純情は得体の知れない化け物

海沈生物

第1話

 生まれて恋をした! 今までどんな人間にも心を動かされなかった僕という存在が、黒髪ツインテールという、アニメにでも出てきそうな子に一目見て目が奪われた。本当に可愛い子だった。僕の拙い語彙じゃ語り尽くせないほどに美しく、眩しくて、まるで神様みたいだった。

 僕は告白することにした。夏に降る雪のように奇跡的で純白の便箋に、引き出しの奥に眠っていた、クリスマスツリーの星みたいにキラキラと光るシールで封をした。顔を紅色に染めて、いざ本番。屋上に来てくれた相手も、どこかよそよそしくて、それが僕の今の感情とリンクして「きゅん」とする。


「あの……僕と付き合ってください!」


 幼い頃、祖父から言われた言葉。恋する人間というものは、純情じゃなきゃならねぇんだ。その馬鹿さが人間らしさを物語る。仮に見え透いた嘘のように「俺は理解しているんだ」「手馴れているんだ」と虚勢を張っても、そこに生まれるのは相手に対する憎悪ばかりだ。瞬間的な快楽しかない。○○、お前は、お前だけは、そうなっちゃいけねぇ。猪突猛進、猪のように生きろ! とても、熱かった。その熱は今でも胸の中で熱さを帯びて、心に灯っている。

 心がすくみ、目を逸らしてしまいそうになったのを、どうにか真っすぐに矯正する。こういう時の答えも、表情も、仕草も、全て分かり切っている。僕は世界の真理を理解していた。


「それは……無理だよ。私はそういうのに興味がないから」


 心が拒絶していた。どうしてそんな酷い、凄惨、虚無、悲惨、殺人的、グロテスク、猟奇的、狂信的、馬鹿らしい、ことを言ってくるのか。正しい努力に正しい成果が送られるように、正しい感情には正しい答えが返ってくるべきなのではないか。純情は正義なのに、なぜ、そんな表情をするのか。


「……やっぱり、貴女”化け物”だったのか」


 僕は相手に近付くと、右手で首を掴む。思ったよりも軽い。細くて真っ白な手首を見ると、あぁそうだと良い案を思い付く。屋上の床へ何度も、何度も、何度も、執拗に頭を殴り付けると、頭からじんわりと血が出てきた。馬乗りになると、相手の丁寧にネイルまでされた爪を使って、制服を破いてしまう。そこに見える肌の色に心臓が跳ね上がるみたいに興奮する。これが正義だ。これが純情に報いなかったものの、あるべき末路だ。垂れた血を爪先に付けて心臓の上に五芒星を書くと、いつも持ち歩いているナイフで、相手の胸へ突き刺した。一度ミスをして肋骨に当たったのか上手く貫通しなかったが、もう一度刺し直すと綺麗に刺すことができた。


「うん。これで大丈夫」


 そこまで来ると、全てが逆再生される。恋の初期化。記憶はあるのにどこか他人事みたいで、感情だけはある一定ラインの僕へと戻る。脳中に残っているのは、快楽への空虚で激しい欲望。次もその次も同じ展開にしか至らないのに、僕は何度も繰り返した。一体何を求めているのか求められたいのか、あるいは、僕は既に一度目の恋愛を終えた時点で心は死んでしまっているのか。

 今日もまた〇×さんを殺した。名前は覚えていない。分からない。思い出そうとしても、せっかく殺してあげた人の顔を思い出してあげられない。引き裂き、恐怖し、殺した存在が分からない。感触だけを指先が覚えている。アスファルトがくゆる熱、冬に誰かから巻かれるマフラーの熱、誰かと唇を絡ませ肉体を絡ませ相容れない魂を絡ませ、慰め、いつか尽きる熱。既に尽きているかもしれない熱。

 何も分からない。何もできない。僕という存在にあるのは、虚無だけだ。何者にも執着できず、本も一ページで捨ててしまう。目薬の冷たさも感じない。世界のあらゆることに全て「経験済みです」のマークが付いていて、Aボタンを何度押しても、否定の声が返ってくるだけだ。

 「死のう」と思った。昔の文豪はさも理解しがたい貴族様だったのだろう。心中という心の頼りを求めている時点で、彼の求めているものは死の向こうにはない。わがままなだけだ。だというのに、いつしか僕まで同じ道を歩いていた。鼻で笑うはずが、鼻で笑われる側にいた。死んだ。殺すのはもうどうでもよくなった。爪を剥がし、肉を抉り、人の死を弄ぶ。

 ×××××、××××、×××、死。脳みそに空いた足りないピース。それを埋める手がかりは、枠の右端にはまっている「死」というピースだけだ。その言葉だけは、虚無においても輝いているのだ。それに触れたのなら、答えが分かるのだろうか。両足は望む場所へと連れて行ってくれる。


 屋上の柵の上で立ち上がると風に揺られて落ちそうになる。なんとか持ち直すと一安心と共に笑顔が漏れる。なんて楽しい瞬間だろう。人生のあらゆる快楽を鼻で笑える。キスも性行為も眠れない夜も、そんなものが全て吹っ飛ぶぐらい胸が躍る。

 あはははははははははははははは、なんて狂人みたいな声を上げる。死が直面すると、分かるのだ。その時だけ世界が輝いているのだ。それをあの文豪は理解していたのだ。そのあらゆる叡智や論理を無視し、快感だけに胸を委ねさせることができる瞬間に、感傷し、死ぬ。落ちていくのは気持ちいい。そのスピードは急速だ。楽しくて、楽しくて、楽しくて、楽しくて! 墜落した瞬間、僕は初めて僕の形が見えたような気がした。


「……そっか、そんなことだったのか」


 潰れた肉体から血を垂れ流すしかない生き物。祖父の言葉が、脳から消失していく。純情が正義だなんて、噓だったのだ。凄惨、虚無、悲惨、殺人的、グロテスク、猟奇的、狂信的、馬鹿らしい、殺してしまった人たちと僕は同じでしかない。僕自身もそうなのだ。純情であっても、そうでなくても、人は平等に、互いにとって、「化け物」なのだ。分かり合えなくて、怖くて、だから良い。初恋の温度が胸に蘇る。それなのに、死は黙々と近付いてくる。

 死を目の前にして初めて、「生が終わる」という恐怖を感じた。

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