ただ一片の雪を

藤枝伊織

第1話

 明日は雪が降る。きっとね。

 予言めいたその言葉を残して、彼は二度と開かない目を閉じた。

 瞬間、地面を埋め尽くすように咲き誇っていた花が、一斉に風に舞った。彼を攫って行ってしまった。

 見開いた私の目からは涙も流れなかった。

 彼を看取るものは私しかいない。雪の中ではなく、花に埋もれるようにして最期を迎えた。一族にとってなんて不名誉なことだと人々が知ったら嘆くだろう。

 彼は穏やかな顔をしていた。花が似合う陽だまりのような人。そう言ったらきっと私はまた軽蔑されるのだろう。

 雪なんて降らない。

 私にできることなら何だってした。だがそれだけは無理なことだった。

 彼がいなくては、雪は降らないのだ。この国を支える恵みの雪。彼の一族のみが  雪を降らせることができた。私は出来損ないだから、一族を名乗ることができない。

 私に雪を降らせる能力は受け継がれていないのだ。そのために幼少期に私は両親から捨てられた。彼だけが、私を拾ってくれた。

 私は彼にすがりついて許しを請うことしかできなかった。私には雪を降らせることができない。彼へ恩を返すことができない。


 明日は雪が降る。


 雪が、降る。

これは予言ではない。呪いだ。

 私は彼の冷たくなった手を握った。この手を合わせ、祈りを捧げると神が応えるように雪が降った。その場を何度も私は見てきた。この手はもう、ただの肉塊でしかない。

 もともと冷たい手をした人だった。

 流氷を思わせるような手は、私の頭をなでるときだけ温かかった。

 彼を揺すってももう無駄だとわかっている。

 すがりついても何の意味もない。

 だが、私は自身の生命を分け与えるように彼に体を寄せた。必要とされていたのは彼だ。生き残っている私ではない。

 雪が降ってくれれば。

 雪は祈りそのものだ。

 雪が降ってくれれば、何か変わるのではないだろうか。


 私は彼の胸の上に花を置いた。私一人では彼を埋めることができない。雪が降れば、それが大雪ならば、彼は自然と埋葬される。雪葬は一族の伝統だ。

 私は彼に背を向けた。彼に頼っていてはいけない。恩を返さなくてはならない。

 そうして、祈りの場まで走った。途中何度か転んだために私の服は泥にまみれた。膝からは血が出ている。

 祈りの場の床は冷たい。血のにじむ膝をつき、手を合わせる。祈りの言葉を口にし、額を床に当て、雪が積もる様子を全身で表現する。

 手が冷たい。どんどん冷えていく。足の感覚はすでにない。

 私は一晩中手を合わせた。


 雪よ。雪よ。どうか。

 声は枯れ、手を合わせることもやっとだ。


 一度だけ、私のために、彼のために。雪よ、降れ。


 声にならない叫びで、私は叫んだ。


 やはり無理なのだ。絶望が心を支配し始めていたそのとき、冷たいものが私の頬に当たった。雨ではない。芯から熱を奪う冷たさ。


 それは、雪だった。


 私の両目から涙があふれた。

 明日は雪が降る。きっとね。彼の言葉が耳の奥で聞こえた。

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ただ一片の雪を 藤枝伊織 @fujieda106

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