ケスラーシンドローム
撫川琳太郎
ケスラーシンドローム
朝のニュースを見て、すぐさま薄汚い学生寮から出て、備え付きの自転車置き場へと走った。
自転車の鍵を探しながらスマホを操作し、目当ての人を探す。
俺は鍵を差し込みながら電話をかけ、現代人がそうするようにスマホを片耳に置きながら自転車を走らせ始めた。
ほどなくして通知音が途切れる。
「…なんだよこんな時間から」
こいつは朝が弱い、いやしかしそんなことを考えている場合ではなかった。
「朝のニュース、見たか!?」
俺は大声で叫びながら自転車をこぐ。
「それが何だってんだよ」
寝ぼけ眼の姿が容易に想像できる。
俺はあきれてため息をつきながら目線を下にやると、バランスを崩して倒れそうになった。
生憎怪我無く持ち直すと、
「だから、早く見てくれ!異常事態なんだって!」
高らかに宣言しながらふと景色を見る。
小さな橋を渡っており、人通りもそこそこのいつもの光景だった。
川の向こうに広がる薄明りの空は、煌々と輝いていた。
その研究室は、大学の第五棟四階の端から三番目に位置していた。
そこには二名の人間がいるというのに、パソコンの駆動音だけが静かに響き渡っている。
先に口を開いたのは、ウェリントンフレームの眼鏡が光る
「つまりだ、日本の衛星が大量にぶっ壊れた、と。そういうことか」
眼鏡を挙げながらニュースサイトを要約した。
俺はそれを聞いて再度ため息を漏らす。
「やっとそこかよ…」
「この蒸し暑さで上質な睡眠を取れなかったんだからしょうがないだろう」
言い訳とも思えないような言い訳にする意味もないようなことを述べながら大地は口をへの字に曲げる。
でも、と続けて、
「どういうことなんだ?通信衛星、放送衛星、地球観測衛星エトセトラエトセトラ…。計十基の衛星が同時多発的に応答不能。高度も位置もバラバラなのに何があったらこんなことできるんだ?」
「この記事を見ても何も分からないんだよね。すぐに起きたことだからなのだろうけど、開示されている情報が少なすぎるんだよ。アバウトなことしか説明されてない。せめて名前くらいは教えてほしいんだけどなぁ」
俺はモニターに映し出されている光景を見ながらもの悲しい気分になった。
「ちょっとまて」
急に大地はその太ましい手を俺の前に差し出した
「今のところ言いたいことは分かった。日本の衛星が何かしらの超パワーにより完全シャットアウト、現代日本は衛星と取って切れないような大丈夫なような生活をしているから、直接の物流、ネット等のダメージはあるものの生活は可能な状態。被害を被って徹夜何連チャンできるか想像して絶望しているのが宇宙航空研究開発機構とかスカパーとかそこらへんなのは分かった。が、」
何故か変な間をおいて、
「俺はお前の無性に知りたがる性格を嫌というほど知っている。そのせいで俺は何日連れまわされたのかも分からん」
「その説は大変お世話になりました」
俺はにこやかに答えたが、大地の顔面は一面雲海で、
「ここは何研究室だ?」
とか急に問いただしてくるので、
「宇宙物体軌道解析研究室です」
と朗らかに宣言してみると、
「つまりお前はスペースデブリの力でこうなったのではないかということを、」
ときたら続けるしかない。
「研究して証明するぞ!」
オー!なんて手を挙げてみたものの、隣は手を顔に当てていた。
それから小一時間ほど大地のブツクサを聞き流しながら俺が笑顔で事件発生直後の状況を考えていると、二メートルほど先にある扉が開いた。
「おはよう」
といったのは教授だ。御年五十六歳、デブリ問題に関してはエキスパートといってもいい。
仕立ての良いスーツを着込みながら歩いてくる。
「おはようございます」
「今二人か」
「他の人は来てないです」
「なら伝えといてくれ、私は今日ここを空けることになるから。鍵は事務に渡しておく」
俺はそこで咄嗟に思いついた。
「もしかして、衛星の件ですか?」
それを聞いた教授は苦虫をかんだような顔になり、
「まぁ、そんなとこだ。他言無用で頼む」
と言い残して出て行った。
数秒の静寂の後、
「あれは図星だな」
「間違いない」
「つまり俺の予感は当たっている!!」
「それは飛躍しすぎだろ」
とか言いながら、モニターに顔面を張り付ける仕事に戻った。
夕方、午後。
カラスがどこかで鳴いている。
そんなBGMなどどうでも良くなるほどの熱気が狭い研究室内に充満していた。
最高速度限界で走り続けていたハードディスクが、音を上げたように意気消沈した。
「…、これは……」
呟きながら手を顎に乗せたのは大地だ。
「上手くできたんじゃない!?」
俺ははしゃいでみる。
「上手くできたって言うけどな、お前の理論上の話でだ。静止軌道まで百立方センチメートルもの代物三台のうち一台を上げて、みちびきに最適角度でぶつけることでブレイクアウト、一瞬にして広がった巨大デブリと無数の小片が軌道上を舞い、低軌道上二台の衛星による攻撃も相まって制限時間内に推定最低数の日本の衛星を攻撃、破壊…」
「つまりできるってことだ。相変わらず解析の腕は最高だな、大地」
「あのなぁ」
そこで大地は息を吸うと、
「まず制限時間が少なぎるから直接当てに行くしかないっていう状況が意味不明だし、突入角度の許容誤差が低すぎる。上手くいくために作った解析だからここまでできたが、これを現実に行うことはまずもって不可能だ。みちびきの破壊状況だってよく分からないんだぞ?こんなことを行うのは外国確定だが、日本じゃないのにみちびきの構造をどうやって知り得るつもりだ?それに発射回数が世界的に増えているとはいえ世界各国で観測、報道、管制されているこの現代世界でどうやって意図的に衛星破壊を主とした衛星を他国に気付かれずにみちびきまで移動するつもりなんだ?」
「つまらないこと言うなぁ」
「元々想定していたことだ。それが今現実になった。正直言うぞ、俺は論文書かなきゃならんからこれ以上は無理だ。諦めな」
そう締めくくられると渋々頷きそうになる。
しかし、目線を地面に向けようとした俺は、
「でも、可能性はあると思うよ」
どこからともなくやってきた声に驚いて止まった。
というか顔を上げた。
大地も驚いている。
その透き通るような声は、俺たちの間にいた。
モニターを興味なさそうに覗き込んでいる。
「
最初に声を出したのは大地だった。
「いつからいたの?」
俺が続ける。
「ついさっき」
目差銀河は視線を合わせることなくつらつらと述べると、
「良いね、すごく良いよ」
その表情に俺たちが呆気にとられていると、急にパソコンが変な機械音を立てた。
「あ、やっちまったか」
大地がデスクトップ内を覗き込む。
「元々古いのを無理して使ってたからな、今のでかなり限界になっちまったか?」
「悪いとは思ってるよ」
二人してモニターと筐体を交互に見ていると、また突然に音は消えた。
「原因不明だな、まぁこいつに負荷をかける解析は今後やめるか」
と大地が嘆息したところで、
「あれ?」
俺は周囲を見渡した。
気付くと、銀河の姿はもうなかった。
「元からそういうやつだしな」
大地は慣れきっているようだ。
俺も部屋内を確認し終えると、
「変だな、解析が終わってない」
大地が訝しげにそういった。
「どういうこと?」
「分からん、プログラムをいじり倒したせいで変な風になっているかも知らん」
解析ソフトには、宇宙視点での地球が表示され、無数の白い粒が青い星を取り囲んでいた。
その白い粒は、地球の色を塗り替えるほどに分布していた。
二人して無言で突っ立った後、
「これって…」
「もし衛星が破壊された後、何も対策を施さなかったらどうなるかを表している」
大地は冷静に分析してくれる。
俺たちはその光景につけるべき名称を知っていた。
だが、言いたくはなかったのだ。
俺は恐る恐るニュースサイトを開く。
もしこれが電子的な攻撃、つまりサイバー攻撃等でなかった場合、
物理的手段で衛星をどう破壊するだろう。
最大距離約三万六千キロメートルを秒速7.9キロメートルで進む物体に直接攻撃するだけでなく、他の軌道を回っている衛星をも道ずれにする方法。
候補はかなり少ないはずだ。
もしサイバー攻撃だったならば、偽装ということを除けば、他国の衛星には支障はないだろう。日本だけにとどめない、つまり世界的に攻撃を行うにしてはやり口が婉曲すぎる。
だからそうだ、安心したいのだ。
俺は手汗の書いてきた指を駆り、マウスをスクロールする。
つい先ほど更新されたニュースがアップされている。
俺はクリックした。
読み込む時間がやけに長く感じる。
そうして表示されたのは、
「衛星の機能不全、他国にも広がる。アメリカ、ロシア等、すでに七カ国に影響」
大地が読み上げた。
暫く俺たちは何も出来ないでいた。
汗がしたたり落ちて俺の右手にひんやりと伝わる。
俺はブラウザを落とすと、パソコンをシャットダウンした。
つられて大地も動き出し、部屋の電気を消しに行く。
俺は先に部屋を出て、扉を閉めて立ち止まる。
廊下のはめ殺しの窓には夕焼けとともに星が綺羅ついていた。
俺はその光景を見ながら一人ごちる。
「ケスラーシンドローム」
それは、俺たちに突き付けられた現実だった。
ケスラーシンドローム。
ある種のシミュレーションの一種である。
宇宙には、使われなくなった衛星、使用されたロケットの破片など、大なり小なり様々な物体、スペースデブリが地球の重力に捕らわれて周囲を運動している。
そのためスペースデブリ同士の衝突は起こってしまうことだ。
それによりデブリの数は増加し、地球を包む粒は増えてしまうことになる。
では、ある一定量を超えたスペースデブリが地球近傍に存在していたらどうなるだろうか?
デブリは何百回、何千回、何万回という衝突を繰り返し、数はネズミ算的に増加。
瞬く間に地球はごみで覆われてしまう事だろう。
そうなれば地球における宇宙活動は不可能になってしまうのではないか。
これがケスラーシンドロームだ。
無論、それを阻止するために各国、企業が様々に努力しているし、この研究室だってその一つである。
しかし、しかしなぁ。
「それが十年以内に起こるってのは早すぎないか?」
寮のベッドで天井相手に一人ごちる。
ビジネスホテルの一室のような個人部屋は物の多い俺にとっては狭いという感想が大きいが、それも住めば都だった。
しかし今はそんなことなどどうでも良かった。
「どうすりゃいいんだこれは…。まずは現実に起こり得る可能性をもっと詰めるべきなんだろうけれど。このまま教授に提出するわけにもいかないし。ていうか空想でやってみて面白~ってなる予定がこれじゃ冗談にもならない。でもまだ想像の域を出てないしな。デブリじゃない可能性も…。いやでも教授が動いちゃっているし、それに他国にも影響出ているし…。」
俺は悩みに悩んで、しかしここでふとなぜか、思い出した。
銀河の言葉だ。
「良いねって、何が良かったんだ…?」
目差銀河は俺たちと同期で、同じ研究室に所属している。
成績、普通、存在感、無。
同じ講義を受けていても、どこにいるのか、というかいたのかが分からないような。
しゃべりかけられて初めて分かるような。
しかしその顔立ちと澄み渡る声色と独特の口調は強烈な印象を残すのだ。
一度話し終えるとどこに行ったのかは分からなくなるのだが。
そんな特殊な人間だった。
でも俺たちと同じ研究室で、デブリ問題を研究しているのに、どうして良いなんて言うんだろうか。
いや、確かに俺も面白いとか言っちゃったけど。それでも何というか。
真に迫る、気迫を感じた。
言葉を放ったときの表情を思い出す。
いつもの真顔に見えたかもしれない。
しかし俺には、口角がミリ単位で上がっているように見えたのだ。
否、そんなことを考えていてもしょうがない。
今やるべきことは山ほどあるのだ。
だが体というものは毎日同じ行動を取らすもので、俺はすぐに睡魔に負けて、暗闇の中に思考を落とした。
不安で大して眠れなかったせいで朝早くに研究室に着いた俺は、扉の奥から声が聞こえるのを感じた。
開けた先には、立ったままモニタを眺めている教授と椅子に座って説明中の大地がいた。
教授が気付いて、
「おはよう」
「おはようございます。これは」
「すまんな、俺が教授に話を通したんだ」
「それは良いけど」
教授の顔を伺うと、
「こちらでも想定はしていたんだが」
そう聞くと教授は訝しそうに、
「機密事項なのだが、この精度ならこちらから斡旋しても問題ないだろう」
と開き直ると、
「昨日の時点で、国が動いてな。宇宙航空研究開発機構とスカパー、各々の重鎮たちが揃って緊急会議が開かれた。だが可笑しな話だと思わないか?一介の大学教授をすぐさま呼びつける理由は普通ない。つまり、私をわざわざ呼びつけたのは確実に近い何かしらの理由があるとそう思っていたんだ」
すると教授はビジネスバッグに入っていたクリアファイルからA4紙を取り出して、
「そしたらビンゴだった、これを見ろ」
と机に置いた。
そこには宇宙から見た日本の山間が覗いていた。しかし、その右下に謎の白点がある。
かなり大きい。
「一昨日の朝四時三十六分、光学カメラ搭載超小型衛星が写した画像だ。ちなみにこの後機能停止している。早朝時点で他衛星が謎の通信不能だっていうので深夜から宇宙航空研究開発機構メンバーは揃っていたらしい」
「この点って、もしかして」大地が眉根を上げながら尋ねる。
「恐らくデブリだ。SSNにもSSSにも登録されていない」
俺は目を見開いた。
やはり、現実だったのだ。
何度でもそのショックが覆いかぶさる。
「私の方に原因究明の依頼が来ている。無論その道の専門家たちとやる予定ではあるが、もし良かったら君たちの力も借りたい。正直ここまでの解析は一考の余地がある」
「ありがとう、ございます」
あまり感謝されても嬉しくはなかった。
「二人はそのまま解析を続けてくれ。特に原因についてだ」
大地は言いたいことがあるようで、
「そうですね、でもやっぱり他国からの攻撃の線が濃厚でしょうか」
「宇宙の土壌は今だ発展段階だからな」
「昨日実現可能性を考えていたのですが、宇宙でミサイルを飛ばすと条約違反だし、見つかるし。だったら衛星をぶつけるという接触攻撃ならば、打ち上げ時にばれにくいしもし衝突しても事故で処理することもできる、というわけですかね」
昨日あれだけ懐疑的だったというのに、大地も心配だったようだ。
「事例を引っ張り上げれば中国や旧ソ連など、ストーカー衛星を打ち上げた国はいたからな。しかしこんな時勢にここまでやるとはとんだ阿保だが、しょうがない。ん、まずいな」
教授は腕時計を見つめて、
「これから会議だ。ではよろしく頼んだ」
と言って即座に掃けていった。
俺たちは自分の席について、暫し無言で解析を続けていた。
クーラーとパソコンの駆動音だけが響き渡る。正直胸が痛くなる。
二時間ほど格闘した後、大地は我慢の限界のように、
「あー、煮詰まってんなぁ」
俺は今がチャンスだと思った。
「飲み物買ってくる、リクエストは?」
「あざ、ブラックコーヒーよろしく」
要望を聞くと俺はそそくさと退出した。
一階の共同利用スペースには自販機が三台並んでいた。
俺は大地の好みのものを嫌というほど知っているので、奥から二番目の自販機へと向かう。
自分の分の緑茶も押して二つを手に取ると、
「重要なのは、今知ったことさ」
後ろから静かなる声がした。
振り返ると銀河。
「あ、おはよう」
いや違う、言いたいことはそうではなかった。
「重要なことって、なに?ていうか、気付いていたんだよね、このままだとどうなるのか」
銀河は目線を俺に一極集中しながら、
「君たちは知れたんだ、ここが重要だ。知るということは、鍵を手に入れたということだ。そして鍵をどうするかは君たち次第だ」
意味不明なことを真顔でずっと見られながら言われるのは何だか恥ずかしい気になって下を向く。
「どういうこと?」
「時間は限られているから。君のしたいことを、すればいいのさ」
俺はそこで振り向いた。
「したい、こと?」
銀河は微笑を携えている。
その意味を考えすぎるあまり手の力を抜いてしまったか、誤ってペットボトルを落としてしまい、床に不甲斐ない音が広がる。
「あ」
拾い上げて再度振り向くも、そこに銀河の姿はなかった。
どうしてそんなにも気にかかるのだろうか。
したい、こと。
ありふれた言葉だけれど、今だからこそ良く考えねばならないからだろうか。
最初に触れたのは、小学生の時だ。
将来の夢を書くという課題で、自分は宇宙飛行士と書いた覚えがある。
他のものは野球選手とか、パティシエであるとか、中にはないから適当に書いた人まで。
人は、未来のことであればあるほど、どうでも良いと思ってしまうものだ。
中学生の時も、高校生の時も、そんなことに立たされた。
将来の夢は宇宙系の技術者に変わったが、原点は同じだったし、俺はそのために勉強もしたし、知識もつけた。
周りはそんなものがない人の方が増えたようで、今を生きることを全力で楽しんでいるように見えた。
一度言われたことがある。
彼は小学生の頃からいた気がして、でも高校で初めて会ったような、そんな人だった。
気付いたら近くにいて、でもいないことが普通のような。
たまたま席が近くにいて、だからたまに話していた。
俺の進路希望調査を挟みながら、いつもの微笑で言っていた。
他のことは思い出せないけれど、それだけは明確に鮮やかに、思い出せる。
岐路に立たされた時ほど、よく考える。
「今と未来、どちらが大切なんだい?」
俺はただ、無言でいるしかなかった。
大分しみったれたことを考えるようになってしまった。
ちょっとした後悔をしながら研究室に戻り、また同じ椅子に座り、俺は解析を続けた。
ぶつくさ言いながらも進めていた大地の愚痴が時がたつにつれて大きくなった。
「大体、何でこんな野蛮なことをする必要があるんだ」
俺は自分のモニターを覗き込みながら、
「世界規模で影響を及ぼせば、自国との差が小さくなるとでも思った、とか?」
「衛星上げる技術力のある国がすることじゃないだろ」
「俺だって分からないよ。分からないから困ってるんだ」
何だかそんなことどうでもいい気がする。なぜだろう。
大地は不満が募っているようで、
「さっさと原因究明して、その国叩いて、あとは偉いさんが何とかしてくれ。俺は論文書きたいんだ。書いて卒業して会社就職して安泰に過ごせればそれでいい」
違う。そういうことじゃないんだ。
大地は結論付けた。
「あーーーもうこんなの無理だ、条件に入る衛星もそれを内包できる衛星も存在しない、どうすりゃいいんだ」
俺は大地に何か言わんとして振り返り、そして視界に入った風景を見て思考を乗っ取られた。
「もう夕方か。飯にしようか」
それもそうだな、となり大地は片を付けた。
パソコンを閉じ、部屋の電気を消して、研究室を出る。
そんなルーティンのような動作をしているとき、思考は何にも邪魔されない。
俺は考えていた。
大地に何を言おうとしていたのだろうか。
しかし解答は空のペットボトルとともにごみ箱の中に消えた。
いつもと同じはずの学食は何故か美味しさが三割減のような気がした。
大地も浮かない顔をしている。
俺たちは大して何も話すことのないまま、それぞれの寮へと戻った。
部屋の扉を開け、電気も付けずにベッドに体を倒す。
俺は何をしたいのだろうか。
やるべきことがあるはずなのに、それが分からない。
そんな虚無感が体全体を支配する。
時計の針の音だけが俺の脳内に響いていた。
そのまま意識が遠のきそうになった瞬間、机に投げた携帯が唸りを上げた。
俺は即座に飛び起きると電話に出た。大地だ。
「もしもし、どうした―」
「やばいやばいやばい、どうしよう俺どうすればいい!?」
今までにない焦りを感じた。
俺は落ち着きを取り戻すように尋ねる。
「何があったんだ?」
「さっき教授から電話が来て、俺が念のため解析して、そしたらやばいことが分かって、何で時間があったのに気づかなかったんだ。取り返しがつかないことになっちまう」
「どうしたんだよ!ちゃんと教えてくれ!」
大きな声を出すなんていつ以来だろうか。
大地は少し落ち着いたようで、
「教授が、ISSに衝突するデブリが問題かもしれないって言っていたんだ」
「国際宇宙ステーション?」
「あぁ」
「確かに今の宇宙じゃ未知のデブリがあるかもだけど、視認できないような大きさは基本頑丈に作ってあるし、大きいとスラスターで避けるんじゃ」
「それをもう何回も行っていたんだ!もう動かせない!情報が錯綜していて伝わるのが遅れた!」
大地は一呼吸置くと、
「それで、教授たちの方でシミュレーションを行ったら、二十時十八分に直径数メートル規模のデブリが衝突するって。俺の方でやっても同じだったんだ!」
俺は電気を付けて時計を見る。
あと十分しかない。
「なぁ、俺は―」
そこで俺は携帯を投げ出した。
扉を豪快に開けて、廊下を全速力で走る。
自動ドアが開くのを焦りながら待ち、すぐさま自転車に飛び乗った。
俺は気づけば大学へと進んでいた。
いつもの橋を通り過ぎる。
夜空は透き通るように快晴で、今まで通りの景色が広がっていた。
俺はISSを肉眼で捉える。
どうすれば回避できる?乗組員七名を死なせずにすむ?
いや、焦りはそれだけじゃないんだ。
俺は再三見たモニターの画面を思い出していた。
宇宙視点による地球の全景。この時刻。衛星の位置。
破砕した軌道上のスペースデブリ。
そうだ、間違いない。
仮にISSがデブリを回避したとしても、その近くの地上観測衛星に衝突する。
俺の中で軌道が動く。連鎖が続く。そうしたらもっとデブリが広がる。
どうしたって回避できない。
そこで俺はようやく理解した。
大地に言いたかったことを。
「国同士の争いとか、責任問題とか、そんなことどうだっていいんだ」
もっと怖いことを。
「今後一切宇宙活動できないことが問題なんだ!」
しかし俺は、どちらを犠牲にすべきかなんて想像もつかなかった。
その思いを無視するた。に自転車をこぐ速度を上げる。
夜とはいえ、湿気と急な運動による発汗は大きなものとなった。
自転車を停め、鍵をかける。
俺が大学へ来た理由は一つだった。
彼は、時間は限られていると言った。
彼は、全てを見通していた。
よくよく考えてみれば、おかしな話だ。
ただの一介の学生風情が、ここまでの完璧なるシミュレーションなどできるのだろうか。
物凄く答えに近い解析結果が導出された。にもかかわらず、その原因は予測不能。
まるで、俺たちに考えさせるために導かれたかのように。
宇宙飛行士もデブリも解決できる方法。
考えれば考えるほど、自分の無力感ばかりを痛感する。
それでも彼を、探すしかない。
俺は研究棟へと走った。
腕時計を見ると、時間はあと五分を切っていた。
急いで棟への扉を開けようとすると、
視界にはたと人影が止まった。
建物同士の間にある中庭に、見慣れた人間が立っていた。
「銀河!」
俺は叫んだ。
しかし、何分冷静だった。
銀河は振り向かず、ずっと夜空の同じ方向を見つめていた。
その方角は、俺の知っている方角だった。
ずっと近くにいたはずなんだ。
その姿を忘れていただけなんだ。
俺は思い出した。
あの時進路希望調査を挟んだその時から、いや、もっと前から、俺は選択する必要があったのだ。
全部が、繋がった。
俺は近づきながら、思考をまとめ上げた。
言うべきことを、順序だてる。
「なぁ、俺は、元から想像力が大きい人間なんだ」
銀河は無言だ。
俺は続ける。
「だから、これから言う事は、物凄く頭の可笑しなことかもしれない。でも、それでも聞いておかなければいけないんだ。だから言うよ」
表情は変わらない。
「全部、銀河。君がやったのか」
頷かなかった。ただ、真っすぐに見つめていた。
その無言が、答えだった。
数秒の静寂の後、口を開いたのは、銀河だった。
「君は人と地球、どちらをとるんだい?」
「…え?」
俺は思考を停止した。
汗がしたたり落ちる。
「言い換えようか。君は、今と未来、どちらを選択する?全てはそこに、懸けられた」
まただ。
今と、未来。
「俺は…」
何を踏みとどまっている。
銀河は何者だ?どうしてそんなことを言っている?
いや、そんなことはどうだっていいんだ。
重要なことは、選択することだ。
これは大いなる岐路だ。
感覚でも、銀河の言葉でも、それは理解できる。
俺は今ここで、その選択を誤ってはいけない。
今言えないことを、捨てたことを、これからすることなんてできないんだ。
俺は夜空を見上げる。
ひときわ大きな衛星を、視界一杯に見据える。
覚悟を、決めるんだ。
最初から、分かりきっていたことなのに。
それでも俺は、逃げていたから。
だから、全部。もう、全て。
「俺は、宇宙が大好きだ」
もう止まってやるか。
「分かっていることも、分かろうとしていることも、分からないことも全部!欲求と冒険心がうずうずしたことが原点なんだ!だから地球がデブリで汚染されて、それでこれからの宇宙活動ができないなんて、俺は絶対に嫌だ!でも、だからって人の命を投げ出すなんて、そんなこと、そんなこと、絶対にしたくない!」
もっとだ。
「今を大切にすることも、将来を深く考えることも、同じなんだ!どっちかが欠けていても成立しない!だから、俺は!俺は!」
大きく息を吸う。
「今も未来も、どっちも救いたい!」
息を切らしてぜいぜい言い終える。
銀河は、ずっと黙って聞いていた。
そして最後に、笑っていた。
「そう、それを、聞きたかったんだ。鍵を見つけた者が辿る道、それはたくさんあるけれど、正解は一つなんだ。とても簡単だけれど、到達することは難しい。だから、大切なんだ」
銀河は続けた。まるで俺を諭すかのように。
「これは、病気だ。だから誰かがやらなければいけない」
俺を見つめながら、
「これは、症候群だ。だから、誰かに託さなくちゃいけない」
銀河は腕をこちらに向け、すらりとした人差し指を指した。
俺はその方向にある自分の腕時計を見る。
タイムリミットは、もう秒読みだった。
「だからもう、君が終わらせるんだ」
おもむろに銀河は腕を空に掲げる。
俺はその直線状を見た。
大きな白い点が、進み、そして。
時計の動く音だけが、静寂の中に響いていた。
現在時刻、二十時十九分。
大いなる衛星は、優雅に地球を回っていた。
「銀河、君は」
俺に歩み寄る。
「君が望むことだから、君がすべきことだから、人は思いを紡げるのさ」
手を、という言葉とともに、さっきまで掲げていた腕を俺に向ける。
広げた手の平には、血塗られたような、『K』の文字。
「これは…」
銀河はにこやかに、
「さぁ」
最大級の笑顔で。
俺は、もう踏みとどまらない。
きっと、恐らく、重い、重い選択だ。
けれど、しなければ、一生後悔する。
だから、やるんだ。
今も、未来も、守るために。
俺は右手を、銀河に重ねた。
朝のニュースを見て、すぐさま薄汚い学生寮から出て、備え付きの自転車置き場へと走った。
自転車の鍵を探しながらスマホをポケットの中にしまう。
俺は鍵を差し込みながら自転車置き場から出すと、自転車を走らせ始めた。
ニュースの内容はこうだ。
「全衛星、完全に復帰。原因は今だ分からず」
事の顛末としては、昨夜二十時二十分ごろに衛星の電場受信を確認。軌道上で日本より離れた場所にいた衛星も順次送受信を開始し、それは全ての衛星へと波及した。
ちゃんとGPSも動くし、物流も大丈夫だし、地上のデータも取れているし、天気予報も正確だ。
つまり、人類はいつもと同じような日常を取り戻したというわけだ。
でも、その日常はずっと続くものじゃない。
何もしないでいるといつかどうなるのか、俺はそれをまざまざと見せつけられた。
まざまざというと、よく観察したのだが、俺の右手の平には変な文字がついている。
入念に洗ってもとれることはなかった。
目差銀河はというと、なんだか普通の少年に戻ってしまったかのようで、普通の存在感と普通の話し方と普通に美形だからまぁ良いキャンパスライフを歩めるだろうさ。
もしかしたら、それこそが彼の本性だったのかもしれない。
ただ、誰かに託された危機意識が、彼をそうさせていたのかもしれない。
誰が始めたのか、それは予想しかできないが、その強い思いと、警告と、地球の未来に対する意志は、人を、歴史を、全てを超えて、はるばるここまでやってきたのだ。
責任重大案件を俺は背負いこんだわけである。
しかし、何ら後悔はない。
やってやる、そんな熱い思いが体中を行き渡る。
まるで誰かに励まされているかのように。
俺は自転車を停め、ふと景色を見る。
小さな橋を渡っており、人通りもそこそこのいつもの光景だった。
川の向こうに広がる薄明りの空は、煌々と輝いている。
この空も、日常も、託されたから。
今と、未来のために。
俺は力強く、走り出した。
ケスラーシンドローム 撫川琳太郎 @nadelin
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます