クローバー

笹霧

クローバー Ⅰ

「ごめんなさい、ごめんなさいっ」


 家族が揃うリビングで少女が謝罪を繰り返していた。彼女の瞳から1つまた1つと雫が落ちる。


 何もできず、ただそれをじっと見ていた。


 降り続ける雨が誰も言葉を発せない空間に音を足している。


 雑に伸びている彼女の髪の毛が嗚咽おえつが漏れるたびに少し揺れた。


 貸したばかりの上着が彼女の涙で徐々に沈んでいて、あの子は今にも押し潰れそう。


 それは幻覚だ。


 緋山静也ひやま しずやはいつの間にか開いていた口を引き結ぶ。


  噛み締める歯に力を込めると硬直していた四肢が動きを思い出した。


 泣いている女の子の名前を呼ぶと同時に、一歩踏み込む。


「―――――芙由香ふゆか




 駅から歩いて50分。車で20分の距離にある住宅街の一軒家。静也は1人お留守番をしていた。


 今日は土曜日だし、学校が始まる5日前だから2人とも家に居てもいいものなのだが、1人部屋に残されてもう3時間だ。


 見ていたテレビの電源を落とす。


 先程までリビングをいろどっていた明かりは消え失せ、部屋中を曇り色が広がっていった。


 窓の外の他に音がない。


「まだ帰んないのか」


 誰かと会話するかのように大きい独り言。


 いつもなら母上に叱られるのだが、その母上はまだ居ない。


 音に出ないように息を吐き出して、もうすぐ帰るはずと自分を鼓舞する。


 暇つぶしにと携帯ゲーム機に手を伸ばそうとした時、視界の端で明かりが点いた。


「あ!」


 玄関に明かりが灯っていた。父上と母上が帰ってきたのだ。


 走らず、けれど急いで玄関に向かう。


 静也はドアを開けた先で見知らぬ人が居たことに思わず足を止めた。


 あいつは誰だ……?


 そこには脱いだ靴を整える母上と、濡れた髪をタオルで拭く父上。それに、父上にタオルで包まれている女の子が居た。




 母上が急須きゅうすにお湯を注いでいる。


 卓上に並べられたコップの数は4つだ。1つ多い。


 静也は違和感の原因に目を向けた。


 女の子は椅子に座ってからずっと地面を見つめたままだ。しかし微動びどうだにしないというわけではない。


 彼女は時折、父上や母上の動作に何かの反応を示している。


 両手を膝の上に置いて動こうとしないが、物音がする度に肩を跳ねさせていた。


 これは……おびえ?


 よく見ると下に向けている視線は不安定で、体も小刻みに震えている。


「もういいですね」


 静也から対角線上に座る母上が音を立てて手を合わせた。3人の視線を集めて話し始める。


「静也、紹介します。あなたのお姉さんになる芙由香です。仲良くしなさい」


「お姉さん?」


 お姉さんってあれか。


 静也は数ヶ月前にきょうだいが増えると聞いたことを思い出した。


 その時と同じ顔で横に座る父上が嬉しそうに話し始める。


「静也より2ヶ月早い産まれなんだよ」


 父上が顔にしわを盛大に作りながら指を2本立てて言った。誕生日の差が2ヶ月ということは同じ9歳。静也は眉を寄せる。


 たった2ヶ月早いだけでこんなおどおどしたのが姉?


 心の底で何かが沸き立つのを感じた。上に立たれたような感覚が気に入らない。


 呼び方を改めれば良いだろうか。


「芙由香……ふーちゃんとかで良いよな」


 初めて女の子が顔を上げた。けど、髪であまり顔が見えない。


 静也は思わず手を伸ばそうとした。


 腕を肩の高さまで上げた所で女の子はぎゅっと目をつむる。


 テーブルの大きさからするとこのまま手を伸ばしても意味はない。


 静也は腕を下ろして彼女を見つめる。


 どうしてこんなに怯えているんだ。


「芙由香、お茶を飲んでも良いんだぞ」


 隣に座っていた父上がコップを女の子に近付ける。


 彼女の視線は水面にそそがれるが、手が伸びる様子はない。


 静也は段々と落ち着きがなくなってきていた。何も返さない態度にむっとして女の子を睨む。


 彼女は慌てて視線をまた下に向けた。


 一瞬見えた怖がる表情に内心ため息をく。


 なんか、悪いことした気分だ。


 椅子を降りてお菓子置き場に向かう。


 硬いものはだめだよな。


 噛んだらすぐに溶けるクッキーを選ぶ。袋の口も開けて女の子の肩を揺すった。


 驚いた彼女がゆっくりとこちらに顔を向ける。静也はそんな彼女の口にクッキーを押し込んだ。


「それ、うまいんだぜ」


 精一杯の笑顔を作って女の子に言う。彼女の顔が笑顔に変わることはない。


 黙々と食べていた口が動きを止めた。


「はい。美味しい、です」


「そうだろそうだろ」


 父上が嬉しそうに頷いている。女の子は不思議そうにそれを見つめていた。


 やっと表情が見えたな、こいつ。


 長い前髪の下に隠れていた顔は、頬の肉が少し薄いし、肌も荒れているように見える。


「あなたが好きなクッキーですものね」


 母上が少し笑ってお菓子のかごをテーブルの中心に置いた。


「もらうぞ、依穏いよりさん」


「あら、多いですよ」


 はたかれて父上の手からお菓子がこぼれる。


 こぼれたお菓子の内の1つが女の子の前で止まった。静也はそれを取って渡そうとする。


「はい」


「…………あの、また食べても、良いの……?」


 逡巡しゅんじゅんしながらも女の子は母上を見上げて言った。


「良いのですよ。さ、食べなさい」


 表情は優しいのに有無を言わせない雰囲気。


 女の子はゆっくりとクッキーを食べていく。


「えっと、美味しかったです」


 あいつはまだ足りないという顔。そう見えるのは気のせいか。


 静也はクッキーを1つ取って封を開けた。女の子がやぶく音に反応する。


「何してんだ。食べたいなら食べろよ」


 思わず、そう言ってしまった。


「ちがっ、違います。ごめんなさい」


「あ、おい」


 女の子が口元を押さえる。その瞳に自分の姿が歪んで見えた。


「お前な……」


 両親からの冷たい視線に静也はたじろぐ。今のはダメだと静也自身も感じていた。


「悪かったよ。泣くなって」


「ごめんなさい」


「あのな、怒って――」


「たくさん食べてごめんなさい」


「べつに2枚くらい――」


「ねだってしまってごめんなさい」


 会話にならない状況に静也は何も言えなくなってしまう。


 女の子は頭を守るみたいに両手で覆って謝り続けた。




 うつむいて嗚咽は漏れているが、やっと女の子は泣き止んだ。


 静也は窓の外に目を向ける。外はもう暗く、街灯の明かりが目立っていた。


 父上がテレビの音量を下げる。


「依穏さん。もう良い時間じゃないか」


「そうですね。静也、冷蔵庫から残り物のおかずを出してください」


「はい、母さ――――どうしたんだよ」


 女の子が部屋の隅に行こうとしている。それを静也は呼び止めた。


 彼女が困惑こんわくした顔で見てくる。


「ごめんなさい。……どこに居れば良いのか分からなくて。ごめんなさい」


 女の子の瞳がまたうるんでいた。ごめんなさいと聞く度に胸の奥で痛みが増していく。


「また何言ってんだ。椅子に座ってろよ」


「……良いの?」


「何が」


 あいつの目から涙が溢れてくる。嗚咽混じりに言葉がつむがれる。


「私は、一緒に、ご飯を食べても、良い……の?」




 怒られるかもしれないけど聞くしかなかった。


 私はどこに居れば良いのか。私は何を食べて良いのか。どうすれば良いのかが分からない。


 前に住んでいたマンションとは違う一軒家に私は居る。


 どうしてここに居るんだろう。


 私は気付いた時には1人だった。


 お父さんと呼べる人は居なくて。お母さんと呼ぶことは許されなくて。


 家にはいつも1人。


 誰でもいいの、誰かといたい。


 願うのに疲れた私は本を読み始めた。


 孤独な私の唯一の友達。優しい家族も、欠けていない家族も、美味しい料理も全て本で知った。


 でも、本当は全てらない。識らないことを知っている。


 今日お母さんだった人と別れて、私はここに連れてこられた。


 新しいお母さんとお父さん。それに、同い年の弟。


 何が終わって、何が始まるんだろう。


 そう、私は期待してしまった。喜んでしまった。願ってしまった。


 これからのことが怖くて、涙が頬をつたって落ちる。


 借りた服を濡らしてしまっている。


 私の声がうるさいと思う。


 だけど、涙もごめんなさいの言葉も止まらなかった。




 あれ……温かい。


 繋がれた手が初めて他人の温度を確かに教えてくれた。


 指の1本1本からだけじゃなくて、手の平からもじんわりと染み込んでくるんだ。


 体温の違いだけとも思えないあったかさ。


 そういえば何で手が繋がれているんだろう。


 繋がれた手の先にはずっと静也と呼ばれていた男の子が居た。


 みんなは怖かったのに、どうしてか彼には安心感を感じる。


「一緒に食べて良いか、だって?」


 男の子がテーブルの方に私を引っ張っていった。


「何を当たり前のこと言ってんだ。ばーか」


 手を引く彼の背中が見える。私は……。

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