最終話

 私は目の前の男を見据えた。

 私に鉄パイプで殴られた頭からどろりとした液体が流れ、顔の半分を赤黒く染めていた。

 ナイフを刺した右腕をだらりと下ろし、フラフラと歩いてくる。

「何で…、さっさと死ねばよかったのに」

 私は怒りで震えた。

 背後に佇むアパートを包む炎で、行人の表情は陰になって見えなかった。

 そして空気が漏れるような声で行人が何かを呟いたのが見えた。

 雨音と建物が燃える音で上手く聞き取れない。

「なに?」

私は聞き返す。行人の口の動きを見ながら耳を澄ます。

「ナイフを、下ろせ」

 行人は苦しそうに私に命令する。

 私は呆れて笑った。

「馬鹿なんじゃないの?下ろすわけないでしょ」

「やめろ」

「よくそんな情けないこと言えるね!今さら命乞い?ふざけないで!」

 私は行人にここぞとばかりに怒鳴り散らす。

私は半身になり、ナイフを構えた。行人に教えてもらった構えを実践する。

そうだ。私は、強くなりたいから行人に稽古をつけてもらったんじゃない。復讐を確実に果たせるために、行人に剣術と武術を教えてもらいたかったのだ。まさか、本人にそれを向けることになるとは。

「駄目だ。俺を殺したら後悔する。絶対に駄目だ」

 苦しそうに行人がうなる。その直後に傷口が痛むのか、腕を押さえながら下を向いて身を曲げた。

 私はその隙を見逃さず素早く行人に詰め寄り、思いっ切り腹部を狙って蹴り飛ばした。

「私の母さんを殺しておいて、よくそんなこと言えるね!今さら怖気づいた?駄目よ。逃がさないわよ。ぶっ殺してやる」

 私は地面にうずくまる行人に近づいた。持ったナイフに力を込める。

 膝をつき、頭上に両手で持ったナイフを掲げる。そしてそれを振り下ろす。

 行人は寸前で身体を回転させ、かわした。

 土にナイフが柔らかく突き刺さる。

 突然脇腹に衝撃が走り、身体が吹き飛んだ。

 しかし今度はナイフを手離さなかった。

 衝撃を和らげるための行動をとる間もなく、もろに攻撃を食らってしまい、しばらくその場で激しく咳き込む。

「絶対に、殺してやる」

 途切れ途切れの呼吸の中、まるで自分ではない誰かのような声が口から漏れ出していた。

 ふと視線を上げると、肩で息をする行人が近づいてきた。

「眠れないんだよ!ずっと」

 私を見下ろしながら行人が急に叫んだ。予期していない言葉に私は固まった。

「だから、なんなの」

 私は呼吸が整わないまま後ずさりながら言った。

「お前の母親を後ろから刺した日から、眠れないんだ。眠ると夢に出るんだ。お前の母親が。俺を殺そうとしてくるんだ」

 行人は必死に苦しみに耐えるような声で言った。

「それがどうした!むしろいい気味ね!」

 私は嘲笑ちょうしょうした。

「お前には、同じような思いを、してほしくない」

 私の顔から笑みが消えた。代わりに怒りが込み上げる。

「なにそれ?こんなときに私の心配?」

 私は行人を睨みつけた。

 そして行人は私に近づき、しゃがみ込んだ。

「ああ」

 強い眼差しでそう言った。

 私はその顔面めがけて拳を振るう。

 しかし、いとも容易く行人は反応して、それを負傷していない方の腕で防ぐ。

 私は怯み、すぐに腕を引っ込めた。そして腰をついたまま後ずさる。

 しかし上手く身体が動かなかった。足が震えていた。

 恐れているのか。

 怖いのか。この男が。

 腰を小さな岩や瓦礫にぶつけながらも私は必死に行人から距離を置く。右手に握られたままのナイフが地面の石に何度も当たり、乾いた音を立てる。

「どうして死んでくれないの!この人殺し!」

 私はナイフを行人に向け、少しずつ遠ざかりながら怒声を浴びせた。行人は表情ひとつ変えずに私を睨み続ける。

「お前さえいなければ、母さんは死ななかったのに!お前らみたいな悪人さえいなければ、私たちはみんな幸せに生きていられたのに!」

 私はぐしょぐしょになった泥を握り締めた。

 気がつけば私の両目からは雨に混じって涙が溢れ出していた。

 そうだ。こいつさえいなければ、今でも母さんは元気に生きていて、楽しい毎日を過ごしていられたんだ。

 こいつさえいなければ。

「じゃあ逆に聞くが、俺たちは…、俺と母さんはどうすればよかったんだよ!」

 今度は行人が私に向かって声を上げた。

 その瞬間大きな爆発が起こった。行人の背後では一段と大きくなった炎が窓ガラスを破り、そこから火柱が上がり出す。

「俺たちが何をしたって言うんだよ!ただ毎日死に物狂いで生きてただけだろ!何も悪いことなんてやってないだろ!それなのにいきなり母さんは殺され、同じことをやり返した俺まで悪人扱いか!」

 燃え盛るような怒りが行人の顔を歪ませる。

「その通りよ!人殺しが正義を主張するなよ!」

 私は滲んだ視界で行人を睨みつけた。

「この世に正義なんてないんだよ!」

 行人の発した声が空に吸い込まれる。

 一瞬何も聞こえなくなった。

「お前らがやっていることは、自分たちの価値観で決めた事を押しつけているだけだろ!そしてその価値観に合わないやつらを徹底的に悪だと決めつけて排除して…」

 行人は大股で私に近づいてくる。私は身体が思うように動かせず、ただ固まっていた。

「お前らが…、正義を語るお前らがいつも悪を生み出してるんだろうが!」

目の前に行人の拳が飛んでくる。私はそれをもろに食らった。

 視界が一瞬で暗転する。

 身体が弛緩し、そのまま仰向けに倒れた。

 行人が私に馬乗りになる。そして胸倉を掴まれた。

「俺たちが何したって言うんだよ。返してくれよ。俺たちの人生を返してくれよ」

 怒りと悲しみで震えたような声だった。

 私は混濁とした意識の中で、なぜか今までの行人と過ごした日々を思い出していた。

 これが走馬灯というものなのだろうか。

 行人はいつも無愛想だった。

 それに、結局ほとんど私の名前を呼んでくれなかった。

 それでも私は行人を愛していた。心の底から愛していた。

 こんなことになってしまうなんて。

 一体、どうすればよかったんだろう。

 どうして、行人は私に罪を告白してしまったんだろう。そうしなければ、ずっと2人で幸せに生きていけたかもしれないのに。

 幸せな未来を築けたかもしれないのに。

 私たち、出会ってからお互い変わったよね。

 私は家族以外にも心を許せる人がいるんだって気づいたし、行人だって本当は私に少しずつ心を許してたよね。わかってたよ。行人は本当は優しいけど、心を閉ざしていただけだって。

 最初は警戒心むき出しだったけど、弱いところも見せてくれたよね。だから、突然の怪しい要求も信じてくれたんだよね。

 私の母を殺したのが自分だと言った以上、私が復讐しにくる可能性だって絶対に考えていたはずなのに、行人は結局私を信じた。

 それほどまでに行人は私に心を許してくれていたのだろうか。

 叔母さんの顔が浮かんだ。ごめん、叔母さん。私もう死んじゃうかも。これで叔母さんは家族が全員いなくなっちゃうね。ごめんね。

 今度は真保の顔が浮かんだ。ごめんね、真保。ひどいこと言って。真保は絶対に強い警察になれるから、絶対に諦めないでね。

 そして母さんの顔が浮かんだ。母さんは笑っていた。

 私はこの笑顔に支えられていた。

 母さん…。

 そのとき私の中で消えかかった炎が燃え出した。

 冷たく悲しい残酷な火だ。戦いの炎だ。

 途端に意識がはっきりと戻ってくる。

 私は獣のような咆哮を上げた。

 そして左手を行人の首めがけてムチのように振るった。

 行人は負傷した右手でそれを防ぐ。しかし、その衝撃で傷口から血が噴き出た。

 痛みで行人の顔が歪む。

 その瞬間を見逃さなかった。

 私は身体を半回転させてそのまま右手のナイフを首に向けて突き刺した。

 一瞬抵抗を感じたかと思うと、水を斬るようにナイフはすんなりと深く差し込まれた。

 行人の目がかっと見開かれる。

 開かれた口から大量の血が溢れ出し、私の胸にぼたぼたと落ちた。

 私は力を込めてナイフを抜き取る。

 そして倒れ込んできた行人をどかし、すぐさま背中に馬乗りになった。

 私は歓喜の声を上げていた。

 そして何度も行人の背中に向けてナイフを突き立てた。

 ナイフを刺すたびに行人の身体が小さく跳ねる。ナイフを抜き取るたびに赤い液体が飛び散る。

「死ね、死ね、死ね!」

 別人のような声が私の中でこだまする。

 何回も刺した。もう二度と起き上がることがないように。

 腕が痙攣する。力が入らない。

 手が痺れ、ナイフを落とすまで私は続けた。

 私はバランスを崩してそのまま横に倒れた。ばしゃりと音を立てて地面に身体が叩きつけられる。

 私は残された力で仰向けになり、空に向かって笑った。

 すべて終わった。今度こそ、終わったんだ。

 私は恍惚とした表情で真っ暗な空を見つめていた。

 雨が顔にかかる。目に染みる。それでも気にしなかった。


 どれだけそうしていただろうか。

 私は遠くから聞こえるサイレンの音で意識を現実に戻した。今まで何を考えていたのだろうか。思い出せない。

 とにかく寒かった。

 すぐそこでは雨などまったく意に介さないように火柱が上がっていた。

 雨に混じって灰が地面に落ちていた。

 サイレンの音はじきに大きくなっていく。

 私ははっとして身体を動かそうとした。しかし、動かない。

 金縛りにあったように身体が動かなかった。

 逃げなければ。

 私は歯を食いしばり、何とか身体を横にする。どろりとした液体で手を滑らせた。

 それでも私はなんとか肘をついて起き上がった。

 私は辺りを見渡した。

 工場の残骸のせいで視界が悪く、遠くを見通すことができない。それでも確かにどこからかサイレンは近づいてきていた。

 私は半狂乱になって、持っていたナイフを草むらの中に投げ捨てた。

 そしてきしむ身体で行人の腕を持ち上げて引っ張った。

 死んだ人間は本当に重かった。全体重が腕にかけられているようだった。

 私はうなり声を上げながら行人の身体を引っ張り、廃アパートの裏まで行った。

 そこには用水路がある。私は柵が壊れた部分を見つけ、そこから行人の身体を落とした。少ししてからばしゃりという音が響く。

 そのとき背後で一段と大きな炎が別の窓を突き破って上がった。同時に私の全身が照らされる。

 私の罪と悪の心をすべて暴露されたような気分になり、思わず頭を抱えてしゃがみ込んだ。

 そのとき手と髪の間でどろりとした液体がにちゃりと音を立てた。私は驚き、自分の手を見る。背後の炎で照らされた私の手は真っ赤になっていた。気がつけば全身が真っ赤になっていた。

 私は来ていたコートを脱ぎ捨て、狂ったように叫びながらその場を四つん這いで離れた。

 瓦礫の陰にしゃがみ込み、しばらく肩で息をして、呼吸が収まるまで待った。

 サイレンの音はどんどん大きくなっている。すぐそこまで来ているのかもしれない。

 逃げなければ。私は立ち上がった。

 しかし足がすくんだ。しっかり歩けない。

 はっきりと感じた恐怖。

 頭がくらくらする。

 突然、気配を感じ、私は恐怖で小さく悲鳴を上げ、周りを見渡した。

 誰かが見ている。

 あの工場の窓から。あそこの木の裏から。そこの瓦礫の中から。

 そこらじゅうから誰かが私を見ていた。その目はどれも怒りに満ちていた。

 誰かが私を殺そうとしている。

 私はパニックになって何度も転びながら動かない脚を必死に駆り立てて走り出した。

 とにかく遠くに逃げなければ。


 雨は依然として降り続いていた。

 どれだけ走ったんだろう。もう、身体は自由が利かなかった。ただ機械のように無意識に足を交互に動かすだけだった。

 ここはどこだろう。

 暗い森の中を走った気がする。いや、そこらじゅうに私を見つめる目があったから、もしかしたら街中を走ってきたのかもしれない。

 全身が針を刺されているように痛んだ。

 何度も体力が尽きて、木や空き家の陰に隠れて休んだ。

 何度も何度もそれを繰り返した。

 身体は寒さでずっと震えていた。

 私はふと足を止める。

 気がつけば随分と高いところに来ていたらしい。

 なんだろう、ここ。

 無数の木々に囲まれた空間に私は立っていた。

 前方には小さな掘っ建て小屋のようなものが見える。

 私はそれに近づいた。

 木で構成されたそれは、誰が何のためにこんなところに建てたかわからないが、どうやら休憩所として備えられたようだった。

 私は屋根の下まで行き、中には入らずに壁に寄りかかるようにして腰を下ろした。

 もう身体が動きそうになかった。鉛のように全身が重い。

 下を見下ろすと、突き出た木々の隙間から住宅街が細胞のように無数に並んでいた。

 さらにその遠くにはいくつもの高層ビルが連なっている。

 こんな真夜中でも明々と輝きを光っていた。

 東京の景色だった。

 私が生きてきた東京だった。

 たくさんの人が生まれ、たくさんの人が死んでいく東京の街。

 私の目には、そんな景色もやはり薄汚い光を放つ空間にしか見えなかった。

 背中に伝わる冷たい感触を感じながら私はずっとそれを見ていた。

 これから東京はどうなるんだろう。

 悪は増えるのだろうか。それとも正義が増えるのだろうか。

 あれ、正義ってなんだっけ。悪ってなんだっけ。

 私はゆっくり目を瞑った。

 もう私には関係ない。

 私は目的を果たしたのだった。もう、東京の未来なんて私にはどうでもいい。

 聞えるのは雨音だけだった。

 私は雨音の中でゆっくり呼吸を続けた。

 身体はもう熱を発していなかった。ただ、とにかく、寒かった。

 ふと、私のお守り—例の新聞記事をポケットから取り出す。

 目の前にかざしたそれは、透明なカバーで雨を弾いていた。

 私はしばらくそれを見つめる。母さん、あの男の言ってたことは嘘だよね。私、わかってるから。

 どうしてあの男は殺した女の娘だとほとんど確信していたのに私を受け入れたのだろう。

 あの男は本当は優しい人間だったんだと思う。そんな性格がいつもにじみ出ていた。それなのにいつも私から離れるような素っ気ない態度をとっていた。それなのに何だかんだ彼は優しかったのだから。

 私から距離を置くような態度。もしかしたらあれは男の本当の姿ではなかったのかもしれない。

 私を恐れる気持ちと孤独から解放されたいという気持ちが葛藤していたのだろうか。あるいは、さっさと私に殺されて楽になりたいなんて思ったりしてたのかな。

 まあ、もう、どうでもいいか。すべて終わったんだ。あの男はもう死んだ。地獄に落ちた。

 私はゆっくり息を吐き出す。肺が鈍く痛んだ。

 しばらくそこにいるつもりだった。

 一度だけ、東京の夜明けをこの高いところから見てみたい。そう思っていた。

 大嫌いな世界。大嫌いな東京。この瞬間にも、いつも通りこの腐った街では悪が生まれ、正義が死んでいっている。

 初めて見る東京の夜明けは、私の目にはどう映るのだろうか。

 雨はいつまでもやまなかった。














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冷たい戦火 流音 @RyuGne

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