私が「マリー」だった頃1

 窓の外から雀たちの囀りが耳に入ってくる。もうそんな時間なのかと思いながら、布団の中でみじろぎしていると、カーテンの隙間から日差しが差し込んできた。眩しさにまばたきをしながら、ゆっくり躰を起こすと私は口の前に手を当てて、河馬のように大きなあくびを一つした。

 時計の針はあともう数秒で七時になろうしている。ベッドから出て立ち上がり、スリッパを履きながらペールグレーのカーディガンを羽織ると、私はドアノブに手を伸ばし、開けた。

 パジャマのまま廊下に出ると、冷たい空気が私の肌をじわりと刺し、足元を冷やしていく。咽喉が渇いたので牛乳を取りに行こうと足早に厨房へと向かい、日頃使っている薄い若草色のカップを、飾り気のない食器棚から取り出した。その向かい側には自分の肩くらいまでしかなく、白くて一つだけドアが付いている冷蔵庫があった。ドアを開け、私は上段から牛乳パックを取り出し、カップの半分まで注ぎ終わると、元の位置へと戻し、少し乱暴にドアを閉めた。

 部屋に戻ってからベッドに座り、一息ついてから牛乳を口にする。部屋の中にはもう一人、私より少し歳上の女性がいて、未だにすやすやと眠っていた。もう少しで今日が始まるというのに、彼女は涎を口から垂らし、眼を閉じたまま。

 今まで何度こんな光景を見ただろうか。齢二十二にもなるのに、彼女の精神は幼いままだ。別に学校へ通っていない訳ではなく、ちゃんと卒業はしている。それどころか、大学にも通っていたらしいので、地頭はいいのだろう。ただ、精神年齢が文法やごく初歩的な算数を教わっている子供達と変わらないだけで。私は頭にきて、

「先輩、起きてください!朝ですよ」

「あー……?うっさいなあ、もう……」

「もうすぐで朝のお祈りが始まるんです‼︎起きてください」

「やだっ、やだあ‼︎もう少し寝ていたい〜」

「起きろっつってんだろ⁈このクソジゼル‼︎」

言いながら私は先輩のベッドから布団を無理矢理引き剥がす。

「やぁだ、マリーったらひどぉい‼︎暴力はんたーい!」

「いつまでも起きないからです‼︎」

寒い、布団が恋しいと喚きながら着替える先輩を横目で見遣りながら、私は髪を梳かしていた。相変わらず癖が強く、鬱陶しい栗色のこの髪は、小さい頃こそ伸ばしていたが、月日を経るにつれて段々と手入れが面倒になったので、今は三ヶ月に一回、村の床屋で切ってもらっている。短くなってからは大分スッキリしたが、それでコンプレックスが解消された訳ではないというのは痛い。

 鏡の中を覗き込み、髪以外にも服にシワが付いていないかなどを確認する。今日もいつも通りの白いシンプルなブラウスに、墨色のワンピースという組み合わせ。側から見たら地味だが、これはあくまでも仕事着みたいなものだから選択肢という概念はないのである。昔、本で読んだ、遠い東の果ての島国にあるという漆器のように黒光りする革靴を履き、私は子供達を起こしに外へ出た。

 二階にある小さな子供達の部屋に行くと、幾人かは起きていた。朝だということが肌で分かったのか、それとも足音がしたからなのかは分からないが。彼らは私が入ってくるなり、

「おはよう、マリー先生!」

「おはようなの」

「おはよーございまーす……」

と朗らかな声で挨拶をした。私はそれに、

「おはようチビ達。さあ、お祈りが始まるからお支度しようねー。他のチビ達も起きな」

声を張り上げつつも同じように言う。眠そうに目をこすっている子もいるが、私は構わず階下へ向かった。子供達が付いてきているか確認をしつつ。

 皆が着替え終わるまで待ち、遅れている子の着替えは手伝ってやる。そうして全て終わったら、改めて付いていくよう年長の子に指示をし、子供達を一階にある礼拝堂へ引率していった。

 本物の教会や修道院さながらの厳かな、けれども小さな礼拝堂に着くと、この孤児院の院長先生がそこにはいた。彼女はいつも一番乗りなのだと言われているが、たった一度だけ例外があったのだと、ジゼルとは別の先輩シスターから聞いたことがある。それは中庭に作られている小さな花壇に咲いていた花が枯れた時。大事に育てていたこともあり、彼女は暫く立ち尽くしていたのだという。それから少し後、遅れながらもきちんと礼拝を済ませたのだそうだ。まだ私が入ってくる五年前の話である。

 朝の礼拝が終わる頃、子供達の中には居眠りしている子がちらほらと混じるようになっていた。確かに説教を聞いているだけだと退屈だが、結構いいこと、正しいことを言っている。聖書というモノを手放しで褒めそやすつもりは毛頭ないが、この本は間違いなく子供達にとって道徳の教材になっている。そう言ってしまえる。

 朝食の時間になると、一気に騒がしくなった。もう少しで大人と言って差し支えないような年長の子も、この院に来て間もないような、言葉が辿々しくて上手く話せないような年少の子も。歳の差など関係なく、今日も元気にパンを取り合っていた。取り合いは主に男の子達がするもので、その証拠に女の子達は、席について適当なパンにバターを塗ってから、行儀よく千切って食べている。男の子の中にも血の気の多い子とそうでない子は確かにいて、ごく少数だけいるその子達は興味がないのか、それとも喧嘩に怯えているのか争いには加わらなかった。女の子達のようにマナーがしっかりしている訳ではないが、彼らは黙々と食べていた。

 私はテーブルの八分の一はある大きな籠の中から、綺麗に切り分けられたバタールを二、三個ほど皿に乗せ、先が丸くなっているバターナイフでつやつやのバターをべったりと塗りたくる。焼きたてのパンに乗った溶けかけのそれは、ものの数秒で完全に溶け、やがてパンの中に染み込んでいった。パン皿の隣には鶏肉とタマネギ、そしてニンジンが入ったコンソメスープがある。ぱっと見は質素なものだが、澄んだ茶色のスープの中に肉や野菜が浮かんでいるのを見ると、少しだけ嬉しくなる。それにこれが一番だと思うのだ。美味しいだけでなく、栄養バランスもいい。彼らが浮浪児だったら、毎日盗みや物乞いをしなければ生きることは出来なかっただろう。その日暮らしが精一杯で、パンさえ食べられない時もあったかもしれないし、やがて飢えてのたれ死んでいただろう。

 そんなことを思いつつ私がパンを食べ終え、スープに手をつけ始めた頃、子供のうち一人がうっかり手を滑らせてスプーンを落としてしまった。床にはスプーン一杯分のスープが滴り落ちている。落ちたスプーンには埃が付いているが、そんなことなどお構いなしに彼はスプーンを拾おうとしていた。

「おら、洗ってやるから待ってな」

私はスプーンを拾い、流しへ持っていく。少しだけ濯いだ後、少年に渡した。すると彼は、

「ありがとう、マリー先生!」と言って席へ戻った。

 さっきの少年はスープを冷ましながら食べている。それを見た私の顔からは思わず笑みが溢れた。

 年少の子以外は学校へ行き、私達シスターは彼らがいない間に買い出しや掃除、洗濯を済ませようと、忙しなく院の中を駆け回る。ここにいる子供達は皆身寄りがなく、中には親から手酷く虐げられた子供もいる。

 私もそのうちの一人で、父は小さな肉屋を経営している一方で私にはつらく当たり、酒浸りだった。ある日、父が自動車に撥ねられ、私は母と二人で暮らすことになった。少しだけ幸せだったが、私が五歳になったある日、母は病死。身寄りがない私はそのままこの孤児院に来たのだった。

 十五年間育ててくれた院長先生に少しでも恩返しがしたいということもあり、私は院のシスターになった。しかし、同い年の女の子達はお洒落をしてパリに出掛けたり、男の子と逢い引きをしている。だが私にはそれが出来ない。教会運営の孤児院のシスターだから仕方ないとはいえ、少女時代にこっそり読んだロマンス小説のような甘い恋を一度でいいからしてみたい。そう思いながら、子供達に与える明日のおやつの材料やおかずを買おうと村の市場へ向かう。今日のおやつはチョコレートのカップケーキ。子供達の中には甘いものを好まない子もいるので、甘さ控えめのケーキは気にいるだろうと思ったのだ。そんな思いを胸に仕舞い込み、私は沢山の人々が行き交う小さな市場へ足を踏み入れた。

 ポケットの中の懐中時計を覗き見ると、そこまで時間は経っていないようだった。空を見上げると、まだ午前中だということが分かる。店先には沢山の野菜や果物、肉や魚がところ狭しと並んでいるが、野菜と果物はどれもみずみずしく、そのまま齧り付いてもイケそうだ。特にこの季節にしか採れない果物はそうだ。苺がいい例だろうか。手でヘタを取ってからそのまま齧り付くのが一番いいのだ。かといって院の子供達にそんなことをさせようとは思わない。

「何買ってこうかなー……」

そう思った矢先、近くから声をかけられた。

「あら、マリーちゃん!」

「ジュリエットおばさん、久しぶりですね!」

果物屋のおばさんが、私を見かけたので声をかけてくれたのだ。

「今日はお出かけかい?」

「子供達のおやつの材料と、ご飯に添えるおかずの材料が欲しいんです」

「おやつならいいものがあるよ。ほら、青リンゴさ。そのまま食べるも良し、焼きリンゴにするもよし。ジャムやゼリーにするのもいいね。今なら一個だけだけどおまけしておくよ」

「ありがとうございます‼︎」

ベージュの紙袋に詰められた青リンゴを抱え、私は次の店へと急いだ。

 次に向かったのは、市場の出口に程近い肉屋で、ハムやソーセージ、鶏肉を買った。子供達は育ち盛りだから、肉や魚を沢山食べた方がいい。だから週に二度は献立に肉のスープを入れるのだ。しかし、野菜や果物だけならまだしも、肉が加わるとかなり重く感じる。その上視界が塞がってしまうということもあり、バランスを崩し易くなる。そのせいで足下の小石に躓いた私は膝を擦りむいてしまった。

 紙袋からはついさっき買ったばかりの青リンゴが三個、四個ほど転がり落ちた。場所が硬い石畳の上だったこともあってか、傷がついていた。紙袋そのものはくしゃくしゃになり、少し破れている。急いでリンゴを拾い集めていると、目の前に一人の少年が現れた。

「どうしました、手伝いましょうか?」

童話の絵本から飛び出してきた王子様のような美しさを持ち、まるで映画の俳優や人形のような金髪碧眼の彼は、年相応の低い声で優しく話しかけてきた。顔は申し分ないのに、彼の服装は酷く味気ない。頭にはハンチングを被り、ベージュのシャツにモスグリーンのパンツを穿いている。パンツはサスペンダーで吊られているが、男臭さというものを感じることはなく、女性的とも感じられた。靴は栗色のブーツで、下にはグレーのソックスを履いている。村ではまず見かけないタイプの人だった。

 彼は私が落としたリンゴを拾うと、両手で抱えて持ってきた。

「これで全部ですか?」

「そうだよ、ありがとう!」

「いえ、当然のことをしたまでですから」

私が礼を言うと、少年はどこかへと去っていった。天使のような笑顔を残して。

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remain(オリジナル版) 縁田 華 @meraph

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