太平洋は今日も晴れ ~陽の光がさんさんと降り注ぐ静岡へようこそ~
日崎アユム/丹羽夏子
第1話 秋雨前線と温帯低気圧がぶつかったある雨の日
向日葵の住まいのある沼津市西部から沼津市の中心部にある沼津駅に行くには、ルートがみっつある。北から
そう判断して千本街道を走り始めたのに、今日に限って足止めを食っている。歯噛みしながらハンドルを叩く。しかし悪いのは信号ではない。それに止まっていたのはおそらく一分にも満たない時間だっただろう。いつになく焦っている自分の心持ちの問題だ。アクセルを踏みながら深呼吸する。それにしても信号無視をしなかった自分は偉い。自分をおだてて機嫌を取ろう。すべて終わったら冷蔵庫の冷凍室に保管しているハーゲンダッツを食べるのだ。向日葵は自分で自分を褒めるのが得意だ。
先ほどかかってきた電話の内容が脳内で何度もリピート再生される。
――ひいさん、今何したはる?
それはいつだったか大学の構内で聞いたのと同じ落ち着いた声だった。気楽な感じで、何でもない風を装って授業が終わったら合流してもいいかと尋ねてくるいつものあれと一緒だ。
今日はひどい大雨だ。秋雨前線と温帯低気圧がぶつかって空の調子が悪い。向日葵も何となくやる気が出ず、平日の昼間だというのに自宅の自室で転がっていた。
慌てて起き上がり、誰が見ているわけでもないのにカーペットの上で正座をした。
――自分っち部屋でごろごろしてるけど、何かあった?
――ヒマなら駅まで迎えに来てほしいんやけど。
――は? 駅? あんた今どこにいんの。
――沼津駅の南口。
「あーっもう!」
一人なのをいいことに大きな声を出した。
また赤信号に捕まった。ハンドルを握ったまま頭を前後に振る。
もうわけがわからない。
なぜ
やっと信号が動いた。視界の端に千本松原が見えるカーブを曲がった。
椿は大学を卒業するまで、すなわち半年前まで交際していた向日葵の元カレだ。大学の同期で、同じ授業を取ったことがきっかけで交流するようになった人だった。
向日葵は静岡県沼津市に生まれて十八歳までを同地で過ごした。
進学先に京都市の私立大学を選んだのはほぼほぼ気まぐれだ。たまたま高校の進路指導室に願書が置かれていたので記念受験をした。そして、合格した中で一番偏差値の高い大学を選んだところ、そこだった。就職はUターンで地元に戻ると決めていたので、社会勉強としてよそに移り住んで四年間だけ一人暮らしをするつもりだった。予定どおりきっかり四年を京都で過ごして、半年前に沼津に戻る。今は実家で父、母、祖母と四人で暮らしている。
一方椿は公家の家系の御曹司で、九百年の伝統を受け継ぐ身分にある。生きた歴史であり、歩く京都文化だ。聞けば京都大学を受験して落ちたので滑り止めで受けた私大で一番偏差値の高いところを選んだ結果あの大学に進学することになったという。
二人はたまたまとたまたまが合流したところにいて、神様仏様のお導きでなかったら一生縁のない相手であった。
それがどうしてか気に入られて、これまたどうしてか半同棲生活を送るようになった。しかし卒業したら進路が分かれてしまったので、半年前に京都駅のサンダーバードが見える改札口で別れを告げた。
別れを切り出したのは椿のほうだった。彼は絶対に実家を継がなければならないらしい。しかも親が決めたいいなずけがいるという。令和にもなってびっくりだ。
対する向日葵は絶対に実家を継がなければならないわけではなかった。ただ、よそに勤めたり嫁いだりする予定がないのなら戻ってきて家を手伝ってくれないか、と言われていた。それを椿のほうが深刻に捉えていて、なんとか向日葵を実家に帰そうとした。それがお互いの進路に適って双方の家にプラスなのだと、彼は言った。
付き合ってほしいと言ってきたのも一緒に暮らしたいと言ってきたのも椿のほうだった。向日葵も、共通の友達である大学の同期たちも、向日葵より椿のほうが相手に執着しているのはわかっていた。けれど彼は向日葵を冷たく突き放し、LINEを既読スルーするようになり、同じ授業を取った友人たちとのグループLINEを無言で抜けた。向日葵は別れても友達でいてほしいと言ったが、彼は事実上音信不通になったのだ。
向日葵はうすうす察していた。
椿は異常にプライドの高い男だ。きっとそうしてむりやり向日葵を絶たないと自我が保てないと判断したのだろう。今頃寂しがっているに違いないが、彼は性格的にそれが言えない。彼の価値観では、みっともないところを見られるくらいなら孤独に耐えたほうがマシなのだ。
向日葵は寂しい時には素直に寂しいと言えるタイプで、椿本人から返事がなくても、それならそれで愚痴を言える友達がたくさんいる。地元の友人と飲んだくれたり新しい男を斡旋されたり何なりして過ごしているうちに時が経ち、最近なんとか気持ちの整理がついてきたところだ。そもそも向日葵は常に恋人を必要とする気質ではない。またご縁があれば誰かと交際することもあるだろう。そんなふうに気楽に構えていた。
そこに椿の今回の奇行である。
いきなり自宅に訪ねてこられるよりいくばくかマシか、と思ったがたぶん単に住所を知らないだけだ。大雑把に乗り換え検索をして沼津駅まで来たのだろう。よくもそんな大胆なことを思いついたものだ。
おかしい。何事にも慎重な彼だ、普通ならこんなことはしでかさない。
突然ふらっと京都を離れてしまうくらい思い詰めることがあったのか。
心配だ。
ようやく沼津駅までついた。
雨の日だからか送迎の車が多い。平日昼間なのにロータリーには車が並んでいる。向日葵の愛車は最後尾につけた。
停車してスマホを取り出す。椿にLINEを送る。
『今ロータリーについたところ。車で待ってるからロータリーまで来てくれる?』
車種とカラー、ナンバーを添える。ちなみに国産の軽自動車でどこから見てもわかるイエローだ。向日葵は自分の名前が大好きで、選べるのなら黄色やそれに近い色を使うようにしていた。
すぐに既読がついた。
顔を上げた。
ぎょっとした。
駅から渋い茶色の着流し姿の若い男が出てきた。手ぶらでずぶ濡れだ。
すれ違った女性が彼を呆然と眺めている。当然だ、沼津ではそもそも着物の男性を目にすることすらめったにないのに、その着物を雨で濡らしているとなると尋常のことではない。
夏が終わったばかりだというのに雪のごとく白い肌、切れ長の目元にすっと通った鼻筋、芸能人のように美しい青年だ。雨に濡れた肌、遠くを見つめるぼんやりとした目、変な色気がある。
短くクラクションを鳴らすと、彼がこちらを向いた。
椿だ。
彼はそれでも焦るところを見せるのを良しとしないので、降られながらもゆっくり歩み寄ってきた。そしておっとりとした笑顔を浮かべて助手席の窓をノックした。
しかしここは微笑み返すところではない。
向日葵は内側から助手席のドアを開け、真剣な目と声ですぐに「乗って」と告げた。
椿が乗り込んでくる。
「来てもうた」
「何やってんだ」
「あかんかった?」
「いやわたしゃお気楽な身分なもんで別にいいんだけどさ」
半年前と同じように、彼のはんなりした京都弁と向日葵の雑な静岡弁が交差する。
「今日の宿は?」
「取ってへん」
「着替えは?」
「ない」
「傘は?」
「何か怒ったはる?」
「怒ってはないけどイライラしてる」
「なんでや」
「なんでだかわかんない?」
少し間が開いた。
「ごめん」
椿がぽつりと呟いた。
「まあいいわ。とりあえず着替えよう、そんな濡れてたら風邪ひくわ」
「着替えって、どこで?」
「うち行く。お兄ちゃんの服着な」
「そうやった、お兄さんがいたはるんやったな」
「同居はしてないんだけどね、会社の寮にいるもんで。っても近くだから会いたかったら呼び出せるけど」
「ええわ、気まずいわ。嫌やろ妹の元カレとか」
「いやー別にわたしの頭飛び越して友達になってくれてもいいけど、妹のわたしが言うのもなんだけどいいやつだからさ」
あんた友達いないから、とはさすがに言えなかった。
「今家にはお父さんとお母さんとおばあちゃんがいるけど――」
「勢揃いやん」
「自営業だから外での仕事が終わったら家族集合しちゃうんだよね。でもまあ気にしないで」
「あかん、ちゃんとご挨拶せな。でも僕何のお土産も持ってきいひんかった」
この状態で何か持ってきていたらびっくりだ。
自慢ではないが向日葵の家族はみんな生来人懐こい性格で、よっぽどのことがない限り他人が家に上がるのを拒まない。それに、両親も祖母もこんな椿を見たら何か異常事態が起こっていることを察するだろう。椿が気を遣う必要はなかった。それでも形式ばったことをしたい椿は可哀想な奴だ。早く抱き締めて慰めてやりたい。だが、向日葵には車の運転という大役がある。
「迷惑やったよね」
「まあいいさ、とりあえず行こっか」
向日葵は慎重にアクセルを踏みながらハンドルを切った。
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