透ける飴色
「文学的に言うならば、心中したいだとか月が綺麗だとか、そういう類のものなのは確か」
春、乙女の頬のような色の花びらが、彼の周りを舞っていた。光に透かせば溶けてしまいそうな、淡い髪色の少年が瞼に乗ったそれを鬱陶しそうに摘み、しかしただ手放すのは呆気なすぎると感じたのか、手のひらに乗せた後ふぅっと息を吹きかけ、また群れの中に帰した。まるで、聖書に従って生命を吹き込む魔法使いのように。
春、あらゆるところで陽気な空気が漂っているというのに、取り残されたような、はたまた一足先を歩いているような、寂しげにも涼しげにも見える彼がただ、立っていた。
初々しい、中学を卒業したばかりの新入生が鈴なりに並ぶ体育館。年老いた、やけに偉そうな扉の外では桜が舞い散っている。大概の生徒が少し大きめの制服に着心地の悪そうな顔をしながらも、気を引き締めた様子できちんと座っている。だから、どう見ても彼は浮いていた。1人だけ、明らかに異質であったのだ。
「赤沢、お前挨拶考えた?」
「……当然」
「げ、流石真面目ちゃんだな」
「……柊先生ね、仮にも教師なんですから、言葉遣いどうにかなりません?」
「あ?いいだろ、別に。生徒の前でもないし」
「生徒の前でだってその口調ですよね」
「はいはい。つか入学式って俺らいる意味あんのかね。なぁ、お前もそう思うだろ?」
「ちょっと、やめてください。聞こえますよ」
「誰に?校長?あいつ今ステージだし聞こえねぇよ」
「……はぁ。そういう問題じゃないし、教師がそれじゃ、生徒に示しがつきませんよ。ちゃんとしてください」
「ちゃんとって、なに」
「…………」
「おい無視すんなよ、お前が面倒臭いからって単元一個すっ飛ばしたの黙ってやってんだろ」
「……何の話です」
「え、言っていいの?」
「いいと思います?」
「お前が聞いたんじゃん」
「あのですね、柊先生。それで俺の弱味でも握ったつもりですか?あんたなんかもっと適当してるでしょ、知ってるんですよ。お互い、教師の大変さは理解してますよね?暗黙の了解ですよ」
「暗黙じゃなくなったけど」
「……ハァ。また1年、あんたの顔見なきゃいけないと思うと気が滅入りそう」
「俺も。お前、口うるさいくせに暗いし鬱陶しいんだよな」
「……喧嘩売ってます?」
「まさか。治安悪いこと言うのやめてくれます」
「先に始めたのあんたでしょ」
「俺は赤沢先生と世間話したかっただけ、ですし」
「なら、いちいち煽ってくるの迷惑なんでやめてください」
「はいはい。ま、あいつの話無駄に長いし暇つぶしにはなったわ」
「……向いてないですよ、本当」
「何が」
「この仕事」
「何でだよ?」
「ご自分の胸に手でも当てて見たらどうです?」
「お前、あれだろ。教師は生徒の見本であるべき、とか思っちゃってるタイプ」
「思っちゃってるとかじゃなくて、事実そうなんですが」
「あー、違う違う。それは全然事実なんかじゃない。考えてみろ。お前今まで、『先生みたいになりたい』なんて言われたことあるか?」
「10代半ばの、思春期の子どもなんだからそんなこと面と向かって言わないでしょう」
「つまりないってことだろ。お前みたいな教師になりたいなんて奴、この世に存在しないんだよ。仮に将来お前みたいになるとしても、だ。ガキの頃は夢にも思ってない」
「俺が、偏屈でつまらない大人だと?」
「ちょっと違うな。生徒の見本ってのは、所詮教師が作り上げた理想像だってこと。だから、いくらお前が生徒の見本の教師を演じようと、鼻くそほどの意味しかないんだよ」
「それで、あんたは何なんです?自分は他の教師とは違う、異質な存在だと?自分こそが生徒に寄り添える、ダークヒーロー的なこと思っちゃってるわけですか?」
「ダークヒーロー?何だよそれ」
「何ってそのままですが」
「そのままが分かんねぇからきいてんだよこっちは。ま、論より証拠って言うしな、見てろ」
柊が見てろ、と意味ありげに顎をしゃくった先には、長ったらしい校長の話が続く中、堂々と席を立つ少年の姿があった。色素の薄い、というより抜けた、飴色に近い髪色の少年が俺たちのいる体育館の入り口に向かって歩いてくる。
その少年はまさに先程、明らかに異質で浮いていたと称し、そして教師であれば決して抱いてはいけない感情をいとも容易くこじあけてしまった、彼だったのだ。
「ああいう目立ちたがりなクソガキはな、案外俺みたいなタイプに懐くんだよ」
歪な笑顔でそうほざく隣のいけ好かない同僚に俺の心情が悟られては、何一つ始まらぬまま、社会的に終わってしまうということは明白であった。
それゆえ俺は、ヒロインを掻っ攫われた敵役の、苦渋を噛み潰したような面持ちで、ここぞとばかりに張り切る柊が少年を静止するのをただ待つしかなかった。
「オイ待ておまえ──……って」
その少年は柊の声などお構いなしに、俺たち二人が立つ扉の前まで真っ直ぐ突き進んだ。普通、教師と見られる人間と目の合う距離まで接近したら嫌でも会釈ぐらいはしそうなものだが、どうやら少年は『普通』なんて枠には囚われない性格をしているようだ。
柊は心の狭い男であるので、無視されたことに憤慨し、恐らく「席に戻りなさい」と注意する立場なことなど忘れ、少年を口汚く罵り自分がどれほどの侮辱を受けたかの旨を伝えるために、脳みそをフル稼働させているだろう。
どうしてこんな鍵穴のない金庫のような男が教師など人に物を教える立場にいられるのか、不思議で仕方がない。
ともかく、押し黙ってしまった柊と、もとより咎めるつもりなどない俺では、いないに等しく、少年はいとも容易く体育館の重厚な扉に手をかけ、思い切り左右に割り裂いてしまった。
途端、錆びつきと、塵の詰まった溝との摩擦のおかげで、ズズズ……という轟音が体育館中を駆け巡った。巨人が悪くした脚を引き摺って歩いているような、地震の前兆のような、どちらにせよ大衆の注目を引くには持ってこいの噪音だった。
校長の話がピタリと止まり、教員や生徒、更に保護者からの視線が一斉にこちらに集中して、長考中の柊もさすがに慌てた様子で(脳をフル稼働しても納得のいく罵詈雑言は得られなかったらしい)引き留めるようにその少年の肩に触れた。否、触れようとした。
少年はタンッとジャンプの助走のように軽く屈んだかと思えばひらりと柊の手を
扉が開いたせいで春の日差しが眩しく少年の顔がよく見えなかったが、果たしてそれが本当に光のせいなのか、と問われると上手く答えられない。
だって俺には彼が、ふわりと舞う天使にも、月の下で踊る妖精にも、はたまた深海で眠る人魚にも見えているのだから。自分の目がちゃんと現実を見ているのかなんててんで自信がない。
「猫かよ」
柊が思わず、といった様子で呟いてすぐに少年の後を追う。仕方がないので自分も頭を下げつつ言葉を濁し、体育館から足早に立ち去った。
「オイ待て止まれ!どこ行くつもりだよ!」
まさに野良猫を追いかける粗雑な悪ガキのような声で少年を必死に呼び止めている同僚からは、もう先程の嫌味めいた余裕は微塵も感じ取れない。
普段引き篭もっているせいで(これに関しては俺も同じなのでそうとやかくは言えないが)少し走っただけのくせにゼェハァと苦しそうに喘いでいる。
「ついてくんじゃねぇ!」
少年は若々しい声でそう叫び、俺たちを振り切るようにその鍛えられた小麦色の脚で地面を蹴った。が、柊が「あぁ?!」と到底生徒に懐かれそうもない乱暴な声を出した直後、少年は石ころ一つ見受けられない平坦な道で、足を絡ませてド派手に転んだ。転んだ、というよりゴロゴロ転がった、の方が近いかもしれない。
『猫が寝転んだ』なんてくだらない常套句が頭に浮かび即座に掻き消したのだが、同時にそれが気に入らない同僚の声で耳に入ってきたので死にたくなった。
「……んだよ、何か文句あっかよ!」
「文句ってかジョークだな」
「ただのダジャレだろうが」
「それよかオマエ、新しい制服砂だらけだけど大丈夫なの?母ちゃんに怒られるぞ」
「いいよ別に」
「あっそう。で、脱走した理由は?」
「……えぇと、あれ、草刈り。草刈りに行きてぇんだ」
「は?」
「だから、草刈り!」
「いや聞こえてるけど、なに?くさかり?何言ってんのオマエ?」
「草刈りは草刈りだろうが」
「えーと、農家の子だったりするの?」
「ちげぇし。それに、農家だったら稲刈りだろ」
「ハァ?稲も草も一緒じゃん」
「稲は米になるけど草は米にならねぇだろ」
「……じゃ、婆さんに訂正」
「なんで?」
「ほら、昔話で出てくるだろ。おばあさんは山へ草刈りに、おじいさんは川へ洗濯にって」
「逆だろ。つか草刈りじゃなく芝刈りだし」
「どっちだって変わんないだろ!」
「おま……あんた、草も稲も芝も全部同じだと思ってんのか?」
「……思ってたらなんだよ」
「おま……あんたは草食って、稲の上座って、芝生を引き抜いても間違ってねぇって言ってる」
「そういうのなんて言うか知ってるか、屁理屈って言うんだよ」
「じゃあもう行っていいか?」
「どこにだよ」
「だから、草刈りに」
「いいわけねぇだろ。何で入学式の最中に草刈りしたくなるんだよ?ビョーキか?昔話病か?」
「しょうがねぇだろ、んなこと言ったってしたくなるもんはなる」
「いや、ならない。どんだけ草刈り好きなんだよ。草刈りなんて好んでする奴見たことないぞ。のび太だっていつも嫌がってるし」
「え、赤ちゃんかよ。のび太やべぇな」
「やばいのはお前だ。つか、そんなにしたけりゃ終わった後にいくらでもすればいいんじゃねぇの」
「それじゃ意味ないだろ!俺は、今!してぇんだ!」
少年がそう叫んだ後、しばしの沈黙が辺りを包み、柊がお手上げ、といった表情でこちらを振り向き「こいつ頭おかしい」と少年にもギリギリ聞こえるような声量で耳打ちしてきた。散々訳の分からない会話を繰り広げておいて何を今更、と呆れながら少年の顔を窺う。
少年は何か切羽詰まったような、まさに窮鼠の、猫を睨みつける目で柊を見つめ、俺の視線に気付くとその目をそのままこちらにも向けてきた。しかし、その目にほんの僅か、懇願の意が混じっている気がして、背中の腰に近い部分がゾクリと震えた。
「オイ赤沢、お前もなんか言えよ」
「何かって、」
「俺はもうお手上げだよ。話通じてる気がしねぇ」
「さっきご自分で仰ったこと覚えてます?」
「うるさいな。もっとこう、盗んだバイクで走り出す系のやつかと思ったんだよ」
「そんなのもう絶滅危惧種でしょ」
「ハイハイ俺が悪かったよ。ほら、お得意の国語ですよ、赤沢先生」
「俺にどうしろと?」
「ハァ?オマエって何でいっつも受動的なわけ?10年後もそんなこと言ってんのかよ」
「何の話ですか」
「オマエが加齢臭プンプンのじじいになった時にはハエすら近寄ってこないってこと」
「おま……あんた先生のくせに口わりぃんだな」
「お?何だよ、憧れてもいいぜ」
「は?なんで?」
「……コイツほんと嫌なんだけど」
「それに関してはその子が正しいでしょ」
「で、結局トイレ行きたかっただけって──訳わかんねぇよな、アイツ」
柊が、校内禁煙にも関わらず堂々とタバコを咥え、ライターを耳障りに鳴らしながら、まるで俺も共犯者であるかのように言う。巧まずして中庭を通りがかっただけだったので、曖昧に頷いてやり過ごそうと、柊の横をすり抜けるように通った。
何か皮肉の一つでも言われるだろうと身構えていたが、後追いの声はなく、聞こえるのは脳みそにノックするような火花の散る音だけだった。
「エイシュンだって」
不意に発せられた声は、頑是ない子供が自分のルーツについて知りたがる類の、柔らかかつ慧敏ささえ感じてしまう
不安定な色で辺りに吸い込まれた。
「高峰泳瞬」
「あぁ──例の、あの子の名前ですか」
「そ。やっぱ、変な名前だよな」
妙な言い草だな、とチラリ感じたが、尋ねるだけの興味もなかったのでやはり曖昧に頷きそのまま足を進めようとした。直後、シュボッという火の揺れる音がして、ほとんど反射的に振り返った。それは一瞬のことだったが、後頭部に強烈な熱と、同時に悪寒が走る極めて普通の矛盾を感じたのだ。
柊はちょうど、タバコに火を移し、愚かな快感を得ようと奮闘している最中であった。嫌でも目が合ってしまい、そうなったからには何か発さないと、とてもじゃないが不自然だ。無駄は百も承知で、「校内禁煙ですよ」と控えめに言った。𠮟られてつい言い訳を口走る子どものような情けなさが自分でも感じられて、苦笑交じりに「いつものことですが」と付け足した。それが伝わったのか、小馬鹿にするように眉を上げ、盛大に煙を吐きながら答えた。
「分かってるよ」
この男のこういうところが特に嫌いだった。
今度こそ踵を返し中庭から立ち去った。名前を知ったからなんだと言うのだ。そんなものは誰だって容易に手に入る。重要なのはこれから、その先ではないか。
「学校はね、お勉強するだけの場所じゃなくて、お友達とたくさん遊んで楽しい思い出をつくるところでもあるのよ」
例えば、こんなふうに謳っていた小学校教諭が放課後、教室でセックスにふけっていたら、『お友達とたくさん遊ぶ』が何とも意味深に思えてしまうだろう。本人にその意思がなくとも、誰だって少しは勘繰ってしまう。
「うちの兄貴、鬱で仕事やめたんだって。ほんと、社不なんて生きてる意味あんの?さっさと死ねばいいのに」
例えば、こんなふうに喚く女子高生が平気で援交に酔狂していたら、『一度、社会不適合者の意味を辞書で引いてみなさい』とでも窘めてやりたくなるだろう。
「だって、友達が困ってたんです。毎日、臭いし汚いから僕たちが綺麗にしてあげようと思ったんです。親切心だったんです。信じてください。いじめじゃありません。いじめじゃないんです」
例えば、主犯がこのように涙ながらに語ったとしたら、『やられた側がいじめだと思ったらそれはいじめなんだ』なんて、反発したくもなるだろう。
彼らは皆、見えぬものを手繰り寄せるような繊細な作業を見事にやってのけるくせに、共通して愚鈍であった。それは歪で、儚くもあった。真実なんかどうせ当人にしか分からないのだし、むしろ、自覚すらないのかもしれない。
大事なのは、事実なのだ。そこにある、もしくはあったという、それだけの事実だ。
そうした歪で儚い事柄が、俺はたまらなく好きだった。彼らが小説の端役のように散り散りに発言するのを堪能するのが、どうしようもなく好きだったのだ。
多分、これは誰にも理解されない。そんなことは千年も前に嫌と言うほど突きつけられている。
俺はそれを、言葉で表して、その言葉を繋げて、ささやかな文を作って、物語を綴りたかった。そうしてできたものは自分の記憶よりも遥かに鮮明で、儚く美しく、体の中心部に熱、それも溶けてしまうぐらいとびっきりドロドロの熱を感じさせ、そのときは理性や知性なんかも吹き飛ばしてしまうほどだった。
端的に言えば、俺は、自分の綴った文章で精通を迎えた。
人生初めての射精、そしてオーガズムがそれだったわけで、刷り込みだろうがなんだろうが、もうそれ以外で性的に魅力を感じることはなかったし、これが俺という人間なんだろうと、不思議にも腑に落ちたのだ。
小説を書くのにあたって、最も重要なことは何だと問われれば、『現実を追究すること』だと答えるだろう。
例えば誰かを主人公のモデルにする際、何一つ嘘、つまりフィクションを混ぜてはいけないだとか。
小説、即ち物語は、エッセイやノンフィクションでない限り虚構の、作り話である。ストーリー自体は嘘だからこそ、現実にいる誰かをモデルにする場合、そこに嘘一滴混ぜてはならない。俺が書きたいのは、その人物が自分の文章でいかに生きるか、それだけだ。
自分の拙い想像でその人物を
だから、全てを知る必要があった。必要だったのだ。それは、俺が生きていく上で、必要不可欠なことだったのだ。犬が服を着るだとか、鳥が食べ物を
太古の昔から子孫繁栄のために何かと理由をつけて、もしくは自分の本能に従うままに、せっせとセックスに及び子供をつくり、それを家族と称し、その輪を繋げて、広げて、誰しもが初めそうして生きていくものだと確定される。それと同じで俺は、言葉を紡ぐことでしか生きてはいけないのだ。
「書いて、それを読む行為は自分にとってのセックス。自慰ではなく、紛れもないセックス。だから、彼に関しては、全て事実でないと意味がないわけで」
追憶、思い出は酷く甘美だった。彼がどんなふうに十代の、余りにも尊く儚い青い春を過ごしているのか、または彼の薄ら暗い過去や、一体どういった類のものに欲情して、彼の成長途上で美しい手のひらは踊り狂うのだろう?
全て、知る必要があったのだ。
惰性で生きてるくせに。 懐中灯カネ @niwakaame11
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