第9話 味噌煮込みうどんを食べながら

 結局どこも観光せず沼津の自宅に帰ることが決まった。

 途中、岡崎サービスエリアで休憩することにした。昼食からだいぶ時間が経ったので夕食にするという話になったのだ。


 連休中で混雑したサービスエリアに入る。フードコードは大にぎわいで、六人がまとまって座れる席を確保するのに苦労した。


 席に着いた途端、椿がぼろぼろと泣き出した。四年間彼と一緒に過ごした向日葵も彼がこんなふうに人前で泣くのなど初めて見た。驚きのあまり言葉が出なかった。


「どうしてこんなことになってしもたん……。僕これからどないして生きていけばええの……」


 向日葵とその兄の間に挟まれ、やつれた頬を着物の袖で押さえるように拭いながら言う。


「母さんめっちゃ怒ってはったやん……。どんな顔して戻ればええんや……」


 こうして弱々しい声で泣く椿の姿を見ていると、確かに薄幸の美少年という感じがする。大柄な兄の隣に座っているからなおさらだ。


「戻らなくていいんでないの」


 向日葵の祖母が言った。彼女はずっと車の中にいて一部始終を見ていないが、息子夫婦と孫たちにたっぷり語られたためかまるで見てきたかのように振る舞う。

 なお、彼女は今味噌カツ定食を食べている。一番年長なのに一番重そうな料理だ。京料理を食べるはずだったのに名古屋飯になってしまった。孫たちは祖母に謝罪したが、「人ひとりの人権には替えられないからね」とだけ言って、あとは黙ってみんなの決定に従ってくれた。

 他にもそれぞれ名古屋コーチンの親子丼や手羽先などを買ったが、椿はこの一週間ほどほぼ食事を取っていないというので、一番体に優しそうなもの、ということで味噌煮込みうどんを用意した。だがまだ手をつけていない、伸びてしまう。


 向日葵は無言で椿の背中を撫でた。少しでもリラックスできますようにと祈った。


 椿の正面に座っている母がハンカチを差し出す。


「うちで暮らしなさい。しばらくゆっくり療養して、気が向いたらバイトでもしながらうちを手伝ってちょうだい」

「療養? 僕どこも悪くないわ」

「はいはい、わかったわかった」


 ハンカチを受け取ることなく深くうつむき、テーブルに突っ伏すか否かのところで止まる。テーブルの上にぼたぼたと涙が落ちる。


「なんなんもう。なんなん」

「椿くん」

「おかしいやろ、ひとの家にずけずけ踏み込んで、強引なことして。ひとの家の中めちゃくちゃにして、跡取り息子拉致誘拐して。何が目的なん」


 どうやら怒っているらしい。だが向日葵はちょっと笑った。椿が向日葵以外の相手にこういう感情を素直にぶつけたことなどいまだかつて一度もない。あの乳母とやらの言っていたことが本当なら人生で初かもしれない。


「特に深い意味はないけど」


 父が味噌カツ丼を食べながら言う。


「うちは昔からお節介が好きでな。うちの玄関子ども110番のステッカー貼ってるで安心しろ」

「ほんまに大きなお世話や」

「ひまがいる。俺も母さんもばあちゃんもいる。おまけに大樹もいる。お前を守ってやれる人間が複数いるからまずはリラックスしろ。全部それからだ」


 兄は親子丼を食べながら言った。


「ばあちゃんも言ってたけど、うちはどこの家であっても人権侵害をする家庭を放っておける家じゃないもんでな」

「僕自身がいいって言うてるのに?」

「見てて気分悪ィからしょうがねーじゃん。自己満って言われたらそうなんだけどさ、俺のモットーはやらない善よりやる偽善なんでな」


 母も味噌煮込みうどんを食べながら言う。


「特に母親ってめんどくさい生き物だからね、距離を置いたほうがいい。もしまた会って話をすることになったとしても、何年もかけてお互い頭が冷えるのを待ってからのほうがいいし、その場には第三者が同席したほうがいいね」


 向日葵は自分の家族を頼もしく思った。なんだかんだ言ってみんな向日葵よりも長く生きているのだ。年長者の言うことは貴重である。ありがたい。

 椿の背中を撫でたまま、椿の肩に頬を寄せた。すると椿が頭を起こして、向日葵の頭に頬を寄せた。一応隣にいる女が誰かは認識しているらしい。

 よかった。拒絶されていない。それだけで十分だ。


「うどん冷めちゃうよ」

「食べる気になれへん」


「だめ。ちょっとでもいいから食べて。こんな痩せて、絶対だめだからね。怒るよ」

「どいつもこいつもなんで僕を怒るの……僕何か悪いことした……?」

「してないよ。大丈夫。ただ生きててほしい。自分の体をないがしろにするようなことだけは怒るよ」


 椿が洟をすすったので、今度は祖母が近くにあったティッシュボックスをつかんで持ってきて椿の正面に置いた。椿はそれは手に取って洟をかんでからくしゃくしゃと丸めた。


「死んでもあの家の名誉を守らなあかんかった」

「はいだめ。もうだめ。この話終わり。もううち行こ」

「お前弟いるじゃん、気ぃ強そうな弟が。あいつあの家欲しそうだったから譲ってやったら?」

「楓も可哀想な子なんや、母方の家に行っても種違いの兄と比べられ、父方の家に行っても腹違いの兄と比べられ」

「えっなにそれどういうこと? 俺が車で待機してる間になんかすげーおもしろいこと起こってた?」

「そうや、楓……」


 自分の着物のふところからスマホを取り出す。先ほど母親の番号を着信拒否したあのスマホだ。インターチェンジに乗るまで鳴りっぱなしで椿がおびえていたので、向日葵と大樹が二人がかりで「ちゃっきょ! ちゃっきょ!」と手を叩きながらはやし立てて設定させたのである。ついでにLINEもブロックさせた。


佐和子さわこさ――ばあやにだけは何か……」

「あっそれいいね。それはやっとこ」

「いややめる。正直あの人もどこまで信用していいのかわからへん。何でも母さんの言いなりやったしな。自分が産んだ子供に家督をと思ってたら僕は邪魔やしなあ」


 向日葵は悲しくなった。あの女性は心底椿を心配していると思うが、椿が信頼できないというのなら仕方がない。こういうのは信頼してもらえなかった人間の負けだ。信頼してもらうにも真心と誠実な姿勢とちょっとしたテクニックが必要で、他人に振り回されて態度を変える人間はいざという時あてにされない。


 椿は本当に孤独だったのだ。家の中に誰ひとり心から信頼できる人間がおらず、友達とも連絡を取っていない。大学の友人たちもみんな音信不通だと言っていたし、いつだったか椿本人から中学高校の友人たちも全員京都のいいところのお坊ちゃんでママ友ネットワークでつながっているから付き合いを続けたくないと聞いた。

 彼にとっては唯一向日葵だけが希望の光だったのだ。

 裏表がなくいつも能天気にしていて誰にでも無差別に親切にすることを心掛けている向日葵だ。数時間前兄が言っていたとおり「この世で俺に優しいのはひまちゃんだけ」なのである。向日葵だったら向日葵に執着したくなる。


「えっ、なに? ばあや? なになに?」

「あかん……一般家庭にはそういう人いいひんのやと悟って言わんようにしてたのに……僕の生い立ちが変なのバレるやん……」

「変なのの自覚はあったんだ」

「何時代? はいからさんが通る?」


 泣き腫らした目で味噌煮込みうどんのどんぶりを引き寄せる。やっと食べる気になってくれたようだ。


「すみません、取り乱して」

「いくらでもどうぞ」


「うわっ何やこれめっちゃ味濃いやん、ほんまにこれ胃に優しいの?」

「ごめんね、家で料理するんなら素うどん出してあげられるんだけど、急ぎだったから……」


 うどんをすする。口の中のものを飲み込んでから溜息をつく。


「どないしよ、迎えが来て連れ戻されたら。母さんのことやし着信拒否されただけでは諦めなさそう」


 間髪入れず向日葵が「わたし戦う!」と言うと、椿が「ふふ」と笑った。嬉しかったに違いない。椿が嬉しいなら向日葵も嬉しい。

 向日葵に続いて、父も「俺も!」と言い、母が「母さんも!」と宣言した。


「そしたら池谷家一同にも迷惑かかるな、それはそれでおもろいけど」

「性格がゆがんでる」

「すみませんね、これは生まれつきなんですわ」


 そしてぽつりと「温かい」と呟く。うどんが、だろう。温かいもので体を温めてくれたらいい。

 安心してくれたらいい。池谷家一同は椿が素でしゃべっていても文句を言わない。誰も拒まないのだ。先週の雨の日のようにかしこまった態度を取らなくてもいい。


「うち来る気なったら?」


 祖母が尋ねると、椿は頷いた。


「お世話になります」










  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る