VHSにまつわるお祖父ちゃんの家での思い出

登美川ステファニイ

VHSにまつわるお祖父ちゃんの家での思い出

※これはなんかのソシャゲでVHSを知ってるか知らないかが話題になってることに触発されて書いたものです。


 VHS! そう、VHSなんです! スマホのゲームに、もはや過去の遺物として出てきましたね!

 私はこのゲームをやっていません。それに現役女子高生ですのでVHSも知らない世代です。小中高と録画に使ってはいましたが、今となっては遠い過去のことです。

 ですから、VHSと聞いてもピンときませんでした。保存ボタンにフロッピーが使われているのと同じように、早戻しではなく巻き戻しと言ってしまうように、更新されていない過去がまだ私の中にもありますが、私はVHSを知らない世代なのです。

 おぼろげに知っているのは、どうやら黒い箱状のもの、ということだけです。何か……そう、部品の一部にテープか布が使われていると聞いた気もしますが、知っているのはそんな程度です。

 でもそういえば、子供の頃に似たものを見た記憶があります。あのとき見た黒い箱……そういえばあれがVHSだったのかもしれません。三十年以上昔のことを思い出すのは現役女子高生の身体機能を駆使しても容易なことではありませんが、見様見真似のヨガの呼吸を駆使しながら深い記憶の底へと探索に向かいました。


 それは黒い箱でした。恐らく木で出来ていて、塗料で真っ黒に塗られている箱。大きさは1リットルのペットボトルくらいだったと思います。上面と下面は正方形で、縦に長い箱。 何より印象的なのは、表面に布が巻いてあったことです。黄色く変色しぼろぼろになった細い布が、箱の真ん中あたりをぐるぐると縛るように巻いてあったのです。布には赤い字が書いてあったようですが、滲んでいたし、巻かれて重なっていてほとんど分かりませんでした。文字ではなく模様だったかもしれません。赤い何かが書いてある……といった程度です。もっとも、当時の私は5歳位だったので、文字を見ても理解できなかっただけかもしれませんが。

 そんな箱が祖父母の家にあったのです。といっても、それはいつでも見ることができるわけではありませんでした。見たのは……結局一度だけです。それは特別なものだったのです。それが何だったのかは今も分かりませんが、普通のものではありませんでした。

 祖父母の家は木造の平屋で、戦前に建てられた古い家でした。お盆に両親と一緒に訪ね、2日ほどを過ごす。それが毎年恒例の行事でした。もっとも、周囲にはお店も遊ぶようなところもなく、私は絵本を読んだり庭で蟻を眺めたりして退屈に過ごしていたことを覚えています。今は誰も住んでおらず、年に数度、掃除をしに行くだけです。誰も住まなくなった家は、急に朽ちていくのだと感じます。

 その家には変な所がありました。家の一番奥に行くと廊下があって、閂のかけられた木の扉があり、その先の廊下が別の建物につながっているのです。渡り廊下のようなのですが、つながっている小屋には窓も何もなく、この廊下からしか行くことは出来ません。

 小屋の周りには杭が打ってあり、鎖が渡してありました。そこにも近づくなと言われていましたが、こっそり近づいたこともあります。とは言え小屋に入口があるわけでもなく、古びた小屋の周りを何度かぐるぐるするだけです。渡り廊下の部分は通り抜け出来る戸はついておらず、通路の下の部分も石垣のようになっており隙間はありませんでした。

 だから私は、小屋の正面の左側から後ろに回って反対側、小屋の右側に行き、そしてまた小屋の後ろを通って左側に戻る。その動きを何度も繰り返していました。小屋を囲っている鎖をちゃりちゃりと揺らしながら、何度も、特に楽しいわけでもなかっただろうに、そんな風にして時間を潰していたのです。近くにイオンでもあれば、こんなことをすることもなかったのでしょう。

 ここに近づいてはいけないよ。小屋にも、渡り廊下にも。歯が抜けてフガフガしていたおじいちゃんにそう言われたことを覚えていましたが、私はどうしてか、この小屋の周りをぐるぐると繰り返し走っていました。その時点で何かがおかしかったのかもしれません。でももう、どうしようもないことでした。


その時の記憶ははっきりしていません。多分夕方で、私は一人で遊ぶのにも飽きて、家の中にいました。ぼうっとしながら、閂のかかった木の扉を見ていたんです。扉は枠の内側に桟木があって、通れないけど向こうが見えるようになっていました。

 扉の向こうには廊下が5mほど続いていて、明かりはないから暗かったです。ぼんやりと突き当りの壁が見えて、そこにも何かが書いてあったように思います。それも文字か、模様か、はっきりとは分かりません。

 何も面白いものはないのに、私はその扉の前に座って、多分一時間くらい待ち続けていたんです。何を待っていたのか……考えたくはありませんが、きっと、その時すでに、私は呼ばれていたのでしょう。

「おい! 何やってる!」

 お祖父ちゃんの声がして、私は目が覚めたようにハッとしました。

「出てくるな! 戻れ!」

 私は振り返ってお祖父ちゃんを見ました。ごめんなさい。咄嗟にそう謝ろうとしたのですが、おじいちゃんは私を見ていませんでした。私の向こう、私の後ろの、扉の方を見ていたのです。

 一体、何を見ているのだろう。

「あっ、見ちゃだめだ!」

 私は振り返り、そして見てしまったのです。

 青白い男が扉の向こうに立っていました。トカゲやサンショウウオのような、ぬるっとした体。服は来ていなかったように思います。背は、多分低かったはずです。当時五歳だった私と目線が同じくらい。でも目は合いませんでした。顔がない……顔があるのに、顔がわからない。見ているのに分からない。そんな奇妙な感覚でした。男は……いえ、人間かどうかさえ分かりませんが、ただじっと扉の向こうに立っていたのです。

 私は音を聞いていました。チリチリ、チャリチャリ。鈴のような、金属が触れ合う音。ひょっとすると、その男の声だったのかもしれません。

「あーっ! 駄目だ駄目だ! 帰れ! 戻れ!」

 お祖父ちゃんが私を押しのけて扉の前に行き、お経を唱え始めました。鈴のような音とお経が混ざり合い、私の意識はそこで途切れました。


 両親と祖父母が大きな声で喧嘩しているのが聞こえました。私はずうっとぼんやりして、布団で寝ていたり、座っていたり、赤ちゃんのようにご飯を食べさせてもらっていました。なぜだか動けなくて、鈴のような音がどこからか聞こえていたような気がします。それでも気がつくと、這ってあの扉の方へ向かってしまうのです。確か大黒柱とベルトで繋がれていた気がします。私の周りに、畳に直接木の棒が打ち込まれていて、小屋と同じように鎖が渡してありました。私はずっと鈴のような音を聞いていました。

 そのまま何日か過ごしたような気がします。大人たちが怒っていて、泣いていたり、知らない人が来て私を見たり、奥の小屋に行こうとして何かが起きていました。そのすべてをぼんやりと見ながら、私は段々と頭の中の鈴の音が大きくなっているのを感じていました。空腹も眠気もあまり感じませんでしたが、ただその鈴の音が耐え難くなり、私は泣いていました。

 もうだめだ。

 お祖父ちゃんが言ったのか、別の人だったのか。その言葉をよく覚えています。そして子供ながらに、もうだめなんだと思いました。それでも怖くも悲しくもなく、ただ鈴の音がうるさくてうるさくて仕方ありませんでした。


 夜でした。家の電気は消えていて、雨戸も閉めてあって真っ暗でした。戸の僅かな隙間から月明かりが差し込んでいましたが、自分の手も見えないくらいでした。

「いいか、もうこうするしかないんだ。ごめんな。でも、喋りさえしなければまだ大丈夫だから。お祖父ちゃんと一緒に行こう」

 私は返事もできませんでした。頭の中で鳴り響いていた鈴の音は静かになっていました。でも頭の中というより、どこか近いところから聞こえているようでした。チリチリ、チャリチャリ。

 お祖父ちゃんが私の口に何かを貼りました。それで鈴のような音が止まり、音は私の口から出ていたのだと分かりました。私はとても楽しくて腹立たしくて手足をバタバタしました。だってもうすぐなんですから。外は明るくて道が見えているんです。

「ああーっ駄目だ駄目だ! まだ待ってくれ! すぐだから!」

 お祖父ちゃんが私を抱きしめてお経を唱えます。私の楽しい気分が消えていって、なんだかわからなくなりました。また暗くなって、バタバタする気にもなりません。

「さあ、行こう。ついておいで」

 お祖父ちゃんに手を引かれて私は歩いていきました。ガチャガチャと何かを外す音がして、私はその奥に歩いていきました。あの閂のかかった扉を通ったようでした。さっきまでも暗いと感じましたが、ここは差し込んでくる光も一切なくて、本当の真っ暗闇でした。目を開けているのに、何の形も輪郭もなくて、前も後ろも分かりません。ただ手をつないでいるお祖父ちゃんの手と、床に触れる自分の足の裏の感触だけがありました。

 私は体の中からザワザワとしたものがいくつもいくつもずっと動いて本当に気持ちが悪くて気持ちが良くて鼻から何か血か違う私だった私がなにか鼻から流れた気がしましたがそのまま歩き続けました。口をふさがれていたのでお祖父ちゃんに言うことも出来ず、手を引こうにも、もし手が離れたらと思うと何も出来なかったのです。何人もの私が、私くらいの子供がお祖父ちゃんの後ろ、私の周りに何人もいて、同じように歩いていました。真っ暗でしたが、それが分かりました。私だけではなかったのです。

 前を歩いているお祖父ちゃんが止まり、ゆっくりと座ったようでした。手を下に引かれ、私はそれに従って床に座りました。そこは畳や床ではなく土のようでした。鼻が詰まっていたので匂いは分かりませんでしたが、肌で感じる雰囲気は、なんだか異様なものでした。ひんやりとして、じっとりとした湿気がぞわぞわと体中に染み込んでくるようです。そう言えば私は裸にされていたのですが、そのせいか余計に全身の肌に嫌なものを感じました。お祖父ちゃんも裸だったかもしれません。もうどうでもいいことです。聞くことは出来ません。お祖父ちゃんも、私も。

 お祖父ちゃんの手が離れ、私はたまらなく不安になりました。思わず手をのばすと、そこにはお祖父ちゃんの体とぬくもりがありました。震えているようでした。肌が濡れていて、荒い呼吸が伝わってきました。

 お祖父ちゃんがマッチを擦ってろうそくを灯しました。小さな光でしたが真っ暗闇に慣れた目には十分な明るさでした。でもすごく嫌な気分になって、私はお祖父ちゃんの背中に爪を立てました。流れ出る血はとても温かくて、なんだか違う気がしました。この場所は冷たい場所なので、みんな冷たくなければいけないんです。お祖父ちゃんはまだわかっていなかったんです

 お祖父ちゃんの背中越しに、小屋の真ん中に穴が空いているのが分かりました。大きい。5mくらいだったと思います。壁から1mくらいのところまで穴が広がっていて、ちょっと背すじを伸ばして覗き込んだけれど、どこまで深いかは分かりませんでした。

 そして穴の上には箱が吊ってありました。そう、あの箱です。多分VHS。黒くて四角い箱です。それが小屋の四隅から伸びる細い紐にくくられて、上からではなく、横方向から引っ張り合うようにして吊るされているようでした。一体いつから、こんな風になっていたのでしょうか。それは今でも分かりません。

 お祖父ちゃんがお経を唱え始めました。ろうそくに照らされて、震えながら温かいお祖父ちゃんがお経を唱えるんです。本当にもうおかしくておかしくて。私は穴の中からバタバタしたくなるのを我慢しながら見ていました。口からは音が出ます。もうすぐ新しくなるのですから、本当にうれしいんです。じゃあ今の私は? どこに行くのか分かりませんが、古いより新しいほうがいいに決まっていました。

 お祖父ちゃんのお経が続いて、私も震えながら座っていました。でも鈴のような音が穴の中から聞こえて、どんどん大きくなって、頭の中でガンガン鳴り響きます。お祖父ちゃんの背中に指が食い込んでいました。ごめんね、お祖父ちゃん。もうすぐ冷たくなるんだよ。

 ぞおっと穴の下から青白い、あの変な男が出てきて、あっという間にお祖父ちゃんを食べてしまいました。お経がやんで、ろうそくも消えました。手についた血はすぐに冷たくなりました。私はそこからのことを覚えてはいません。


 箱は今、机の上にあります。これは机なのでしょうか。床かもしれません。天井かもしれません。でも外にはまだ出られないので、屋根ではないと思います。たくさんの言葉を覚えていましたが、まだ子供なのでまだわからないことが多かったです。

 あの箱を吊っていた紐は千切れて、箱は動かせるようになりました。でも残った紐がまだ箱を縛っていて、箱を開けることはできません。まだ出来ませんが、しばらくすれば開けることができそうです。

 もうあの小屋はありません。渡り廊下も腐ってしまって、扉も、あの何度も出ようとした扉も、今ではただの壊れた扉になってしまいました。

 この家もやがて壊れるでしょう。時々お母さんとお父さんがやってきますが、随分年をとっていてお婆ちゃんとお祖父ちゃんみたいです。もうすぐ冷たくしてあげるね。そんなことを考えるとバタバタしたくなります。

 でも家が壊れると寂しいから、お祖父ちゃんも困っちゃうから、私は静かに音を出します。チリチリ、チャリチャリ。

 ぐるぐる回っていたのが行けなかったんです。周回のし過ぎはいけません。

 これがVHSにまつわる私の思い出です。もうすぐあなたにも聞かせてあげられます。たくさん周ってください。同じことを何度も何度もするのは楽しいですからね。

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