クローバー Ⅱ

 ああ、なんか寝苦しい。


 布団とは違う圧迫感が静也を襲っていた。熱を持っているのか熱くもある。


 顔に乗っていた布団を剥がして特に重い部分を見やる。


 あいつだ。


 母上が一緒にお風呂に入っていたが、ここまで変わるとは思っていなかった。別人に見える。肌は瑞々しいし髪も艶々だ。


 寝づらいんだよ。


 腕にからみ付く芙由香をそっと剥がす。その時に気が付いた。閉じられたまぶたから涙が流れている。


「………………」


 柔らかくて細い手を握る。まだざらざらとした嫌な感触はあるけど、この感じだとすぐに無くなるだろうな。


 繋いでいた手に力がこもった。耐えているような表情に苦しさを覚える。


 まだこいつは泣いてる。何か、出来るといいな。


 手を感じているといつの間にか寝ていた。




 目を覚ますと星空みたいな天井が視界に広がった。昨日の様子をゆっくりと思い出していく。


 母親の顔、父親の顔が浮かぶ。それを横からカレーが押し出した。


 私がテーブルの前に座ると、少しも待たずにカレーが出てきた。漂う香りに鼻をスンスンと動かしてしまう。


 芙由香はそっと横を見る。そこに居たのは前の母親ではなく、新しい母親だった。


 そう、そうだ。ここは――――。


「新しい家」


 つぶやいて反芻はんすうする。身に着けている温かい服も新しい。


 どこか無機質なにおいのこの布団もきっと新しい物だと思う。


 自分の置かれた環境にまだ理解が追いつかない。


 取り敢えず起きなきゃ。起きないと怒られる。


 腕を支えにして起き上がると、右手に違和感があった。何かを掴んでいるみたいな。


 左手で布団をめくると自分のでない手があった。すぐ横にあの男の子が居る。


「しず、や?」


 名前を呼んでみた。寝ている彼は動かない。


 ふと視線を感じた。その方向を向くと新しい母親が居た。綺麗な双眸そうぼうと目が合う。


「起きているようですね。芙由香、こっちに来なさい」


 昨日と変わらぬ落ち着いて綺麗な声。来なさいという声に素直に従おうとすると右手が引っ掛かった。


「おはよう、芙由香……手を繋いでどうしたんだ?」


 今度は父親が出てきた。笑っているようなそうでないような顔だ。


 あ、いや。今笑った。


 繋がれた右手を放り投げて逃げたいが、そんなこと出来る気がしなかった。


 お父さんが私の近くまで来る。横の丸まった布団を大人の腕で揺らしていた。


 お父さんの腕ってこんな大きいんだ。


 昨日はタオル越しだったり、緊張したりで気付かなかった。


「静也、仲良く手を繋いでるところ悪いが、朝だぞ。お母さんが怒るぞ」

「仲良く手を繋いでなんかっ――」


 静也は否定の言葉と共に飛び起きるが、自分の手と私の顔を交互に見て何も言わない。


 手を離したいけど、繋いでくれているものを離すのは気が引けた。


「手、離して良いか?」


 私の目を見て言う男の子。咄嗟とっさに返事が出来ず頷くことしか出来ない。


 どうしてか、落ち着かない。


 そんな私の気持ちに気付かずに彼は手を少し乱暴に離した。彼は部屋を出ていくが、お父さんは出て行こうとしない。


「おはような、芙由香」


 今までとどこか違う声色。


「おはよう、ございます」


 自然と言葉を返していた。それを聞いたお父さんは笑顔を浮かべて立ち上がる。


「さぁ、行こうか」


 そう言って私の手を引くお父さん。どこへ行くのだろう。


「芙由香は勉強が好きかな」


 考えたことがない。


「分からないです」

「そうか。依穏いよりさんは勉強が好きだから、この家では朝の30分、大体6時半から7時まで勉強しないといけないからさ、嫌いかどうか心配だったんだ」

「はい、分かりました」


 お父さんの歩みが止まった。昨日ご飯を食べたリビングだ。


「依穏さん。芙由香もやってくれるぞ」

「私の娘なら当然です。私の夫である貴方もしますよね?」

「え……はい、するよ」


 持っていたテレビのリモコンを箱の中に戻してお父さんが椅子に座る。私と静也には色のついた問題集。お母さんとお父さんは色のないプリント。でも書いてある内容は同じみたい。


 お母さんはもう解けたのかコップを傾けていた。静也は姿勢を正してプリントを見ている。


「と、解いたぞ」


 震える手でお父さんからお母さんにプリントが渡される。上から下にさっと流された目は鋭い。


「間違い、3つありますよ」

「またかっ……くぅぅ」

「小学生の問題ですよ。分かっていますか?」


 お母さんの言葉にお父さんの肩が崩れる。しかしすぐにお母さんによって背筋を伸ばされていた。


 問題を半分程解いたところで隣で本を閉じる音が聞こえた。お母さんが丸付けをするわけじゃないんだ。


「そうそう、答え合わせは自分でなさい。解説も時間があったらよく読むことです」


 お父さんの両頬を伸ばしながらお母さんが言う。とっても痛そうだ。勉強の残り時間はあと20分くらい。急がないと。




 リビングには私だけが残っている。3人はみんな2階に上がっていた。


 この家は前のマンションと比べてとても大きいと思える。2階に部屋がいくつあるか分からないけど、1階は私と静也が寝ていた部屋と、縦に長くて大きいリビング、あとはお風呂場とトイレ。


 静也は勉強時間の後にテレビで天気予報を見ていた。今3人が2階に居るのは出かける準備をするためだ。


 私は邪魔にならないように部屋に行こう。でも、勉強は終わったけどリビングに居なきゃいけないかな。うん、勝手に動くのはだめ。でもでも、邪魔になる方が怒られる。


 そんなことを考えていると玄関の方でいつの間にか物音がするようになっていた


 私はどこでお留守番をするのか。それを聞こうと行ってみるとお父さんがリュックサックに色々な物を入れていた。


「芙由香、出かけるよ。お昼ごはんは何か食べたいものはあるかい?」


 え、出かけるの……私も?


 一緒に行くことになっていたとは思わず寝癖も直して無かった。怒られることが怖い。急いで髪を手でとかしながら食べたい物について考える。


 お米じゃなくて、パン食べたいな……。


 「…………パン」


 どうしてか声が出ず、私はかすれるような声で希望を口にした。


 希望を口にした。


 体が凍り付く。怒られた記憶が頭の中を駆け巡った。どうしようという言葉で頭が一杯になる。両手で頭を守りたいのにまるで腕が動かない。


 お父さんが動いた。私は両眼を閉じて痛みに耐えようとする。


「……え」


 痛みは来なかった。代わりに温かくて優しい感触に包まれる。お父さんの頭が横にあり、腕で優しく包まれて頭を撫でられていた。


 お父さんは笑っていた。楽しそうに、笑っていた。


 ここでは笑っても良いんだ。


 その事が安心感と一緒に自分の中に落ちてくる。それを決して離さないように、芙由香はお父さんの笑顔をじっと見ていた。




 芙由香は細い。こんなに細いのにこうして立っていてくれる。


 大吾は涙を笑って誤魔化していた。


 でも、この笑いは嘘じゃない。楽しいんだ。娘が食べたい物があって。家族でそれを食べれることが。当たり前なんだがな。


 まだまだあるぞ。娘の目が見れて嬉しい。髪に触れられて嬉しい。撫でさせてもらえて嬉しい。生きててくれて嬉しい。


 依穏いよりさんが俺に何かを言っている。芙由香が苦しいらしい。そろそろ離しなさいと言っている。けど、もうちょい待ってくれ。


 腕を緩めた。娘のくぐもった声に嬉しくなる。


 もう少しだけ、俺の娘を抱き締めてあげたいんだ。少しでも俺の気持ちが伝わるように。




 私を後部座席の右に乗せた車は大きなショッピングモールの5階に駐められた。走行音が響く駐車場を抜けてエレベーターに乗り込む。


 エレベーターのどこか浮くような感覚が怖い。咄嗟に掴んだものは静也の服の袖だった。振り払われるかなと思ったけど振り払われない。睨まれてるのかなとそっと表情を見やるとその顔は強張っていた。


「……どう、したの?」


「何が」


「だって……顔が」


 彼は両手で自分の頬を触るとぐにぐにと揉んでいた。そんな仕草をするとは思ってもみなかった。彼と目が合う。


「直ったよね」


「う、うん」


 微笑む静也の様子に違和感を芙由香は感じていた。その違和感に戸惑いつつも直ったと重ねて言う。彼は少し口角を上げて前を向いた。


 2人と私は3階に降りるが、静也だけは1階まで降りるみたい。彼はペットショップに行くと言っていた。


「静也。付いていきましょうか」


「ありがとう、母さん。でも大丈夫」


 さっきの顔は何だったのか、彼は特に何でもないように見える。思わずお母さんを見ると私を見て微笑んでいた。




 エレベーターを降りると、お父さんとお母さんが私を挟んで左右に並ぶ。2人同時に私に手を差し伸べてきた。


 握れば良いの……?


 理由も意味も分からないが、私も手を伸ばして重ねた。ぎゅっと重ねられた手が暖かい。


 2人が進むのに引っ張られて私も進んだ。足元に目をやれば私達の歩みは一緒だった。私が右足を踏み出せば2人も右足を前に出す。私が左足を踏み出せば2人も左足を前に出した。


 みんなで歩いてる。


 そんな事実が私を前に向かせた。少しワクワクして歩く速度が速くなる。




 お父さんとお母さんに連れられてきたのは服屋だった。お母さんが何着もの服やズボン、スカートを私に当ててくる。カゴは2つ目の半分まで埋まっていた。その2つ目のカゴも埋まった所で、お母さんはカゴをもう1つ持ってくる。


「座ろうか」


 お父さんに手を引かれて言われた通り近くの椅子に座る。お母さんが今何をしているのか教えてくれた。サイズ、値段、洗いやすさで候補を絞り込んでいるらしい。


 何か気になった服はないかと聞かれる。私は何も答えられなかった。




 服を買い終えるとお腹が空腹を知らせてきた。お昼はどうするのかと2人を見ると、お母さんが持っていた袋をお父さんが引き受けていた。そのまま私の分も持っていく。凄い荷物だ。お父さんは駐車場に一旦戻るらしい。


「パンを買いに行きましょうか」

「う、うん」


 お母さんから出された手を芙由香は握る。私とお母さんは先にパン屋さんだ。でも、お母さんが行った先はパン屋ではなくペットショップだった。


 お母さんが店員さんに話しかける。楽しそうに話すお母さん達から視線を外して静也を探した。そこまで大きくないペットショップだし、人もまばらだからすぐに見つかった。


 静也は猫を抱いていてやたらと丁寧に撫でていた。壊れものを扱うみたいな丁寧さで、家で見た粗暴さは全くない。


 撫でていた手が止まった。静也の様子が変だ。深く俯いて、猫が起きるのも構わず抱き締めている。


 心細い。そんな単語が浮かんできた。凄く寂しくて悲しいように見える。


 少しして浮上した表情はいつもどおりの気の強い顔。なのに、芙由香にはどうしても泣いているように見えた。


 芙由香はお母さんの手を握る。お母さんが店員さんと別れて静也に近付いた。


 お母さんが名前を呼ぶと静也は返事だけした。体は動かない。抱いている猫は再び居心地が良さそうに寝ている。


 お母さんが言った。行きますよと。静也はすぐに立ち上がりあの店員さんに向かう。


 私とお母さんは店の外で待っていた。歩いてくる静也は静かな雰囲気だった。さっき見えたのはなんだったのかと思うような微笑み。疑問はあったが、口は開かず並んで歩く2人の後ろに着いていった。




 お昼を買った買い物袋が私の膝で大きく揺れる。目を開けると車が駐車場に止まっていた。まだはっきりとしない視界に代わって鼻が私がどこに居るのか教えてくれた。


 自然の匂い。森かな。


 車のドアを開けて外に出る。透き通るような空気に触れて目が覚めた。


 静也に名前を呼ばれた。振り返ると彼が私の麦わら帽子を持っていてくれている。


 お礼を言わなきゃ。


 そう思うのに言葉にならない。ボフッと頭に帽子が被せられた。麦わら帽子の匂いがどこか心地良い。また、名前を呼ばれた。皆がなだらかな坂の向こうに居る。


 向かおうとして足が止まった。


 行っていいのかな。


 どこからか私の声がした。両足とも動かなくなる。


 邪魔になるかも。怒られるの嫌だな。私が居ない方が良いよね。


 全部私の声だ。視界がどんどんと暗くなっていく。闇の渦に落ちてしまう。


 突然ぱっと世界が輝いた。麦わら帽子がずれて太陽が眩しい。


 「ほら、行くぞ」


 彼が手を引いていた。行く先にはお母さんとお父さんが間を開けて待っている。二人分はありそうな大きな間。


 私、私は――――――――。


 彼が躓いた。手を繋いでいた私ごと転びそうになる。


 温かい。


 転びかけた私をお父さんが支えてくれていた。静也はお母さんに支えられている。


 私の目の前を薄桃色の破片が無規則に落ちてきた。見上げると舞い散る桜がお父さんを、お母さんを、静也を……私をも包んでくれていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

クローバー 笹霧 @gentiana

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ