ぜんぶこの男のせい2

小柴

上司編

 最近、職場で彼氏ができた。私、橘香織(たちばなかおり)とは別の部署だ。仕事で嫌なことがあっても彼氏に会うとハッピーな気持ちになれる。

 今日も昼休みに、屋上で一緒にお弁当を食べていた。互いの肩をくっつけあって、ときどき中身を交換し合いながら「今日の夜さあ…」と、彼氏が期待した顔で言おうとした時だ。


「ミス・橘」

 甘い空気を断ち切るような上司の険しい声が響いた。

「昼休みは終わりましたよ。午後の会議で使う資料の訂正版をまだ貰っていないのですが」

「は、はい、ただいま…!」

 となりにいた彼氏にも、上司は厳しい視線を向けた。「……営業部のキミ。営業なら時間はきちんと見たまえ」

 彼氏は体格のいい上司に睨まれてすごすごと退散した。


 ──この鬼上司め。

 香織は心の中で悪態をついた。普通、あんな雰囲気になっていたら声をかけるのをためらうだろう。資料の訂正はほんのわずかだった。さっきは会議直前で良いと言っていたくせに。

「ご苦労。ミス・橘」

 英語の授業みたいに、名字にミスをつけて呼ぶ上司──佐々木の部下になってから、香織は大いにご立腹だった。海外で経営学を学んだという上司は、仕事に厳格さをもとめる。嫌味を言うときも硬い口調でねちねちと迫ってきた。

 この上司は本当に人使いが荒い。それも、香織にだけ。香織の仕事を細かくチェックし、すぐに呼び出してはささいな訂正を言いつける。

 パワハラかも?と思って同期の女の子に相談したら、

「きっと面倒見がいいからだよ」

と、ポジティブな返答がきた。「香織ちゃんのこと気に入ってるからだって」

「それはないと思う…」


 しかし部署内での佐々木の評判はとても良かった。優しくて面倒見のよい上司、部下になりたい人、恋人になりたい上司──など、多方面かつ男女問わず人気があった。

 ……確かにルックスは良い。モデル顔負けの高身長でイケメン、ていねいな言葉遣い、女遊びをしているという噂もまったくない。しかも独身。

 女子社員たちの評価が甘くなるのは無理なかった。いや、顔が良いから評価が甘いだけだ。

 ──でも直属の部下になったら違うから!

 イライラしながら香織は会議資料をホッチキスで止めていた。

 最近、まわされる仕事が多い気がする。新規事業がくると、じゃあその件はミス・橘で、と佐々木は二の句を継ぐ間もなく香織に回してくるのだ。おかげで帰りが遅くなり、彼氏と一緒に帰ることすら難しい。

 そんな香織の後ろ姿を佐々木はじっと見ていた。



◇◇◇◇



 土曜日。ようやく週末がやってきて、わくわくしながら服を選んでいた。今日は彼氏とデートだ。付き合って初めてのデートということもあり、服装選びに気合が入る。

 となると下着も……と考えて、いちおう上下揃いのものを選び、肌のケアを丁寧にやった。はじめてのデートなのに準備万端すぎるだろうか。でも1回目はキスまでとか、ウブにこだわる年齢でもないのだ。二十代半ばの久しぶりの彼氏はちんたらできない。

 小さめのバックを肩にかけ、ハイヒールをはいて家を出た時だった。

 ──着信音だ。

 彼氏かな、と思って、相手を確認せずに出る。いつもよりテンション高めで「はあい」と言うと、返ってきたのは鬼上司の声だった。


『ミス・橘』

「っ……は、はい! 佐々木さん、どうかしましたか」

『実は、君の出したデータに大きなミスがあって……このままでは会社が大きな損害をこうむります。休みなのに申し訳ないですが、今から会社に来られますか』

「は、はい…!」


 上司の深刻な声色におじけづいて「はい」と返事してしまった。一呼吸おいてため息をついても、言ってしまったからには後の祭りだ。

 しかたなく彼氏に断りの電話をする。仕事でごめんね、というと彼は「わかった」と言ってくれたがあまり良い感触ではなかった。今週は毎日帰りに誘ってくれたのに、仕事を理由に断っていたからだ。

 ──これで別れたら、どう責任を取ってくれるのだろう。

 家に戻って着替えるのも面倒だ。香織はやけになってハイヒールのまま会社に向かった。



「休みなのに申し訳ないですね」

 職場に着くと佐々木がすずしい顔で待っていた。

「いいえ」

 と、香織は殺意をかくして返事した。

 ──何が申し訳ない、だ、鬼上司め。

 自分のミスとはいえ、大事なデートが台無しになってしまったのだ。今ごろ、彼氏と甘い一時を過ごしていたかもしれないのに。この上司と一緒に居るぶんだけ、教会のチャペルが遠のく気がした。

 休日の職場は閑散として、同じフロアにいるのは佐々木だけだった。データの大きな訂正をしてくれたらしく、訂正が合っているか確認する作業ぐらいしかなかった。

 こんなの、週明けでもよかったんじゃないだろうか。それに、

 ──ここって本当に間違えてたのかな。

 と思うほど完璧な直しだった。


「ミス・橘」

 データの確認を終えて帰ろうとした香織に、佐々木が話しかけた。「今日はいつもと雰囲気が違いますね。どこかへ出かける用事だったのですか?」

「大丈夫です。もう断ったので」

「それは申し訳なかったです。お詫びにディナーでも奢りましょう」

「えっ…。いいんですか?」

「ええ。私の行きつけの店でも構わないなら」


 思ってもみなかった提案に、香織の気分はちょっと明るくなる。上司ならそこそこ良いお店に連れて行ってくれそう。得した気分になり、落ち込んでいた気持ちが上向きになった。

 少しだけ待っていて下さい、という佐々木を待ち、二人で会社を出た。



◇◇◇◇



 夕暮れの街は人通りが多かった。だが人混みの中でも佐々木は身長が高くて雰囲気に華があり、目立っていた。

 ……こうやってみると本当にイケメンだな。

 香織は隣を歩く佐々木を、ちらりと盗み見した。街ゆく女性たちの視線が集まっているのを感じる。さりげなく車道側を歩いてくれるのも好印象だった。

 ──こういう人は、きっと相手に困らないんだろうな。

 香織は胸がちくちくと傷んだ。彼なら週末に仕事をしても恋人と別れたりしないだろう。一方の自分は、ひさしぶりに出来た彼氏とのデートを断っただけで振られないかとハラハラしている。だから彼氏を引き止めるために、身体ぐらい任せても、と思ったのだ。


「…あ……」

 ふと、人混みの中に見覚えのある男性を見つける。彼氏だった。

 彼氏も友人と食事をしに来たのだろうか。声をかけようか迷っていると、腕に知らない女性が絡みついているのに気づいた。

「……ミス・橘?」

 急に立ち止まった香織に、佐々木が声をかける。固まっている視線をたどって納得がいったようだった。佐々木はためらいながらも香織に告げた。

「言いたくなかったんですが……彼は別の部署にも、噂になっている女性がいるみたいです。電話してみては」

「え、でも…」

「はっきりさせた方がいいですよ」

 上司にうながされるまま、香織はしぶしぶと電話をかけた。耳にスマホを当て、目は彼氏のほうを向いて反応を観察する。

 彼氏は鳴ったスマホをとり、着信相手を見て顔をしかめた。遠目でも分かるほど。そのまま女性と腕を組み、歩いて行ってしまった。


「………」

「ミス・橘…」

「佐々木さん……。行くつもりだったお店……居酒屋に変更してもいいですか?」

 唇を噛み締めながら目を潤ませた香織に、さすがの鬼上司も譲歩せざるを得ないようだった。





「あ~もう! あのクソ男!」

 香織は席に着くのが早いかビールを注文し、一気にあおった。四杯目を飲み干すころにはすっかり酔いが回っていた。

「クソ男と言っても、まだ付き合っているでしょう」

「あんなの……もう別れます」

 佐々木はくだを巻く部下にちゃんと付き合ってくれていた。二杯目のビールをゆっくり飲み、彼氏への愚痴をループする香織にあいづちを打つ。職場での人気もあながち間違いではなかったのかもしれない。

「追い討ちをかけるようですが、彼は取引先でも女性関係でトラブルがあったようです。それも二股だそうで」

「さ、最悪じゃないですか……教えてくれてもよかったのに」

 せっかく久しぶりにできた彼氏だったのに、と香織は愚痴を吐いた。「それもこれも……佐々木さんのせいですよう」

 酔っ払い、目の前で心配してくれているにも関わらず文句が出てしまった。

「佐々木さんが上司になってから、ぜんぜんデートに行けてないんです。誰かと良い関係になったタイミングで仕事が増えたり、デートがある週末にミスで呼び出されたり。

 …本当に、偶然かなって思うぐらい……」


 感情が昂ぶり、頭がまとまりにくくなってきた。いつもなら飲みすぎかな、と思ってやめるだろう。でも今夜は一人になりたくなくて引き伸ばすために飲む。

 それに、香織をみる上司の目は冷ややかだった。なんだか悔しくなってきてしまう。

「佐々木さんは、お付き合いとかどうなんですか?」

「あいにくと間に合っているので」

「そうですよね……佐々木さん、ハイスペックですもん」

 もう一杯オーダーしようとした香織を彼は止めた。

「そろそろやめないと、帰れなくなりますよ」

「まだ帰りたくないんです」

「ミス・橘、もう出ましょう」


 お勘定を、と佐々木はお店の人を呼んだ。ぼんやりとした意識で彼が会計を済ませるのを見ていた。

 自力でお店を出たが、普段履き慣れないハイヒールのせいで足がもつれる。よろめいた香織を、佐々木が受け止めた。

「だめ……一人に、しないで……」

 上司の腕は温かくて、なんだか妙に安心してしまった。とんでもないことを口走ったな、と思いながら、香織は残っていた意識を手放した。



◇◇◇◇



「──困ったな」

 すうすうと寝息を立てる香織を腕におさめながら、佐々木はまったく困っていない表情で呟いた。

 ……自分で練った策がこうも上手くいくとは。

 口元が笑う。

 もともと香織の彼氏には良くない噂があり、付き合う前に阻止したかったが出来なかった。そこで、いつものように仕事を増やしてデートを妨害した。もちろん香織がこれまでの彼氏と上手くいかなかったのは、すべてこの男のせいである。

 実はずっと前から香織が気になっていた。だが香織が部下として配属され、もし自分から手を出せばパワハラになるかもしれないと、彼女からのアプローチを待つことにした。仕事を口実にたくさん話しかけた。ところが構いすぎたせいで、逆に嫌われてしまう。

 そのうえ出来る彼氏がいつもロクでもない男ばかりだ。良い相手なら諦められたし、何より幸せになって欲しかった。香織は美人なのに自己肯定感が低すぎるのだ。佐々木ならうんと可愛がって大切にするのに……。

 ちなみに女性と歩いている彼氏を、香織に目撃させたのも佐々木の差金である。知り合いの女性に頼み、あの時間に繁華街を歩かせた。あとは香織をディナーに誘い、はち合わせるだけ。

 ──行きずりの美女に誘われて、恋人の電話を無視するような男など論外だ。

 佐々木に罪悪感は一切なかった。


 rururu・・・

 香織のスマホがこのタイミングで鳴った。着信相手を見て、佐々木はいい機会だと電話に出る。

『ごめんな、香織。ちょっと忙しくて電話に気づかなくてさ……』

 ──ずいぶん調子のいい男だ。おそらく女性に夜の誘いを断られて、香織に電話をしてきたのだろう。

 佐々木は冷たい声で言った。「香織はあなたと『別れる』と言っていた。今後一切、連絡して来るな」

『は? お前、だれ──…』


 佐々木は最後まで聞かずに電話を切り、自然な動作で香織のスマホのパスコードを入力し、電話番号を着信拒否設定にする。

 これで邪魔者は入らない。


「さて、どうしようか」

 佐々木は腕の中でかわいい寝息を立てる女性を見た。ずっと正攻法で手に入れるつもりだったが、上手くいかず遠ざかって行くばかりだ。きっと、これからも。このまま別の男に手を出されるのを待つだけなのだろうか。

 ──『だめ……一人に、しないで……』

 人並みの常識は持っているはずだった。だがそれが吹き飛んでしまうほど、腕の中にある存在は、やわらかく温かく、愛おしかった。

 もちろん香織の家も調査済みである。家へ安全に送り届けることもできた。だがこのチャンスを逃したらもう後はないかもしれない。多少汚い手だとしても、さっきの男より香織を幸せにする自信があった。


「──では、これまで我慢して彼女を守ってきた、自分へのご褒美ということで」


 やると決めれば、罪悪感は吹っ飛び、これまでのわずらわしさも消え失せる。爽快だ。佐々木は仕事でも感じたことのないほどのやる気が湧き上がって、何十倍も頭を回転させた。

 香織が目を覚ますのはどのタイミングだろう。それまでに『何もなかった』と逃げられないよう囲い込んでしまわなければ。だが一番大事な瞬間に、彼女が目覚めていないのも困る。彼女の可愛い反応を永遠に焼き付けておきたい。

 ──手早く、かつ用意周到に。


 いちばんロクでもない男をその気にさせてしまったとは知らず、香織はおだやかに眠っている。




<おわり?>



過去の彼氏が本当にロクでもない男だったのか、別れたばかりの彼氏のウワサが本当なのか、実はわからない。ロクでもない男だったのは、上司ものようで…。いろいろ法律にひっかかる上司です。駄目ですね。

全3話です。こちらでR18小説を投稿するのは少し違う気がしたので、ムーンライトにて続話を投稿しています。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ぜんぶこの男のせい2 小柴 @koshiba0121

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ