灰のセカイ

カピバラ

灰のセカイ

 001


 境界線上の禁足地——白と黒の狭間の世界、【波打ち際の灰海】——その灰色の海に浮かんだ純白の天使から、私は目がはなせずにいる。

 言葉では言い表わせない程に無垢で、穢れのない白銀のショートヘアが灰色の波で靡く様は美しかった。私は、こんなにも美しいモノを見たことがない。

「天使……?」思わず漏れた私の言葉に、彼女は、——私よりもずっと幼い彼女は答えた。それが私の言葉への返答かは、わからないけれど。

「空が、見たいノ」

「そら……空のこと?」

「そウ。貴女も【果てなしの空】を見たいノ?」

「別に、興味ない」

 強いて言うなら、果てなしの空よりも目の前の幼子おさなごに興味がある。何故なら私は、初めて天使を目の当たりにしたのだから。

「なら、貴女は何故、此処ニ?」天使はそう言って蒼く透き通った瞳を、——私の紅い双眼を綺麗に映し込む程の鏡面を宿した瞳を瞬かせる。キュッと、胸が痛くなった。

 此処にいる理由。

 それは、私が独りぼっちだから。禁足地ここなら滅多に誰も来ないし、気が楽だから。

「お前、果てなしの空の場所、知ってるのか?」

「知らなイ。貴女は知っているノ? 果てなしの空の場所ヲ」

「知らない」

「そウ」

 変な奴。

「ここは天使みたいな綺麗な奴が来る場所じゃない。はやくお家に帰りなよ」

「わかっタ。また、来てもいイ?」

「……来るなっての」

 そっぽを向くと天使は去り、また、いつものように独りになった。


 002


 あれから数日、私はまだ、【波打ち際の灰海】にいた。ここは心が落ち着く。誰も居なくて静観としていて、けれども耳を澄ますと、灰海の波の音が聞こえて、その音に身を委ねていると、嫌なことも、心のモヤモヤも、全部洗い流してくれるような、そんな気がするから。

 何をするでもなく灰の海を泳ぐように歩く。何日経ったのかも、もう、わからない。あの天使は無事に帰れたのかな。私には関係ないけれど。

 ……関係、ないけれど、何度も此処を訪れている私がいる。彼女と出会った、この波打ち際の灰海に。そんな私の思考は途端に停止した。

「……っ」

 言葉に詰まる私を横目に、大きな蒼眼を瞬かせたのは、あの日、此処で見た天使だった。天使は頭の上でゆっくり回転する、欠けた天使の輪をピクンと反応させて私に振り返り言った。

「来たヨ」

「来るなって言っただろ?」

「空が見たいノ」

 また果てなしの空。

「その果てなしの空に何があるのさ?」

「……わからなイ。けれど、自由になれル。そう、聞いたノ」

「誰に聞いたのさ?」

「う〜ん、忘れちゃっタ」

 なんだそりゃ。やっぱり変な奴だ。

 けれども、——自由、か。果てなしの空に行けば、私の心のモヤモヤも消えるのかな。

「……傷、痛そウ」

「な、何だよいきなり……」

「貴女は、傷だらケ」

「う、うるさい……お前だって、輪っか欠けてるじゃないか、ポンコツ天使!」

「一緒」

「一緒にするな! お前みたいに恵まれた世界で生きてきた奴に何がわかる!」

 私は言い放ち天使に背を向けた。

「帰れ……ここは、私の秘密基地なんだ」


 003


「来たヨ」

 あれから毎日、欠けた輪っかの天使が私の前に現れるようになった。相変わらず、二言目には果てなしの空が見たいと話す天使との会話を、いつしか心待ちにしている自分に気付く。

「果てなしの空、私たち二人でなら見つけられるかも知れないな」

「果てなしの空、見てみたイ」

「私も見たい」

「一緒にさがしてくれル?」

「ま、まぁ、別にいいけど?」私が言うと、白い天使の無表情がほんの少し晴れた。

「黒いヒト、好き」

「ぬあっ、ばか! 引っ付くんじゃ、な……」

 ……あたたかい。他人に触れたの、いつ振りだろう。柔らかくて、小さくて、抱きしめると崩れてしまいそうで、こんなに脆い命を、私は知らない。

「傷だらけの、黒いヒト」

 良い香りがする。意識が、モヤモヤしたものが、溶けて弾けて消えていくような錯覚が私を襲う。よしよし、と、子供を諭すように頭を撫でられ、思わず涙がこぼれる。私は、——

「……黒いヒトって、なんだよ、ばか」

「名前、知らなイ」

「名前なんてないよ」

「じゃぁクロ。黒いから、クロ」

 ——クロ。——私の名前。そのままじゃないか。でも、嬉しい。

「私は、クロ」

「わたし、クロ好キ。いつも怒っているけれど、ほんとは優しイ」

 好き? 私を?

「お、お前の名前は?」私が問いかけると、「わたしも名前なイ」と、少し悲しそうに俯く。私は天使のふわふわした白い髪に指を通し、穢れを知らない蒼眼をまっすぐ見つめてみる。

 吸い込まれそうな、それこそ果てなしの空があるならこんな色なのではなかろうかと、そう思わされるくらいに綺麗な瞳の色を彼女の名前にした。

「お前は、アオ」

「わたし、アオ?」

「おう、私たち、一緒だな」

「わたし、クロと一緒。クロ、辛い。わたしも、一緒」

 全部、お見通しだったんだ。アオは私が苦しんでいることを見抜いていた。だから、何度も私に声をかけてくれたんだ。優しいアオ。

 眩しい。私にはちょっと眩しいよ。

 けれど、「ありがとう、見つけてくれて」と、素直な気持ちを伝えると、アオは私の黒いワンピースを小さな手で強く掴み言った。

「わたし、もう帰らなイ。クロ、わたしを拐っテ。果てなしの空に連れて行っテ」

 私が心に傷を負っているように、きっとアオも心に枷があり、そして自由を求めている。果てなしの空に行けば、私たちは救われる。

 今ならそう思える。アオと二人なら。


 004


「私もこの先は行ったことがないんだ」

 眼前に広がるは灰色の森——【色褪せの灰森林】と呼ばれる、禁足地の中の禁足地。未開。

 波打ち際の灰海の中心部に位置するこの森で、果てなしの空の手がかりを得られるかも知れない。私は意を決して、色褪せの灰森林への侵入を決めたのだ。二人でならば、必ず辿り着けると信じて。

「クロ……」

「だ、大丈夫。こわくなんてない。私がついてるから安心しなよ」

「クロ、頼もしイ」

 アオの手をしっかりと握り、いざ、色褪せの灰森林への一歩を踏み出そうとした、その時だった。

 ————ッ!

 奇怪な雄叫び、——そんな一言では言い表わせない程に不快極まりなく、耳障りな、咆哮にも近い怪音が鳴り響いた。長い間此処に滞在していたけれど、こんな声を聞いたのは初めてだ。

 耳を突くような異音の中、隣に視線を移す。アオは両手で耳を塞ぎ蹲っている。私の握っていた手のひらには汗が滲む。私の汗か、アオのものか、それはこの際どうでもいいことだ。

 何故なら、振り返った先にその声の主がいたから。——考えるよりも身体が動く。私は怯えるアオを抱き上げ一目散に森へ走った。

「くそっ! なんっ、だよ! あれはぁっ!?」

「……っ……クロ……クロ……っ!」

「心配するなっ、私の逃げ足は波打ち際の灰海一なんだからさ!」とは言ったものの、逃げ切れるかなんてわからない。けれど、逃げるんだ!

 アオを傷付けさせやしない。私たちは、果てなしの空を見るんだ!

「あぁぁぁーーっ!」

 色の無い木々を避けながら、何処へ向かうでもなく、ただただ走った。いったいアレは何なのだろう。あの禍々しい瘴気を纏った、黒でも白でもない、言うなれば、——無色雑色、色を持たない色をしたあのグチャグチャしてドロドロした形容し難い、醜悪極まりない異形は何なのだろう。

 次第に息が上がる。肺に酸素が足りていない。身体が警報を鳴らす。距離が、——詰まる、詰まる、詰まる、詰まる、詰まる……っ!

 逃げきれない。……アオっ!

「……はぁっ、はぁ、はぁ……くっ……そ」

 やっと見つけた私の居場所。失いたくない。アオは私が守るんだ。何を犠牲にしても、何を失っても、絶対に守ってみせる……!

「クロ……ありがと、もう、いい、ヨ……」

「アオ、あ、安心、しろって……わ、私がっ、あんな奴、やっつけるから」

 諦めてたまるか。

 私はまだ、アオのことを何も知らない。もっと識りたい。アオを識ることで、何者にもなれない自分の心を識れるかも知れない。

 アオを見ていると込み上げる感情の意味も、抱きしめられると頭がボーッとする理由も、まだ何もわかっていないんだ! だから、

「……私たちを、放っておいてくれよ! ————ぁ——」

 ————————————

 ——ぁ、あ……「——っ!」……あれ?

 ————

 視界が霞む。声、——声が聞こえる。アオ、アオ? 何処に居るの? アオ……アオ、アオが見えない、視界が、無くなる。

 アオ、アオはっ……声を!

「ぁ——」——声が、出ない。息が出来ない。私の身体、ううん、心に穴が空いたみたいだ。


 005


 ——————

 ————アオ?

「クロ起きた、よかっタ。わたし心配しタ」

「……ほんとに? それより、あのバケモノは?」

「わたし、頑張って応援しタ」

 視界に映る天使は無表情でガッツポーズを決め、「クロ、とても強イ。バケモノを倒しタ。でも、怪我しタ。だから、クロ癒ス。わたしそれしか出来ないかラ」と、大きな瞳を瞬かせる。

 記憶は曖昧だけれど、私はさいごの力を振り絞ってバケモノの身体を引き裂いた。そうだ、私が倒した。——違う、殺したんだ。

 貫かれていた身体の傷は塞がっている。不思議なことに破けていた黒いワンピースも元通りだ。

 これもアオの癒しのおかげなのだろうか。きっと、そうに違いない。柔らかなアオの太ももに頭を預け、透き通った蒼眼を見つめると、何だか胸が熱くなる。心臓が熱くなり、途端にキュッと苦しくなる。不思議な気持ちになる。

 ——私はこの感情の名前を知らない。

 アオの右眼に、私の紅潮した顔が映り込む。

「……アオ?」

「……? わたしは大丈夫だヨ」

「そっか。私も大丈夫。アオのおかげで助かった。えと、その、あ、ありがとう」

 立ち上がりアオの手を握る。私の左手とアオの右手が重なって繋がる。私が横目でアオを見ていると、アオも私を見上げる。

 澄んだ瞳は灰の葉が舞う光景を映し込む。灰の霧が視界を遮るこのセカイで、空を見つけるのは困難かも知れない。あの霧を晴らすことが出来たなら、果てなしの空も拝めるのだろうか。

「果てなしの空は……」と、唐突なアオの言葉。

「いきなりどうしたの?」

「う〜ん、忘れちゃっタ」

 だと思った。

「果てなしの空って、何なんだろう?」

「わからなイ」

 色の無いの木々を避けながら、森の奥へ向かう。

 二人、果てなしの空を目指して。


 006


 森の奥に進んだ私たちは、異音を撒き散らす異形、色の無い虚無との戦闘を余儀なくされていた。何度も、何度も傷付きながら、抗い、殺した。

 殺す度に心に傷を負っていく。その度にアオを抱きしめる。私たちはそんな日々を繰り返し、いつしか互いの心を重ね合う程の仲になっていた。けれども、

「……はぁっ、ゔっ、痛ぅ」

「動いちゃ駄目だヨ!」

「ア……ォ、いつも、あ、りが……と……」

 でも、今回ばかりは、もう無理かも知れない。ボヤける視界で必死になって私の左腕を抱くアオ。——真っ白な髪もワンピースも真っ赤に染め上げたアオの姿が映る。

 アオの右眼が涙で揺らぐ。こんなに表情を歪めたアオを見たのは、はじめてかも知れない。

「今、治して、あげる、かラ!」

「……アオ。私はもういいよ。もう、助からない……自分の身体だから、わ、かるん、だ……」

「そんなこと言わないデ、一緒に、果てなしの空を見る、約束しタ! だかラ……!」

「アオ、左眼、視えてない……よね……」

「……っ」

「アオ、右の耳、聴こえて、な、ぃ、よね……」

「き、聴こぇ——」

「嘘……私を助ける度に、アオは対価を払っている……もう、私のために、命を、削らないで、いいよ。すぐに気付いてあげられなくて、ごめん」

 アオは力を使う度、身体の一部の機能を失っていた。初めて怪我を治してもらった時に感じた違和感、見るもの全てを鮮明に映し込む程の鏡面を宿した瞳に曇りを感じたのは、勘違いじゃなかった。

 あの日、アオは左眼の視力を失っていた。

 もっと早く気付くべきだった。

 果てなしの空なんて、最初から無かったんだ。

「アオは、逃げて」

「いヤ!」

「私が囮になるから、その間に逃げ……」

「いヤ! 一緒に空を見るノ!」

 駄目か……囲まれた。

 せめて、アオだけでもと思ったけれど、どうやら、ここで終わりみたいだ。

 絶望の中、身体の痛みが和らぐ。

 アオの馬鹿。片腕は落ちたままだけど、身体が動くようになった。本当に、凄い力だ。

「————っ」

 大好きなアオの瞳は光を失い、愛おしい声までもが枯れ果てた。

「——」

「くっそぉぉっ!」何で! 何でアオがこんな目に遭わなければいけないんだ! こんなの、おかしいだろ! このセカイは狂っている!

 あぁ、気付いてしまった。

 異形の正体、それは、理、摂理、無意識、そうだ、——集団的無意識。

 『普通』という名の殺人鬼だ。

 声をあげる聖者の喉を潰す。

 剣を持ち立ち向かう勇者の腕を斬り落とす。

 恐れて逃げ出す弱者の脚を圧し折る。

 数の暴力で圧殺する、無意識下の巨悪。

 私はそれに共感出来ずに弾き出されたセカイの異物だった。だから、排除される。

 此処は、そういうセカイだったんだ。白でも黒でもない——灰のセカイ、だったんだ。

 最初から救いなんて存在しなかった。

 二人の旅も、ここで終わり。けれど、今此処にいる敵、——無意識下の巨悪だけは殺す。傷跡を残す。例え声が届かなくても、誰の心にも響かなくても、私たちが此処に在った証を遺すんだ!

「お前たちみたいな、群れなきゃ生きていけない奴ら、腕一本で十分だ!」

 アオには指一本触れさせやしない。どうせ消えるなら、せめて私の手で。

「お前たちなんかに、消されてたまるかぁーっ!」

 裂いて、裂いて、裂いて、裂いて、何人も、何十人も、全てを切り裂いて、心を殺して。もう、私はどうなってもいい。私は最期に見つけたんだ、私の欲しかったモノを見つけたのだ。

 それだけで幸せだった。

 細やかな幸せかも知れない。側から見れば何の価値も無いかも知れない。傷の舐め合いと卑下するかも知れない。嘲笑うかも知れない!

「だけどぉっ!」

 私は軽蔑する……!

 自分の脚で歩くことを知らないお前たちを、心から嘲笑う! 可哀想だと笑ってやる!


 007


 ——

 アオを抱き歩く。片腕じゃ少し大変だけれど、そんな私でもアオ一人を連れて歩くくらいは出来る。さて、どのくらい歩いただろう。

 ——気付けば森を抜けていた。


 果てなしの空は、そこに在った。


 地面に、空へ繋がる大穴が空いていた。否、大穴が空いた。果てなしの空は、真にそれを望んだ者にのみ、視認できる仕組みだったわけだ。

 覗けばアオの瞳のような、澄み切った綺麗な空が広がっている。

「——?」

「あったよ、果てなしの、空」

「————」

「アオの瞳みたいに綺麗な空だよ」

「——」

「うん」

 アオは手探りで私の頬に手を伸ばしてくる。柔らかな手のひらが、私の濡れた頬を拭ってくれた。優しいアオ、私は、そんなアオが好き。

 ——愛している。

 アオが微かに震えているのがわかる。

「大丈夫、私も一緒に行くから」

「——」

「いいんだよ。私がそうしたいんだから。今更一人でなんて言うなって」

 無意識下の巨悪が私たちを見ている。何をするでもなく、ただ、見ている。私たちの末路を、面白おかしく語るのだろう。そして罪の意識すら持たず、可哀想だと語るのだろう。

 次の日には忘れて、日常に溶けるのだろう。


 関係ない。私はアオを抱いたまま、振り返らず、果てなしの空に身を投げた。


 サヨナラ。灰のセカイ——


 008


 溶けていく。私を縛るもの全てが、心のモヤモヤも、ドロドロした憎しみも、衣服も全部、溶けて消えて、ありのままの姿で空に堕ちていく。

 亡くした腕も元に戻って、両手でアオを抱きしめながら、果てなしの空に堕ちていく。

「アオ! アオ!」

「クロ……!」

「大好き、愛してる!」

「わたしモ! クロが好キ!」

 その髪も、欠けた輪っかも、声も、透き通るような瞳も全てが愛おしい。二人でなら、アオと一緒なら、果てのない奈落に堕ちても構わない。

 変わりたかった。けれども変われなかった。でも今なら言える。変わらなくて良かったと。


「アオ?」

「ん」


 瞳を閉じ、ご褒美を待つ天使の唇を私の唇が塞ぐ。

 行こう、二人で何処までも。


 私たちは、『一つ』になった——




 灰のセカイ【完】

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灰のセカイ カピバラ @kappivara

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