第21話

 私は警察になんて本当はなりたくなかった。

 私はもっと、平穏で毎日ゆっくりと暮らしていけるような職に就きたかった。

 しかし両親のことは心から尊敬していた。

 警察にはなりたくなかったけど、警察である2人に私は心から憧れていた。2人の背中をずっとかっこいいと思っていた。

 そんな中で父が死に、母も死んだ。2人とも悪によって殺された。

 悪によって正義が死んだ。

 そして母が死んだときに私の中に生まれてしまった感情。

 復讐の憎悪に満ちた悪の心。

 私が何よりも憎んでいたもの。両親を奪ったもの。

 それが私の中に芽生えてしまった。

 私はそれを必死に抑え込もうとした。母が死んだあと、私はもともと自分がずっと警察を目指していたかのように周りに振る舞い、そして自分にも言い聞かせた。悪を憎み、警察になることを夢見る正義感に溢れた自分として生まれ変わろうとした。

 だから大学へ進学もせずに高校卒業後すぐに警察学校に行った。

 そうすれば私に芽生えた悪の花を腐らせることができると思ったのだ。

 でも、駄目だったようだ。

 母を殺した人物が見つかった。だから、同じような目に遭わせなければならない。母という正義の存在を殺した人物には消えてもらわないといけない。

 抑えられなかった。何があってもそいつを殺してやりたかった。

 そうしないと、母が報われない。父が報われない。

 だって、この世は悪ではなく、正義が勝たなければならないのだから。正義によってこの世は成り立っているのだから。

 ねえ、そうでしょう。母さん、父さん。

 悪を1人、この世から消してあげる。


 気がつけば雨が降り出していた。

 私は暗闇の中、廃工場地帯に辿り着いた。

 全身がずぶ濡れになっていたがまったく気にならなかった。

 私は自分の胸に手を当てて、内ポケットに入っているナイフの感触を確かめた。ケースに入ったそれは硬い物体として私の胸に押し当てられた。私はそれを感じながらほくそ笑んだ。

 行人はいるだろうか。もしいなければ戻ってくるまで待っていよう。絶対行人はここに戻ってくるのだから。

 聞こえるのは雨音だけだった。

 一歩ずつ歩くごとに心臓が高鳴るのを感じた。呼吸が荒くなる。

 暗闇の中、獲物を捕らえようとする猛獣のような気分だった。

 夜の工場跡地は薄気味悪かった。濡れた煙突や倉庫の屋根が、遠くの街の明かりを微かに反射して鈍く光っていた。

 私は行人がいる廃アパートに近づく。そして崩れた1階部分に侵入する。

 一段と暗くなった空間で、私は記憶を頼りに進んだ。

 そして瓦礫でできた階段に差し掛かり、ゆっくりと上った。

 心臓の音は中にいる行人に聞こえるんじゃないかと思うほどに高鳴っていた。

 脚も震えている。吐きそうだった。

 食器棚は壁を塞いでいた。私はそれを見てにやりとする。行人は中にいる。

 私は深呼吸をした。できるだけ自然を装う必要がある。警戒心の強い行人を殺すのはそう簡単ではないだろう。だからこそ、動揺を見せるわけにはいかなかった。

 私は雨に濡れた手で、ゆっくりと食器棚を移動させた。目の前にぽっかりと穴が見える。

 すべて移動させるのが面倒で、半分しか現れていない隙間を這いずるようにして通った。

 中はひんやりとしていた。

 しかし私の身体は火照っていた。心臓は強く脈打ち、燃え上がるようだった。

 リビングルームに行人はいなかった。

「行人?」

 私は穏やかな声を作って呼び掛けた。

 するとどこからか人が動く音がした。

 行人が暗闇の中から現れた。行人にとって母親との思い出が詰まったあの部屋にいたようだ。

 やっぱり、本当は寂しいんだね、行人。大丈夫、もう少しで会えるよ。

「何しに来たんだ」

 行人は低く問いかけた。驚いたような様子はなく、いつも通りの冷徹な行人だった。

 しかしその声には明らかに警戒の色があった。

「どうしても、忘れられなくて」

 今度は少しなまめかしい声で応えた。

「はあ?」

「もう一度、抱いてほしい」

 色っぽい女を演じた。きっと全然駄目だと思う。それでも真剣に演技した。

 行人は黙ったままだった。

 私は暗闇の中でじっと行人の呼吸を聞き取ろうとしたが、自分の心臓の音に掻き消されてそれ以外何も聞こえなかった。

「寂しいの。忘れられないの。だから、お願い」

 私は少し行人に歩み寄る。

 しかし、身体が触れるまで近づくと内ポケットのナイフに気づかれる。私は慎重に近づいた。

「それで、わざわざ来たのか。お前、何考えてんだよ」

 行人はあからさまに難色を示した。

「いくら警察学校でも、24時間見張ってるわけじゃないし。それに私、今は診療所で休んでいることになってるの。ばれないわ。ね、だからいいでしょ」

 私は精一杯の笑顔を作ってみせた。

 こんなときのために、真保に男を誘惑する方法を聞いておけばよかった。どうせ、恋人のところへ行って朝から晩までやりまくっていたんだろうし。それくらい知っているだろう。

 行人はしばらく考えたのち、やはり「駄目だ」と言った。

「どうして?あのとき、結局あのまま終わっちゃって、すごく、心残りだった」

 私は内心少し焦りながら精一杯行人の気を引いた。 

「終わったら、すぐ帰るから」

 そこまで言ってやっと行人が口を開いた。

「すぐ帰るんだな?」

「うん」

 私は即座に返事をする。

 行人はため息をついて「わかった、少し待ってろ」と言った。

 歓喜で心臓がぞわりとする。

 そして行人は私に背を向けた。

 まだ警戒の色は残っているようだ。私も緊張を解かないようにする。

 それでもこうして要求を呑んでしまうとは。私に心を許しているということなのだろうか。

 何にせよ、そんな優しさを見せたのが命取りになるんだよ、行人。

「待ってて、色々準備するから」

 私はそう言って少し後ずさり、上着を脱ぐふりをした。雨に濡れたビニール製の上着がこすれる音がする。

「こっちですればいいだろ」

 離れたところで行人がそう言う。

「見られたくないことだってあるでしょ」

 行人は鼻を鳴らした。

 何とか行人と距離をとることができた。

 そして行人は別の部屋に消えた。

 私は深呼吸をして行人がいた部屋へ行った。行人の「成長記録」が壁に刻まれた部屋である。

 この部屋は様々な家具が無尽蔵に置かれており、身を隠すのに適していた。

 雨音は強くなっていた。私の足音を隠すには好都合だ。

 私はポケットからライターを取り出した。

 そしてできるだけ部屋の奥まで行き、目を瞑りながら一緒に持ってきた段ボールの切れ端に火を点けた。

 呼吸が震え、手が震えるのがわかる。もしかしたら火が自分の手を焼きそうになっているかもしれない。それでも私は絶対に目を開けなかった。

 小さく段ボールが燃え始める気配があった。

 私はそれを床に下ろし、すぐに後ろを向いた。そして目を開ける。

 そしてすぐに入り口に戻り、すぐそばにあるタンスの裏に身を隠した。そして、じっと火とは真逆の方向の暗闇を見続けた。

 しばらくすると、私がいたところから「おい?」と行人の声が聞こえてくる。

 行人の足音が段々近づいてきた。心臓が破裂しそうな勢いで脈打つ。

 私は胸ポケットからナイフを取り出し、ケースを外した。

 刃先が暗闇の中で鈍い光を反射する。

 そして、足音がすぐそこから聞こえたかと思うと、目の前を行人が通った。

 私は息を止めた。心臓が苦しい。狂い出してしまいそうだ。

「おい、何してんだよお前!」

 行人の声が怒気を帯びた。

 やった。行人の目は炎を見たせいでしばらく暗闇の中で何も見えなくなる。

 いくら武器を持っていたところで、行人に正攻法で勝てるはずなどなかった。しかし、こうすれば勝機は充分にある。

 私はナイフを握り締めた。震えて上手く力が入らない。柄の部分が食い込むほど両手で強く握った。

 行人は火を踏みつぶして消火していた。やがて部屋がもう一度真っ暗になる。

 もう行人には真っ暗な闇しか見えていないはずだ。しかし、私には見えている。暗闇の中にたたずむ行人の影が。

 私は飛び出した。

 両手に握ったナイフを肩の高さに掲げて全力で突撃した。

 心臓を後ろから狙う。

 そして行人の背中が目前に迫った瞬間に全体重をかけて飛び込んだ。

 ナイフが柔らかい何かに食い込む感触がした。

 その瞬間、行人が凄まじい激痛に叫び声を上げた。

 私は歓喜のあまり全身が震えあがった。

 しかしそう思ったのも束の間、私の身体は物凄い遠心力で吹き飛ばされかけた。しかし、私は握ったナイフを離さなかった。

 行人がもだえながら私ごと身体を振り回す。

 刺す位置が悪かったのか。

 揺れ動く視界で目を凝らすと、握られたナイフは行人の腕に突き刺さっていた。

 畜生!

 心の中で舌打ちする。このままでは状況がよくない。

 私は何とか体重を後ろにかけ、ナイフを引き抜いた。

 抵抗がなくなると同時にまたもや行人が悲痛な叫びを上げた。私はそのまま後ろに尻もちをついた

 すぐに立ち上がり体勢を立て直す。

 目の前では行人が腕を抑えながら獣の威嚇のような声を上げている。

 いい気味だ。

 私はその様子を見てあざけり笑う。

 寸前のところを腕で防がれてしまったらしい。作戦としては失敗だが、その分長い間苦しませることができると考えれば悪くはないかもしれない。

 私はナイフを握りなおし、行人に歩み寄った。

 その瞬間、下腹部に鈍い痛みが走ると同時に身体が後ろへ吹き飛ばされた。

 呼吸が止まる。

 私はそのまま倒れ込んだ。痛みで声が出ない。開けたままの口からよだれが垂れ、右手の上に落ちた。

暗闇で何も見えていないはずなのに。

 そのとき握っていたナイフがなくなっていることに気がついた。

 私は半狂乱になって手探りで周りを探す。

 目の前からはどすどすと行人が迫ってくる。だがそんなことお構いなしに私は四つん這いになってナイフを探し続ける。

 目の前に火花が散った。

 首が千切れてしまうんじゃないかと思うほどの力で行人は私の顔面を蹴り飛ばした。

 視界が歪む。

 私は思いっ切り歯を食いしばった。

 突然ぐわりと目の前が揺れる。

行人が暗闇の中で腕を振り回したあと、私は胸倉を掴まれ、頭突きをくらった。

 私は必死に両手をばたつかせて抵抗した。

「よくもやったな、てめぇ」

 怒りに満ちた声を私に投げかける。暗がりの中でも私を睨みつける行人の目がはっきりと見えた。

この距離になってしまったら、もはや行人は暗闇のせいで何も見えていなくても関係ない。私が考え出した戦略は失敗したようだ。

私は最後の抵抗で腕をじたばたと動かした。

 そのとき、指先に何か冷たいものが触れた。

 それと同時に行人の頭突きがもう一度飛んでくる。

 しかし私は混濁とする意識の中、その冷たい棒状のものを必死に掴んだ。

 鉄パイプだった。

 私は力強くそれを握り、行人の足元めがけて振るった。

 鈍い音が聞こえ、行人がまた苦悶くもんの声を絞り出す。

 そして私の身体が重力に従って落ちる。

 行人は膝をついて足を押さえていた。

 私はその隙を見逃さなかった。

 鉄パイプを高く掲げ、そして行人の後頭部めがけて思いっ切り振り下ろした。

 衝撃が腕に伝わる。

 鉄パイプは跳ね返って先端が地面にぶつかった。

 行人は動かなくなった。うつ伏せになって死んだように静かになった。

 やった。

 私は歪む視界の中で心の底から歓喜の叫び声を上げた。次には笑い出していた。天井を向いて思いっ切り笑った。

 片手に持った鉄パイプをその場に放り捨てる。

 そうか、これは、いつしか私を襲ったヘルメット男たちがおいていったものか。

 悪人が残した物で殺されてしまう。なんて情けない最期なんだ。

 私はさげすに満ちた眼差しを動かなくなった行人に向けた。

「地獄へ落ちろ」

 そう吐き捨てた。

 未だに焦点が定まらなかった。平衡感覚も少しおかしくなっているようだ。自分が今真っ直ぐ立っているのかわからない。

 私は膝をつき、ポケットからライターを取り出した。

 そして火を点けて目の前をを照らしながらナイフを探す。

 行人に蹴り飛ばされたときに手から落ちてしまったようだ。

 少し探すと、鈍く火を反射させる物体が目に入った。

 テーブルの下に手を伸ばし、手繰り寄せる。

 私は安堵のため息をつく。

 そこでひとつの発想が浮かんだ。

 お前みたいな悪人は、母親との思い出と一緒にこの世から消えてなくなればいい。

 お前の母親も、お前自身も、すべて焼かれてしまえ。もう一生その姿をこの世に見せるな。

 私は近くにあった段ボール箱の中身をその場でぶちまけた。大量のCDケースが落ちた。

 私はライターの火をその段ボール箱に点けた。

 すぐに火が燃え広がった。私はそれを家具の山に放り込んだ。木製の家具しかない。一瞬で火は燃え移るだろう。

 私はもう一度行人の身体を一瞥いちべつしてから背を向けた。

 無意識に口からは笑い声が溢れていた。止まらなかった。

 食器棚を強引になぎ倒し、壁の穴から外に出る。

 まだ視界は揺れていた。慎重に瓦礫の山を下る。

 雨音が近づいてくる。

 廃アパートを出ると、雨が全身に当たり、額の傷にしみた。額を手で拭うと、どろりとした液体が手についた。

 後ろを振り返って廃アパートを見上げる。まだ火の手は上がっていないようだ。

 せっかくだから行人と母親の思い出の場所が灰となる様子を眺めることにした。

 ちょうど火照った身体を冷やすこともできるだろう。

 しばらくすると、うっすらと窓から光が見えてきた。私はそれを見てまたもや笑いが止まらなくなる。

 火照った身体はいつになっても冷めずに熱を帯びていた。

 片手に握られたナイフだけがどんどん熱を失っていった。

 その瞬間、一気に黒煙と共に赤い炎が壁の隙間から溢れ出した。それを合図のように至るところから細く煙が溢れ出す。

 すべて終わった。

 私の長年の目的がついに達成された。

 遂に母さんと父さんが報われた。

 あっけなかった。もちろん考え抜いた末の策ではあったが、まさか本当に行人を騙すことができ、その結果殺せるとは。

 一切態度には出していなかったが、行人は私に心を許していたんだろう。優しくなっていったんだろう。そのせいで自分を死に追いやってしまうとは。

 でももう関係ない。すべて終わったんだ。

 私は恍惚とした表情で燃え広がる炎を見ていた。

 そのときだった。

 視界の隅に動くものを捉えた。

 燃え盛る炎の真下、1階部分に開いた暗闇からそいつは現れた。

















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