌な中学生……いや、去年とは制服が変わっているから、高校生になったのか。
木製の重い扉がゆっくり開き、水が流れ込むかのように夕日が射してくる。彼女が鳴らすドアベルは、他のお客さんが鳴らすよりも一音高く聞こえた。
「こんにちは。ケーキ、取りに来たよ」
一年ぶりのなつきちゃんは、髪も伸び、制服も変わり……少しメイクもしているみたいだ。去年とはまるで別人みたい。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
子どもだとしても、ひとりのお客さま。普段通りの丁寧なあいさつをする。
なつきちゃんは前髪を手櫛で整えながら、へへーと笑った。
「久しぶりだね、あかねさん。見て! 高校の制服! かわいいでしょ?」
なつきちゃんはワイシャツの襟をつまんで、上目遣いで見つめてきた。
遠くから見るとただの青いシャツに見えるような、細かいギンガムチェック。ゆるく結んだネクタイが、女の子っぽくて可愛らしい。
彼女は服を見せるには、少し勢いのありすぎるターンをした。紺色のプリーツスカートが広がってしまうのを心配したが、ベストの裾がスカートを押さえているおかげで、危惧したほど広がらずに済んでいた。
なつきちゃんはよろめいて、とと、っとローファーのかかとを鳴らした。ゆっくり一周でいいのに、回りすぎなのだ。
「東女子に入学したんですね。おめでとうございます」
「へへ。あかねさんの後輩になれたよ」
「わたしが通ってたのなんて十年以上前ですよ」
なつきちゃんは、小さいころからの常連さんだ。
もともと店を始めた父が身体を壊したのをきっかけに、わたしが引き継いだのが四年前。
それ以前も、高校が終わってから販売を手伝ったり、製菓学校に通いながら修行として製造に携わったりと、ずっと店には立ってきた。わたしも少なからず、なつきちゃんの成長を見守ってきたと言える。
「あかねさん、覚えてる? あたしが小学……生にもなってなかったかも。あかねさんが高校生で、ちょうど学校から帰ってきたとこでさ。おじさんには店の入口から帰って来るなって怒られてたけど、あたし、そのときにあかねさんが着てた制服にひと目惚れしたんだよ」
「えっ、それで東女子にしたんですか?」
「そうだよ。偏差値高くて、けっこう大変だったんだから」
なつきちゃんは肩をすくめて、へへーと笑った。たしかに、わたしの時代から東女子は進学校として有名だったけど、制服が可愛いと評判でもあった。偏差値の高さに諦めざるを得なかった友人から、制服だけでも着させてくれと頼まれたこともある。
「でもね、あかねさんが着てたみたいに格好よくなれないんだよね。すらっ、きりっ、きらーん、みたいな」
なつきちゃんが変なポーズをつけながら力説するのを横目に、ケーキの箱をショーケースから出した。そっとふたを開けて、中身を取り出す。
4号のショートケーキ。トッピングしてあるのはいちごではなく、丸くくり抜いた黄緑とオレンジ、二色のメロンだ。クラッシュしたゼリーを散りばめて、夏らしく涼しげに仕上げてある。
「わぁ……すっごくかわいい! あたし、いちごよりもこっちのデザインの方が好きかも!」
なつきちゃんは目を輝かせて、こちらを見上げてきた。長いまつ毛に、くっきりとした二重まぶた。小さくて少し低めの鼻。色白の肌に鮮やかな紅色のくちびる。
そりゃあ、格好よくなれるはずがない。わたしより身長は二十センチも小さくて、肩幅も華奢で、こんなにかわいらしい容貌をしているのだから。
なつきちゃんの笑顔から目をそらし、ケーキを慎重に箱へと戻す。視界の端に、ゆらゆらと揺れるプリーツスカートが映るのが、妙にこそばゆい。
「ねぇ、今年こそ教えてよ」
なつきちゃんは今年もやっぱり、その言葉を口にした。どこで覚えたのかと、親でもないのに心配になるような、甘い猫なで声。
「教えません」
「ずるい」
「ずるくありません」
なつきちゃんにちらりと目をやると、む、と口をへの字にしている。いくら高校生になってメイクを施しておとなっぽくなっても、そういう表情は変わらない。
「ずるいよ! だって、あかねさんはあたしの誕生日知ってるのに、あたしはあかねさんの誕生日知らないの……おかしくない!?」
「わたしは仕事上、お客さまの誕生日を知っているだけです。お客さまが店員の誕生日を知る必要はありませんから」
「客と店員とか、そういう問題じゃないの! あたしは店員さんのじゃなくて、あかねさんの誕生日が知りたいの!」
なつきちゃんは毎年、なぜかわたしの誕生日を訊いてくる。わたしは毎年、その質問をはぐらかす。去年までは、いっしょに来店していたお母さんに窘められて、なつきちゃんは渋々連れ出される。そんな具合だった。
ただ、今日はなつきちゃんひとり。しかも、話を中断させてくれる他のお客さんも来ない。なつきちゃんはなかなかケーキを受け取ろうとせず、後ろで手を組んだままゆらゆらと身体を揺らしている。
「それにさぁ、あかねさんはあたしのフルネーム知ってるのに、あたしは名前しか知らないし」
ぴっ、とコックコートの胸もとを指される。そこには、筆記体で「F.Akane」と刺繍が施されている。わたしは生地を引っ張って眺め、なつきちゃんにほほえみかけた。
「英語のお勉強はもう少しがんばった方がいいですね」
彼女の眉間にしわが寄る。それから「ええっ」と、およそケーキ屋には似つかわしくない大声を出した。
「じゃあ、あかねって苗字だったの!?」
「さあ、どうでしょう」
なつきちゃんはむうう、と唸り声を絞り出す。そして、またひと言。
「ずるい」
くちびるを尖らせるのを優先しすぎているせいで、「じゅりゅい」に聞こえた。
なつきちゃんは、ショーケースに残りわずかとなったケーキを眺め、はあ、とため息をついた。
「ねぇ、あかねさん。自転車でケーキって、どうやったら綺麗に持ち帰れると思う?」
やっと話題が本日の主役、バースデーケーキに戻った。
蔦と髪を揺らした自転車を思い出す。
箱の中でひっくり返ったケーキが、容易に思い浮かぶ。
「あたし、帰りたくないの」
なつきちゃんの言葉にどきっとして、つい顔を見てしまう。
背後から西日に照らされたなつきちゃんの顔は、店内の照明では拭いきれないほどの影が落ちていた。
「ケーキ持って、自転車になんて乗って帰りたくない」
そういう意味か。いや、他の意味なんか最初からない。
ないはずなのに、なつきちゃんは甘い色を溶かした目で見つめてくる。
家までどのくらいの距離なのだろうか。毎年バースデーケーキを買いに来てくれるとはいえ、知っているのは、なつきちゃんとお母さまの名前と、なつきちゃんの年齢だけだ。
せっかくの誕生日が台無しになってほしくない。
「送りましょうか」
なつきちゃんの瞳がほんの少し翳ったように見えた。目を伏せ、ざらっとした声音でつぶやく。
「クール便? ちゃんと今日中に届くの?」
「違います。わたしがなつきちゃんごとケーキをお家まで送るんです」
なつきちゃんはぱっと顔を上げた。ショーケースの光を反射して、瞳が輝く。そんな輝きをねじ伏せるように、なつきちゃんはぎこちなくそっぽを向いた。
「あたし、帰らない。ケーキ、持って帰らない」
「えっ」
せっかくのバースデーケーキを、持って帰らない?
たしかに、今までにそんなお客さんには一度だけ遭遇した。カップルで予約していたケーキを受け取りに来て、彼氏が彼女の年齢を間違えていたことが判明し、目の前で喧嘩をはじめてしまったのだ。
そのときはそんなことくらいで、と思ったものだが……今のなつきちゃんの気持ちはさらに分からない。
なつきちゃんは手を後ろで組んだり、前に持ってきて指を絡ませたり、落ち着かない様子だ。頬は上気し、目は泳いでいる。
「あたし、あかねさんと……いっしょに食べたいの……」
耳を疑った。
いや、世界の存在丸ごと疑った。
「……わたしと……いっしょに……え?」
どういう意味か分からない。わたしは毎年、なつきちゃんの誕生日に関わってきているが、それはケーキを作るところまでだ。家族で囲むはずのケーキ。そんなケーキを、なつきちゃんはわたしと食べたいと言っている。
わたしの耳がおかしいのでなければ、世界がおかしい。
そう思うしかない状況だ。
なつきちゃんは、さっきまでの饒舌ぶりはどこへやら、急にしおらしく口をすぼめている。白くやわらかいベストには、猫背のしわがついている。
わたしから口を開かない限り、このまま膠着状態がつづいてしまいそうだ。意を決して沈黙を破った。
「でも、お家でお祝いするんでしょう? そのためのケーキですよね?」
なつきちゃんは髪をさらさらと揺らして首を振った。
「友だちとお祝いするから、今年のケーキはいらないって言ってある」
「え、じゃあ、このケーキって……」
「あたしが、自分で注文した。予約の電話したの、あたしだったでしょ? お母さんの代わりとか言ったけど……。あかねさんと食べたいから……」
なつきちゃんは俯きがちに、顔を隠す髪の隙間から、ちらちらとわたしに視線を寄越してくる。
しっかりと刻まれた二重まぶたと、ほんのり赤く染めてある目尻。まつ毛は長く、ショーケースの明かりがなければ、涙袋にまで影が届きそうだ。
わたしなんかにお祝いを求めなくても、たくさんの人から祝福してもらえるだろう。
なつきちゃんのぼやっと熱っぽい視線が、のどもとに絡みついてくる。急に化粧っ気のない自分の顔が恥ずかしくなって、ショーケースの中身を確認する振りなんかしてごまかしてみる。
なつきちゃんは、わたしの行動を拒否と受け取ったらしい。しゅんとしおれ、カーテンが閉まるように髪の毛が顔を隠してしまう。
「あたし、あかねさんにお祝いしてもらいたい」
アイスコーヒーに注がれ、じわじわと沈んでいくガムシロップのような声だった。かたくなな心に染みこんでこようとする甘い声。
「だめ……?」
なつきちゃんは潤んだ瞳で見つめてくる。ケーキに飾ってあるチャービルが、ショーケースの冷風でかすかに揺れている。
「だめじゃないです、けど……」
わたしとなつきちゃんとで、なつきちゃんのバースデーケーキを食べる。
そんなシチュエーションなど、想像したこともなかった。どう考えてもおかしい。わたしたちは友だち同士じゃないのだ。パティシエと常連客。それだけなのに。
断りきれなかったわたしが悪いのだが、「けど……」と弱々しく濁した語尾に、なつきちゃんは敏感に反応した。ほわ、と頬がやわらかくふくらみ、瞳には光が宿る。
「あ、そっか、閉店までまだ時間あるもんね! あたし、待ってる。んーん、待ってるだけじゃ申し訳ないから、洗いものしとく!」
「え、そんな、お客さまにそんなことさせられません……というか、お祝いするって話だって――」
「あかねさん」
なつきちゃんは手首につけていたヘアゴムで、髪をポニーテールにまとめはじめている。ワイシャツの半袖から、白く滑らかな二の腕があらわになっている。
「今日は……今日だけでいいから、あたしをお客さんじゃなくて、ただのひとりの女の子として見て?」
ちょうどいいのか悪いのか分からないタイミングで、新たなお客さまが入ってきた。少し低く聞こえるドアベル。
なつきちゃんは新人アルバイトみたいな顔をして「いらっしゃいませ」と言いつつ、スイングドアを押してキッチンへと向かっていった。
仕事帰りらしい女性の注文を聞きながらも、つい上の空になってしまう。キッチンから漏れ聞こえる食洗機の音が、自分が回したときよりやっぱり少し高く響いている気がした。
*
誕生日とは、クリスマスのついでに作ってもらったケーキをひとりきりで食べる日だった。
パティシエの父と、アシスタントや接客をこなす母。このケーキ屋はもともと、両親がふたりきりで営んでいた。
わたしの誕生日は、クリスマスに向けて忙しくなる時期。両親は文字通り、寝る間も惜しんで働いていた。わたしの誕生日プレゼントは、サンタさんがちょっと早めに来てくれたみたいに、朝起きると届いていた。ただ、それが置かれていた場所は、枕もとではなく食卓の上だった。
別に、両親から愛されていなかった訳ではないと思うし、もっと愛されたかったと恨みがましく思ってもいない。
母の日商戦の忙しいときでもちゃんとご飯は用意されていたし、クリスマスケーキのついでに作られたバースデーケーキにのっていたのは、サンタと柊ではなくわたしの好きなうさぎの砂糖菓子だった。
あたし、あかねさんにお祝いしてもらいたい。
だれかに……両親に祝ってほしい。そんなふうに思ったことはなかった。そんなふうに思ってはいけないと、自分に言い聞かせていたのかもしれない。
なつきちゃんがうらやましかった。
自分の気持ちをまっすぐに言葉にできることは、わたしにとっては魔法の呪文をささやくのと同じことだった。自分にできることとは思えなかった。
考えごとをしながら接客するのはよくないとは思いつつ、思考は勝手に巡る。
19時ちょうどに、申し訳なさそうにドアを開けたスーツ姿の男性へ、ショートケーキを包んで手渡し、今日の営業は終了した。
入口の鍵を締め、ブラインドを下ろし、ショーケースの中を消毒をする。BGMを止めた店内は静かで、作業場から聞こえてくる人の気配が新鮮に聞こえた。だれかと仕事をするなんて、両親が現役だったころ以来なかったから、四年ぶりだ。
店内の電気を消し、最後にひとつだけ残ったバースデーケーキの箱を手に短い廊下を抜ける。髪を結い上げたなつきちゃんがとたとたと駆け寄ってきた。水滴のついた手は、新鮮な桃のように薄紅に色づいている。
「お疲れさま、あかねさん。洗いものはぜんぶ片づけたけど、他にやることある?」
あると言えばあるが、新人バイトでもないなつきちゃんに頼むようなことではない。いえ、と首を振ると、なつきちゃんは嬉しそうに手を叩いた。
「じゃあ、お祝いしよ! ケーキ、いっしょに食べよ?」
「いえ、あの……そのことなんですが……」
なつきちゃんの表情が、みるみるうちに色褪せていく。背筋を伸ばしてあごを引く。細い首がかすかに脈打ち、緊張感が走るのが伝わってくる。
「どうしてわたしなんですか? 家族でのお祝いを断ってまで……。わたしはただ、毎年なつきちゃんのバースデーケーキを作っていただけの店員で……それだけで……」
ふわりと左手がやわらかいものに包まれる。なつきちゃんの手のひらは、わたしのマメだらけで皮の分厚くなった手のひらとは正反対で、しっとりと柔らかかった。自分のこんな固い手のひらで、こんな柔らかさを感じられるのが不思議だった。
「あたしのこと、今日はただのひとりの女の子として見てって言ったよね?」
つながった手から目を上げて、なつきちゃんは少し潤んだ眼差しをさまよわせた。その瞳の深い色に目を奪われていると、必然的に視線があった。
「あたし、今はあかねさんのこと、毎年バースデーケーキを作ってくれるだけのケーキ屋さん……とは思ってないよ」
「それなら……」
何だと思っているんですか。
「あたし、あかねさんに憧れてるの」
訊ねる前に、なつきちゃんはそう言った。柔らかい手のひらに、ぎゅっと力がこもる。わたしがなつきちゃんの手のひらのたおやかさを感じているように、なつきちゃんにわたしの手の無骨さが伝わっているのかと思うと、急に恥ずかしくなってくる。
「あたし、あかねさんってすごいなって思うの。だって、毎日だれかを幸せな気持ちにさせてるんだよ。わくわく、どきどき、うきうきさせるケーキを作ってる。あたしもそんなふうになりたいなって……だからあかねさんと同じ高校に行きたくてがんばった。次はあかねさんと同じ製菓学校に行って、パティシエになって、ケーキでたくさんの人をわくわく、どきどき、うきうきさせたい」
なつきちゃんの声が途切れ、冷蔵庫の低い唸りが耳につく。なつきちゃんは少し迷うようにくちびるをもにゃもにゃと動かしたあとで、顔を上げた。
「でもね、いちばんは……あかねさんをお祝いしたいんだって思ったの」
「わたしを……?」
こくんとうなずくなつきちゃんに、繋がれた手をぐいっと引っ張られる。祈るように手を口もとに寄せる。無骨な手の甲に、なつきちゃんのしっとりとした息がかかる。
「あかねさんの誕生日を知りたいだけ……お祝いしたいだけなの」
ひたむきなまなざし。強い思いをこめて結ばれたくちびる。さっきまで平然としていた手が、少しだけ震えている。
本当は怖かったのかもしれない。
ここまでわたしの心に踏みこむことが。
ただのひとりの女の子になることが。
「今日はなつきちゃんの誕生日でしょう? わたしの誕生日のことは置いといて、ケーキ、早く食べましょう。あまり帰りが遅くなったら、ご両親も心配になるでしょう」
なつきちゃんは一瞬瞳を輝かせ――宿ったその光を封じ込めるように目をすがめた。大事そうに包み込んでくれていた手を、ぞんざいに押し返してくる。
「……またごまかした」
非難するなつきちゃんの声を受け流しつつ、バースデーケーキを箱から取り出す。
おたんじょうびおめでとう なつきちゃん。
自分で書いたプレートの文字を、またこのキッチンで見ることになるとは思わなかった。なつきちゃんは上半身をかがめて作業台に頬づえをつき、ケーキを眺めている。
わたしはそのつむじに向かって囁く。
「今日と、正反対の日ですよ」
「え? 何が?」
「わたしの誕生日です」
なつきちゃんはばっと身体を起こし、宝の在り処を知らされたみたいにそわそわと足踏みしている。
「正反対? 今日は6月21日だから……21月6日? え、どういうこと?」
「今日は何の日ですか?」
「あたしの誕生日」
誰もが知っている国民の祝日じゃないか、と言わんばかりに、堂々と答えるなつきちゃん。自分の人生の主役は自分であると、言葉にはしなくても感覚で分かっているのだろう。何だかすごく頼もしく、不思議と嬉しくなった。
「それ以外では?」
「ええ? だって6月って祝日ないじゃん。えー……?」
「昼がいちばん長い日、ですよね。まあ、違う日になる年もありますけど」
助け舟を出すと、なつきちゃんはパンっと手を打ち鳴らした。自分で思った以上に大きい音だったのか、音の欠片をすり潰すかのように手のひらを擦りあわせながら、なつきちゃんは答えた。
「夏至だ! と……いうことは――」
ケーキにろうそくを刺し、火をつけようとする手を、なつきちゃんに握りしめられる。見上げてくる瞳には、この日に産まれたなつきちゃんしか持っていないような、まばゆいほどの光が散りばめられている。
「冬至って、何月何日?」
「教えません」
なつきちゃんは人差し指を振って、いたずらっぽい笑みを浮かべる。
「あかねさんの誕生日を訊いてるんじゃないよ。冬至の日を知りたいの」
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