第3話 お父さん娘さんをくださいってやつじゃないの?

 それからしばらくして、向日葵たちが居間で夕飯の支度を始めた頃、なぜかこのタイミングで外出していた父が帰ってきた。


「たっだいまー!」


 玄関で叫び、どたどたと足音を立ててこちらに向かってくる。そして勢いよく居間のふすまを開ける。顔を見せたのは、向日葵そっくりの大きな目に厚い唇、兄と同じがっしりとした体格に強そうな黒髪の、真っ黒に日焼けした大男だ。上機嫌らしくにこにこしており、頬は興奮のためにわずかに紅潮している。


「お父さんが帰ってきたぞ!」


 母が「やだ、飲んでる?」と顔をしかめる。父は異様に高いテンションのまま「人聞きの悪いことを、飲酒運転はしませんよ」と答える。確かにアルコールの臭いはしないがこれは酔っているノリだ。もともと陽気な人だが今は輪をかけて明るい。


「はいはいはい! 集合集合! みんな座って座って!」


 言いながら彼は手にぶら下げていた紙袋を座卓の上に置いた。


「ちょっといいお酒買ってきちゃった」


 一同はしぶしぶ食事の支度を中断して、居間の真ん中に寄ってきて思い思いに座った。


 父は正座している椿の正面に腰を下ろしてあぐらをかいた。


「お前さんが椿くんか」


 椿は畳に手をついて深々と頭を下げた。


「九条椿と申します。向日葵さんにはたいへんお世話になっておりました」

「うむ、苦しゅうない。顔を上げい」


 椿が顔を上げる。父がぶしつけにしげしげと椿を眺める。


「いや、聞いてたのとなんか印象違う。薄幸の美少年って感じじゃん」


 確かに椿は少し童顔気味かもしれない。しかも今は兄のぶかぶかのTシャツとジャージのせいで余計に華奢に見える。Tシャツから出る腕やジャージから出る脛の毛は薄くつるつるのようなものだ。おまけに長い前髪を留めるために向日葵は彼の額に自分の髪留めをつけさせていた。

 椿は一瞬小声で「少年……」と嫌そうな反応をしたがこういう時に取り繕うのはうまい。にっこり微笑んで「子供っぽくてすみません、二十二です」と言った。


「ひまと同い年なんだっけ」

「はい、早生まれなんで半年遅いんですけど、同学年です」

「じゃ、お酒飲めるな」


 向日葵は慌てて「ちょっとお父さん!」と言いながら椿と父の間に入った。


「そういう強引なのやめてよ! 椿くんそういうの好きじゃないんだよ」


 父が不満そうに「ええ」と声を上げる。


「むりやり飲ますのやめて」

「お酒飲めないの?」

「アルハラだよ」

「お酒弱い?」


 椿のほうが慌てた雰囲気で「少しならいただきます」と言ってきたが、向日葵は京都学のメンバーとの飲み会で酔い潰れた椿を介抱してきた上に父が何を言い出すかわからないことを考慮して「やめてって言ってるでしょ!」と少々大きな声を出した。


「わかったわかった。じゃあちょっとだけな。ちょっとだけにするから」

「んもう、マジ、もーっ」


 しかし反対しているのは向日葵だけのようだ。母が「ちょっと待っててね、グラス取ってくるから」と言って席を立った。ややして五人分の氷入りグラスを持ってくる。これでは家族全員分ではないか。あたかも向日葵も飲むかのようである――と言っても向日葵もお酒は好きなほうなので父が言っているちょっといいお酒というのが気になった。


 父が紙袋から一升瓶を取り出す。沼津の地酒、白隠正宗はくいんまさむねである。三千円くらいのやつだ。デイリーには少々お高い、宴会向けのお酒だ。


 彼は瓶のふたを開けると、椿の前に置かれたグラスに半分くらい注いだ。それから手酌で自分のグラスに注ごうとした。こういう時の作法も心得た椿がすぐに手を出して「僕が注ぎます」と言う。父は微笑んで「悪いね」と言いながら椿に瓶を回した。結局椿はせっせと家族全員分のグラスに白隠正宗を注いだ。


 準備ができると、父が「乾杯」と言ってグラスを掲げた。母や祖母が「乾杯!」と言いながら父のグラスにグラスをぶつけた。向日葵もしぶしぶ乾杯した。椿も本音を言えばきっと嫌だろうに笑顔で付き合った。


 父が豪快に一気飲みする脇で、椿がちびちびと口をつける。それをひやひやしながら見守りつつ向日葵もいただく。


 一杯分飲み干した父が、座卓にグラスを置くと、大きな声で言った。


「いやー、大樹だいきより先にひまを嫁に出すなんてな!」


 椿がむせた。母が「あーあ、あーあーあ!」と言いながらティッシュをボックスで持ってきた。ここで言う大樹とは向日葵の兄であり両親からすると長男に当たる人物だ。


「いや……っ、そういうわけやなくてですね……っ」

「えっ、違うの?」


 父がきょとんとする。


「あれじゃないの、お父さん娘さんをくださいってやつ」


 案の定話が斜め上に進んでいた。向日葵は大きな溜息をついた。


「勝手に話進めんのやめてよ。元カレって言ってんじゃん、今カレじゃないんだわ」

「今カレいないじゃん。この半年遠距離恋愛してたんじゃねぇの?」


 椿が「今カレいないんや……」と呟いた。ちょっと安心したふうなのが気に食わない。どういう意味だ。家族がいなかったら問い詰めているところである。


「ええー、お父さん喜んじゃった。ぬか喜びじゃん。がっかりだわ」

「ごめんねえ、ご希望に添えず」

「じゃあ何しに来たの?」


 空気が凍りついた。父にはこういうところがある。彼も空気が読めないわけではないのだが、何でも言ってしまう男というキャラで通しており、誰にも言えないことをあえて口にするのだ。まして彼は椿がこの家に辿り着いた時の様子を直で見ていない。母と祖母は椿のあの誰にも口を挟ませない異様な雰囲気を知っているが、父は知らないのだ。


 しばらくの間、居間が気まずい空気に包まれた。


「……すみません」


 椿が重い口を開いた。


「向日葵さんの顔が見たくなって……気づいたら新幹線乗ってました……」


 祖母が少女のようにときめいた顔で「あらいやだ」と呟いた。父が「ほら見ろ」と言いながら手酌で自分のグラスに酒を注ぐ。


「いいのいいの若者はそんなんで。さらっていきなさい。結婚は衝動よ」

「親御さんにご挨拶しておいてさらうも何もないと思うんですけど……」


 椿がうつむく。


「でも、向日葵さんはこの家を継ぐんやないんですか。畑とか、お茶の工場とか……、お兄さんが出ていかはったと聞いて」


「それはぜんぜん気にしなくていいのよ。それに大樹は喧嘩別れして家出したわけじゃにゃあだよ、大きい企業で研究職に就きたいって言うから勤め人になれってって送り出したさ。子供なんてゴールデンウィークに茶摘みに戻ってくれば十分」

「それやったらこの家どないしはるんですか」

「知らん。親戚の子にやるのが現実的だと思うけど、最悪たたんでもいいわ」


 父がにっと笑って「そんなん気にしてんだったら遠慮はいらねえぞ」と言う。向日葵からしたら長年言い聞かされてきたことだったが、九百年の伝統を受け継ぐ椿にとってはちょっとしたカルチャーショックだろう。


「ほら。ほらほら」


 しかし、椿はグラスを座卓の上に置いた。

 そして、父に向かって土下座した。

 向日葵は驚愕した。椿が挨拶以上の意味をもってひとに頭を下げたところなど見たことがなかった。


「すみません」


 父も含めて、家族みんなが沈黙する。


「申し訳ないです……! 僕ほんま何してんのやろ」


 その声は珍しく切羽詰まっていて真剣だ。


「僕は別の女性と結婚せなあかんのです。家の決めた相手やけど、京都の古いおうちのお嬢さんで、お互い家のことをよう知ってる相手やから、家のことを考えたらこれが一番なんです」

「あら……そう……」

「なのに今でもまだずるずるひいさんのこと引きずって踏ん切りがつかへんのですわ。ぜんぜん気持ちの整理がつかなくて」


 震える声で「急がなあかんのに」と付け足す。


「父が亡くなりましてん」

「えっ、いつ? お香典包んだほうがいい?」

「もう四十九日も終わったしええんですけど、周りがはよ家を継がなとせっつくんです。とにかくはよう結婚して跡取りを作ってほしいとみんなが望んでましてん」


 本人からそれとなく事情を聞いていたつもりだったが、想像以上にがんじがらめになっている。

 あの、椿に関わるなというようなことを遠回しに言って微笑んだ椿の母を思い出す。

 怖い。

 そんな中に椿を置いておきたくない。


 祖母が「令和だよ」と呟いた。


「そんなん私が若かった頃でももうなかったさ。ばあちゃんの母さんくらいの時代の話さね」


 椿が頭を下げたまま首を横に振る。


「いつの時代もなんも変わらへん。それが九条家の長男ということです」


 静まり返ってしまった。誰かのグラスの氷が溶ける、からん、という音だけが響いた。


「……駆け落ちでもする? いや、うちとしては別に普通にここで暮らしてもいいんだけど」


 父が言うと、椿は「あかん」と即答した。


「明日帰ったら家の決めた女性と結婚しますから。そやからもうこれで終わりなんです」


「そんなん私が若かった頃でももうなかったさ。ばあちゃんの母さんくらいの時代の話さね」


 椿が頭を下げたまま首を横に振る。


「いつの時代もなんも変わらへん。それが九条家の長男ということです」


 静まり返ってしまった。誰かのグラスの氷が溶ける、からん、という音だけが響いた。


「……駆け落ちでもする? いや、うちとしては別に普通にここで暮らしてもいいんだけど」


 父が言うと、椿は「あかん」と即答した。


「明日帰ったら家の決めた女性と結婚しますから。そやからもうこれで終わりなんです」







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