第2話 お茶を飲んだだけで帰るなんて言わせないよ
向日葵は椿を連れて自宅に戻ってきた。
その間二人はほとんど口を利かなかった。
聞きたいことはたくさんある。けれど、今根掘り葉掘りして彼の機嫌を損ねればもっと長い時間口を利いてくれなくなる。一番大事なのは彼の身体で、とにかく家に連れ帰って濡れた着物を脱がせ、温かい風呂に入れ、兄の服を着せることだ。こんなところで車を下りたいと言わせてはならない。
向日葵には椿の機嫌の変化が手に取るようにわかる。
何も知らない人間は椿を穏やかな性格のはんなりした美青年という第一印象を抱くようだが、その実非常に気難しく、一回嫌なことがあると半永久的に心を閉ざしたままだ。唯一共通の授業を取っていた例のグループLINEのメンバーだけは椿のそういうところも理解しており、向日葵は自分と別れても彼ら彼女らとのつながりは保ってほしいと思っていた――現状を思うとやはり向日葵が仲を取り持たなければだめだったようだ。
向日葵は他人の心の機微には敏感なほうだと思う。子供の頃からそうで、無意識のうちに言葉を選ぶことができた。おかげで誰からも優しく面倒見がよい子だと認識されているらしい。小学生の時には学級委員などを歴任するようになっていた。同時に我ながら呆れるほどにポジティブで、名は体を表すとも言われる。
これは向日葵の憶測だが、椿は向日葵の無神経に他人の心へ土足で上がろうとしないところと大雑把であっけらかんとしたところを両立させている性格を気に入ってくれたのではないか。太平洋にさんさんと降り注ぐ太陽の光を浴びて日焼けした肌、適当に肩のあたりでまっすぐ切り揃えた太く強い黒髪、筋肉質で体の凹凸が小さい向日葵だ、外見を気に入ったとは思えない。
今日も向日葵は椿の機嫌をうまくコントロールするために言葉を探している。しかしそれを苦痛だとは思わない。ネゴシエーションの第一歩は相手に心を開いてもらうことだ。そういう意味では向日葵は天性の経営者なのかもしれなかった。
自宅に辿り着いた。
門を入ってすぐのスペースに駐車する。
椿が向日葵の家を見上げる。
よくある和風建築だ。戦時中沼津が大空襲で焼けた後に建てられた家で、リフォームを繰り返しながらかれこれ七十数年住んでいる。二階建て、黒い瓦、開放的な縁側、乗用車なら五、六台止められる玄関前スペース――このへんの地主の家はみんな似たり寄ったりだ。
そういえば、向日葵は例の授業の面子と椿の実家に『遠足』に行ったことがある。
例の授業とは、『京都学』のクラスのことをいう。京都にある大学の特色として、京都の神社仏閣を研究する、というコースがあったのである。必修ではない。ただ、フィールドワークがあるため少人数制で、抽選になるほど人気があった。
向日葵は大学四年間を京都観光に費やすつもりでそのコースを選択した。椿は「地元のことよう知らんとお客様をご案内できひんやろ」と言っていた、なるほど地元にいると案外観光地巡りをしないものである。
あの頃から椿は着物で授業を受けていた。しかも表面的には穏やかで、典型的な京都弁を喋る。向日葵は当時はよくわかっていなかったが、
ある時ある講師が椿の家の話を振り、さぞかし立派なお屋敷にお住まいなんだろう、という話題になってしまったことがある。椿はやんわり否定したが、こっそり、仲良しグループだけなら招待してやってもいい、という流れに持ってきた。
時代劇のセットもかくや、というような豪邸だった。
だが向日葵は邸宅そのものより椿の母親のほうを鮮明におぼえている。
椿の実母だから若くても四十歳くらいだったと思う。けれどいわゆる美魔女というやつで、高級な絹の着物の京美人だった。椿とよく似た顔をしていた。穏やかな笑顔、落ち着いた物腰、ゆっくりした京都弁――何もかも華族の奥様というにふさわしい女性だ。
しかし、別れ際向日葵の手首をすさまじい力でつかんで微笑んだ時のあの恐怖は忘れられない。
――いつもうちの椿と遊んでくれはって有難うね。これからもお友達でいてくれはらしまへんやろか。
彼女からすさまじい憎悪を感じた。あの時の背筋が凍るような目より冷たい目で見られたことは後にも先にもない。
ちなみに向日葵の姓は
思えばあのグループはみんなそんな感じだった。特に仲が良かったのは岐阜の飛騨で温泉旅館を営んでいる家の娘と三重の志摩で真珠養殖業を営んでいる家の息子で、みんな地元では名士だが京都では庶民から成り上がった田舎の子だ。
「茶畑の中にあるんやないんや」
椿がそんなことを言うので、向日葵は「はーっ」とわざと甲高い声を出した。
「茶畑は山ん中だよ、人間の住むとこじゃないよ。人間は山裾の街道沿いに住むんだよ」
「見てみたいな」
儚げな笑みを浮かべる。
「一面緑なんやろ。ええなあ」
こいつ自殺する気なんじゃ、というのが一瞬胸によぎった。ぞっとしたが、ありえない話ではないような気がする。なんとか話をさせなければと、向日葵は決意を新たにした。
先に家族のグループLINEに連絡を入れておいたのが功を奏した。家に入ると母が玄関まで出迎えてくれて、風呂を沸かしたからすぐに入るようにと言ってくれた。
椿が入浴している間に、向日葵は兄の子供部屋に侵入して箪笥から高校時代のジャージを引っ張り出してきた。
出てきた椿に兄のジャージとTシャツを着せる。ジャージの裾が余る。向日葵がかがみ込んで裾をめくり足首を出してやる。けして椿の足が短いわけではない。むしろ足だけならすらりと長いほうだ。身長は確か平均的な日本人男性の百七十と少しだった気がする。向日葵の兄が百八十センチ超の巨人なのである。向日葵も百六十センチとけして小柄ではないが、立った状態で兄と喋るのは大変だ。
客間で椿の髪にドライヤーをかけてやっていると、祖母が部屋に入ってきて座卓に冷茶のグラスを置いてくれた。
「雨で冷えたんならあったかいお茶かなとも思ったんだけど、風呂上がりじゃ熱いかなと思って冷茶にしただよ」
この家が建てられた時に生まれ、後期高齢者になった時にマイカーを手放したわりには、向日葵の祖母はしっかりしている。頬にあるしみはほんの数えられるほどだけ、背筋はぴんとしていて、毎月白髪染めをしている髪がつやつやしている。よくもうすぐ喜寿には見えないと言われる。
椿が手でドライヤーを押し退けようとするので、向日葵はドライヤーを止めた。
「温かいお心遣いありがとうございます」
三つ指をついて挨拶する。さすが公家の御曹司、礼儀作法は完璧だ。
「突然押しかけてしもうて申し訳ございません。僕は九条椿と申します」
祖母が「あらあら、あらあら」と慌てた様子で膝をつき、同じように頭を下げる。
「うちの向日葵がお世話になりまして」
「僕のほうこそほんまにようお世話になりました」
「そうでしょ、うちは孫とお茶だけが自慢でね、他に何にもないんですけど、孫とお茶だけはいいんですよ」
あまり謙遜する様子はない。さすが自分たち兄妹の祖母であり父の母である。
「まあ、ゆっくりしなさい。そんな気ぃ遣わなくていいから、うちそんな堅苦しいところじゃないから。自宅だと思ってのんびりしなさい」
廊下を歩いてくる足音が聞こえてくる。この軽い足音は母だ。
祖母が開けっ放しにしたふすまの向こうから、案の定、母が顔を出した。
「椿くん、お着物どうしたらいい? これ洗濯機で洗えるやつ?」
向日葵の母親も比較的若々しい。カーブスで整えている体幹はしっかりしていてどちらかといえば細身だ。ひとつに束ねた髪は何もしなくてもまっすぐのさらさらだ。どうやらご近所でも評判の色白美人らしい。父親似の向日葵は何度母親に似たかったと思ったことか。
椿が「そこまでええですわ」と答える。
「ビニール袋か何かに入れてくれはったらそのまま持って帰ります。申し訳ないですが、服は一着お借りすることになってまうと思うんですけど、後でクリーニングしてお返ししますので」
「雨今夜上がる予報だから明日の午前中干しといたら乾くよ」
当たり前のように言う向日葵の母親に、椿は少し驚いた目を向けた。彼が初対面の人間を相手にこういう感情の揺れ動きをあらわにするのは珍しい。
「お茶いただいたら帰りますよって……」
母も祖母も「えーっ」と心外そうな声を出した。
「お泊まりするんじゃないの?」
「椿くんがお風呂入ってる間にお夕飯すんごい作っちゃった」
「僕はほんま、そういうつもりやなくて……」
向日葵はからっと笑った。さすが自分の家族だ。
「泊まってきなよ。どのみちこの時間じゃ今すぐ新幹線乗っても京都つくの深夜だよ、危ないよ」
「京都駅まで家の人間呼べばええやろ」
「うちのお母さんの手料理食べれないって言うの?」
「卑怯やわ」
椿が大きな溜息をついた。
「それ、木綿やし、洗濯機に入れて大丈夫やと思います……」
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